07年8月24日東京新聞インターネット記事。
≪防衛次官人事の対立再燃 小池氏「血迷っていない」≫
<【ニューデリー23日共同】防衛省の守屋武昌事務次官の後任人事をめぐる小池百合子防衛相と守屋氏の対立が23日、再燃した。守屋氏は記者会見で「後任については話をしていただきたかったということに尽きる」と事前に相談がなかったことを批判。小池氏はニューデリーで記者団に「急に血迷って人事に手を付けたわけではない」と自らの正当性を強調した。
小池氏は、海上自衛隊のイージス艦中枢情報流出事件に触れ「誰か責任を取ったのか。ただ漏れてしまったという形で、人ごとではいけない」と情報保全に関する不十分な対応が守屋氏を退任させる一因だったことを示唆。
「それぐらいの対応をしなければ、武器調達などについても日本への信頼感がないままで進められない」とした上で、首相官邸の対応について「9月1日からの(防衛省の)組織再編ということをどこまで本気に考えたかクエスチョンマークだ」と不満を漏らした。>
「誰か責任を取ったのか」――日本にはマスコミや世論や上からの指示、あるいはトカゲのシッポ切りといった他からそう仕向けられた形で責任を取る歴史・伝統・文化はあっても、自ら責任を取る歴史・伝統・文化はないのだから、イージス艦情報流出事件で省内で誰も責任を取らなかったからといって、責める資格は小池防衛相自身にはない。
先の戦争では東京裁判で他から責任を取らされたが、日本自身は自らが責任を問い、自らが責任を取ることをしないまま現在に至っている。自らの責任には鈍感でありながら、他から取らされた責任に関しては不平を言う。
官僚や会社人間が「上からの指示でしたことなのに、責任を取らされるのはおかしい」と言うのと同じである。
小池防衛相は参院選自民大敗後、安倍首相が続投を表明すると、いち早く支持したが、防衛相に任命した本人だから、自己利害上続投支持を打ち出したとしても不思議はない。しかし内閣の長として安倍首相は大敗の責任を取っただのろうか。自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化に則って責任は取らなかった。そのような安倍首相の続投を自己利害が絡んでいたとしても支持したのである。
一方で安倍首相大敗の責任を問題とせず、他方で情報漏洩の責任を問題とする「責任」に二重基準で立ち向かう自らの矛盾に気づいていないばかりではなく、自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化があることを無視している。
ところが上記記事では守屋防衛省事務次官の記者会見での小池批判に対して記者に感想を聞かれたときの小池防衛相は「辞任」の「じ」の字も口にしていなかったにも関わらず、自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化に逆らって、誰も責任を取らないから、わたしが責任を取ると辞任の意向を示したと昨日(24日)夕方のNHKニュースが流していた。
詳しく知るためにインターネット記事を検索してみた。夜行性の生活を送っているから、夜中の検索である。
≪「新しい閣僚に任せたい」小池防衛相、留任しない意向表明≫(07.8.24/21:21/ 読売新聞)
<【ニューデリー=栗林喜高】インド訪問中の小池防衛相は24日午後(日本時間24日夜)、ニューデリー市内のホテルで記者団に対し、27日に予定されている内閣改造に関して、「(海上自衛隊の)イージス艦情報流出事件で防衛省内の誰も責任を取っていない。私が責任を取りたい。人心を一新し、新しい閣僚に任せたい。私は(改造を機に)『辞める』と言っている」と述べ、留任する意向がないことを明らかにした。
さらに、小池氏は、テロ対策特別措置法が11月1日に期限切れとなることに関して「しっかりと延長を実現してもらえる人にバトンタッチしたい」と語った。
小池氏は9月召集の臨時国会を前に、積極的に外遊するなど、留任に前向きと見られ、その去就が注目されていた。
小池氏をめぐっては、守屋武昌防衛次官と防衛次官人事に関して激しく対立し、首相の指示を受けた塩崎官房長官が介入する形で、小池氏の意向とは違う人事で決着した。混乱の収拾に時間がかかったことから、政府・与党内からは小池氏を批判する声が強まっていた。
小池氏の発言について、政府筋は24日夜、「情報流出事件の責任を取ることは留任しない理由になっていない。小池氏は、内閣改造で交代させられると感じ取り、先手を打って続投しない意向を表明したのではないか」との見方を示した。>
「情報流出事件の責任を取ることは留任しない理由になっていない。小池氏は、内閣改造で交代させられると感じ取り、先手を打って続投しない意向を表明したのではないか」が可能性高い事実とすると、別に自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化に逆らったわけではなく、留任できなかった場合「留任に前向き」な姿勢を見せていたことが逆に裏目に出ることを前以て予防する取り繕いに過ぎないことになる。
