教育再生/「規範意識」教育は役立つのか

2007-01-20 01:59:51 | Weblog

 第一番に問題とすべきは何であるのか。

 1月18日(07年)の「朝日」夕刊に『再生会議第1次最終案(要旨)』が報道されている。具体的な説明として、「教育再生会議『第1次報告』『教育再生のための当面の取り組み』(『七つの提言と五つの緊急対応』)の要旨」となっている。「七つの提言」の中の3番目にある、安倍首相が機会あるごとにバカの二つ覚えのように口にしているうちの一つである「規範意識」の件を見てみる。バカのもう一つが「美しい国」なのは断るまでもない。

 「【3】すべての子どもに規範意識を教え、社会人としての基本を徹底する」とチョー壮大な目標を掲げ、その具体策として、「『道徳の時間』の確保と充実・高校での奉仕活動の必修化」(同記事)を定めようとしている。

 規範意識教育・社会人教育を〝チョー壮大な〟目標だと批評したのは、この最終報告案を安倍首相が持ち前の、あるかどうか知らないが、決断力・実行力を発揮して実現の成功をもたらしたなら、この手の教育に薫陶を受けた小・中・高の生徒が学校を卒業して社会人となり、社会の中堅で活躍する20年後、30年後には日本は各種談合・各種粉飾・各種偽装・各種違法資金操作・各種裏ガネ工作・各種私利私欲行為・各種天下り利益行為・各種偽善行為etc.etcの跳梁跋扈が日常的な姿となっている現在のコジキ犯罪列島から抜け出し、神武建国以来3000年(皇紀2667年+20年後、30年後≒3000年)の歴史を経て初めて日本社会を覆って泥色に汚濁していた水が時間をかけて徐々に浄化し、ついには澄んだ水を見せるように安倍首相が掲げる、もう一つのバカの覚えである「美しい国」日本が実現することになるだろう。

 いわば劣る日本民族からの脱却である。劣る日本民族から、清く正しい「美しい」日本民族への変身を遂げる。

 「美しい国」日本の体現者として、安倍晋三はそのときまだ生存していたなら、ノーベル平和賞に推薦されるべきだし、あの世に旅立っていたなら、その墓は「美しい国」実現者の墓として世界遺産に登録されるべきではないだろうか。

 果して20年後、30年後の日本列島は官民談合も官官談合も、家賃ゼロの議員会館事務所に高額な事務所費計上といった政治不正も、違法政治献金も、政治家の無理無体な地位を利用した恫喝混じりの薄汚い口利きも、タウンミーティングの世論操作といった狡猾・鉄面皮な偽装・粉飾も、企業犯罪も何もない美しいばかりの社会空間となっているだろうか。

 誰も「イエス」とは言わないのではないだろうか。言わないとしたら、残念ながら安倍晋三のノーベル平和賞受賞の目も、世界遺産登録の目もなくなる。依然として「美し」くない日本・劣る日本民族は日本の歴史・伝統・文化として進行形の姿を取ることとなる。

 改正教育基本法は第10条「家庭教育」の項目で、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」としているが、これは家庭教育力が低下している、あるいは欠如していると見ていることが要求した、その裏返し内容なのは言うまでもない。

 だが、そのような教育力不在の親・家庭を延々と生産してきたのは日本の学校教育であり、社会教育であろう。家庭は日本の全体社会の最下位に位置した社会であり、学校・一般社会は家庭社会の上位に位置した社会であって、それぞれの社会は孤立して存在しているわけではなく、相互に関連・作用しあっている関係にある以上、家庭の教育力のみ低下・不在という状況は取り得ないからである。

 例えば学校社会で家庭で育まれる幸運を与えられることによって植え付け可能となると考えられている基本的「規範意識」を学校教育でも補強して本格的「規範意識」に高めつつ真面目に行動し、真面目に勉強して高学歴を獲得し社会に旅立った生徒の多くが席を占めることとなる政界・官界・業界(大企業)で当然の結果性として優れた高度な「規範意識」が確固とした網目を張っていて然るべきだが、現実には綻びだらけの網目しか張ることができず、あらゆる種類の不正・犯罪が横行している状況から説明すると、政治家や教育者の多くが「家庭の教育力の低下・不在」をことあるごとに口にしているものの、「教育力の低下・不在」という点では家庭も学校も一般社会も条件を同じくし、同列状態にあるということを示していて、家庭だけの問題でないことを証明している。

 言葉を変えて説明するなら、家庭で幸運にも恵まれることとなった「規範意識」教育にしても学校教育での「規範意識」教育にしても付け焼き刃の効果しか与えず、その上の社会も、自らが備えるべき教育力(社会教育力)を備えていないために参入してくる社会的新来者に社会人としての「規範意識」を満足に植えつけることができないでいることの最終局面として迎えることとなった「規範」の破綻現象であり、それはそれぞれの段階の社会すべてに共通する光景としてあると言うことだろう。

 となると、「教育の原点は家庭にある」とか、その家庭の教育力が低下、もしくは欠如しているとする把え方そのものがそもそもの出発点から間違いを犯していることにならないだろうか。

