7月30日(07年)に米下院本会議で採択された日本政府に謝罪を求める従軍慰安婦決議の〝罪状認否〟は安倍首相は従来どおりに「無罪」を主張したことがSankei Webの記事(2007/07/31 13:35≪首相「残念」 慰安婦決議採択でコメント≫)に出ている。
<安倍晋三首相は31日、首相官邸で記者団に対し、米下院本会議が慰安婦問題をめぐる対日非難決議を採択したことについて、「(4月に)訪米した際、私の考え、政府の対応については説明してきた。こうした決議をされたことは残念だ」と述べた。
首相は「20世紀は人権が侵害された世紀だった。21世紀は人権侵害がない、世界の人々にとって明るい時代にしていくことが大切だ。これからもよく説明していくことが大切だ」と述べ、引き続き米国側に事実関係と日本の対応について説明していく考えを示した。
慰安婦問題をめぐっては、首相が4月末に訪米した際、ペロシ下院議長ら議会指導者との会談で、「人間として首相として心から同情している。そういう状況に置かれたことに申し訳ない思いだ」と語っている。
塩崎恭久官房長官も同日の記者会見で、「決議案が採択されたことは残念だ」と述べた。>
≪米下院の従軍慰安婦決議(要旨)≫が8月1日の『朝日』朝刊に出ている。
<日本政府は、1930年代から第2次世界大戦にかけ、旧日本軍が「慰安婦」として世界に知られる、若い女性に性的な奴隷状態を強制した歴史的な責任を明確な形で公式に認め、謝罪し、受け入れるべきだ。この制度の残虐性と規模は前例がない。20世紀最悪の人身売買事件の一つである。
日本の教科書の中には、慰安婦の悲劇などを軽視しようとするものがある。最近、日本の官民の要職にある者は、河野洋平・内閣官房長官が93年、慰安婦に対し謝罪し後悔の念を表明した談話の内容を、弱めるか撤回してほしいと要望した。
首相が公式の謝罪声明を出せば、日本の誠意と、従来の声明の位置づけに対する一向に止まない疑いを晴らすのに役立つだろう。
日本政府は、旧日本軍のために慰安婦が性的な奴隷状態にされ、売買されたという事実はなかったという主張に明確に反論すべきだ。
日本政府は、慰安婦に関する国際社会の声を理解し、現在と将来の世代にこの恐ろしい犯罪について教えるべきだ。>
このような訴状に対して安倍首相は前回同様に「20世紀の人権」を「21世紀の人権」にすり替えて再度「無罪」を主張したというわけである。
中国海南島で日本軍の慰安婦にされた6人の女性を今年6月に野田正彰・関西学院大教授(精神病理学)が診断したところ、<重い心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの症状が出ている>(≪米慰安婦決議 「私たちの力不足」抗議書出した社長 「心の治療支援を」「心の傷」診察の医師≫(07.8.1『朝日』朝刊)とのこと。<自宅に押し入って日本兵に連れ去られ、継続的に暴行されたという60年以上前の被害体験により、今なお悪夢や人格変化などの症状が続いている>(同記事)その恐ろしさは簡単には想像できない。
<抗議書を出した社長>とは、「性的奴隷」なる存在の否定派人間の一人で、米大使館に「抗議書」を手渡したが受け入れられず、「私たちの力不足」の結末を迎えたと言うわけである。
従軍慰安婦日本軍関与否定説に立つ者は軍関与を裏付ける直接の記録・文書の類がなく、慰安婦とされたとする女性たちの証言に関しても、その証言を裏付ける記録・文書の類が存在しないことを否定の根拠に挙げているが、「自宅に押し入った日本兵に連れ去られ、継続的に暴行された」といった証言に関しては<「軍服のような服を着た人に連れて行かれた」といった証言は、軍の命令の証拠にはならない。当時、軍服を着た民間の朝鮮人はたくさんいたし、そもそも彼女たちは軍命の存在の証人たりえない。>(≪日本人を差別する慰安婦非難決議≫)なる無罪説があることを知った。
