薄汚い詭弁と単細胞思考に満ちた「美しい国」志向
半年ほど前に購入した安倍晋三著「美しい国へ」だが、あまりにも内容が安倍晋三なる人間の精神をそのままに反映して軽薄短小に仕上がっており、一気に読み通す意欲が湧かず、と言うよりもページを開いても続けて読む気力が萎えてしまい、その本が目に入れば、気が向けば手に取って偶然開いたページを数行読んで、また放ったらかしにしておくという状態が続いた。
何日か前に衆議院選挙の比例南関東ブロックで当選した民主党の長浜博行が先の参議院選挙への立候補に伴い繰上げ当選した藤井裕久がテレビで「『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』なんて言っているんですからね。『美しい国へ』の中で。そんな人間が首相をしている」といったことを言っていた言葉だけが耳に入った。どんな話の展開から始まった結論なのか聞いていなかったが、確か本の中でそんなことを言っていたと思い、改めてページを開いてみた。その部分を書き記してみる。
≪その時代に生きた国民の目で歴史を見直す≫
<(前略)歴史を単純に善悪の二元論でかたづけることができるのか。当時のわたしにとって、それは素朴な疑問であった。
たとえば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとのひと言でかたづけられることが多い。はたしてそうだろうか。
たしかに軍部の独走は事実であり、もっとも大きな責任はときの指導者にある。だが、昭和17、8年の新聞には「断固、戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権とするなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか。
百年前の日露戦争のときも同じことが言える。窮乏生活に耐えて戦争に勝ったとき、国民は、ロシアから多額の賠償金の支払いと領土の割譲があるものと信じていたが、ポーツマスの講和会議では一銭の賠償金も取れなかった。このときの日本は、もう破綻寸前で、戦争を継続するのはもはや不可能だった。いや実際のところ、賠償金を取るまでねばり強く交渉する気力さえなかったのだ。
だが、不満を募らせた国民は、交渉に当たった外務大臣・小林寿太郎の「弱腰」がそうさせたのだと思い込んで、各地で「講和反対」を叫んで暴徒化した。小林も暴徒たちの襲撃にあった。
こうした国民の反応を、いかに愚かだと切って捨てていいものだろうか。民衆の側からすれば、当時国の実態を知らされていなかったのだから、憤慨して当然であった。他方、国としても、そうした世論を利用したという側面がなかったとはいえない。民衆の強硬な意見を背景にして有利の交渉をすすめようとするのは外交ではよくつかわれる手法だからだ。歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではないからだ。
この国に生まれ育ったのだから、私は、この国に自信をもって生きていきたい。そのためには、先輩たちが真剣に生きてきた時代に思いを馳せる必要があるのではないか。その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっと大切なことではないか。学生時代、徐々にそう考え始めていた。
だからといってわたしは、ことさら大声で「保守主義」を叫ぶつもりはない。わたしにとって保守というのは、イデオロギーではなく、日本及び日本人について考える姿勢のことだと思うからだ。
現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きた人たちにたいしても責任を持つ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたかについて、プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神なのではないか、と思っている。>
「歴史を単純に善悪の二元論でかたづけることができるのか」
「善悪の二元論でかたづけ」ているのは安倍晋三のような単細胞の人間かその同類だけのことで、単細胞でなけれは「軍部の独走であったとのひと言でかたづ」けるような愚かなことはしないはずだし、歴史を「善悪で割り切」ってもいないはずである。
いわばすべての人間が「二元論」で片付けているわけではない。それを「善悪の二元論でかたづけることができるのか」と、そもそもの前提からことさらな取り違えを犯していて、そのことに気づきもしない単細胞である。「二元論でかたづけ」ているとすることによって、その歴史解釈を否定することができるからだろう。いわば安部的単細胞・ご都合主義がつくり出した「二元論」に過ぎない。
「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していた」――国家権力と国民が一蓮托生の関係にあったことが事実だとしても、その歴史を常に「善」と規定することはできない。「その時代に生きた国民の目で歴史を見直」さなければならないを優先条件とするなら、安倍首相に向ける国民の姿勢、あるいは視線は首相に就任した当時の高い支持率で安倍首相を「支持していた」た信頼を固定的な基本要素としなければならないことになる。
