「硫黄島玉砕戦」から読み解く原爆投下

2007-08-12 11:10:43 | Weblog

 昨06年8月7日に放送したのだが、見逃したNHKスペシャル≪「硫黄島玉砕戦」・~生還者61年目の証言~≫が8月5日(07年)に再放送された。
    
 日本軍は昭和19年以降、硫黄島の戦闘に備えて全島を地下壕で以って要塞化。これは過去に例のない戦略だと言う。網の目のように張り巡らした地下壕は屈んで通れるのがやっとの広さで、長さ18キロにも達し、そこに司令部から戦車の堰堤壕、野戦病院まで設けた。最高指揮官栗林忠道陸軍中将は本土への最後の防波堤として島を死守せよと命じられていたという。

 最終的には飲料水の乏しい孤島に陸海軍合わせて2万人もの兵士が送り込まれた。兵士と言っても、その多くは急遽召集された3,40代の年配者や16、7歳の少年兵。中には銃の持ち方を知らない者もいたという。そのような雑多集団でしかない兵士たちに対して『硫黄島守備隊・戦闘心得』は一人残されても戦い続け、決して捕虜になるなとその心構えを説き、「苦戦に砕けて死を急ぐな」と勝手な自決や突撃まで禁じる徹底抗戦の過度な要求を課した。そして未熟集団の兵士たちはそのような過度な要求に忠実且つ従順に従った。

 いわば従うことによって、作戦は成立する。戦前の日本の戦争が軍部や国家指導者の戦争立案とそれに忠実且つ従順に従った国民の国家に対する一心同体を条件として成り立っていたようにである。

 そのような一心同体の行動によってこそ、アメリカ側が精鋭の海兵隊6万人も擁して5ヶ日間で占領できると踏んでいた計算に反して、物量の点でも劣る雑多集団の日本軍は激しく抵抗、戦いを1ケ月以上引き伸ばすことができたのだろう。

 昭和20年2月16日に始まって、3昼夜に亘る砲爆撃が日本軍を襲う。爆弾700トン、砲弾5000個。日本軍は地下で耐える。2月19日の朝、米軍が上陸。地下で猛爆撃を凌いだ日本軍は相手の隙を突く反撃に出て、米軍は大混乱に陥る。

 アメリカ兵「夜になれば必ずバンザイ突撃をしてくるはずだった。むしろ我々はそれを期待して待ち構えていた。そうすれば彼らは自滅だった。しかし残念ながら、そうならなかった。彼らは戦いを長引かせようとしていた。地下に篭る敵と戦うのは初めてだった」

 海兵隊の戦死者は戦闘の半ばで4千人(4189人)を超える。それまでの太平洋戦線に於ける戦死者の半数に相当する犠牲だという。

 衝撃を受けたアメリカは待機させた部隊のすべてを投入。硫黄島奪取に全力を注ぐ。そして米軍は続々と強力な兵器を注ぎ込んでいく。最も威力を発揮したのは地下壕の入口に直接火炎を噴き込む火炎放射器。対する日本側は補給も援軍もない持久という名の差引きマイナスのみに向かう袋小路の消耗戦。

 大城晴則(元硫黄島守備隊員)「サイパン・テニアン・グアムの場合は自分の陣地がやられたら、後方に戻って共同作戦取れってなってるけど、硫黄島の場合は自分の陣地を死守しろと言うんです。共同して後ろに下がったら、ご存知の通り硫黄島というのは小さいですから、海へおっこっちゃいますから。自分の陣地から絶対動いちゃいけないという命令は下がっていた。一人十殺、一人で10人殺せば必ず勝てるって言う」

 上陸から2週間後、米軍は日本の陣地を次々と壊滅させていく。大本営は危機的な状況をただ見守るだけ。実は米軍の上陸直前、硫黄島の支援方針を次のように決めていたとのこと。

 『陸海軍中央協定研究・案』(昭和20年2月6日)
 「硫黄島を敵手に委ねるの止むなき」――「補給もままならない実情では敵の手に委ねることも止むなしとする」と番組は解説。

 米軍海兵隊上陸は1945年2月19日、米軍の艦砲射撃開始はその3日前の2月16日、それに遡る10日前に既に大本営は硫黄島を見限っていた。これが徹底抗戦の実態であった。番組は硫黄島を捨石と見限り、沖縄と本土の防衛に集中しようという作戦だったと解説している。兵士の命を問題とせず、単に時間を長引かせるだけの道具とした。

 それでも硫黄島の戦闘で米軍に大打撃を与え、それが米軍全体の戦力低下を招いて、以後の戦闘に日本側に有利に働く計算があっての見限りなら許されもするが、いたずらに双方の戦死傷者を増やすだけで終わった何ら成算もない見限りだったのである。

