「親水」を目的とした河川施設であるなら、「水」はサービス対象であり、管理対象となる
兵庫県神戸市灘区の都賀川に設けた親水公園で水遊びしていた小学生男女児2人と保育園児1人、それに保育園児に付き添っていた20代後半のまだ若いおばの計4人が局地的集中豪雨による10分間で1メートル30センチ強も水位が上がるという急激な増水を受けて流され、亡くなった。
六甲山系の南側には都賀川を含め25の川があり、いずれも傾斜が急で川幅が狭く、他の川や水路が合流するため短時間で水嵩が増し、流れが速くて(asahi.com)、近隣住民は雨がちょっと強く降っただけで簡単に増水することを知っていたと言う。
また神戸新聞インターネット記事によると、都賀川では1998年に行楽客8人が大雨による増水で橋脚の土台などに取り残されたが救助される事故があり、2002年には、西宮市の夙川下流で釣りをしていた男性が急な増水で流され水死する事故が起きていると伝えている。
例え行政区域は異なっていても増水による救助騒動と死亡事故が発生しているという事実、あるいは似たような河川状況に対して河川管理者が行うべきことは危機管理上の情報として急激な増水の存在とその増水が死亡事故を引き起こす危険性の存在を常に記憶しておき、それを防ぐ対策を似たような条件下にあるすべての河川を対象に常に講じていかなければならないということであろう。
またそうすることが河川管理者に課せられた義務であり、責任であるはずである。
どのような対策を講じていたのだろうか。考え得るすべての対策を講じていて、尚且つ事故が起きてしまったと言うなら、初めて不可抗力と言える。
神戸市は06年度から市内の2級河川30カ所に監視カメラを設置し、川を常時録画して、その様子を2分ごとに市のホームページ上に映像として公開しているということだが、「それでも、今回のような急激な増水には役に立たない」と今回の事故が不可抗力だったことを指摘している。
あるいは兵庫県の担当者は「警報システムがあっても、今回のように短時間で一気に増水するケースでは役に立たない」(MSN産経)と言っているとのことだが、同じ県内にある河川で6年前に急激な増水による死亡事故が発生しているという事実を受けて河川管理者の県が行うべきことは急激な増水と増水による死亡事故の危険性に対する備えを目的とした監視カメラの設置、あるいは警報システムの構築でなければならないはずである。各河川に監視カメラを設置してその映像を2分ごとに市のホームページ上に公開することが本来の目的に添った備えだと言えるのだろうか。
そして神戸市のそういった備えのみで県はよしとしていた。
過去に生じた増水による死亡事故の今後の対策として設置した監視カメラであるなら、増水の発生が予想される現場にいる者を直接的な対象とし、直接的にその者の役に立つ対策でなければならなかったのではないか。
川に遊びに行きたいが、今朝方まで強い雨が降った、川は増水しているだろうかと携帯もしくはパソコンから市のHPにアクセスして監視カメラが映した映像を眺める。
そういった現在は川から離れている人間には役には立つこともあろうが、あくまでも川という現場にいる者を対象とした情報提供とはならない。
それを2分ごとに市のホームページ上に映像として公開するといった暢気なことができたのは水の危険性に対する想像力(=警戒心)の欠如がなさしめた緊張感のなさ――無責任による対策不備以外の何ものでもないだろう。
尤もムダ遣いを特技としている役人にしたら、ムダ遣いに添う立派な役目だとは言える。
兵庫県河川整備課はこうも言っている。
「これほど水位が急上昇したのは近年ない。想定外の増水だった」(asahi.com)
大きな事故・危険はその殆どが想定外の出来事として発生する。想定外の事件・事故に対処することが、あるいは「想定外」のことを「想定内」に近づける努力をすることが危機管理ではないのか。それ以外に危機管理は存在するのだろうか。「想定外」のことをすべて想定内として把え切れないがケースの方が多いだろうが、しかし大枠に関して想定内と把えてから、各細部を可能な限り想定内へ近づけていくのが危機管理対策であろう。東海地震対策、首都圏直下型地震対策がその好例である。新型インフルエンザ対策も同じであろう。すべてを想定内にはできないが、すべてを想定外としているわけではない。
いわばすべてを想定内とすることは不可能ではあっても、「同様の事故」を想定内としておくことが河川管理者の想像力であり、それが欠如していたと言うことであろう。