元従軍慰安婦の証言はそれを裏付ける記録・文書の類がないとして、その信憑性を疑うなら、女性を拉致・連行した「軍服のような服を着た人」がイコール「軍服を着た民間の朝鮮人」だと証明できる記録・文書の類を提示するのでなければ、その実証性は客観性を失い、取り上げ不可能となる。
しかし元従軍慰安婦の証言がそうであると言っているのと同じく、「軍服のような服を着た人」がイコール「軍服を着た民間の朝鮮人」だと証明できる記録・文書の類を上記HP自体は何ら提示していない。
そういった記録・文書が存在しないとしても、「軍服のような服を着た人に連れて行かれ」て軍の慰安所に閉じ込められ、上は将校から下は一般兵士にまで性行為の対象とされたとしたら、連行者が実際に「軍服を着た民間の朝鮮人」だったとしても、一連の場面が「軍命令の存在」の有無に関係なしに軍の権威のもとに行われた行為とならないだろうか。つまり民間の朝鮮人が絶対的であった日本軍の権威を軍服を着用することで自らのものとし、それを初期的な段階で利用し、それ以降は上は将校から一般兵士までが軍の権威を笠に女性たちを思いのままに支配した。
例えそれが純粋に民間人経営の慰安所であったとしても、女性を集めるために「民間の朝鮮人」が「軍服」を利用することを常習としていたなら、軍の憲兵等の治安部門か現地の日本の警察がその情報を把握していなければならないだろうから、その放置が可能とした「軍服を着た民間の朝鮮人」の情景でもあったろう。放置は慰安所の存在とそこで働く女性の確保に必要な「軍服を着た民間の朝鮮人」の存在を軍の利益と見なし、優先とさせていたことを動機とした放置であったろう。
あるいは日本軍が朝鮮人に自分たちの軍服を水戸黄門の印籠代わりに貸付けて女性を確保しやすいように仕向けたとうことなら、あり得る話で、その可能性は否定できない。当時は日本人は朝鮮人に対して支配者の位置にいて、朝鮮人は日本人に対して服従する関係にあったからである。いわば朝鮮人は使役される側に立っていた。日本軍の占領地内では日本兵、もしくは日本軍の息のかかっていない朝鮮人が好き勝手な行動を取ることは困難であったであろう。息がかかっていることによって、その限りに於いて虎の威を借りる狐のように日本軍の権威を笠に着ることができる。
もしも日本軍と何ら関係もなく、また日本側が何ら情報を把握していなかったことが許していた「軍服を着た民間の朝鮮人」の跳梁跋扈と言うことなら、その情報収集能力・治安維持能力は倒錯性を帯びることになる。怖いと評判を得ていた日本の憲兵は実体は無能集団に過ぎず、張子の怖さで持っていたことになる。
果して当時は民間の朝鮮人が日本軍と関係なしに日本軍の軍服を着てのさばり歩くことが許されるような時代事情にあったのか、インターネットで調べてみると、<フランスの雑誌パリマッチ記者、アルフレッド・スムラーの著書「日本は誤解されている」から抜粋。>と、書物の形で記録されている「軍服を着た朝鮮人」のことが書いてある≪韓国併合当時の先進国の評価≫なるHPに出会った。
<最初の数日間は平穏無事で、日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、麻雀をしていた四人の女優を強姦した。
前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、この男達は朝鮮人であった。
(中略)
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった。
この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時、香港住民は日本軍よりも朝鮮人を激しく憎んだ。>――
