政治に於けるカネの力を無力とするには?

2009-03-23 11:37:01 | Weblog

 各政党及び各議員が国民1人あたり年間250円の政党助成金を受取るることで政治活動に於ける“カネの問題”の解決方法としながら、パーティを開いたり、政党支部を迂回させたりする方式で従来どおりに企業献金に大きく依存し、その集金力・カネの力を今なお政治力としている。
 
 裏返すと、政治力が集金力・カネの力によって育まれ、左右されている。そしてカネの力によって育まれた政治力の差が親分・子分の力関係の違いをつくる。親分・子分とまで行かなくても、上下関係という格差をつくる。各地元に於いては後援会及び後援会員を維持し、県市町村議員にいい顔をするには活動費を援助する必要があり、カネの力がモノを言う。

 後援会及び後援会員維持は票集めばかりではなく、国会報告会や立会演説会に動員して支持者の頭数とする重要な装置である。貸切バスを仕立て、バスの中で弁当を食わせ、会場まで送り迎えまでして、頭数を準備する。聴衆が閑散とした会場内の写真を撮られてテレビや新聞で報道されたのでは支持度・人気度に換算されて、選挙のときの投票に影響する。例えそれがサクラ紛いの聴衆であろうと、自分が演壇上にいる間は空席をつくるわけにはいかない。マクドナルドだって新商品の発売を盛り上げるためにアルバイトを雇ってその商品の発売を待ちかねる行列に並ばせ、人気の程を知らしめるサクラに仕立てている。

 派閥の親分たちがたいした話をするのでもないのに高級料亭を使うのはカネの力でモノにした政治力が可能とした議員年数や閣僚経験が箔づけの元となった “格”が、それがハッタリめいたものであっても、カネ換算されて等価とされる場所だからだろう。

 総理大臣や閣僚経験のある派閥の親分が東京ばかりか地元でも公民館といった公共の場所を借りてペットボトル一本のお茶で会合を主催するとなったら、俺がそんなケチな真似ができるかと言うだろうし、招待される側も、ケチな真似をしやがってと貶すだろう。会合場所にしても“格”がカネ換算を受けて場所選択の決定権を握る。地位・格に応じてカネをかけてこそ、さすがだという再認識を持続させることができる。

 いわば日本では“格”がカネの高によって価値計算される。実力者とはカネの実力を有している者と言い換えることができる。カネを力とし、人を周囲に集めるにカネを如何にうまく使いこなすかに実力者への登竜門がかかっている。

 企業献金という名の企業からのカネを如何に政治の力に替えるか、その錬金術とカネを有効活用して仲間を周囲に集める人心掌握術が大きくモノを言う日本の政治と言える。

 なぜ日本の政治がこういったカネを力とする構造を構成するようになったかと言うと、政策は官僚任せで、政治家自らは他人の政策をオウムや九官鳥のように喋るだけの能しかなく、それが内発的な創造物でないために政治の話で刺激を与えることができないから、その代償物として刺激を与えるのは大勢の人間が集まったかどうか、あるいはたいした顔ぶれであるかどうか、カネをかけた料理であるかどうか、カネをかけた酒であるかどうか、侍らせた女がいい女かどうかということになり、カネにモノを言わせた場所や料理や女、そして集まった人間の顔ぶれ・人数が実力の見せ場ということになってしまっているからだろう。

 会合主催者である実力者はどこそこでどんな顔ぶれで何人集めて会合を開いたかが自らの経歴の輝かしい追加となり、集められた方も、何々先生の会合に出席し、どんな顔ぶれで何人集まったと地元報告の勲章とし、それらを以ってそれぞれの素晴らしい政治行動とする。

 結果、アメリカ追随で、自律(自立)していない日本の政治と言われることになる。

 こういった不名誉な日本の政治体質(と言うよりも、政治的病質と言った方が正確かもしれない)を根底から変えるには当然の結論として「政治に於けるカネの力を無力とする」以外に方法はない。カネの力が無力となれば、政策で勝負するしかない。政策は政治の力をカネの力としてきたことによって日本の政治家に欠けることとなった政治的創造性に負う。

 カネの力を無力とする方法は先日のブログで「国会議員への登竜門である選挙にカネがなくても立候補でき、不足なく選挙活動できる体制を整えることが、政治家をしてカネの力に依存させない第一歩ではないだろうか」と書いた。