 次のように把えるべきなのだろう。日本社会の「規範意識」の欠如・不在は日本の家庭教育力・学校教育力・社会教育力の欠如・不在を受けた、その反映としてある全体像であり、このことはそのまま全体社会の形成者であり、それぞれが社会の経営者で社会の中身を主として構成している大人たち自身が「規範」という品質を備えるに至っていないまま総がかりで築き上げた成果物としてある「規範意識」の欠如・不在(=社会の姿)なのだと。

 社会人としての地位を占めている日本の大人たちが「規範意識」喪失状態にあったなら、彼らが親の位置を占めていようと、教師の位置を占めていようと、国会議員の位置を占めていようと、中央省庁の何様の地位を獲得していようと、彼らの発する「規範」に関わるどのような言葉も、如何ように贅を尽くした美しい文言で取り繕おうと言葉としての力を持たず、奇麗事の姿を取るだけのことで、単なる空文・スローガンの実質を備えた形でしか社会的後発者の内心に響かず、成人式が形式的な通過儀式への形式的な参加といった形式に対応する形式の構図で終わっているように、「規範意識」教育の形式に対する形式的な「規範意識」の身の纏い(=社会参加のための表面的な従属)を誘うだけで推移していったとしても不思議はない。

 かくして教育再生会議最終報告に従って「『道徳の時間』の確保と充実・高校での奉仕活動の必修化」等の完全実施を通して高邁な美しいばかりの「規範意識」教育を徹底的なまでに受けさせたとしても、その努力の甲斐もなく、大人になれば、同じ日本の大人となる。その結果の同じ「規範意識」無しの社会的光景の連続シーン。「美しい国」日本とは裏腹の、現実日本の延々と続く再現・再生産である。

 いわば、誰も「イエス」とは言わないのではないかと予測した世界の出現である。

 正義漢を持って、この世の不正と戦うべく警察官になったり、この国をよくしようと政治家になったりする。しかし数年も経たないうちに組織内に充満し、組織を動かす基本的な行動力学と化している怠惰・馴れ合い・日和見主義・横並び主義・責任回避主義・事勿れ主義・縄張り主義・縦割り主義・ご都合主義・事大主義(「勢力の強い者に追随して自己保身を図る態度・傾向」『大辞林』三省堂)等の壁に阻まれて自分の無力を思い知らされ、組織で生きていくため・日本の社会で生きていくため背に腹は変えられない、他に選択肢はないのだと組織の行動力学と馴れ合い、横並びして同じ組織の一員と化していく。朱に交われば赤くなるを完成させる。

 このようなよくある構図も、組織運営の基本的態度として「誠実・実行力・社会貢献」などと如何ように掲げ、組織内教育として新入者に徹底して「規範意識」教育を行い、人格要素としていくら求めようとも、周囲を囲んでいる教育する側、あるいは範を垂れるべき既成所属成員が「規範意識」をその時点で自己のものとしていなかったなら、教えや模範行動は口にする言葉通りの力を持ち得ず、あるいは示す態度どおりの力を持ち得ず、奇麗事の姿を取る同じ宿命に見舞われ、単なるスローガンの伝授とその従属のまま推移する同じ展開を示すものだろう。

 教育を受ける側は教育を受けた当座はその気になったとしても、周囲を囲む人間が「規範意識」をクスリにもしたくない人間ばかりなら、自己を異端者、あるいは異邦人と受け止めるだけのことで、社会の一員、あるいは組織の一員として生きる以上、異端者、あるいは異邦人であり続けることに耐えられる人間がどれ程いるだろうか。かくして日本の政治家たちが揃いも揃ってそうであるように、似たり寄ったりの人間たちばかりで占められることになる。

 学校での「規範意識」教育を効力あるものにする当然・唯一の答は、家庭社会・学校社会・一般社会のすべてを含めて、それぞれの社会に生きる日本の大人たちが「規範意識」を持つことということになり、それ以外の答を導き出すことは不可能である。日本の大人たちが「規範意識」を持つことによって、「規範」に関わる言葉は形式・スローガンから離れて真正な品質・真正な力を持つことになり、その品質・力と共に他者に伝えられていくはずである。

 一定の年齢に達した生徒が、教師が立派な言葉を口にするほどに奇麗事・口先だけのこと受け止め、誰がまともに聞き入れるだろうか。だが、それを教師一人の責任とすることはできない。
それぞれの社会が相互に関連し合うことで社会の大人たちの姿を反映させてもいる教師の姿でもあるからだ。いわば教師も日本の大人として、一般社会の大人たちとお互いの姿を響き合わせている似た者同士だからである。同じ穴のムジナと言ってもいい。すべてが同じ穴のムジナだからこそ、日本の社会全体に亘って各種談合・各種粉飾・各種偽装・各種違法資金操作・各種裏ガネ工作・各種私利私益行為・各種天下り利益・各種偽善etc.etcの跳梁跋扈が日常的に演じられているのであり、それが日本の美しいばかりの一般的な社会的姿となっているのである。

 教育を問題にするよりも、大人たち自身の姿を第一番に問題にすべきだろう。

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