菅仮免首相が昨4月22日夕方5時40分から記者会見を行った。例の如くケチをつけることにした。《首相官邸HP》に動画とテキスト版が記載されている。
冒頭発言で昨日の福島原発避難所視察に言及しているが、避難所被災者から抗議を受けたり不満をぶつけられたりしたことには一切触れていない。都合の悪いことは情報隠蔽する。逆に情報公開しても差し支えないエピソードには言及している。
菅仮免「まず昨日、福島県を訪問いたしました。その中で被災者の方に何人もお会いしましたが、一番耳に残った言葉がありました。それは、私の家は今、アメリカよりも遠いんですよ。アメリカなら十数時間で行くことができるけれども、私の家には何週間も、場合によったら何か月かかっても帰れないかもしれない。何とか早く帰れるようにしてほしい。その言葉が一番耳に残った言葉でありました。何としても、この原子力事故によって家を離れなければならなくなっている皆さんが一日も早く自分の家に戻れるように、政府として全力を挙げなければならない。改めて、そのことを強く感じた次第であります」――
「皆さんが一日も早く自分の家に戻れるように、政府として全力を挙げなければならない。改めて、そのことを強く感じた」とは言っているが、「一番耳に残った言葉」であっても、心にまで響かなかった言葉であったようだ。
自分の家には帰れない、アメリカよりも遠い場所にあるのも同然だという被災者の言葉にはもどかしさ、苛立ち、辛さ、情けなさといった様々な思い・感情が込められているはずで、これは極めて個人的なものではなく、大方の被災者の気持を代弁しているはずだ。
当然、菅仮免の「一日も早く自分の家に戻れるように、政府として全力」は多くの被災者の思い・感情を汲み取った発言でなければならない。
だが、例え東電が4月17日に原発事故収束の工程表を公表、放射線量の着実な減少目標の「ステップ1」に3カ月、放射能放出を管理し、線量を大幅抑制する「ステップ2」に3~6ヶ月の最長合計9ヶ月としていることに対して英科学誌ネイチャーが記載した、廃炉・除染に10年から最長100年かかるとする専門家の予測を無視するとしても、被災者を取り巻く現実は「一日も早く自分の家に戻れるよう」な方向に進んでいない。逆に4月21日に警戒区域(原子力発電所から20km圏内)設定、4月22日に計画的避難区域と緊急時避難準備区域設定と益々住んでいた場所、住んでいた家から遠ざかる逆の方向に進んでいる。
東電の工程表どおりに事故収束が進んだとしても、あるいは少しぐらい前倒しが実現したとしても、9ヶ月かそこらの間被災者の期待に添うことができない何の手立てもできない状況に政府は現在のところ置かれている。
いわば被災者の苛立ち、辛さ、情けなさといった様々な思い・感情を放置し、長引かせることの済まなさを表現した言葉、苛立ち、辛さ、情けなさといった様々な思い・感情を汲み取った言葉を一言も見受けることができない。
単に事務的・形式的に「皆さんが一日も早く自分の家に戻れるように」と言っているに過ぎない。
もし被災者の思い・感情を汲み取った言葉を発することができたなら、避難所視察の態度にも反映され、被災者から抗議を受けたり不満を言われたりすることはなかったはずで、また避難所視察が被災者の気持を汲み取った思いの篭もった訪問であったなら、その思いは記者会見の発言にも反映されて、現在のところ被災者が家に戻れずに避難生活を送らざるを得ないことに関しては何の手立てもできない政府の対応を一言ぐらい謝罪する心の篭もった発言ができたはずだが、そうはなっていない。
これは記者会見の自分を売るいいネタになると持ち出した「私の家は今、アメリカよりも遠いんですよ」のエピソードといったところだろう。
この被災者をままならない状況に置くことの一片の済まなさもない態度は仮設住宅に言及する件(くだり)にも現れている。
