麻生首相の蚊に刺された程も感じていない「中山任命責任」

2008-09-29 10:43:57 | Weblog

 麻生太郎が自民党総裁に当選、国会で首相に任命されて麻生内閣が発足、そして閣僚任命、任命された一人国土交通大臣中山成彬が在職わずか5日で自らの発言が批判され、昨9月28日に辞任することになった。

 「日本は随分内向きな、単一民族」発言、成田空港整備「ごね得」発言、「日教組の強いところは学力が低い」発言、「日教組はガン」発言等々、就任早々に大臣にあるまじき不穏当発言のオンパレードを演じ切ったのである。

 当然閣僚任命権者たる麻生首相の任命責任が問われることとなる。昨9月28日日曜日夕方の日テレ「バンキシャ」が伝えていたぶら下がり記者会見での麻生首相の「任命責任」に関する見解とその有無について。

 麻生太郎「この方を指名した段階に於いては、私は適任だったと思います。少なくともこの種の発言は、普通、官僚の経験のある人はされないはずです

 ――総理はご自身の任命責任は?

 麻生首相「その点に関しては、任命責任はあったと――」

 前後の発言に明らかに矛盾がある。「指名した段階に於いては適任だった」は任命判断に間違いはなかった。間違いは中山大臣自身にあった。「この種の発言は、普通、官僚の経験のある人はされないはず」だが、その通例を破って発言した中山自身の資質に問題があった。

 いわば、「その点に関しては、任命責任はあったと――」と言いつつ、麻生太郎に任命責任はないとしている。

 だから、「この方を指名した段階に於いては、私は適任だったと思います」という自己正当化の言葉が口を突いて出たのだろう。

 この矛盾はなぜ生じたかというと、表向きは任命責任はなかったとすると批判が集中してできないが、内心は任命責任はなかった、中山自身に責任があるとしたかったから、その表裏の気持の違いが言葉の矛盾となって現れたのだろう。

 野球である投手を先発にしてオーダーを組んだ。ところが1回から散々に打ち込まれてノックアウト、チームは大敗した。監督は「ブルペンで投げているときは最高の調子を見せていた。先発を命じた段階では私の判断は間違っていなかった」と暗に打たれた投手自身に敗戦の責任があるとすることができるだろうか。

 敗戦の責任は投手にもあるが、先発の判断を下した監督自身がチーム統括者としての責任をより重く負うはずだ。トップは初期の判断は元より、結果に対しても責任を担う。結果責任が昨今喧しく言われるのは安倍首相や福田首相は元より、結果責任を負わない事例があまりにも蔓延していて、結果責任を負うことの必要性が緊急課題として持ち上がっているからだろう。

 当然、初期の判断は正しかった、結果に対する責任はないでは済まない。麻生太郎は本心は総理大臣にもあるまじく無責任にも結果に対する責任はなしとしたかったから、「この方を指名した段階に於いては、私は適任だったと思います」という言葉を弄んだのである。

 麻生太郎は「少なくともこの種の発言は、普通、官僚の経験のある人はされないはずです」と言った。確かに中山成彬センセイは東京大学法学部卒業後大蔵省に入省、「官僚の経験」を立派にかどうか知らないが、こなしている。

 もし麻生太郎の「この種の発言は、普通、官僚の経験のある人はされないはずです」が真正な常識だとすると、「女性は子供を産む機械」発言をした柳沢伯夫厚生労働大臣にしても中山成彬センセイと同様、東京大学法学部を卒業して現在の財務省である大蔵省に入省、やはり麻生首相が「この種の発言」はしないとしている「官僚の経験のある人」に当てはまるが、そのことに反した発言の矛盾はどう説明するのだろうか。

