ここのところ給食費滞納問題が騒がれている。支払い能力がありながら、払わない親が増えているという。Asahi.com(07.01.24/20:58)からの引用だが、次のような記事が出ていた。
『給食費滞納、全児童生徒の1% 総額22億円』
――給食を実施している全国の国公私立の小中学校で、全児童生徒の約1%にあたる10万人近くが05年度に給食費を滞納し、滞納総額は22億円余りになることが24日、文部科学省による初の調査でわかった。滞納がある学校は全体の約44%。滞納の理由について学校側は、60%の子どもについて「保護者としての責任感や規範意識」の問題、約33%については「経済的な問題」と見ている。
調査は、深刻化している滞納への対策を検討するため昨年11月~12月に実施。学校給食を行っているのは全国の国公私立小中学校の94%にあたる3万1921校で、この全校に尋ねた。
滞納した児童生徒がいるのは43.6%の1万3907校で、総額4212億円余の給食費のうち0.5%の22億2964万円が滞納された。滞納した児童生徒は計9万8993人で、小学校で6万865人、中学校で3万8128人。
児童生徒の数で見た都道府県別の「滞納率」は表の通り。沖縄が6.3%と突出しており、北海道(2.4%)、宮城(1.9%)、福岡、大分(1.6%)などが続いた。
滞納の原因について学校側の見方を選択式で尋ねたところ、保護者の姿勢を問題としたのが60.0%で、保護者の経済状況をあげたのは33.1%だった。
滞納分を抱える学校に対策を自由回答で尋ねたところ、「徴収した分でやりくり」(29%)、「学校が他の予算などから一時補填(ほてん)」(27%)、「市町村教委などの予算から一時補填」(15%)などだった。保護者への対応(複数回答)では、「電話や文書で説明、督促」(97%)、「家庭訪問で説明、督促」(55%)が多かった。少額訴訟や裁判所への支払い督促の申し立てなど法的措置も281校(2%)あった。
過去と比べて給食費の滞納が増えたかどうかについては、「かなり増えた」が13%、「やや増えた」が36%で約半分の学校が増加傾向とした。「やや減った」は9%、「かなり減った」が3%で、「変わらない」は39%だった。
文科省は「地域や学校によってかなり集中している例もあるようだ。保護者が責任意識を持つと同時に、教育委員会やPTAも問題を学校、担任任せにせずサポートして欲しい」と話している。――
テレビ各局が、高級車に乗っていながら払わない親や携帯の通話料に払うカネがあっても、給食費を払わない親がいると非難の嵐を吹きまくっている。TRSの「みのもんたの朝ズバッ」では相変わらずみのもんたが、怒りも露に「放っとけない」とか、「バカ親が」と吠えていた。非難の吠え声を上げるだけなら、誰でもできる。
親だけを悪者にしていいのだろうか。「滞納の原因について学校側の見方」として、「保護者としての責任感や規範意識」(=「保護者の姿勢」)が「60.0%」、「保護者の経済状況」が「33.1%」ということだから、全部が全部払えるのに払わない親ばかりではない。「義務教育だから、学校で払うべきだ」という親もいるというのは論外だが、それで引き下がっているとしたら、学校の説得能力不足(=言葉の力不足)も大きく原因しているはずである。
「保護者への対応」として、「電話や文書で説明、督促」が「97%」、「家庭訪問で説明、督促」が「55%」、「少額訴訟や裁判所への支払い督促の申し立てなど法的措置」が「281校(2%)」となっている。
最初は子どもに「お父さんかお母さんに給食費を払ってくれるように伝えて貰いたい」と告げる穏便な方法から、それで効果のない親に対しては「電話や文書で説明、督促」、それでも応じない親には「家庭訪問で説明、督促」となり、最終的に「少額訴訟や裁判所への支払い督促の申し立てなど法的措置」という、より厳しい方法へ順序を踏んでエスカレートしているのだろうが、それぞれの方法が「97%」から「55%」、「55%」から「2%」とパーセンテージが少なくなっているのは、より厳しい方法を取ることで成果を上げているからと見なければならないが、実際は逆の状況にあるから、問題となっているのだろう。