 これも同じブログ記事で取り上げたことだが、NHKテレビ「総理に聞く」(3月15日放送)で麻生太郎は政治活動には政党助成金だけでは不足で、企業献金は悪ではなく、必要だとする考えに立って、「小選挙区約40万人。有権者40万人。そのうち10万人にテリー伊藤のパンフレット。郵便代切手80円。印刷代、封書して印刷しますから、それで約10万人かけますと、印刷代、封筒代何とかで最低200円。それでかける80円、足す80円。280円かける10万円、それで2800万円ですよ。あれだけ1枚で。これだけお金がかかるということはテリーさん、それだけかかると思っておられました?」と、政治や選挙にカネがかかるから、カネが必要だと今ある選挙の姿を表面的になぞるのみで、カネのかからない政治にするにはどうしたらいいのか、カネのかからない選挙にするにはどうすべきかといった発想は一切なく、そういったことに向けた創造性は抜きに「国民にとって民主主義というルールを維持する」コストだとし、「企業は企業、個人は個人、団体は団体、それぞれに民主主義というものをきちんと運営するコストを払ってもらわなにゃいかんわけ」と、国民が1人あたり年間250円支払う政党助成金のみならず、企業や団体からの政治献金も必要だと短絡的に理由づけている。変革意識も発展意識もない。

 麻生らしいといえば麻生らしい短絡性とは言える。日本の偉大な総理大臣麻生太郎がカネがかかるからカネがかかるんだ、民主主義を維持するコストだと、今ある現実の姿に短絡的に即するのみの変革意識も発展意識もない政治的創造性を振りまわすだけでは日本の政治は何も変わらない。

 脳ミソが短絡的に出来上がっているからこそ、3月21日土曜日の首相官邸で開催した「経済危機克服のための『有識者会合』」で、株価対策に関連して「株屋ってのは信用されてない」発言を口から飛び出させることになったのだろう。発言要旨を3月21日の「中国新聞」インターネット記事が伝えている。
 


 有識者会合の首相発言要旨 

 麻生太郎首相が21日の有識者会合で証券市場に関連して発言した部分の要旨は次の通り。

 首相 東京証券取引所の株式市場の閉鎖性は、参加している人はどうして言わないんですかね。

 松井道夫松井証券社長 (逆に)日本だけが先進国の中で外国人がメーンプレーヤーになっている。株式が悪だという雰囲気を払拭する対応を具体的に出さないと直っていかない。

 首相 まったく賛成よ、まったく賛成だけど、やっぱり株式会社、株屋ってのは信用されてないんですよ。ぼくはそうだと思うなあ。やっぱり株をやってるっていったら、田舎じゃ何となく怪しいよ。「あの人は貯金してる、でもあの人株やってんだってさ」っていったら、何となく今でも、まゆにつば付けて見られるところがあるでしょうが。おれたちの田舎では間違いなくそうよ。経企庁長官のときから「貯蓄から投資へ」って話は、もう10年以上前から言ってんだけど、「株ですか…」って、みんな声がね。今は株屋さんを通さなくて直接やるようにし始めてるでしょ。
 

 「株式会社、株屋ってのは信用されてない」と「株屋」という商売形態そのものが信用されていないと言っている。そして「やっぱり株をやってるっていったら、田舎じゃ何となく怪しいよ」と株売買行為自体も信用されていないと言っている。だが、最後に「今は株屋さんを通さなくて直接やるようにし始めてるでしょ」と「株屋」を通さない株売買行為は “悪”とは把えていない。「株屋」という存在だけが悪なのか、株売買行為も悪なのか、はっきりさせるべきだが、発言進行過程で自分がどういう発言をしているのか振返って頭の中で咀嚼し直すこともできない単細胞だから、政府自体が「個人金融資産を株式市場に呼び込むために『貯蓄から投資へ』のスローガンを掲げている」(「msn産経」)こととの整合性も考えることができず、2008年の自民党総裁選で「民間には個人資産だけで1545兆円あり、これが貯蓄から投資に回ることを考えている」(「毎日jp」)と自らの経済対策として主張していながら、そのこととの矛盾を考えることもできない。

 麻生太郎と「株屋」とどちらが信用されていないかで軍配を上げなければならないとしたら、確実に麻生太郎の方に軍配が上がるはずだが、自分ではそうだとは思っていないからこそ言える〝株屋〟性悪論なのだろう。

