菅仮免の原発輸出は「世界最高水準の安全性を有するものを提供」と「脱原発依存」の二律背反

2011-08-19 11:09:59 | Weblog



 小野寺五典(いつのり)自民党衆院議員の菅内閣の原発輸出に関した質問主意書に菅内閣が答弁書を提出したのを新聞で知った。小野寺議員が質問主意書を提出したのが7月22日(2011年)。 菅仮免が答弁書を横路衆議院議長に送付したのが8月5日。新聞も8月5日付で閣議決定した答弁書の内容を伝えている。

 だが、衆議院HPの「質問本文情報」ページに記載されたのは8月15日、10日遅れだった。この情報化時代に10日後は遅すぎる気がする。

 衆議員の質問主意書に対しては衆院議長宛に送付する決まりから、数多くある答弁書のうち、衆院議長が目を通した順に質問主意書提出者への送付と共に衆議院のHPに記載していく方式としていることからの時間の経過なのかもしれないが、中身が変わるわけのものではないのだから、衆議院議長よりも先に国民が目を通してもいいはずだ。

 もし衆議院議長が先に目を通すことを絶対としているとしたら、権威主義的に過ぎる。大体がマスコミが閣議決定した時点で内容を知るのである。国民への情報提供を優先させるべきだと思うが、どうだろうか。

 答弁書を読んで、菅仮免が7月13日の記者会見で打ち出した「脱原発依存」の主張と矛盾することに気づいた。例えそれが「個人の考え」に格下げされたものであっても、矛盾していることに変わりはない。

 目にした新聞はその矛盾に触れていないが、単に遣り取りの事実と答弁書の内容を事実として伝えただけの記事の内容である関係から、矛盾に触れなかったのかもしれない。解説する別の記事で矛盾を指摘している可能性もあるが、目にしていない。あるいは目にしたが、忘れてしまったのかもしれない。

 一応、自分が感じた疑問をほんの一言書き記してみる。

質問本文情報平成23年7月22日提出

 質問第345号

 原子力協定締結に関する菅内閣の姿勢に関する質問主意書   提出者  小野寺五典

 我が国はこれまで、資源小国として原子力発電を推進し、国際社会の信頼と透明性を確保しつつ自らの原子力利用を厳格に平和的目的に限るとともに、国際社会における原子力の平和利用を適切に促進するための外交を実施してきた。

 また、国際的な信頼性と透明性の確保の観点から、核不拡散、原子力安全及び核セキュリティの確保を基本方針として、二国間及び多国間の原子力協力を推進してきた。

 そのようななか、菅内閣では、海外における原子力発電の受注を成長戦略の重要な要素としてとらえ、今国会冒頭の施政方針演説においても、「私みずからベトナムの首相に働きかけた結果、原子力発電施設の海外進出が初めて実現しました。」と海外への売り込みと成果のアピールに積極的であった。我が国は現在、八つの国・機関と原子力協定を締結しており、また今国会においても、政府は、ヨルダン、ロシア、韓国、ベトナムとの原子力協定の承認を国会に求めている。しかし、七月二十日の衆議院予算委員会においてベトナムとの原子力協定の進捗状況についての質問に対し、菅総理は「外交手続きとして現在進んでいる」と答弁され、外相臨時代理の枝野官房長官も「従来の約束はしっかり守っていくことが前提になっている」と答弁されたが、菅総理はこれを振り切るように「指摘された問題を含めて議論していきたい」と強調した。

 また、菅総理は七月二十一日の参議院予算委員会で、原子力発電所の輸出について、「安全性を高めて進める考え方がベースだが、もう一度きちんとした議論をしなければならない段階にきている」と答弁され、見直しの可能性を示唆されたが、枝野官房長官は七月二十一日の記者会見で、この首相答弁について、「見直しを示唆したとは受け止めていない」と発言されるように閣内不一致が露呈している。

 今般の福島第一原発の事故を受け、原子力発電の安全性の議論がなされているなか、平成23年7月7日の参議院予算委員会において、菅総理は、「それまでの原子力発電所に対する考え方と、この事故を踏まえてその後の原子力発電所に対する考え方は、私の中でも大きく変化したことはそれは素直に認めたい」「原子力発電所については徹底した安全の検証が国内的にも必要でありますし、国際的にもそのことをしっかり踏まえなければなりません」「今後のベトナムとの協力関係についても徹底した安全性というものの確保が前提とならなければならない」と答弁した。

 このことを踏まえ、以下の通り質問する。

一 菅総理のいう国際的な原子力協力の前提である「徹底した安全性というものの確保」は、具体的にどのようなものになるのか。また、どのような主体が検証して「安全性の確保」を判断することになるのか。いつまでに検証することになるのか。

