生活実感看取能力なき麻生の定額給付金受取りの矛盾
明らかにすることをあれ程にもしぶとく抵抗を示していた我が麻生太郎が定額給付金を受取る意向を表明したと3月2日、各新聞・テレビが一斉に報じた。
受取りの理由を麻生太郎、かく曰く。
「生活給付という部分の、部分が、かなり減ってきている。比重はむしろ、消費刺激という比重が、高くなってきている。生活給付という部分が非常に大きいときは、私のような者が頂戴するのは、如何にもさもしいではないかと、いう気持があったのは正直なところです。消費刺激というんであれば、私もそれを何らかの形で地元で消費に当てる――」(「NHKニュース9」/09.3.2)・・・・・・・
「生活給付」を主目的としていたウエイトが下がり、「消費刺激」のウエイトが高まったから受取ることにした。「生活給付」なら、私みたいな金持ちが「頂戴するのは、如何にもさもしい」ことになるから、頂戴するわけにはいかなかった。羨ましい限りである。
高額所得者が受取るのは「さもしい」と決めつけたのは08年12月15の参議院決算委員会での国会答弁である。
「多額のカネを今貰っている方が、でも、1万2千円を頂戴と言う、方を、私は、さもしいと申し上げたんであって、1億も収入のある方は、貰わないのが普通、だと、私はそう思っております。従って、そこのところ、人間の矜持の問題かもしれませんけど――」
「1億円あっても、さもしく1万2千円欲しいと、言う人もいるかもしれない。そりゃあ、その人の、――、哲学・矜持、考え方の問題なんだから・・・・・」(「NHKニュース」/09.1.6)
そして自身が受取るかどうかは、「まだ予算が通っていない段階で話すのもいかがなものか。今後、判断させていただく」(「時事通信社」、「全所帯となれば俺も入るわけだが、わたしのところに来るわけではない。貧しいところや生活に困っているところに出すわけだから、豊かなところに出す必要はない。分け方は政府で検討する」(「msn産経」 /2008.11.4 13:18)
今年1月は――
「貰う貰わないは、この予算が決まり、地方で配分をされ、その段階に於いて、配る方といたしましては、判断させていただきますと――」(上記「NHKニュース9」/09.3.2)
私は以前のブログで、<ニセモノではあっても「矜持」がかかっているから、受け取ることはないだろう。>と予測したが、予測そのものが間違っていたのか、麻生の「矜持」が正真正銘のニセモノ、簡単に剥げ落ちるメッキであったためからなのか、先ずは目出度くも(?)受取る方向に決着がついた。
上記3月2日の「NHKニュース9」は受取った場合の麻生太郎の定額給付金の使い道について次のように伝えていた。
「何に使うか、用途まで、あなたに説明しなきゃいけないの、――というようなおちょくるようなことはやめてくださいと、誰かに言われたけども、あの、家内と相談します」・・・・・
内心は「なぜ説明しなければならないのか」と言いたかったのだろうが、言えば苛立っていたと書かれると分かっていたから、人を介した言葉となったに違いない。
「何に使うか――」云々は決して“おちょくり言葉”ではないからだ。そう言って記者たちをおちょくってやろうという意図があったから、「おちょくる」という言葉が出たのだろう。
大体が公明党ゴリ押しの「定額減税」形式から始まって、「定額給付」で収まった段階から「生活支援定額給付金」と銘打ち、鳩山総務相は総務省内に財務省や法務省、金融庁から職員を出向させる形態で昨年11月11日に「生活支援定額給付金実施本部」を設置、発足式まで開いているのである。
いわば2007年夏のサブプライムローン問題の表面化に端を発した不況から「生活支援だ、生活支援だ」と騒ぎ出して、昨年9月のリーマン・ブラザーズショックを経て「100年に一度の経済危機」へと進化した中で従来以上の景気悪化(=消費縮小)の加速が目に見えていたのである。にも関わらず、今頃になって「消費刺激という比重が高くなってきている」と言う。