ここに描かれている軍服を着た朝鮮人は単なる民間人ではなく、「日本軍の馬を管理する男達」ということなのだから、日本軍に所属する軍属であろう。中には兵士もいたかもしれないが、非軍人の軍属と言えども、それなりに軍の規律下にあったはずである。にも関わらず、「日本の正規軍よりも凶暴だった」ことと「民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった」ということを突き合わせると、これは上のなすところ、下これに倣うことによって生じた、いわば日本軍のほぼ全体の問題としてあった情景と見なければならない。日本兵にしても婦女暴行を働かなかったわけではないし、軍属であるなら、朝鮮人は孫悟空がいくら空を飛んでもお釈迦様の手のひらから外に飛ぶことができなかったように日本兵の管理下にあったはずだからである。
フランスの雑誌『パリマッチ』の記者だというアルフレッド・スムラーはどのような特徴で日本人と朝鮮人を見分けていたのだろうか。「一般の日本人よりも背が高」いとしているが、一般的には日本人と朝鮮人は顔も体型も似通っていて、「一般の日本人よりも背が高」いということはない。「内鮮一体化政策」によって日本語の強制が行われたのは1938年3月からだということだが、日本軍に関係する朝鮮人となると、支配者である日本人に順応するためにも否応もなしに日本語を使わざるを得なかったことは十分に考えられるから、いわゆる朝鮮訛りから朝鮮人と見分けていたのだろうか。だが、「一般の日本人よりも背が高」いと見ていたとなると、その見分けが疑わしくなる。
日本軍のホンコン攻略作戦を『日本史広辞典』(山川出版社)で見てみると、<1941年(昭和16)12月8日の太平洋戦争開始と共にイギリス軍香港要塞を攻撃した作戦。酒井降中将に率いられた支那派遣軍第二三軍が予定より早く9日未明に作戦を開始し、13日に九竜半島を占領。18日に香港島に上陸、激戦の後25日同島を占領した。同月29日に第二三軍の統括する軍政庁が発足し、大英帝国の戦略拠点香港は日本の占領下に入った。>となっている。
<第二三軍の統括する軍政庁>が占領政策を敷いた中での朝鮮人軍属もしくは朝鮮兵の婦女暴行等の跳梁跋扈はやはり日本軍のほぼ全体の問題でもあったから起こり得たに違いない。それが朝鮮人軍属もしくは朝鮮兵だけの問題であって、日本兵は軍の規律に従っていたということなら、「軍政庁」のその相矛盾する統率能力・治安維持能力は説明不可能となる。
それが日本軍の軍服を着用しているものの、軍属ではなく、軍の何らかの下請の民間人であったとしても、やはり軍政庁が治安維持を引き継いだ以上、犯罪行為の放置は犯罪者の犯罪行為以上に問題となる。
1941年の香港占領に18年遡る1923年(大正12)9月1日関東大震災では朝鮮人が井戸の毒を投げ込んだ、放火したといった流言が広まり、憤激した自警団・軍隊・警察、一般人によって数千人の朝鮮人が虐殺されている。呉林俊(オ・リムジュン)なる在日著者の『朝鮮人のなかの日本』(三省堂・昭和四六年三月一五日初版)の中に「横浜市震災史」から引用したという朝鮮人虐殺の場面が描かれている。
<ヒゲ面が出してくれた茶碗に水を汲んで、それにウイスキーを二、三滴たらして飲んだ。足が痛みだしてたまらない。俄に降りつのってきたこの雨が、いつまでもやまずにいてくれるといいとさえ思った。
「旦那、朝鮮人はどうです。俺ア今日までに六人やりました」
「そいつあ凄いな」
「何てっても、身が守れねえ。天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさあ」
雨はますますひどくなってきた。焼け跡から亜鉛の鉄板を拾って頭にかざして雨を防ぎながら、走りまわっている。ひどいヒゲの労働者は話し続ける。
「この中村町なんかは一番鮮人騒ぎがひどかった・・・・」という。「電信柱へ、針金でしばりつけて、・・・・焼けちゃって縄なんかねえんだからネ・・・・。しかしあいつら、目からポロポロ涙を流して、助けてくれって拝むが、決して悲鳴を上げないのが不思議だ」という。・・・・