イージス艦情報流出は今年(07年)1月に発覚した事件である。防衛大臣(07年1月8日以前は防衛長官)はかの有名な「原爆投下はしようがない」発言の久間章生であって、責任を取るべきは久間大臣なのだが、情報漏洩ではなく、「しょうがない」発言で責任を取って辞任という顛末となった。それも日本の歴史・伝統・文化に反して自ら進んで取った責任ではなく、「これでは参院選を戦えない」との党内からの四面楚歌に止むを得ず応えた日本の歴史・伝統・文化に則した辞任であった。イージス艦情報流出に関してはその責任を取るべき省内の関係者とトップの久間防衛大臣なのだから、その後任の小池女史に関しては「情報流出事件の責任を取ることは留任しない理由になっていない」ということになるのだろう。
小池防衛相の「(海上自衛隊の)イージス艦情報流出事件で防衛省内の誰も責任を取っていない。私が責任を取りたい。人心を一新し、新しい閣僚に任せたい。私は(改造を機に)『辞める』と言っている」の「私は(改造を機に)『辞める』と言っている」という部分が言葉の流れから唐突な感じが否めない。「時事」によると、<小池氏は「情報保全という大きな課題が本当に意味をなすためにきっちりとした体制でやってもらいたい。人心を一新してほしい。そこ(情報保全)を任せられる人に大臣になってほしい」と語った。さらに「わたしは辞めると言っているのよ」と述べた。>(2007/08/24-21:05≪小池防衛相「辞める」と明言=内閣改造を機に≫)となっている。
なぜか辞任をことさら強調しているように見える。それも自発的辞任らしく装っている。例え顔に笑みを見せて余裕のある冗談ぽい言葉遣いで「わたしは辞めると言っているのよ」と言ったとしても、記者に「辞任ということですか」と聞かれてではなく、わざわざ自分から言うこと自体に心の底にヒステリーな感情を押し殺しているように思えて仕方がない。
度の過ぎた「留任に前向き」なパフォーマンスはあなたにとってまずいことになるかもしれないという内々の注意を受けたと勘繰れないことはない。安倍首相とその周囲の意向が小池留任の意思で一致していたなら、自信に満ちた続投のパフォーマンスは有効ではあるが、留任の目がないとしたら、そのようなパフォーマンスは本人だけそう思い込んでいた滑稽な続投劇と化す。下手をすると、自分では気づかずに道化を演じていたことになって、「空気を読めなかった」女とマスコミから有難くない名称を頂戴しないとも限らない。これら一切を帳消ししてくれる取る必要もない責任をわざわざ取る形の辞任という装いなのだろう。
それとも一旦自ら辞任する意向を見せておいて、留意されて再任となった場合、それ程までにも自分は重視されているといった様子を見せることができる。そういった辞任の意思なのだろうか。
どちらにしても「責任を取る」とは関係ない「わたしは辞めると言っているのよ」は確実なところだろう。何しろ自らは責任は取らない日本の美しい歴史・伝統・文化なのだから。
89年の参院選で宇野宗佑内閣が大敗を喫し「一切の責任は私にある」と退陣したが、前任の竹下登がリクルート事件や東京佐川急便事件、そして消費税導入の影響を受けた支持率の急落という世論やマスコミの攻撃を受けて辞任、他の自民党有力者も事件に関与していて、当時自民党を支配していた竹下派の都合で無色に近い宇野宗佑に白羽の矢が当たった棚からボタ餅の自分の身柄を自分で扱うこともできない傀儡に過ぎなかった。消費税とリクルート事件が尾を引いていた上に自らの女性スキャンダルが重なって参院選に大敗したのだから、傀儡の役目はそれで終わった辞任であって、厳密には責任を取った措置ではなかったろう。
もし真に責任を取るとしたら、宇野宗佑を傀儡の首相に据えた竹下登や竹下派の有力議員たちで、彼らは首相のクビを次の傀儡、海部俊樹にすげ替えだだけで自らは責任を取らない日本の歴史・伝統・文化にならって、何ら責任を取らなかった。
98年の橋本内閣も参院選に大敗して責任を取って辞任しているが、責任を取らないと格好がつかないという事情に加えて、橋本龍太郎は竹下派を継いだ自民党最大派閥の小渕派に属していて、当時は派閥の領袖でもなかったし、小渕自身が最大派閥の領袖として村山富一(村山富一首相就任は政権維持のための都合に過ぎなかった)辞任後の後継を狙っていたが、橋本龍太郎の人気と見栄えで橋本を推したというイキサツがある。橋本内閣大敗はその後継を担う絶好の機会遭遇であり、責任を取って貰うことで派閥の領袖たる小渕の出番を本番とすることができる橋本龍太郎の「私に責任がある」辞任といったところだったのろう。
そして今年07年の自民党参院選大敗を受けた、自らは責任を取らない日本の美しい歴史・伝統・文化に正真正銘則った安倍責任を取らない続投ということだろう。8月27日に予定されている安倍内閣改造は自らは責任を取らない日本の美しい歴史・伝統・文化の最初の大いなるイベントとなる。