安倍、言葉で飾っても始まらないことにまだ気づかない

2007-07-20 09:52:24 | Weblog

 19日(07.7)、テレビで安倍首相が台風4号で被災した宮崎県の東国原知事と会談して、「激甚災害の指定はスピード感を以って対応したいと思います」と言っていた。

 「早急(さっきゅう)に対応したい」と簡単に済むところを「スピード感を以って対応したい」である。「スピード感を以って対応する」とはどういうことなのだろう。なぜわざわざ「スピード感を以って」と言わなければならないのだろうか。

 一般的には「スピード感」とはあくまでも動きに対する印象を言う言葉であろう。ストーリーの展開という〝動〟きに対して、スピード感溢れるストーリー展開だとか、サッカーでパス回しという〝動〟きに対して、スピード感あるパス回しだとか、スピード感に欠けるパス回しだとか言う。

 但しその動きは現在進行形の動きに言う場合もあれば、過去形を言う場合もあり、未だ生じていない未来形の動きにも言うから、安倍首相の「激甚災害の指定はスピード感を以って対応したい」とこれからの動き(「対応」)に対して言えないことはないが、自身の動きはただ単に自ら携帯か何かの通信機器を使って事務方に指示を出すか、あるいは帰京してから直接口頭で指示を出すか、あるいは首相からの指示ということで伝達させるべく随員に指示するかして後は事務方がテキパキと処理するか、それとも自らが加わった会議で検討し合い、意見を纏めるのかいずれかであり、それだけのことを「スピード感を以って対応したい」は表現としては大袈裟に過ぎ、自らの行為を言葉で飾る類であろう。元々何事も言葉で飾る政治家である。

 サッカーの場合、「スピード感」溢れるパス回しを心がけたいということで、そのことに意識を集中してプレーすることもあるだろうが、そのことに成功したとしても、ゴールに結びつく結果が伴わなければ、パス回しだけがスピード感があっても意味をなさない。

 だが、何よりも「激甚災害指定」は首相の意向を受けなくても、地元自治体の「指定」要求に対して国の関係部署の、そこに内閣府が関わることがあっても、データーに基づいた事務的な妥当性の判断によってのみ決定する問題であって、そこに何らの私情も意向も差し挟んではならないはずである。首相の意向のみならず、その地区選出の国会議員とか大臣とかの口利きとか圧力とかも不必要事項であって許されるものではないだろう。

 いわばそもそもからして首相の個人的決定事項ではない「激甚災害指定」を「スピード感を以って対応したい」はそれをさも首相の意向が重要要件であるかのように見せかける演出によって、首相の手柄とする宣伝意識があったからだろう。特に支持率低迷のまま参院選をすぐ背後に控えているのである。相手は大衆人気の高い元芸人であったそのまんま東こと東国原県知事であり、しかもテレビが日本全国に向けて報道する。舞台は整っていたのである。

 そのためにも「早急に」で済むところを、「スピード感を持って」と体裁よく言葉で飾る必要が生じたに違いない。

 首相お得意の「できることしか言わない。約束したことは必ず守る」も、既にその矛盾、不完全さを露呈している改正政治資金規正法や公務員改革関連法案を例に取るまでもなく、法律と言う「約束」自体が常に完全な体裁をなすわけではなく、「でき」ないことも含んでいるのだから、「できることしか言わない」は最初から破綻しているのであって、「でき」ないことの「約束を必ず守」られても、空約束を言っているに過ぎない。

 不可能を可能のように言うのも、言葉で飾る行為に入るだろう。

 わざわざ断るまでもなく、完全な法律など存在しない。存在しないから〝改正〟という歴史を重ねることになる。あるいは新規に制定することになる。それは完全な法律をつくる能力を人間が備えていないことの証明であろう。

 そのことを弁えることができずに、「教育基本法を改正し、地方分権改革推進法を成立させ、防衛庁を防衛省に昇格させ、国民投票法案を成立させ、改正国家公務員法を、改正政治資金規正法を、年金時効特例法を・・・・」と次々と名前を挙げて、数の優勢が可能とした通過・成立であるにも関わらず、それを誇り、自らの勲章とする。

 矛盾、不完全さを抱えた人間がつくる法律がその法則に従って同じように矛盾、不完全さを抱えることとなる宿命にある以上、実際の運用を見ないうちに法律を制定しただけのことを誇り、勲章とするのは、やはり言葉で飾っているに過ぎない行為に当たる。

 必要なことは法律を制定しただけのことを誇り、勲章とするために言葉で飾ることではなく、実際的な運用局面がどう出るか、利益と不利益のバランスはどうなのか、常に畏れを抱いて見守る謙虚さではないだろうか。

 そういった謙虚さこそが国民の声に耳を傾ける姿勢へとつながっていくのだが、自らの行いを言葉で飾り、誇るだけの人間はクスリにしたくても謙虚さは持ち合わせていないものである。みなさん、安倍晋三のどこに謙虚さを見て取ることができますか?できないでしょう。

 一国の総理大臣たる人間がそういったことを弁えることもできずに、専ら言葉で飾ることだけに意を尽くす。何とお粗末な合理的精神と言うべきか。

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