復古的字体変更と情報処理の関係

2007-01-11 06:15:25 | Weblog

 次のような歓迎すべき目出度い記事に出会った。

 『字体を15日から一部変更します』(07.1.9『朝日』朝刊)

 ――朝日新聞社は15日から、常用漢字表にない漢字(表外漢字)の字体を一部変更します。「鴎→鷗」「涛→濤」など900字が対象です。紙面の大半をしめる常用漢字の字体は、これまで通りです。
 戦後の当用漢字字体表では「區」を「区」とするなど簡略化されました。本社は表外漢字にもこれを応用した略字体を使ってきました。
 しかし、書籍などでは伝統的な康熙(こうき)字典体が残り、00年の国語審議会答申でもこれを基にした「表外漢字体表」が示されました。
 今回の字体変更は、このような経緯を踏まえたものです。――

 「貰って嬉しいのはやはり手書きの年賀状だ」といったことをよく聞く。「パソコンで書いたものは何となく味気ない」と。要するにパソコンで手間も時間もかけずに簡単に作成できるのに、それを手書きでわざわざ手間と時間をかけて思いを伝えようとする配慮が嬉しいということだろう。パソコンの機械的で平板な文字よりも手書きの文字の方が味わいがあるという意見もあるが、字が下手糞な人間はその条件から排除されることになって、少々贅沢な要求となる。
 
 何事にも一長一短はあるが、文字も言葉も態度も、装おうと思えばいくらでも装うことができる。美しい達筆な字を書くからと言って、その人間が字から受ける印象どおりの人間であるとは限らない。印象どおりかどうかの判定は、相手の人間をよく知っているかどうかが条件となる。地方から都会に出てきた若者が母親の子どもの安否を尋ねるたまさかの便りに親の有り難味を感じるのは母親の日常普段の振舞いや気性、あるいは性格を知り抜いていて、文面からそこに誤魔化しのなさを見て取ることができるからだろう。そのような既成事実があって、母親ならではの癖を持った文字に懐かしさを覚えたりする。

 しかし逆説するなら、相手の人間を知り抜いていたなら、手書きであろうと機械文字であろうと関係なくなる。また機械文字であっても、字の癖は出てこないだろうが、その人ならではの言い回しは損なわれないし、その人の書き字の癖を思い出すこともある。

 亡くなった者が遺した手紙等を取り出したとき、手書きと機械書きとでは思い出としての味わいが違う、手書きの方が相手の人間性が直に伝わってきて、遥かに価値があるかの如くに言う者もいる。だが、手書きでろうと機械文字であろうと、書いたものを手に取るということは差出人となっている人間と向き合うことを意味する。差出人が違えば、向き合い方も違ってくる。文字は相手の人間と向き合う橋渡しの役目を果たすのであって、常に手書きが機械文字を上回るとは限らない。

 例えば病床にあって、もはや自分では字を書くことができないほどに身体が弱っている親が遠くに暮らしていて帰省もままならない子どもに最後になるかもしれない便りを出したいと思い、誰かに代筆を頼む。代筆者は、例えパソコンを使ったとしても、親の口述どおりに一字一句違わないように書き、郵送する。その便りを受け取った子供は、それがいつもの親の字ではないからと言って、しかも機械文字だからと、自分のことよりも子どもを心配する親の気持を損なった形で受け止めるだろうか。真の差出人である親と向き合うということは文字ではなく、何よりも文字が伝える想いそのものに対してだろう。

 手書きの方が有り難いとする人間は、それを先入観に差出人とだけではなく、常に文字とも向き合っていることによって受ける印象ではないだろうか。
 
 いずれにしても手書きに拘るのは個人的な好みであって、他人にまで押し付ける権利はない。自分は手書き派だからと、相手からの機械文字の便りは受け付けないとするわけにはいかない。いわば自分の好みに納めておかなければならないのだが、時折テレビなどで、手書きでなければ絶対ダメだといった発言をして、手書きに絶対性を与えようとする人間もいる。さも手書きを用いる人間の方が偉い人間であるかのような口ぶりで。