「けさもやりましたよ。その川っぷちにごみ箱があるでしょう。その中に野郎一晩隠れていたらしい。腹は減るし、蚊に喰われるし、箱の中じゃ身動きが取れねえんだから、奴さんたまらなくなって、今朝のこのこと這い出した。それを見つけたから、みんなでつかまえようとしたんだ。・・・・」
「奴、川へ飛び込んで、向う河岸へ泳いで逃げようとした。旦那、石ってやつはなかなか当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ。で、とうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分ぐらい水の中にもぐっていた。しばらくすると、息がつまったと見えて、舟のじきそばへ顔を出した。そこを舟にいた一人が、鳶(トビ)でグサリと頭を引っかけて、ズルズルと舟へ引き寄せてしまった・・・・。まるで材木という形だあネ」という。「舟のそばへくれば、もう滅茶々々だ。鳶口一つで死んでいる奴を、刀で切る、竹槍で突くんだから・・・・」>――
何人殺したと手柄とする。日本人の自らの残虐さに気づかないこの残酷さよりも、朝鮮人が殺されて手柄とされる存在であったことの残酷さの方が際立って酷い。朝鮮人は日本の植民地の国民として、劣る人間と蔑視され、差別を受けていた。日本の子どもたちも日本の大人たちの差別の意識を受け継ぎ、朝鮮人の子どもに石を投げつけたり、悪口を浴びせたり、バカにしたりした。一般的には日本人は朝鮮人を差別し、朝鮮人は日本人に対して卑屈な場所に追いやられる関係にあった。戦後も在日を隠す韓国・朝鮮人が多くいたのもそのためだろう。
こういった戦前の関係を考えると、両者間に馴れ合いがなければ、「日本の正規軍よりも凶暴」さを発揮することはできなかったろうし、「殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった」からこそできた「凶暴」さということではなかったのではないか。日本兵の意を受けて進んで悪事を働くことによって受けをよくし、気に入られようとする、卑屈な場所に追いやられている人間が陥りやすい迎合の意識がそう仕向けたといった構図ではなかっただろうか。
悪ガキ集団でガキ大将の命令を受けて悪事を働くとき、下の者は尻込んだり、ヘマをしたりすると馬鹿にされたり、相手にされなくなったり、悪くすると総攻撃のいじめを受けたりするから、怖いのを我慢して思い切ったことをして、ガキ大将に気に入られようとする。但し極端に思い切ったことをしてガキ大将を逆に恐怖に陥れたりしたら逆効果で、ガキ大将の地位を脅かす危険人物とされ、陰湿な復讐を受けて出る杭は打たれるといったことになりかねない。あくまでもガキ大将のコントロール可能の範囲に立ち位置を定めておなければならない。
日本兵と行動を共にしていた朝鮮人も心理面も含めた対人距離の取り方で同じ境遇にあったに違いない。常に自分を卑屈な位置に置き、命令に対しては期待以上のことをして相手に喜ばれる存在となる。
日本人の中国人・朝鮮人差別は日清戦争から発しているという朝日記事(07.8.1朝刊)がある。
≪歴史は生きている 第2章 日清戦争と台湾割譲(下)≫『朝日』朝刊)記事中の解説記事≪日本人のアジア観≫
<日清戦争は、日本人が持つ中国や朝鮮へのイメージを大きく変えた。
例えば、福沢諭吉が率いる「時事新報」。開戦直後の1894年7月29日に「日清の戦争は文野の戦争なり」と題する社説を掲載した。
「文野」とは「文明と「野蛮」のことだ。戦争を「文明開化の進歩をはかる」日本と、「進歩をさまたげんとする」清国との戦いと位置づけた。11月には朝鮮に対しても、「文明流」の改革のためには「脅迫」を用いざるを得ず、「国家の実験」を日本が握るべきだとする社説を載せた。
反戦主義者として有名な内村鑑三ですら、この時点では同様の認識だった。同年8月、日本は「東洋における進歩主義の戦士」で、中国は「進歩の大敵」だと訴える論文を欧米人向けに英語で雑誌に発表した。