何を以て「生活給付という部分がかなり減ってきて」、「消費刺激という比重が高くなってきている」と言うのだろうか。景気が一段と悪化したから、「消費刺激」が必要になったとしているのだとしたら、「100年に一度の経済危機」と最初から危機の程度を察知し、景気のなお一層の悪化は織込み済みのはずだったのだから、悪化に対応した「消費刺激」の対策を同時進行で打ち出していなければならなかったはずで、「消費刺激という比重が高くなっ」たも何もないはずだ。
1月7日の「msn産経」記事≪【麻生首相ぶらさがり詳報】「定額給付金は生活給付と消費刺激」(7日夕)≫は次のようなことを報道している。
<●【定額給付金】
--定額給付金についてだが、全国市長会の佐竹会長が「定額給付金が生活支援ではなく、消費刺激とすると同じ2兆円でも考えが違ってくる。もう一度、検討すべきだ」と述べたが、2兆円の使い方について再検討する考えはあるか(09年1月7日夕、首相官邸)
「直聞いてないんで、何とも答えようがありませんけど。何回も、今日の国会でも言ったと思うんですが、生活給付金という意味合い、消費刺激という意味合いと両方あるわけですから。できたころは何、石油の値段がリッターあたり160円とか170円といっている時代だったですけど。今は100円というようなラインになってくると、状況が違っている。いろいろ説があります。灯油の値段は半分以下になったとか。いろいろ説があるんですが、いずれにしても生活給付の問題があることは確かですから、生活給付と消費刺激という面が両方ありますんで、ぜひ給付が来たら、ぜひ消費できる方、余裕のあるところはぜひ使っていただきたい。私自身はそういう気持ちが強くあります」
--首相は昨日(6日)のぶらさがり取材で、自身が定額給付金を受け取るかどうかは「そのときになって考えたい」と答えた。これまで受け取らないという趣旨のことを発言していたが
「基本的にこういったものは個人に来るわけですから。それは政府として受け取れとか、受け取るなとかいうのを政府が決めてなんとかするというのは、ちょっとおかしいんじゃありませんか。それぞれ個人が判断すべきもんだと思います、というのが基本。だから受け取る、受け取らないという話は決められてするものではなくて、自分で判断されるのが基本だと、私は思っています」>――
1月7日の段階で既に「生活給付金という意味合い、消費刺激という意味合いと両方あるわけですから」と言っている。2ヵ月も経て、改めて「生活給付という部分がかなり減って、消費刺激という比重が高くなってきている」とするのはどういうことなのだろうか。日本国総理大事の意思表明である。ただ単に対応が遅いで済ますことができるだろうか。
また、なぜ石油や灯油の価格を持ち出したのか意味不明だが、それらの価格の値下がり以ってして「生活給付」(=生活支援)の側面が後退したとでも言いたいのだろうか。政治の側から国民生活を言う場合、特に景気悪化時期に於ける「生活給付」(=生活支援)と「消費刺激」は車の両輪でなければならず、「生活給付」(=生活支援)が「生活給付」(=生活支援)のみで終わっていたなら、生活の余裕のないところに「消費刺激」への誘因は生じにくいはずだし、逆に「生活給付」(=生活支援)の側面が後退した局面とは生活に余裕が生じた状況を言うはずで、そのような状況下では「消費刺激」は自ずと生じるから、取り立てて「消費刺激」に向けた政策は必要としなくなるはずである。
このことは与謝野馨経済財政担当相も言っていることである。
(定額給付金の支給を行っても)「従来の消費を抑えた場合は、プラスマイナスゼロになることは当然だ」(≪給付金効果 政府、説明できず≫中日新聞/2009年1月14日 07時03分)
「従来の消費を抑えた場合」とは「生活給付」(=生活支援)が「生活給付」(=生活支援)のみで終わって、「消費刺激」への誘因が生じにくい場面――いわば「生活給付」(=生活支援)と「消費刺激」が車の両輪とならない状況を言うはずである。
テレビが拾う街の声も「給付されたとしても、将来がどうなるか不安で、とてもとてもパッと使う気にはなれません、貯蓄に回します」という声が圧倒的に多い。
表立ってパッと使うのは自公の国会議員と閣僚ぐらいのものだろう。
街の声は「消費刺激」への誘因を誘い出してくれる程の「生活支援」とは言えないと言っているのである。いわば「生活支援」と「消費刺激」が車の両輪とはならない定額給付金に過ぎないと。だから70~80%の国民が経済対策としての評価を否定しているのだろう。