菅仮免「当面、仮設住宅の整備が大きな課題であります。各県で仮設住宅の建設を精力的に進めていただいておりまして、感謝をいたしております。政府も資材確保などに全力を挙げており、自治体が提供できる場所を決めていただいて、その中で作業を急ぎたいと思っております。5月末までには3万戸を完成させたい。最終的には仮設住宅、あるいは借り上げ等を含めて10万戸を避難される方に提供できるようにしていきたい。こう考えております。」――
仮設住宅に関して触れたのはたったこれだけである。建設の進捗状況、入居状況には一切触れていない。完成を待たされている被災者の思い・感情についても一切触れていない。計画表を単に表面的・事務的に述べたのみである。
震災発生から1カ月以上経過しているが、仮設住宅は7万2千戸の必要戸数に対して完成は455戸(4月21日付asahi.com)といった遅れた状況にある。入居希望の被災者が全員仮設住宅に入居を果たす間、順次残される被災者はプライバシーのない、心身の健康を自ら管理できない状況下に置かれることになる。その心労、ストレスに対する一言ぐらいの思い遣りある言葉を述べてもようさそうだが、何一つ述べていない。避難所を視察しながら、数人に声を掛けただけで、それ以外の被災者はその他大勢と扱って素通りしたのと同じ冷淡さしか窺うことができない。
記者会見はマスコミの記者にのみ向かって喋っているわけではあるまい。記者の背後、テレビカメラの背後にいる不特定多数の国民に向かって喋っているはずだ。当然、その国民の中には被災者が存在し、特に耳を傍立て、目を凝らして中継しているテレビの画面を見入っている被災者も多く存在するはずだ。
口先だけで記者会見を済ませている印象しか受けない。「復興は、単に元に戻すという復旧ではなくて、すばらしい未来をつくるという復興であってほしい。そのことも多くの皆さんと共有している考えだと思っております」と言っているが、口先だけの奇麗事と見た方が無難だ。
菅首相は大震災は長年の経済の低迷によってもたらされた世界的な地位の低下や年間自殺者13年連続3万人といった従来から日本が抱えていた危機の中に発生した危機だという把え方をしている。
菅仮免「この復興を考える上で、私は更に今回の大震災、原発事故、この危機が1つの危機ではなくて、危機の中の危機だと、このように位置づけをいたしております。つまり、我が国は、この20年余り、経済的にも成長が低迷し、社会的にも自殺者がなかなか3万人を切らないといったような多くの課題、社会的なある意味での危機を経験しつつあったわけであります。そうした中にこの大震災、原発事故という危機がまさに発生した。危機の中の危機の発生。このようにとらえてまいりたいと思います。
そして、この2つの危機に対して、同時にこの危機を解決していくことが、今、私たちに求められておりますし、もっと言えば、この復興ということは、大震災を契機に多くの国民が、自分たちが何とかしなければという思いを強くしていただいている。その思いを本当に力に変えて、この復興をバネにして、もともとの危機を含めて2つの危機を乗り越えていく。つまり、日本再生が東日本の復興を支え、一方では東日本の復興が日本の再生の先駆けとなる、こういう形で推し進めてまいりたいと考えております」――
指導力を欠いている割にはなかなか壮大なことを言っている。かつて「大風呂敷」論争が起こったが、大風呂敷でなければいい。
そしてこの大震災に遭遇したことを自身にとって「宿命」だと強い立派な決意を示している。
菅仮免「今回の大震災で亡くなられた皆さん、私はその皆さんが声なき願いを私たちに強く伝えていただいているように思えてなりません。それは生き残った皆さんが、私たちが、力を合わせて素晴らしい日本をつくってほしい、こういった願いだと、このように思っております。
私自身、この大震災のときに、総理という立場にあったひとつの宿命だと受け止めておりまして、こうした亡くなられた皆さんのその願いを実現するために、私に持てるすべての力を全身全霊振り絞って、その実現に向けて頑張りたい。その気持ちを改めて強くいたしているところであります」――
この発言は自らの指導力欠如を弁えていないからこそ言える決意でなければならない。