 久米宏の「しかし、外人の日本語は片言がいいよね」発言も、自分の好みへの一種の絶対化であろう。

 長々と前口上を述べたが、本題に入る。書き言葉に関しては個人的な好みは他人への強要がない限り許されるが、新聞の印刷文字となると、公共性を帯びることとなり、より一般的である必要があるのではないか。 勿論新聞の印刷文字が個人性から発しているなどとは言わない。だが、「書籍などでは伝統的な康熙(こうき)字典体が残り、00年の国語審議会答申でもこれを基にした『表外漢字体表』が示さ」れたから、新聞の字体もそれに合わせるというのは個人性への従属であって、一般性から遠のくことではないだろうか。

 一般的には「書籍」は著作者という個人によって著される。著作者という個人の好みや感性によって、現在では誰も使わないような難しい旧字体を使うことを好む者もいる。書物からの引用文の場合は、そこに使われた字体をその通りに引用しなければならないが、「書籍などでは伝統的な康熙(こうき)字典体が残」っているからという理由で一般的な記事の字体としても使うのは、まさしく個人性への従属であろう。少なくとも個人性優先を犯すことにならないだろうか。

 ここでいう〝一般性〟とは、〝誰もが〟読みやすい、書きやすい、覚えやすい要素を備えた文字であるということである。

 先ず第一に、上記記事が例として挙げた文字で説明すると、「鷗」や「濤」なる文字は、弱視者や目の遠くなった高齢者に優しい文字だと言えるだろうか。画数が増えた分、一画一画が細かくなって、彼らに対する優しさを失うことにならないだろうか。弱視者や高齢者が〝誰もが〟という一般性から外れた異人種だということなら、何も問題はない。問題にする方が間違っている。

 日本人に近眼が多い原因として、これまでは一般的であった縦書きが上から下に向かって読むのに対して、目の動きは上下よりも左右に動きやすい構造となっていることの、その反自然性と殆どの漢字が画数が多く、字の構造が複雑で細かく読み取りにくいこととが重なって疲労を誘いやすいからではないかということだが(しかし同じ漢字民族である中国人には近眼は少ないように思える)、意味に変化はなくても、より画数の多い、結果として読み取りにくくなり、書くのも間違いやすくなる一般性を離れた文字を使うことによってより近眼者を増やすことにならないだろうか。但し、近眼を増やすのに新聞が役に立てば、新聞は眼鏡屋の強い味方となることだろう。眼鏡屋の方も、広告は新聞に限るということになるに違いない。それも旧字体だらけの広告となるのではないだろうか。

 次に、例え900字の字体変化であっても、従来の字体の漢字そのものが覚えるのにそれ相応に時間がかかる。日本人の情報処理能力が劣るのは暗記教育のため記憶することに時間を取られて、考える時間を奪っていることが原因していると思うのだが、情報処理の劣りがこのことと密接に関係する戦略性と危機管理にも反映されて、その欠如・劣りを招き、日本人性とするに至っているはずである。

 暗記作業の中で漢字そのものを覚える時間がかなり占めているはずで、となれば漢字を覚える時間の軽減を図って、節約した時間を考える方にまわし情報処理能力の向上に寄与すべきであろう。漢字を覚えやすくするためには、中国のように簡略化の方向に進めるべきだと思うが、「康熙(こうき)字典体」への復古は逆の方向を取ることになるのではないだろうか。

 政治も外交も防衛も将来的にもアメリカ依存を堅守し、日本自らは現在以上の情報処理能力も戦略性も危機管理能力も必要としないというなら、「康熙(こうき)字典体」は弱視者や高齢者には優しくなくても、一般日本人、とくに政治家・官僚には優しい字体となること請け合いである。なぜなら、今まで同様に世界に向けて自ら考え、自ら行動する情報の発信も、戦略の構築と実践も、その必要に煩わされることもなく、アメリカ依存の安全地帯にアグラをかいていれば楽なまま済むことだし、何らかの責任問題が発生しても、アメリカに責任を回せばすむことだからだ。

 日本の政治家や官僚の情報処理能力の見劣りは国会審議での言葉の遣り取りを見れば一目瞭然で分かる。以前ブログ記事で引用したものであるが、06年11月22日の「教育基本法参議院特別委質疑」での蓮舫議員の質問とそれに答えた安倍首相の答弁を使って説明してみる。