一般生活者の生活実感が定額給付金に「消費刺激」を誘因する程の価値を見ていないとしたなら、全国市長会の佐竹会長が「定額給付金が生活支援ではなく、消費刺激とすると同じ2兆円でも考えが違ってくる」と言った言葉も、単なる形式的な名目替えに過ぎなくなる。
例え名目替えを行ったとしても、どっちつかずであることに変わりはないと国民は見ているということである。
一般的な生活実感からしたら、石油や灯油の値下がりだけで「生活給付」(=生活支援)の側面が後退し、「消費刺激という面」が生じたとは言えないはずで、麻生首相がもしそういった意味で取り上げたのだとしたら、単細胞に過ぎるというだけではなく、一般生活者の生活実感看取能力ゼロをここでも証明したと言わざるを得ない。
上記「中日新聞」は麻生首相と与謝野馨経済財政担当相とが連携した次の発言をも伝えている。
麻生首相(野党の質問に)「過去に例がないこと(経済の悪化)が起きているので、余裕のある方は、ぜひ消費してほしい」と高額所得者も給付金を受け取り、消費に回すことを重ねて要望した。
与謝野「高額所得者でも給付を受けた場合、消費マインドは当然生じる」
街の声と比較して判断すると、二人とも定額給付金は「100年に一度の経済危機」に関係なしに生活に余裕ある者のみが――いわば「生活支援」を必要としない者のみが「消費マインド」(=「消費刺激」)を充足可能とすると言っているのである。
逆説するまでもなく、生活に余裕のない者は定額給付金は「生活支援」に役立っても、「消費刺激」には役立たないと言っているのである。
つまり一般生活者にとっては元々そうでなければならないのだが、特に景気悪化時期には「生活給付」(=生活支援)には「消費刺激」への誘因を引き出す要素が加味されていなければ人間らしい生活を送ることはできない。逆に「消費刺激」を言うなら、十分な「生活給付」(=生活支援)が必要となる。
カネはたくさん持っていれば、あるいは銀行等にたくさん預けていれば、精神的な安心感を与えてくれる。だが、実質的な価値は消費することによって生じる。いわばカネは消費の道具としてある。
たくさん持っていることによって生じている安心感は何があってもいつでも必要な消費に向けることができて生活を維持できるという予定調和から発している安心感であって、やはり消費の道具としての意味づけをカネに置いている。
「消費刺激」への誘因を引き出してくれる程の一人頭12000円~20000万円でないということなら、そもそもからして「生活支援」とは名ばかり、「生活支援」と「消費刺激」が車の両輪とはならない、先程言った“どっちつかず”の定額給付金に過ぎないということになる。
“どっちつかず”な政策となっていながら、そのことに気づかないのは「100年に一度の経済危機」だと言いながら、その状況下に置かれている一般生活者の生活実感を看取する能力を麻生を始め、麻生内閣の面々、自公国会議員の殆どが持たないからだろう。
麻生が「生活給付という部分の、部分が、かなり減ってきている。比重はむしろ、消費刺激という比重が、高くなってきている」と言うのも同じ線上からの発想で、単に政策遂行者側の必要性に立った言い分に過ぎない。
当然「生活給付という部分が非常に大きいときは、私のような者が頂戴するのは、如何にもさもしいではないかと、いう気持があったのは正直なところです」も、「消費刺激というんであれば、私もそれを何らかの形で地元で消費に当てる」も政策遂行者の言葉としては妥当と言うことはできても、一般国民の生活実感とは縁もない、当然と言えば当然のことでもあるのだろうが、空言に過ぎないことになる。
大体が「さもしい」と言ったのは「私のような者」――いわば自身を主として指してのことではない。先に例示した「さもしい」発言を再度取り上げてみる。
「多額のカネを今貰っている方が、でも、1万2千円を頂戴と言う、方を、私は、さもしいと申し上げたんであって、1億も収入のある方は、貰わないのが普通、だと、私はそう思っております。従って、そこのところ、人間の矜持の問題かもしれませんけど――」