外に現れた事象のみを表面的に取り上げて歴史を解釈する方法は学習のプロセスを欠くことによって成り立つ。何も学ばないこと、学習の否定以外の何ものでもない。安倍晋三なる人間は学習する能力を持たないから、「その時代に生きた国民の目で歴史を見直す」などといったことを言えるのだろう。ある意味幸せな人間に出来上がっている。
国民は安倍政治から首相の指導力の欠如、国家優先の政策、そのことからきている地方軽視・国民軽視、その他の無能力等を様々に学習したからこそ、参院選でノーを突きつけたはずである。それを閣僚の不始末はあったが、自分の改革が否定されたわけではないと続投する。国民の学習に対する首相の無学習がなさしめた続投に過ぎない。
ここに来て内閣支持率が少し上がったのは、新しい内閣に於ける安倍色の埋没が自民党支持層に安心感を与えたからだろう。本人は認めたくないだろうが、安倍主導よりも派閥主導、あるいは党主導への期待値が上乗せさせた支持数値と見るべきである。派閥主導・党主導ということは官僚主導ということでもあるが、そういった新たな展開が吉と出るか凶と出るかは別問題である。
日本国民が人間の主要な一活動である学習する能力を持たない生き物であったなら、首相就任当時の支持率のまま、有権者は自民党に投票したに違いない。安倍晋三にしたら、日本国民が何も学ばない国民であって欲しかったに違いない。
日本の戦争から何も学ばないこと(学習の否定)によって「歴史の見直し」は「その時代に生きた国民の目」を基準とすることが可能となる。安倍首相自身が何も学ばない人間だから、「その時代に生きた国民の目」を自分の目に重ねるだけで終わらせることができる。何の解釈もなく、その時代に生きた人間になるということでもある。その時代に生きて、「天皇陛下バンザイ!、大日本帝国バンザイ!」とやりたいと思っているのだろう。
もし今の日本国民が「天皇陛下バンザイ!、安倍晋三バンザイ!」とやらかすようになったら、日本の未来はなくなるに違いない。
安倍首相は昨年9月(07年)の総裁選での政策主張で「村山談話は閣議決定した談話で、その精神はこれからも続けていく。個々の歴史的事実などの分析は歴史家に任せるべきだ。政府が(村山談話を)否定する談話を出さなければ、次の内閣もこの上に立って進めていくことになる。私は新しい談話を出すつもりはない」と言っているが、「その時代に生きた国民の目で歴史を見直す」るなら、「後世の歴史家」は不必要な存在と化す。外に現れた事象のみを追い、それをあったように表面的に受け止めるのみで、何も学ばず、何も解釈せずで済ませればいいのだから、歴史に対するそのような接し方は自らの想像力に従って歴史を解釈し、自らの才能を成り立たせる歴史家を否定要素とするに至るからだ。
「その時代に生きた国民の目」を機械的になぞった何も学ばず、何も解釈しないままの「歴史の見直し」こそが侵略戦争否定論者、いわば植民地解放の戦争だった、自存自衛の戦争だったとする論者の日本の戦争正当化の便法とすることができる。何しろ「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していた」のだから。それが正しかったことなのか、どこが間違っていたのかといった解釈・学習は不純事項として排除される。何も学ぶな、何も解釈するな。「その時代に生きた国民の目」に従え。
かくして戦争正当化に都合がいいだけの「その時代に生きた国民の目で歴史を見直す」となる。当時の国民が「天皇陛下のために、お国のために命を捧げる」と天皇及び大日本帝国と一体となって一億総動員へ雪崩をうった戦争なのだから、「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していた」戦争なのだから、一概に悪だとは言えないとしたいのだろう。
大体が日露戦争当時の国家体制と昭和の国家体制を同次元で論ずること自体が単細胞にして粗雑極まりない歴史観の形成となっている。安倍晋三自身が「善悪の二元論」に侵されていることの証明にしかならない歴史の単純化である。
大日本帝国憲法制定当時は制限つきながら言論・出版・集会・結社・信教の自由といった個人の権利を認めていた。それが1880(明治13)年制定の集会条例、1890(明治23)制定の集会及政社法から1901(明治34)年公布の治安警察法へと姿を変えていった「政治結社・集会の届出義務、現役軍人・警官・僧侶・神官・教員・女子・未成年者の政治結社加入禁止」や「警官の集会解散権」(『日本史広辞典』山川出版社)等の制定による思想・言論の統制。万世一系の天皇が君臨し統治権を総攬するとする国体を維持し、それを変革する動きへの国民統制を主目的の一つとした1925年(大正14)公布の治安維持法等を通した天皇のより絶対化、天皇への絶対従順を軍部が国民支配の道具として軍部独裁を強めていき、さらに日米開戦直後の1941年(昭和16)12月に言論・出版・集会・結社等臨時取締法を公布。「戦時の社会秩序維持をを目的とし、政党など政治結社の設立や政治集会、新聞の発行・出版を許可制とすることを定め、厳しい罰則を設けた。東条内閣は本法を利用して翌年の翼賛選挙を実施、選挙後は翼賛政治会以外の政治結社を事実上認めない方針をと」(『日本史広辞典』山川出版社)り、新聞・ラジオ・雑誌の検閲を行うと同時に軍部に都合のいい情報を強制して軍部の御用機関に貶めた。その先にあった「断固、戦うべし」だったのである。
そして検閲は自らの大日本帝国軍隊の天皇の兵士の手紙類にまで及んだ。
