事務所費で政治錬金

2007-01-13 04:23:34 | Weblog

 高校の必修科目付け替えと政治家の事務所費付け替えの類似性

 家賃ゼロの議員会館に事務所を置きながら、ゼロ+何千万、何億の事務所費を政治資金収支報告書に計上する錬金術。現在判明しているところでは、高校の世界史必修無視問題の発覚が富山県の県立高校から始まって、あっちもこっちもとなり、ついには全国問題にまで広がった例に学ぶとしたら、今後ともあの政治家もこの政治家もと炙り出されていく予感がするから、そう、現在時点では伊吹文明文部科学相、松岡利勝農相、尾身幸次財務相、菅義偉総務相、渡辺喜美行政改革担当相の5人の閣僚と自民党政調会長の中川昭一に丹羽雄哉総務会長、民主党の松本剛明政調会長といったところ。見事なまでのそうそうたる顔ぶれである。閣僚方は一方で安倍首相の「美しい国づくり」の片棒を担いでいる。

 政治資金収支報告書虚偽記載疑惑で辞任した佐田玄一郎前行革相の後任となった渡辺喜美の就任時の抱負は「愛の構造改革をやっていく」だった。彼の付け替えが例え事務所移転後の05年分だけの400万円程度だと言っても、その額の少なさが政治家がその言葉を口にすることによって持つこととなった胡散臭さを薄めはしないだろう。

 伊吹文科相は5年分の事務所費として約2億2700万円を付け替えていて、その名目は地元京都や東京の事務所の家賃と事務所維持の飲食費を含む会合費等だという。

 中川昭一の場合も似たようなもので、他の事務所の家賃だけではなく、飲食代をも合わせて5年分の事務所費として約2億8600万円を付け替えている。

 但し、誰もが「付け替えた」とは言っていない。「計上した」と言い、付け替えではないと主張している。中川昭一は「法律に基づいて計算をした結果、ああいう形になった。決して架空経費や付け替えはない」(07/01/11/20:08/ asahi.com)。日テレ24では、「決して架空の経費という・・・ありますとか、付け替えではないということが確認されました」(07.1.12.)と記者団に語っている。

 どのような団体・組織・個人の立場にあろうと、会計は公明正大が原則であり、それが会計上の責任遂行義務となっているはずである。会計上の公明正大さがその団体・組織・個人の公明正大さを証明する重要なカギとなる。また何にいくらの経費を必要としたか正確を期すことによって、次の経費配分の参考となり、活動を効率よく継続させていく参考となる。

 みなが言うように事実「計上」であるなら、何月何日に何をいくら組み入れたのか内訳が項目化されていなければならない。伊吹文科相は「領収書が取れないものは、事務所費と人件費でしか処理できない」と弁明しているが、「取れない」からと言って、「事務所費と人件費」で処理したのなら、それは付け替え以外の何ものでもなく、「計上」と言うからには、備考欄に「領収書なし」と書き入れて、支出項目は支出使途どおりに正確に明記しておくべきで、それが「計上」というものであろう。内訳を記入した明細がなければ、「計上」とは言えない。

一般でも、税金控除に利用するために別の目的で支出した金額を接待のための飲食費の形に変えて処理するといったこともする。「飲食費」ですと言われて、素直に取ることはできないだろう。

 松岡農水相の5年分の事務所費は約1億4300万円の〝計上〟となっている。

 地方自治体議員の純粋に政治活動のみに使途が限定されている政務調査費が視察と称して出かけた目的地の観光みやげの購買に利用されたり、自宅の敷地内に置いた事務所の家賃に付け替えていたりして昨年問題になったが、その国会議員版と見られても仕方がない。

 あくまでも「計上」だと言うなら、どこの事務所にも会計責任者か、それに準ずる者を置いているだろうから、明細書が存在しないは理由にならないとして、どこの事務所のどのような経費や飲食代を「計上」したのか、詳しい報告を求めるべきだろう。「計上」の対象となった事務所の経費は政治資金収支報告書に記載してないはずだから(記載していたとしたら、二重計上となる)、なぜ直接計上しなかったのか、その理由も問わなければならない。
 
 伊吹文科相は昨年暮れの高校の世界史未必修問題で、「立派な人間をつくるために必修科目を置いている。現場の先生方はよく反省してもらいたい」と苦言を呈している。

 「立派な人間」を要望するからには、自身が「立派な」政治家でなければ二律背反を犯すことになる。

 小学校5年生以上英語必修化問題では、
「最低限の日本語の能力が身についていない現状がある」
「まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメだ」
「日本人としての最低限の素養である日本語ができないのに外国語を勉強するのはいかがかと思う」との考えで必修化には反対の姿勢を見せた。

 自身が「美しい日本語が書け」るからこその危惧を述べたものだろう。その能力は当然、文科相自身の人格と美しさという点に於いて少なくとも同じレベルでつながっているに違いない。「美しい日本語は書け」る、普段の行動に疚しさがあるでは、「美しい日本語」がいくら書けても、意味を失う。

 高校の世界史未必修問題は必修させるべき世界史の授業を必修させずに受験科目授業への付け替えだった。政治家の事務所費への付け替えはどう決着をつけるのだろうか、興味津々である。高校の必修の付け替えは許さない、政治家の事務所費の付け替えは許すでは、二重基準を政治家自らがつくり出すことにになる。それ相応の厳しい形で決着できなければ、高校生に対して不公平だろう。

 本質的には同じ構造の付け替えでも、錬金術が絡んでいる疑いと社会に対する責任の大きさ・重さからして政治家の付け替えの方をより厳しく対処して然るべきだが、安倍首相は「きちっと報国告書で説明している。政権というのは政策をきちっとやっていくことが大事だ」(北海道新聞 2007/01/11 18:56)と述べて問題ないとし、塩崎官房長官にしても「『政治資金規正法にのっとって、政治家として政治資金収支報告書を公開し(使途を)説明している』と強調。その上で『マスコミに報道されたら、すべておかしいということにはならない』と述べ」(同記事)、安倍首相に右へならえだから、新たな事実が暴露されない限り、安倍首相の「国民から信頼を得るためにも党改革実行本部で議論することが必要だ」の制度改革の検討で打ち切りにしようという魂胆なのだろう。

 渡辺喜美の「愛の構造改革」の「愛」と同じく、安倍首相の「美しい国」の「美しい」も、言っていること自体の「美しさ」が知れると言うものである。最初から分かっていたことだが。

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