地震災害、原発災害と日本の経済的な成長の低迷や年間自殺者13年連続3万人といった社会的危機とは性格が異なる。前者の復旧・復興は資金をかけた物理的労力に負う側面が大きい。後者の解決には資金をかけただけでは解決しない。政治や企業に於けるアイデア・創造性を必要とするはずだ。
そうであるにも関わらず、二つを並べて置いている。
勿論、大震災需要が日本の経済成長を刺激する面も否定できないが、経済の構造改革がないままであったなら、復興が一段落したとき、反動が生じて不況に見舞われるだけではなく、元の木阿弥となる。
日本の現在の経済の構造、あるいは日本の政治の構造まで加えて、そこに問題がある日本の現在の経済的な成長の低迷であリ、世界的な政治・経済に於ける地位低下だと見なければならないはずだ。
菅仮免が大震災遭遇を首相にとってのひとつの宿命だと宿命論で把えるなら、その復旧・復興の政治的業績を成すことをも併せて宿命と把えていることを意味する。遭遇したことだけでとどまらない宿命であるはずだからだ。
また大震災遭遇が首相にとってひとつの宿命であるなら、東北の被災住民にとっても大震災遭遇は宿命でなければならない。亡くなった被災者が力を合わせて素晴らしい日本をつくってほしいと願っていると看做した上で自らの宿命としたのはそのためだろう。
いわば菅仮免は大震災を「総理という立場にあったひとつの宿命」とすることによって、東北にとっても、そこに住む住民にとっても、特に死者にとって、大震災を宿命だとしたのである。
菅仮免にとって宿命である大震災が被災住民にとっては宿命でないとするなら、菅仮免の宿命の延長にある復旧・復興の宿命に関係しないことになって矛盾を来たす。大震災は被災者にとっての宿命に対応する菅首相にとっての宿命であると相互対応させて初めて復旧・復興の整合性を得る。
菅首相にとって大震災遭遇が宿命である以上、復旧・復興の見事な成就を以って宿命は完遂可能となる。復旧・復興まで宿命としていることの目標達成となる。
この関係から、「私に持てるすべての力を全身全霊振り絞って、その実現に向けて頑張りたい」という発言が生じたことになる。
当然、その完遂に応じて、復旧・復興は菅首相の宿命からの政治的業績に帰することになる。
いわば菅首相が大震災を宿命論で捉えたということは政治的業績を挙げることをも自らが担う宿命と位置づけたということであろう。そうでなければ、復旧・復興まで宿命としたことと矛盾する。
そうである以上、犠牲を強いられた側の被災者にとっては割の合わない宿命であリ、菅首相に取ってはおいしい宿命となる。
また大震災の危機と同時に経済の低迷による日本国家の停滞の従来からの危機、同じく従来から陥っていた年間自殺者13年連続3万人や収入格差等に現れている日本社会の劣化・劣弱化の危機を併せた2つの危機を同時に解決していくことまで背負うことにしたのは自らの宿命にふさわしく政治的業績を偉大ならしめるためであるはずだ。
この未曾有の大震災遭遇を自らの宿命とする位置づけにはそこに必死な思いがあるはずで、そのような宿命論、あるいは必死な思いに反して日本の2つの危機の同時解決を小さな政治的業績として目指したなら、宿命に反する矛盾した目標となる。
大震災遭遇という宿命を機会に日本の2つの危機を同時解決する政治的業績の達成までを自らの宿命とするという心理には大震災を自らの政治的業績達成の一つのチャンスと看做す思いが当然働いていたはずだ。
大震災を自らの政権延命の一つのチャンスとしたようにである。
チャンスとするということは大震災を政権延命に利用するのと同じく、政治的業績の達成に利用するということであろう。
この場合の利用は被災者の大震災遭遇という割の合わない宿命が菅首相によって政権延命と政治的業績達成の運命的な実験材料とされることを意味するはずだ。
被災者に対して何とも失礼な、自分に有利なだけの菅首相の大震災遭遇運命論ではないだろうか。
被災者に対して心の篭もっていない記者会見の発言と言い、自身の手柄のみに重点を置いた運命論と言い、菅仮免の指導力欠如・合理的判断能力欠如と比較した場合、菅首相お得意の「大風呂敷」と見た方がよさそうだ。 |