 麻生が退場したって日本は困らないが、「株式会社、株屋」が退場したら、証券市場は成り立たなくなって日本の経済ばかりか、日本そのものが壊滅してしまうだろう。

 大体が「経済危機克服のための『有識者会合』」の席で得々と「おれたちの」と自分の「田舎」まで持ち出して喋ることなのだろうか。何とも立派な日本国総理大臣であることか。

 こういった日本国総理大臣を日本の政治の土俵から駆除するためにも、国会議員へのそもそもの登竜門である従来のカネが力となる選挙制度を根本から劇的に変えるべきで、政治家をしてカネの力に依存させない第一歩であろう。

 政治家からカネの力を奪うには何よりも最初に企業献金を禁止しなければならない。集金能力が政治能力となる日本の政治風土を過去の風習とする手始めとするためにも。

 次に国民1人あたり年間250円で決められる政党助成金の2分の1は直近の国政選挙の得票率(衆議院総選挙と過去2回の参議院通常選挙)に応じて各政党に、残りの2分の1は政党の所属議員数の割合に応じて配分されるということだが、得票率に応じた政党への配分はやめて、衆議院議員定数の480人、参議院定数の選挙区146人、全国区比例代表96人併せて242人、衆参併せて722人で均等割りにした金額を勤続年数、役職経験度、派閥の親分子分の上下関係等一切なしに全議員に平等に配分すべきではないだろうか。

 配分の平等はカネの力が人間を縛る権威主義的上下関係から各議員をフリーにして、派閥の親分も三下もない、勤続年数にも関係ない、閣僚経験も関係なしに同じ土俵の上に立たせる個人性の平等につながる最初の象徴行為となるだろう。

 政治献金を廃止し、政党助成金を議員頭で平等に配分することで、カネを力とする派閥政治、料亭政治は力を失っていく。

 次に02年3月27日に自作HP「市民ひとりひとり」に第52弾として発表した記事だが、≪雑感AREKORE part11 政治におけるカネの力を無力とする≫にこう書いた。(一部抜粋)
 
 
 社会的に上位を基礎づける支配的条件となっている〝カネの力〟が政治の社会でも威力を発揮する対応関係をつくり出している。だからこそ、当然なこととして、そのような政治を体現する政治家こそが有力者として君臨可能となるのであって、さらにカネが有力な力となる金権力学を必然化せしめているのである。集金能力が政治能力となる現象は、以上の結果としてある政治の姿に過ぎない。

 カネ集めにエネルギーを費やし、その能力を十全に発揮した政治家が実力者にのし上がる。あるいは、金庫番と称する秘書・事務所関係者にカネ集めを全面的に任せ、集めたカネを〝力〟に変え、取巻きや腰巾着・手先・子分を誘い寄せて、発言力を高める。そのような構造の政治活動がイコール政治能力となっている。日本の政治世界が本質のところで政治屋集団で占められ、支配されているからこその、政官癒着であり、族議員の跋扈・躍動なのである。

〝カネが力〟となっているということは、一方にカネで自己の節度を曲げる人間をつくり出していることを意味する。カネをバラまく有力議員に若手議員・その他が面倒見がいいとすり寄り、有力議員に自己を売り渡し、忠実な言いなり人間と化す。派閥の形成である。 

   ――(中略)――
 日本の政治世界が政治能力・カネが力を優越的な生存条件としている以上、それを否定的条件とし、その延長上に日本の政治世界から政治屋を排除して、政官癒着・族活動の終焉をもたらすには、政治におけるカネの力を無力化することが、唯一の原因療法となるのは言を俟たない。

 どちらがニワトリか卵か分からないが、日本の政治の後進性を形作っている日本人における政治哲学・政治思想の欠如・貧困がカネの力を必要としている側面もあるのだが、現実問題として政治、特に議員としての資格を得る選挙にカネはかかる。となれば、議員となる出発点である選挙をカネがかからないものとする以外に方法はないだろう。カネが力とはならず、政治思想・政治哲学、あるいは人格・品性が有力な武器(力)となる選挙であったなら、議員となった以降も、次の選挙でのカネの心配は一切持つ必要もなく、同じ武器を力とすることが維持可能となる。 
 そうするためには、現在の公職選挙法で許されている選挙方法のすべて――選挙ポスターの貼付・選挙カーでの運動・電話での投票依頼、さらに公示前の後援会活動等々――を一切禁止して、現在テレビで盛んに行なわれている政治家と評論家を交えた討論番組を参考に、選挙があるなしに関係なく、定期的に選挙区の議員が有権者から選ばれた質問者(選挙期間中の場合は立候補者と質問者)を交えて、政策議論を闘わす公開討論会を公費負担による各選挙管理委員会主催で開催し、それを唯一公職選挙法で許される選挙活動とすればいい。