 だからだろう、国民向けには事前に撮影した兵士が訓練している映像を使って、硫黄島の守備隊が健闘していると宣伝するゴマカシを働かざるを得なかった。大層な国家機密として当り前のことだが、既に捨石とされていたことは国民も兵士も知らされていなかった。

 新聞見出し。『既に敵二萬を殺傷、皇軍寡兵よく勇戦』――劣勢の中で戦う守備隊の姿が敢闘精神のカガミであるとして国民の意識高揚に利用されていったという。

 地下に立て篭もる日本兵士に対して米軍は大掛かりな掃討作戦を開始。最初は拡声器を使い、投降を呼びかけるが、日本兵は応じない。投降作戦に参加したジェラルド・クラッチ元海兵隊員、抵抗を諦めない日本兵が理解できなかった。

 「ある意味では彼らの勇敢さ、国への思いの強さに感心した。しかし、出てきて生き抜こうとしないのはバカげていると思った。我々はこれ以上傷つけるつもりも殺すつもりもない、君らは生きてこの島を出られる、日本に戻れるのだと約束した。それなのになぜなんだ。一体どんな思いが彼らの中をよぎっているのかと思った」

 日本の兵士たちは投降していけば、何日かしたら銃殺されると思い込んでいたという。その両者間の人間の生命の扱いに対する認識のズレは如何ともし難い。日本の権力者たちは兵士の命を問題とせず、戦闘が始まる前から硫黄島を見限ることができたことでも分かるように、自国兵士の命も、当然敵国兵士の命も生き延びさせる方向への想像性は持ち合わせていなかった。そのことだけでも人道に対する罪を問うことができる。

 ジェラルド・クラッチ「ボロボロの軍服を纏った憔悴しきった兵士が姿を現した。恐らく下級兵だったのでしょうか、洞窟の入口から5メートル程出てきた。そのとき髭も剃ったきちんとした身なりの将校が飛び出してきた。そしてその下級兵に向かって拳銃を抜くと迷わず兵士の肩を撃ち抜いた」

 大城晴則「捕虜になったら、国賊って言われ、戸籍謄本に赤いバッテンが書かれるらしいんです。そういう教育を受けとったんです」

 大城晴則「チョコレートとか携行食品を持ってきた兵隊が、向こうの待遇はいいから出ろよと来たとき、いや、出られない。それで結局その兵隊は国賊になるから可哀相だからと後ろから撃った。で、這い上がっていったらしいけど、死体はなかった」

 国家と国民が如何に一心同体であったかを物語って余りある。双方共に国賊にならないか監視し合っていた。こうも言える。この国家にしてこの国民あり。自らの頭で考えずに、上の言うことに下が言いなりになることが如何に恐ろしいことであるか、それが当時の日本人の姿であったことを元兵士は語っている。

 壕に退避した残兵は負傷兵が半数以上占める。大城晴則「3人1組の小部隊を作って竹槍と手榴弾を持たせてもらったと思うけど、出て行けと、帰ってくんなと。こうですね。いわゆる口減らしですね。食糧が限られているから」

 投降して生き延びるという生命に対する思いを持つことはなかった。「生きて俘虜の辱めを受くるなかれ」の国の教えにあくまでも自らを添わせて、疑うことを知らなかった。その一心同体性。

 ジェラルド・クラッチ「責任を問われるべきは日本の指導者たちです。彼らが長い時間をかけて、戦争の実戦や投降についての考え方を上から歪めてしまったのですから」

 だが、「日本の指導者たち」は「戦争の実戦や投降についての考え方を上から歪めてしまった」過ちを日本人自身の手で総括されることはなかった。如何に国民の生命を軽視したか、ムダに死なせたか、その罪を自ら問うことをしなかった。なぜ考えもなく国家の言いなりになり、国家の生命観に心中立てをして国民自らも自らの命を粗末に扱ったのか、その愚かさ・罪を国民自らも問うことをしなかった。

 元守備隊日本兵は「追い詰められて理性は働かなかった」と言っているが、最初から人間として極く当たり前に持ち合わせるべき正常な理性を持ち合わせていなかったに過ぎない。だからこそ、無謀な戦争をなぜ行うに至ったかの総括を自ら行う理性を働かず仕舞いで戦後60年余を過ごすことができた。総括のない場所にこそ、安倍晋三の「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」とする理性が理性として幅を効かすことができる。たいした美しい理性と言える。

 そして一つの終局を迎える。3月21日大本営発表「硫黄島のわが部隊は戦局ついに最後の関頭に直面し、17日(3月)夜半を期し、最高指揮官を陣頭に皇軍の必勝と安泰を記念しつつ全員、壮烈なる総攻撃を敢行す、との打電あり。爾後、通信絶ゆ」