国家権力を体現した軍部によるそういった思想・言論・集会等の個人の自由を抑圧・禁止した状況下での「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していた」のであって、自由な立場からの支持ではなく、安倍の「歴史の見直し」にはそういった視線が一切ないのは如何に歴史をご都合主義に単純化しているか、その単細胞ぶりだけしか窺うことができない。
個人の権利の抑圧・禁止を代償として成り立たせた天皇絶対主義であり、軍部独裁であった。
例えそのような強制に自ら進んで従ったとしても、あるいは逆らうことができずに止むを得ず従ったとしても、「強制」という要素を抜きに歴史は語れまい。しかし安倍晋三は抜きに語ろうとしている。単細胞だから許される思考形式としか言いようがない。「虚心に歴史を見つめ直してみる」などと気取ったことを言っているが、単細胞の頭しか持たない人間はそもそもの理解力が不足しているのだから、決して「虚心」な心境にはなれない。
当然、単細胞、理解力不足の人間が満足に「日本及び日本人について考える」ことなどできようがなく、「わたしにとって保守というのは、イデオロギーではなく、日本及び日本人について考える姿勢のことだと思う」は自分をさも立派な政治家だとしたい見せかけの装いに過ぎない。
「現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きた人たちにたいしても責任を持つ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたかについて、プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神なのではないか、と思っている」。
「歴史を見直す」方法として「その時代に生きた国民の目」を検証せず、表面に現れた姿のみを用いることしかできない単純思考の人間に「現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きた人たちにたいしても責任を持」てるわけがない。
「百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたかについて、プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神なのではないか」には過去を肯定する意識しかない。「百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統」としての日本的な権威主義が極端な姿を取った戦前の天皇絶対主義、国家主義、軍部独裁をも肯定することになる単細胞人間ならではの日本の過去に対する硬直観念であろう。
軍部独裁を確立し国家権力を代弁するための天皇の絶対化とそのような軍部が引き起こした戦争が如何に国民の姿を変えさせるに至ったか、それを抜きにして「プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神」だとしている。
「プルーデント」なる横文字の意味が分からず、「Microsoft Bookshelf」で調べてみると、「用心深い、慎重な、分別のある、 賢明な」と出ている。なぜいずれかの日本語を使わないのだろうか。横文字を使うことの気取り自体に胡散臭さのみを感じる。元々胡散臭い政治家ではあるが。
最後に「その時代に生きた国民の目で歴史を見直す」だけでは済まない「歴史の見直」しのほんの一例を新聞記事から紹介してみる。
≪日本の軍人・軍属230万人戦死 6割が餓死・栄養失調 元中隊長の歴史学者調査≫
(2001.5.21.『朝日』夕刊)
<アジア太平洋で戦争で死亡したとされる日本軍軍人・軍属約230万人のうち、役6割に当たる役40万人の死因は狭義の「戦死」ではなく、栄養失調による病気や飢えだった――。
こんな結果を歴史学者の藤原彰一・一橋大名誉教授(77)が焼く10年がかりの研究でまとめた。
戦後の旧厚生省調査では日本人戦没者は妬く10万人とされ、空襲の内地の被害者らを除いた軍人・軍属が約230万人に上る。藤原さんは、ガダルカナル島、ニューギニア、メレヨン島(現ウォレアイ島)などの南洋諸島などをはじめフィリッピン、タイ、中国大陸など、ほぼ全域にわたって戦線や作戦ごとに現存する軍資料や幹部の証言録、戦後の戦没者調査などを基に死因別の死者数(一部推計を含む)を数えた。
その結果、少なくとも140万人以上が栄養失調による病死を含む広義の「戦死」と見られることが分かった。
藤原さんによれば、食糧について「現地自活(調達)主義」をとった日本軍では補給の途絶などで膨大な飢餓が発生。体力や抵抗力を失い、マラリアやアメーバー赤痢などの伝染病や下痢による死亡が相次いだ。
大量の戦死を生み出した背景について、藤原さんは
①過剰な精神主義
②敵の火砲の軽視
③補給部門の軽視
④参謀らの机上の空論的作戦主義
などを挙げる。兵士の人権を無視し、天皇や国を守る弾丸や盾のように扱ったことなども指摘し、欧米の近代軍隊との差が出たという。
藤原さん自身、陸軍士官学校で教育を受け、中国大陸縦断作戦の善戦に中隊長として参加。道路補修を命ぜられても工事器材がなく、食糧も弾丸も補給がない中で未明の急襲作戦を取り、右胸に被弾した。銃弾が今も右肺に残っている。
藤原さんは「『靖国の英霊』の過半数は飢餓地獄の中での野垂れ死にだった。首相による靖国神社公式参拝が取りざたされるが、国をあげてたたえようとしている戦死の実態をもっと知ってほしい」と話す。
研究結果は「戦死した英霊たち」(青木書店)として今月末、出版される。>