「1億円あっても、さもしく1万2千円欲しいと、言う人もいるかもしれない。そりゃあ、その人の、――、哲学・矜持、考え方の問題なんだから・・・・・」――
「多額のカネを今貰っている方」で「でも、1万2千円を頂戴と言う」人間、「1億円あっても、さもしく1万2千円欲しいと、言う人」――そういった他者を指して言った「さもしい」であり、麻生自身を「さもしい」の外にしっかりと置いている。本人は最初は受取らないと言っていた「さもし」くない人間としていたのである。
麻生は言葉は達者だが、その多くがマヤカシに満ちている。
政府は「100年に一度の経済危機」だからと、様々に政策を打ち出してきた。各大手企業からの派遣切りが横行すると、雇用維持や宿舎提供の人材派遣会社への支援を打ち出した。だが、人員整理は非正規雇用ばかりではなく、さらに正規社員カット、大卒・高卒の内定取り消し、企業倒産と悪化の一途を辿っている。
1月31日の「毎日jp」記事≪クローズアップ2009:雇用情勢悪化の一途、前途見えぬ失業者 少ない求人争奪≫は次のように伝えている。
<厚生労働省は30日、非正規雇用労働者の雇用状況などをまとめた。09年3月までの半年間の失職者数は、昨08年11月調査では約3万人、12月は約8万5000人、そして09年1月調査では約12万5000人と膨らみ続けると予測、その一方でNECが2万人超の人員削減を発表するなど、業績悪化で大手企業の雇用カットも加速する。>――
新卒者の内定取り消しに関しては、2月27日の「J-CAST」 が、<新卒者の採用内定取り消し状況について、全国のハローワークが2月19日現在で確認したところ、342事業所、1574人に上った。内訳は大学生などが1280人、高校生が294人>と伝えている。
日本綜合地所が一旦採用した大学卒53人の内定を取消し、1人頭42万円支払うとした補償金を100万円で解決、支払いを済ませたものの、会社自体は今年の2月に破産している。政府が悪質な内定取消しは企業名を公表すると騒いでいたが、企業側としたら倒産で失う信用と比べたなら、内定取消し公表で失う信用は左程のことはないに違いない。
そもそもからして内定取消しは企業が経営危機に陥っている状況を示す。日本綜合地所の経営陣は今回のことで多くを学習したのではないのか。内定を取消さずに倒産していたなら、補償金は支払わずに済んだと。
尤も学生たちが得た合計5300万円は負債として債権側の誰かがかぶることになる。会社側は倒産すればどうせ誰かがかぶるんだと気前よく42万円から100万円に吊り上げた可能性も疑えないことはない。
倒産と内定取消し公表を天秤にかけることができる間は企業は内定取消しは行わないだろう。学生側からしたら、内定取消しに遭わずに無事入社できたとしても、程なく会社が倒産したなら、元も子もない。
要は社会はそう簡単には出来上がっていないにも関わらず、政府は「100年に一度の経済危機」だと大騒ぎしながら、このことがストレートにダメージを与えている個々の企業の経営の内実まで理解せずに悪質な内定取消しは公表すると、公表でさもすべてが解決するようなことを言う。「100年に一度の経済危機」と言いながら、実際は個々のケースに立ってそのことを実感できていない。
特に生活実感看取能力を備えていない麻生には実感できまい。
非正規雇用であろうと正規雇用であろうと、仕事を失った者、仕事と共に住いまで失った者は十分な蓄えがある者を除いて、この不況下で思わしい再就職は望み薄く、一挙にその日、その日を食べていくことだけで手一杯となって生活防衛一辺倒となり、消費誘因は損なわれることとなる。
彼らに必要なのは「消費刺激」の12000円ではなく、「生活支援」となる12000円であろう。インスタントラーメンだけの1日一食となった者にとっては、1日2食のインスタントラーメンに戻す消費誘因とはなり得る12000万円かもしれないが、「生活支援」の色彩は拭い切れない。
政府は失業者対策にワークシェアリングへの雇用形態の転換や農林漁業や介護企業への転職を勧めているが、ワークシェアリングで雇用カット要員の雇用を維持できたとしても、働く場所の提供という目的は果たすことができるものの、全員に行き渡ることとなる労働時間短縮に伴う給与の目減りで、雇用形態としてのワークシェアリングそのものは消費誘因を押し下げる要因を抱えることになる。いわば失業者を出すよりはましな消費誘因とななり得ても、景気回復に向けた力強い消費誘因とまではなり得ない。