 例え公開討論会を直接傍聴しない有権者であっても、その模様を伝える新聞・テレビのマスコミの報道、あるいはインターネットの報道を各議員・各立候補者の政策・政治姿勢を知るよすがとし、それを投票判断の材料とする。また、落選中の元議員、新たに立候補を決意している立候補予定者は後援会活動を禁止されると、政策と人となりを有権者に知らせる方法を失うために、質問者に加える方法を取ることで、その問題は解決するだろう。

 定期的な各選挙管理委員会主催の公開討論会を選挙区での唯一の政治活動・唯一の選挙活動とすると(有力政治家の各地で行なう演説会も、貸し切りバスを仕立てて支持者を動員し、食事を無料で提供するといったカネを食うものとなっているから、禁止し、テレビ・新聞での与野党議員と評論家を交えた討論会を演説会に替わるものとする)、当然、これまで力としていた〝カネ〟は無力化の方向に進む。カネが無力となれば、企業献金は不必要となり、廃止は容易となる。回りまわって、政治家は様々な癒着から独立性を高めることが可能となる。

 質問内容は緊急な解決が求められる内政・外交に関してだけではなく、国際的な諸問題・世界の文化の問題・家庭内暴力といった女性の地位に関わる問題・人権問題等々、広範囲にわたらなければ、各議員・各立候補者の政策、さらに政治思想・政治哲学を全般的に問うことはできないだろう。勿論、単に問うだけではなく、各議員・各立候補者の独自性を問題とすることを基本的なコンセプトとすることを義務としなければならない。独自性を求めることによって、各議員・各立候補者は否応もなしに自らの政治思想・政治哲学を高める必要に迫られることとなり、そのことが日本の政治家からカネを力としていた政治屋体質を排除する契機となるからである。

 独自性を求める質問に対して、所属政党の政策の単なる反映・単なる説明で終わるなら、そのことを厳しく咎める感性を質問者のみならず、有権者は持たなければならない。

 日本の政治家の大多数がそれぞれに独自の政策・独自の政治思想・独自の政治哲学を身につけたとき、〝カネが力〟の反映としてある、対米追随外交・カネをバラまくだけの援助外交に代表される政治の後進性から解き放たれ、先進国の名にふさわしい真に信頼される国となることができるはずである。

 また、一国の政治は国民の政治意識を等身大とした反映を姿としていると言われているが、政治のそういった構造からすると、政官財癒着や族議員構造といったことだけではなく、例えばハンセン病隔離政策やエイズ薬害問題・BSE対応遅れ、その他その他の例を挙げれば枚挙に暇のない政治家・官僚の怠慢・不作為をも含めた日本の政治全体の姿は実際には国民もそのシナリオ作りに関わっていることになり、政治家・官僚の無能を責め、批判するだけでは済まされなくなる。いわば国民は政治という作品作りに常に参加しているのであり、作品の出来映えを左右する自らの政治意識に責任を自覚する方法として、国民が納めた全体の税金から政治運営に関わる支出を行なうのではなく、目的税化して、成人一人一人から収入に応じて徴収するようにしたらどうだろうか。誰もがいやでも政治に対するどうあるべきかの監視を強めることになるのではないだろうか。(2002/3/25)
 

 最後の「目的税化して、成人一人一人から収入に応じて徴収する」とは国民一人頭年間250円の政党助成金方式を廃止して、収入に応じて金額を決める方式への変更だが、各議員の政治活動費の平等な増額につながる。

 現在各議員が討論・議論を繰り広げる報道番組が各テレビ局で制作され、多くの有権者がそれを聴取し、あるいはその内容を伝えるテレビニュース番組や新聞記事を耳にし、目にする。あるいはインターネット記事や動画で知る。

 こういった政治に関わる情報伝達の全選挙区化が以上述べた方法である。この方法が有効なものかどうかは分からない。改良すべき点もあるだろうが、政治からカネの力を無力とする方法とはなり得るとは思う。

 現在様々に制限されているインターネットの利用も広げなければならないだろう。

 いずれにしても「政治に於けるカネの力を無力」としないことには違法な企業献金問題は跡を絶たないだろうし、カネ集めの能力とカネで周りに人を集める人身掌握術が政治家としての実力者の条件となっている日本の政治風土を変えることはできない。

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