日中関係を研究する敬愛大(千葉県)の家近亮子准教授は、「日清戦争の勝利は日本に、アジアは遅れているという認識を根付かせた。蔑視感情も広がった」と指摘する。その意識は10年後の日露戦争でさらに強まり、中国侵略に踏み出す行為につながる。
こうした意識は今もどこかに残っていないだろうか。家近さんは7月、学生に「あなたはアジア人だと意識したことがありますか」とアンケートした。
教室の半分近くを占めるアジアからの留学生は、86%が「ある」と答えた。これに対し、「ある」と答えた日本人は63%のとどまり、「むしろ欧米人だとよかった」と記した学生もいた。(吉沢龍彦)>――
「東洋における進歩主義の戦士」が侵略戦争をやらかし、その過程で南京やその他での虐殺や強制連行、従軍慰安婦、捕虜虐待、人体実験、日本刀の試し斬り、その他の悪行を仕出かした。例えそれに朝鮮人が加わったとしても、被植民地国の人間として従属した関係で日本兵と一体となって行った共犯行為と考えるべきだろう。彼ら朝鮮人が軍属であろうと純然たる民間人であろうと、軍服を着ていたとしたら、そのことが一体であったことを象徴しているはずである。
「軍服のような服を着た人に連れて行かれた」に対して「軍服を着た民間の朝鮮人はたくさんいた」は朝鮮人のみに罪をかぶせることになりかねない、その危険を孕んだ関連づけとしか思えない。
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いつまでも記憶しておくために参考までに
①日清戦争
1894年(明治27)から翌年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午(こうご)農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵。日本は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃式船に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛(いかいえい・中国山東半島北東端の都市)などで勝利し、95年、下関で講和条約締結。(『大辞林』・三省堂)
②甲午農民戦争
東学党の乱とも。1894年(甲午の年)、朝鮮南部一帯に起こった農民反乱。朝鮮では1860年代以降各地に農民反乱が起こり、民衆宗教である東学が全土に広がった。朝鮮政府はこれを禁じて教祖崔済愚(さいせいぐ)を処刑したが、民衆は教祖伸冤(しんえん)の運動をおこし、やがて「斥和洋倡義」(「日本と西洋を排斥して朝鮮の大義を唱<=倡>える」意。言ってみれば幕末の攘夷論といったところか?)を掲げて圧制打破と侵略阻止を唱えた。94年全羅道古阜(こふ)に農民蜂起がおこると、東学の教団組織を通して朝鮮南部一帯に拡大。朝鮮政府は鎮圧のために清国に出兵を求め、日本も対抗して出兵、日清戦争の契機となった。反乱軍は一時解散したが、日本軍が占領を続けたため再び蜂起し、翌年日本軍により鎮圧された。>
③日露戦争
1904年(明治47)から1905年にかけて満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、またロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国はアメリカ大統領ルーズベルトの勧告をいれ、ポーツマスで講和条約を締結した。(『大辞林』・三省堂)
④韓国併合
1910年(明治43)8月22日調印の「日韓併合ニ関スル条約で韓国を日本の植民地にしたこと。韓国(大韓帝国)という国号は廃され、朝鮮となった。>(『大辞林』山川出版社)
⑤関東大震災
1923年(大正12)9月1日発生。社会主義者や朝鮮人の不法逮捕・虐殺事件が勃発。
⑥日中戦争
1937年(昭和12)7月7日盧溝橋事件に始まり、45年8月15日、日本の無条件降伏に至るまでの日本と中国の戦争。(『大辞林』・三省堂)