 新聞「最高指揮官陣頭に壮烈全員総攻撃」
   「1億死に徹すれば、危局活路あり。銘肝せよ、大戦に楽勝なし」
   「硫黄島の玉砕を1億国民が模範とすべし」
   「硫黄島へ誓え、1億の特攻魂 我らの魂は沸く」

 言葉が踊る。いや、大本営も新聞も、言葉を踊らせた。戦前の大日本帝国軍隊は言葉を一番の武器としていた。言葉でアメリカに戦争を仕掛け、言葉で戦い、その愚かさと無力さゆえに惨めで愚かしいしっぺ返しを受けた。原爆投下もそのしっぺ返しの一つではなかったか。

 硫黄島の玉砕は国への究極の献身として国民の心を動かし、硫黄島は「玉砕の島」となったと解説。国民は硫黄島の敗北がサイパン・グアム等の敗北に継ぐ敗北であることから次の敗北へのステップであり、日本の戦争そのものの敗北に向けた本格的な助走を孕むものだと判断する合理性を発揮すべきを、勇壮果敢な献身だとのみ情緒的な感慨で受け止めたと言うわけである。ここにも国家と国民の一体感を見ることができる。「天皇陛下バンザイ・お国のために命を捧げる」の一体感であり、一心同体の誇示であろう。

 番組は.「一方のアメリカは硫黄島の戦いを通じて一つの確信に達した」と伝えている。
 
 『米統合参謀本部議事録』――降伏を拒否し、捨て身の地上戦を挑んでくる日本にどう対処するか。アメリカは味方の犠牲をできるだけ減らすため、空軍力の増強、空からの都市爆撃を強化することにした。日本軍から奪った硫黄島の飛行場(戦闘機・爆撃機が無数に整然と整列している映像)はB29の護衛戦闘機の基地となり、日本本土への空襲はより激しいものとなっていく。無謀な徹底抗戦に突き進む日本に都市への絨毯爆撃で応じたアメリカ。硫黄島玉砕戦を経て、戦争は最後の局面へと向かう、と解説している。

 いわばアメリカは硫黄島から多くのことを学習した。勿論硫黄島の戦闘のみからではなく、それ以前の戦闘からも多く学んだだろうが、硫黄島の戦闘では地下壕に立て篭って相手の隙を狙ってゲリラ行動に出る米軍が経験したことのない戦術で日本軍は守備兵力2万余のうち、その殆どが投降を選ばずにアメリカ軍に掃討の手を煩わす徹底抗戦、戦死(玉砕)への道を選択した。日本側の2万余の兵力に対してアメリカ側が6万、3倍に相当する兵力を抱え、物量の点でも優りながら、日本側は玉砕を戦術としたのだからその殆どが戦死したのは当然の結末だとしても、玉砕戦を戦術としたのではないアメリカ側の戦死7千近く、戦傷2万余という結末は爆弾700トン、砲弾5000個といった物量だけでは済まないことを教え、あまりに逆説に満ちた成果であることを教えた。『硫黄島の戦い―Wikipedia』は「太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦闘」と伝えている。

 アメリカは日本が本土決戦と称する最後の戦いで硫黄島以上に地の利を生かして日本の領土全体に地下壕を掘り巡らす類の要塞化を施し、硫黄島同様に投降という手段を取らず、最後の一兵まで徹底抗戦を試みるのではないかと予想しなければならない。それがアメリカ側が硫黄島の戦いを通じて否応もなしに学習させられた以降の戦闘に対する危機管理・戦術であろう。

 徹底抗戦への執念とその規模に比例して、米軍側の戦死傷者は大規模化することを硫黄島は教えた。日本全土を戦場とした場合、その広さと時間的展開に応じて、米軍の犠牲は増加していく。

 予想されるそういった犠牲を前以て予防するために、まずは空からの徹底的な爆弾の嵐で可能な限り地下壕諸共都市を破壊尽くし、戦意を喪失させる。それが番組が言っている硫黄島陥落前からの「無謀な徹底抗戦に突き進む日本に都市への絨毯爆撃で応じたアメリカ」ということだろう。<東京大空襲(1945年3月10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)を続けざまに実施した。東京空襲の後の横浜空襲からは硫黄島を基地とする長距離戦闘機P-51の護衛がついた>(≪硫黄島―Wikipedia≫)

 人間は相手の態度に応じて自らの態度を決定する部分を持つ。相手の態度が学習させた自らの態度という関係に往々にして縛られる。

 結果としてすべての兵士が息絶えるまでとした日本側の徹底抗戦の玉砕態度とそのことによって蒙った自軍兵士の無視できない数の死傷がアメリカ側をして、自軍兵士の生き死にに敏感に対応することを否応もなしに学習させたと言えないことはない。