 蓮舫「安倍総理にお伺いします。小泉前総理大臣の時代から私ども与野党で共通認識で持っていたのは、もうムダ遣いはやめようと、行政改革を進める上でムダを省いて、そしておカネを、税金を、戴いた保険料を、預かった保険料を大切に使っていこうという意識は共有させていると思うんですが、足元の内閣府で行われているタウンミーティングでさえも、殆どデタラメな値段付けが当たり前に使われていて、通常の恐らくタウンミーティングの額よりも膨らんでいると思うんですね。そういうおカネの使われ方はよしとされるんでしょうか」
安倍総理「競争入札で行ってきたところでありますが、えー、先程来議論を窺っておりました。この明細を拝見させていただきました。やはりこれは節約できるところはもっともっとあるんだろうと、このように思うわけでございました。私共政治家も、よく地元で色んな会を開いて、色々と地元の方々とご意見の交換を行うわけでありますが、それは勿論パイプ椅子等をみんなで運びながらですね、最小限の経費で賄っていく中に於いて、意見交換も活発なものが当然できるわけでありますが、そういう精神でもう一つのタウンミーティングの先程申し上げましたように運営を行うよう、見直してまいります」

 安倍首相の発言を文字に起こすと、現在形を用いる箇所を「このように思うわけでございました」と過去形で用いたのは単なる間違いだろうから、無視するとして、政府主催のそれなりに大掛かりなタウンミーティングを地元の個人的な会合と比較したりするピント外れな客観的合理性、さらに蓮舫議員の「殆どデタラメな値段付け」の「おカネの使われ方はよしとされるんでしょうか」という質問の中にヤラセ問題が含まれていなくても、関連事項として踏まえた答弁をしなければならないのだが、「節約できる」とか、「最小限の経費で賄っていく中に於いて、意見交換も活発なものが当然できるわけでありますが」とか、「節約」も「活発」もヤラセがあったなら無意化することも考慮せず、「経費」との関係でのみ活発な議論の可能性を云々する判断能力のズレはそのまま情報処理能力の程度の問題に関係していく事柄であろう。

 さらに安倍首相だけではなく国家議員・官僚が国会答弁や記者会見で結び語によく使う言葉として、「このように(かように)思うわけでございます」とか、「かように考えるわけでございます」「と言うところでございます」、「致しておるところでございます」、「しておるわけでございます」といった「ございます」語は丁寧語と言ったら聞こえはいいが、「です・ます」で簡潔に結べるにも関わらず、そのことに反して余分に付け加えて言葉数を多くする発言は、簡潔・スピード・確実・理解をモットーとする情報処理能力に密接に関係しているはずである。1日で使う「ございます」語をすべて省いて、「です・ます」で済ませたなら、かなりの時間短縮が可能となり、その時間分、実質的な質疑応答に回すことができて、当然情報処理量をも増加させて情報処理の向上に役立つはずである。

 また、質疑応答に於ける相互的な情報伝達は政治のあるべき姿の議論を実質とすべきを、実質の議論から離れて結びをことさらに「ございます」語とするのは、伝えるべき情報の実質部分でたいしたことを言っていないからこその、そのことの逆説として、自分が言っていることを正しい・筋が通っていると思わせるダメ押しの役目を持たせた装飾補強材であろう。

 上に上げた安倍首相の答弁もまさにその通りだが、たいしたことを言っていないということも、要件の一つとしている“確実性”に反する情報伝達ということになって、情報処理に関係した能力と言える。日本語の敬語の多用も、耳に聞こえはよくても、言葉数が多くなることによって、逆に情報処理を遅くする逆説を呼び込んでいると言える。

 かくかように戦略性や危機管理能力と密接に結びつくことになる情報処理能力がただでさえ見劣りする状況にあるのに対して、例え900文字の康熙(こうき)字典体への変化が、そのことによって僅かであっても情報処理をより困難としたなら、現在以上の戦略性と危機管理能力の欠如・劣りにきっと寄与するに違いない。まさに「美しい国」日本である。

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