とすると、「97%」もある「電話や文書で説明、督促」は児童相談所が親の虐待を把握していながら、事実確認調査も連絡も電話頼みとし、自宅訪問とか直接の聞き取りを怠って、虐待されていた児童を死なせてしまう対応と同質の、あるいは社保庁が国民年金の納付率を上げるために未納者を訪れて納付を求めるのではなく、未納者本人の署名か押印が必要な支払い免除を電話で承諾を得ただけで署名・押印は三文判で済ませ、勝手に書類作成して納付者数を減らし、逆に納付率を上げるトリックを行ったのと同質の横着と怠慢を決め込んだ座仕事でしかない手抜き作業でしかなかったからではなないか。
「家庭訪問で説明、督促」が次の手段であったとしても、「家庭訪問」という形式だけで責任を果たしたとする一種の責任回避行為に過ぎなかったのだろう。座仕事から離れてわざわざ「家庭訪問」したとしても給食費納付という最終地点までいかない以上、「一応これこれだけのことをしました」という形式的責任遂行で終止符を打っていたと見られても仕方があるまい。
最初から形式的対応だったからこそ、成果を見ないままに「97%」から「55%」、「2%」というパーセンテージの目減りを生じせしめたのだろう。
テレビでコメンテーターとかを務めている解説委員だ、知識人だと称するお偉方は「昔はこんな親はいなかった」といったことを盛んに口にしているが、〝ごね得〟という言葉は今に始まった言葉ではないだろうし、少なくとも〝ごねる〟と呼び習わされている性格行為は人間が本来的に持っている行動性である。単に少なくて、目立たなかったということだけのことではないだろうか。会費付きの会員でありながら、その会費を滞納する人間も、逆に会費に無断で手をつけて使ってしまう人間も〝昔から〟結構いた。
借金でも何でもそうだが、溜め込んで額が増えると、払いにくくなる。状況が悪化する前に何らかの手を打つべきを、それを放置しててきた怠慢のツケが「滞納総額は22億円余り」ということではないか。
「文科省は『地域や学校によってかなり集中している例もあるようだ。保護者が責任意識を持つと同時に、教育委員会やPTAも問題を学校、担任任せにせずサポートして欲しい』と話している」ということだが、「教育委員会やPTA」は文科省が言い出す前に連携して対応策を講ずるべきなのだが、それを手をこまねいていたのは児童虐待を把握していながら手をこまねくことで死に至らしめてしまうを児童相談所と同じ座仕事に甘んじていたということなのだろう。
とすると、例え連携していたとしても、たいした力にはならなかったに違いない。教育委員会だと名前はもっともらしくいかめしいが、いじめ問題一つを取っても、証拠隠滅や存在自体を否定するだけを役目としているといった、〝教育〟という名を関するだけでも恥ずかしい情けない姿を曝すだけだったのだから、力にはならなかった証明とすることができるだろう。
要は〝言葉〟を重要な存在表現としている学校の先生でありながら、説得するだけの言葉を持ち得ていなかったことが、滞納額を増えるに任せた主原因なのではないだろうか。
みながほぼ等しく貧しかった時代は学校給食は比較的平等な措置ではあったが、経済成長と共に格差社会となっていて、その平等性が既に失われているのである。見掛けの平等を装っているに過ぎない。それが滞納者が多く出ることによって、給食は一層の悪しき平等主義を身に纏うこととなった。払わなくても食べることができるのだから、これ程の不平等はない。
親が給食費を払わない家庭の生徒にはただで給食を出したら、お金を払って食べている他の生徒に対して不平等となるから、親が払わない以上食べさせることはできない。そうすることが社会のルールだろう。