 このことを裏返すと、日本側は硫黄島戦を戦う前から「敵手に委ねるをやむなき」と、それが最終的に何らかの勝算あっての持久戦なら理解できもするが、結果として敗戦に向けて一つ一つを消化していっただけのことだから、単にその場を取り繕うための徹底抗戦・玉砕に過ぎず、そのように自国民兵士の生き死にを鈍感・無頓着に扱ったのに対して、アメリカ側は自国軍兵士の命を守ることを優先させた。そう学習させたのは日本の軍部及び政治指導者であり、言いなりに従って徹底抗戦を演じた兵士――いわば日本国民であろう。

 そして1945年4月5月6月の沖縄戦も本土防衛の捨石とされ、<日本軍が民間人を守らないこともあり、約50万人の島民のうち10万~15万人が犠牲となった。日本軍の死者は約6万5000人>(『日本史広辞典』山川出版社)という生命の軽視が国家・国民の一心同体のもと演じられた。国家によく従うことによって、集団自決も可能となる。

 そこへ持ってきて、45年7月16、原爆の実験が成功した。その10日後の1945年7月26日に日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が出される。対して日本は7月28日に「ただ、黙殺するのみである」と鈴木貫太郎首相が談話を発表。

 45年8月6日――広島原爆投下
 45年8月8日――ソ連、対日宣戦布告
 45年8月9日――長崎原爆投下。
 45年8月9日未明――ソ連、対日開戦・・・・と続く。

 「朝日」の07.8.6の朝刊記事≪原爆 こう投下された≫は、<トルーマン大統領は後に、ポツダム宣言に対する日本の態度が原爆投下を招いたと言った。「ただ、黙殺するのみである」という鈴木貫太郎首相の7月28日の談話を指している。しかし、原爆投下命令はその3日前だった。>と、ポツダム宣言に対する日本の態度如何に関係なしに原爆は投下されたように書いているが、最初のポツダム宣言を受諾した場合でもアメリカは原爆を投下したことになる。原爆が日本に大きな打撃を与えたとしても、投下自体がたちまち世界に対してアメリカが自らを極悪人だとする宣言に姿を変えることとなり、日本に与えた以上の打撃を自らに与える矛盾を犯すことになる。
 
 ≪原爆 こう投下された≫は<9日、政府内は、ポツダム宣言の受諾の条件をめぐって紛糾する。そこに2発目の原爆が長崎に投下されたことが伝わる。政府は10日、国体護持(天皇制の維持)だけを条件とした宣言受諾を、連合国側に通告した。米国は国体護持の確約を拒んだ。本土への空襲も緩めなかった。>としているが、日本に無条件降伏を求めたことは本土決戦を避け、それなしに戦争を終結させる意図からの要求であり、それが意図通りに進まないことに対して意図通りに進ませようとする圧力が原爆投下でもあったろう。

 米軍側の本土決戦の回避は、最大限の物量で本土決戦に応じたとしても、硫黄島の戦闘で否応もなしに学習させられたようにそれだけでは済まない予想もつかない米軍兵士の死傷者数に見舞われる可能性を前以て阻止することを計算に入れた措置であろう。

 もし日本がアメリカの原爆投下の非人間性・非人道性を批判するなら、軍部や国家指導者の戦争意志に対して自らも担った一心同体性を総括してからにすべきではないだろうか。自身が無関係な位置に立っていて、通り魔に襲われて被害を蒙ったという形の原爆投下ではない。一億総動員を受けて、兵士はその一員として戦争の場に立ち、一般国民は同じく一員として心理的に戦争遂行に加担していたのである。いわば日本の戦争に関して自らを正義の立場に置くことのできる日本人はそうはいないはずである。例え戦後生まれの日本人であっても、戦争総括の洗礼を受けていない以上、是非を言う資格はないのではないか。正義の立場に置くことのできる日本人だけがアメリカの原爆投下を非難する資格を持てる。

 国家と国民が全体として描いていた姿が「1億死に徹すれば、危局活路あり。銘肝せよ、大戦に楽勝なし」であり、「硫黄島の玉砕を1億国民が模範とすべし」であり、「硫黄島へ誓え、1億の特攻魂 我らの魂は沸く」といった一心同体性への上からの同調要求と要求に対する下の無条件的な従属であり、同罪の姿であろう。

 何がどう間違っていたか、どうあるべきだったか、まずは国家及び国民を自ら総括することから始めるべきではないか。総括が合理的な客観性を持って正しく行われたなら、安倍晋三みたいな国家主義者が戦後の時代に存在する余地は最初からなかったに違いない。当然A級戦犯の靖国合祀も起こり得なかった。

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