また「親水」を目的とした河川施設であるなら、「水」はサービス対象であり、サービス対象である以上、「水」も管理対象とすることが河川管理者の義務であり、責任のはずである。その「水」たるや、都賀川に於いては1998年に行楽客8人を救助されたものの橋脚の土台に追い詰め、都賀川と似たような条件下にある西宮市の同じ六甲山系の夙川下流で釣りをしていた男性を押し流して水死させる事故を引き起こしている。
当然のこと、川に親しんでいる者を守るために「想定外」の増水の発生を「想定内」のこととしてどのような監視方法、どのような警報システムによって知らしめるかも管理対象とし、種々の対策を講じておかなければならなかったはずだった。
だが、監視カメラは「今回のような急激な増水には役に立たない」と言い、「警報システムがあっても、今回のように短時間で一気に増水するケースでは役に立たない」と言っている。
さらに同河川を管理する兵庫県、神戸市とも事前に危険を知らせることは難しかったと言い、「自ら危険を察知して逃げてもらうしかなかった」(asahi.com)と言っている。
これを被害者の自己責任に責任転嫁する責任逃れと言わずに何と言ったらいいのだろうか。自らの対策不備を棚に上げて、その責任には目を向けず、被害者に責任を負わせている。
昨30日のasahi.com記事によると、28日の局地的な豪雨で、都賀川は10分間で134センチ水位が上昇し、垂水区の山田川で10分間で103センチ、同県西宮市の津門川でも134センチ水位が上昇したが、これらの河川は水防法に基づく「水位情報周知河川」であるものの、避難指示・避難勧告の目安として設定されている避難判断水位(特別警戒水位)を下回っていて、避難指示・避難勧告は出されなかったと言っているが、このことも水の危険に対する想像力(=警戒心)の欠如がなさしめていた基準設定であり、責任逃れに幸いした未達水位と言える。
海の水位の上昇、川の水位の上昇は流れを伴う。また水位の上昇速度に応じて、流れの圧力は増す。タンクに1メートル水位で水を張った中に身体を入れるのとは訳が違う。水の危険性を流れを計算に入れずに「水位」のみで判断する想像力(=警戒心)の愚かな欠如を証明して余りある。2002年の西宮市の夙川下流での水死事故の直接原因である急激な増水はタンクに水を入れるように上から下の方向のみに水面が持ち上がった増水だったと言うのだろうか。人間の身体を回転させて激しく下流に押し流す下方向により強い圧力がかかった水面上昇だったはずである。
例え50センチの水位であっても、流れの速さによって足をすくわれる場合がある。流れのない場所なら、首から上が水面から出ていれば、水が身体を凍えさせる程に冷たくさえなければ溺れることはない。川は常に流れを伴っていることを危険性の条件に入れなけれならないはずである。泳げる人間でも海が怖いのは波の流れによって知らず知らずのうちに沖へ持っていかれて、岸に戻ろうとしても流れに遮られ戻りきらないうちに体力が消耗してしまうからだろう。
ところが兵庫県は「想定外の増水だった」とか「自ら危険を察知して逃げてもらうしかなかった」と言っていたが、あるいは「警報システムがあっても、今回のように短時間で一気に増水するケースでは役に立たない」と言っていながら、その舌の根も乾かない30日になって警報システムを設置することを決めたと言う。
兵庫県の河野信夫土木局長「事故を教訓に、河川の利用者が避難の判断をしやすい情報を出すことに力点をおいて整備を進めたい」(NHK/08年7月30日夜7時のニュース)
なぜ1998年に都賀川で行楽客8人が大雨による増水で橋脚の土台などに取り残され事故後に、一歩譲って2002年の凪川水死事故後に早急に対策を講じなかったのだろうか。何もしなかったのは行政の怠慢・不作為以外の何ものでもないだろう。
上記警報システム設置は重大な事故が発生して初めてまともに腰を上げる典型的な役所仕事の例であろう。しかも最初にさも不可抗力だと言っておきながらである。連中にとっての「不可抗力」は責任逃れの言葉でしかないことを暴露する警報システム設置への態度豹変と言える。
とは言っても、危険を前以て読み取る想像力(=警戒心)の欠如――危機管理意識の欠如そのものを証明した事が起きてからの対策であることに変わりはない。
過去に急激な増水による水死事故を抱えていながら、あるいは救助者を出していながら、同じことの繰返しを予想して(「想定内」として)何らかの手を打つこともできなかった。決して命が戻ることはない4人もの死者(そのうちのさ3人は幼い子供たちである)を出してから対策にかかる水の危険性に対する想像力(=警戒心)の欠如、後手後手の危機管理対策。死亡被害者の関係者は県と市に賠償請求を行うべきである。