給食費に関わる社会のルールを親にも子どもにもきちっと伝えて、払わなければ、明日から弁当を持ってくるようにと命じ、払わないのは子どもである君の責任ではなく、親の責任だ、例えば酷いいじめがあっていじめられた生徒が自殺してしまうようなことがあると、いじめに加わっていない生徒でも、いじめ自殺があった中学校の生徒だと後ろ指差されたりする。それと同じで親の責任であっても、その子どもである君が否応もなしに悪い影響を受ける。君はこれを教訓に子どもに悪い影響を与えないような責任ある大人になるよう努めなければならないぐらいのことも親父の前で言ってやる。
他の生徒にも、誰それは弁当を明日から持ってくるが、彼の責任ではない。責任でない以上、彼を庇うことはしても、蔑んだりしてはいけない。蔑まれる謂れはないからだ。親が無責任で子どもに迷惑をかけるといったことはいくらでもある。彼がそういった親になるかどうかは今後の生き方が決めることで、弁当を持ってこなければならないのは彼だけの問題ではなく、自分が大人になって、そういった親にならないよう、彼も君たちもそれぞれ自分自身の問題と受け止めるようにと説得する。弁当が問題ではなく、生き方が問題だと教える。
「33.1%」の「保護者の経済状況」で払えない家庭の場合は学校の問題ではなく、失業者なら自治体、勤務者なら、勤務先の問題であって、何か他の面で補助か融資を受けることができるようにして給食費を工面できるようにするか、ギャンブルや女遊びに回すカネはあっても、給食費は疎かにするといった個人の性格の問題なら、弁当を持たせるかすべきだろう。
最近家庭の教育力、親の教育力が低下したと言う。家庭や親だけの問題ではないのだが、給食が親の食事を与えるという責任放棄にも影響している側面を考慮すると、給食自体を廃止しすべき時期に来ているのではないだろうか。弁当一つにも親の姿が映る。映るんだということをすべての親に伝えて、弁当を親の姿勢を見せる教育に位置づける。子どもに弁当作りを手伝わせることができるかどうかも、親の姿勢にかかっていて、そのことも弁当に映し出されていくということを教える。
弁当作りが面倒で、登校途中でコンビニに寄らせて弁当を買わせ間に合わせたとしても、親の自由ですと、そういったことも親に伝えて、親の姿勢とする。生徒がそれを嫌がるようだったら、小学3年生も以上なら、自分で作ってこい、弁当ぐらい作れないでどうする。コンビニ弁当を買うカネで前の日にスーパーに行って、ご飯と肉や野菜の惣菜を買ってきて、自分の弁当に詰め替える。唐揚げはどこに並べようか、煮物はどう盛り付けようか、あれこれ工夫するだけでも楽しいぞ、コンビニの弁当を買ってきて、ただそれを食べるだけよりずっと楽しいから、と教えてやる。このことだけでも、工夫するということを覚えていくキッカケになるはずである。そのうち作り物ではなく、生の食材を買ってきて、自分で料理するようになるかもしれない。
自分の弁当がお粗末だからと言って、ひがむなということも教える。世の中は平等ではないことと弁当が自己実現のすべてではないことを教える。真の意味の自己実現はもっと別のところにあるはずだと。Jリーグの選手か?プロ野球の選手か?発明家か?国会議員の偉い先生か?会社社長か?お笑い芸人か?自己実現はそういったところに置くべきで、弁当がうまそうだ、不味そうだ、高そうだ、安そうだといったことは小さい、小さい。将来的にどういった自己実現を果たすかが、それが目指すべき真に大きなことだというメッセージを子どもたちに向けて発する。
そういったメッセージを子どもに向かって常に発することによって、それが自然と親にも伝わり、弁当のおかずを親の虚栄心から無理に豪勢にするといったことがごくごく小さなことだと親も悟る機会になることもある。弁当作りで大切なことは子どもが将来の自己実現に向けて必要とする肉体と精神を養うに必要十分な親の姿勢を込めることだと親にも子どもにも伝える。単に弁当を昼食として食べさせるだけの問題ではないのだと。親の姿勢の中に栄養や健康への配慮も含まれるだろう。
こういったことを親の思想・子どもの思想とするよう、仕向ける。それが言葉の職業者である学校教師の務めでもあろう。