 「原爆投下しょうがない」発言で辞任することとなった久間章生防衛大臣にしてもも東京大学法学部をご卒業後、農林省に入省して「官僚経験者」とおなり遊ばせている。

 麻生太郎の「この種の発言は、普通、官僚の経験のある人はされないはずです」は発言と職務経験との間の法則足りえず、ただ単に中山センセに責任転嫁するための思いつきで言ったに過ぎないということなのだろうか。

 それとも中山成彬センセイにしても、柳沢センセイにしても、久間センセイにしても、例外中の例外だということなのだろうか。他にも官僚経験者で失言している政治家がいくらでもいるに違いない。

 奇妙なことにNHKの昨28日日曜日7時からのニュースでは麻生首相の「官僚の経験のある人」のところが、「閣僚になられたなら」に変化している。

 周囲の者から「中山センセイ以外にも『官僚の経験のある人』『この種の発言』をしておられるセンセイ方がたくさんおられます」とでも注意を受けたから、急遽お言葉をお変えられなさられたということなのだろうか。

 麻生首相「発言として甚だ不適切。大変残念ですけれども、関係しておられた国民各位、また、それに、関係しておられた方々に対して、心からお詫び申し上げる次第です。必然的に辞めていただきます」

 これは中山本人の責任を厳しく糾弾する言葉であろう。悪く取るなら、自分には責任はない、責任は中山にあるとするために敢えて厳しい言葉としたと受け取れないこともない。

 麻生首相「この方を指名した段階に於いては、私は適任だったと思います。この種の発言は普通、閣僚になられたら、されない種類の発言だったと思う。任命責任はあったと、いうことだと思います

 「いうことだと思います」とは、あまりにも距離を置いた第三者的な物言いではないか。

 ――「任命責任を、もう認められますか?」
 麻生「はい」(と言ってから、二度無言で頷く。だが、どのような責任を取るか、言ってはいない。)

 「官僚経験者」が「閣僚」に変化しているが、「女性は子供を産む機械」は柳沢伯夫センセイが厚生労働大臣という「閣僚になられ」てからの不適当発言であるし、「原爆投下しょうがない」にしても、久間章生なる政治家が防衛大臣という「閣僚になられ」てからの発言で、と同時に「官僚経験者」でもあって、麻生の言っていることは二重の矛盾を犯している。

 そして何よりも麻生首相自身の「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」発言は総務大臣という「閣僚在任中」の事実・実態に反する発言であって、自らが言う「この種の発言は普通、閣僚になられたら、されない種類の発言」から外れる事例ということになる。

 さらに言うなら、古くは 1986年に飛び出した「アメリカは多民族国家だから教育が容易でなく、黒人、プエルトリコ、メキシカンなどの知的水準がまだ高くない、日本は単一民族国家だから教育が行き届いている」なる中曽根康弘大センセイの客観的認識能力に則った鋭い指摘は閣僚中の閣僚、総理大臣時代の発言であって、麻生の言っていることがまるきり的外れとなる。

 中山成彬センセイは文科相時代にも「従軍慰安婦の言葉が教科書から減ってよかった」と放言して物議を醸している。何も新たに国土交通相という「閣僚になられた」から始まった失言ではない。麻生首相センセイは中山成彬センセイと歴史認識や復古的な道徳観等でお仲間だから、前科を咎め立てもできず、麻生内閣となって閣僚に任命したのだろう。

 だが、いくらお仲間でも、麻生内閣の足を引っ張られては敵わない。このことを目下の基本姿勢としているから、「この種の発言は、普通、官僚の経験のある人はされないはず」だとか、「この種の発言は普通、閣僚になられたら、されない種類の発言」だと言って、中山成彬センセイ自身の資質に責任をかぶせ、自分は責任問題から距離を置こうとしたのだろう。

 この姿勢が「その点に関しては、任命責任はあった」、あるいは「任命責任はあったと、いうことだと思います」と矛盾するのは、どういう形で責任を取るかは狡猾にも示さないまま、口で言うだけで終わらせようとしているからだろう。

 実際には蚊に刺された程も「任命責任」を感じていないということである。

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