このことは農林漁業や介護関係についても言える。この辺の事情を2月19日の「毎日jp」記事≪農林水産業:就労相談9383件、採用441人≫が次のように報道している。
<農林水産省は18日、農林水産業への就職希望者のため、同省や都道府県、関係団体が設置した窓口の相談状況をまとめた。昨年12月から今月10日までに441人の採用が決まり、うち269人を林業が占めている。同日までの相談件数は累計で延べ9383件。
林業以外で採用が決まった人は農業132人、漁業40人。同日時点の求人数は1844人だが、採用に至るケースは低水準にとどまっていることについて、農水省農村計画課は「収入の低さや住宅事情、重労働などがネックになっている」と話している。
農水省は18日に雇用対策推進本部(本部長・近藤基彦副農相)を設置した。【行友弥】>――
景気が回復すれば逃げ出す「農林水産業再就職441人」といったところなのではないのか。
ただでさえ「外国人研修制度」の名の下、単純労働者として外国人を低賃金で雇用している農林漁業である。新規参入労働者の身分ではなおさらに望む給与の保証は得られず、例え再就職できたとしても、「収入の低さ」が必要最低限の生活必需品の消費に向かうことはあっても、力強い消費誘因を引き出すとは考えにくい。
地方自治体が各自進めている臨時職員募集も採用期間が短い等の理由で敬遠され、募集人員を満たさない自治体が相当数出ている。さいたま市では臨時職員100人の募集に応募が8人だったと1月19日の「msn産経」記事≪「派遣切り」雇用…肩すかし 職場あわず各地で「ミスマッチ」≫)が伝えている
「雇用のミスマッチ」からは不足だらけの雇用状況を見ることはできても、消費活動を連想させる話題はどこにも見当たらない。経済はさらに悪化している。
要するに定額給付金は麻生が何と言おうが、「生活給付という部分の、部分が、かなり減ってきている。比重はむしろ、消費刺激という比重が、高くなってきている」と言おうが、生活に「余裕のある方」たちのための消費刺激欲を満足させる消費誘因とはなっても、生活不安を抱えて節約を強いられながら日々を送る多くの一般国民にとっては従来どおりに節約を継続する流れの中で遣うことになるだろう。必要に迫られた場合にのみ、必要に迫られた生活必需品にのみ、消費は向かうことになるということである。
与謝野が言っていた「従来の消費を抑えた場合は、プラスマイナスゼロになることは当然」と言う現象が起きるということである。
いわば節約を迫られている生活者にとっては消費動向に変化はない。いや、変化させることはできない。一人頭12000円から20000円を定額給付金として支給されたとしても、消費に関してはプラスマイナスゼロと言うわけである。
それを麻生は「生活給付という部分の、部分が、かなり減ってきている。・・・・・・私のような者が頂戴するのは、如何にもさもしいではないかと、いう気持があったのは正直なところです」云々と言う。このマヤカシは胡散臭いばかりに臭い立つ。
他の閣僚は――
「ニコニコ給付金として喜んで受け取り、地域の消費活性化につなげたい。」(鳩山 総務大臣)
「消費活性化のために意味があると思いますので受け取ります。地域で何か買うとか、飛騨牛を食べるとか・・・アハハハ。」(野田 消費者政策推進 特命大臣)
「受け取って環境エコ商品を地域で購入し、環境問題に少しでも貢献したい。」(斉藤 環境大臣」
どの声も街の一般的な生活者の一般的な声を遠くに置いている。マヤカシもここまでくれば、勲章ものである。
自民党幹事長細田は 定額給付金にかかわる「模範回答集」を作成、議員に配ったという。
消費誘因などどこにも見い出せないにも関わらず、「生活支援と内需拡大の呼び水の両方の意味があります。民主党が言っていることも結局は同じことです」(FNN/09/01/09 18:53)と書いているという。
国民が期待していないことを細田は言っている。
麻生を筆頭に生活実感看取能力なき政治家たち。