二 「安全性の確保」がなされるまでは、国際的な原子力協力は凍結するのか。また、現在政府が提出している四件の原子力協定の承認について、これを取り下げる意思があるのか

 右質問する。


 答弁本文情報

 平成23年8月5日受領
 
 答弁第345号

  内閣衆質177第345号
  平成23年8月5日

 内閣総理大臣 菅 直人

      衆議院議長 横路孝弘 殿

衆議院議員小野寺五典君提出原子力協定締結に関する菅内閣の姿勢に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

 衆議院議員小野寺五典君提出原子力協定締結に関する菅内閣の姿勢に関する質問に対する答弁書

一及び二について

 我が国としては、東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故を踏まえ、原子力発電の安全性を世界最高水準まで高めていかなければならないと考えており、安全規制や規制行政の抜本的な改革に着手しているところである。なお、各国における原子力発電所の安全性の確保については、一義的には、当該各国が自国の責任の下で判断するものと考えられている。我が国の原子力技術に対する期待は、引き続き、幾つかの国から表明されており、諸外国が我が国の原子力技術を活用したいと希望する場合には、我が国としては、相手国の意向を踏まえつつ、世界最高水準の安全性を有するものを提供していくべきであると考える。

 国際的な原子力協力の在り方については、東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会が行っている事故原因の調査や国際原子力機関(IAEA)における原子力安全への取組強化の検討の状況を踏まえつつ、できるだけ早い時期に、我が国としての考え方を取りまとめる。

こうしたことを念頭に置きつつ、これまで進められてきた各国との原子力協力については、外交交渉の積み重ねや培ってきた国家間の信頼を損なうことのないよう留意し、進めていく。こうした観点から、現在、国会に提出しているヨルダン、ロシア、韓国及びベトナムとの二国間原子力協定についても、引き続き御承認をお願いしたいと考えている。

 質問者の小野寺議員が7月7日の参院予算委員会の菅仮免の答弁、「今後のベトナムとの協力関係についても徹底した安全性というものの確保が前提とならなければならない」を質問主意書の中で取上げているが、この「安全性」とは、答弁書で「各国における原子力発電所の安全性の確保については、一義的には、当該各国が自国の責任の下で判断するものと考えられている」と言っていることからして、原発という発電装置の安全性を言っているはずで、「各国における原子力発電所の安全性の確保について」「安全性」とは人的管理の安全性を指しているはずである。

 では、これまではベトナムとの協力関係は装置に関して「徹底した安全性というものの確保」「前提」としていなかったのだろうか。

 装置面に関しては今までも可能な限り「徹底した安全性というものの確保」「前提」としていたはずである。安全を売り物にしなければ、原発という装置は輸出交渉などできない。

 装置(=原発)の開発・設置は常に安全を前提としなければならない。だからと言って、装置(=原発)が常に安全だとは限らない。安全だとしたら「原発安全神話」に立つことになる。

 原発は徹底的に安全な装置として設計し、建設するだろう。勿論、装置自体に欠陥箇所がある場合も稀にはあるだろうが、多くは運転過程に於ける人間の操作ミス、あるいは地震や津波等の外力による被害に対する危機管理対応のミスによって、装置の安全性を失って簡単にこの上ない危険物と化す。

 このことは車と同じである。安全な乗り物として設計されているが、だからと言ってどのような運転にも対応して安全確保が担保されるわけではない。運転という人的管理次第で殺人の凶器とも化すし、運転者自体を殺す装置ともなり得る。

 但し、一旦操作ミスや危機管理対応ミスによって生じた被害が時と場合によっては人的被害を含めて福島原発事故のように途轍もなく甚大且つ広範囲に亘り、被害額の点でも巨額にのぼり、日本の経済自体にも悪影響を及ぼしかねないからと、万が一のそういった発生を回避するためにすべての原発を忌避するのも一つの選択肢である。

 自分の運転ミスから大怪我をする大事故を起したが、九死に一生を得て以来車をやめたという人間もいる。

 いわば装置の安全性と人的管理の安全性は別物だということである。

 答弁書の「各国における原子力発電所の安全性の確保については、一義的には、当該各国が自国の責任の下で判断するものと考えられている」も、人的管理の安全性と装置の安全性とを別物に扱っているからこその言及であろう。

 装置の安全性は保証できません。人的管理の安全性はあなた方が負って下さいとは言えない。人的管理の安全性云々を言うからには装置の安全性を前提としなければならない。

 それを今更ながらに「徹底した安全性というものの確保が前提とならなければならない」と、装置の安全性を言うのは矛盾している。

 人的管理の安全性は不測事態が否定できないゆえに、いわ人的ミスを完全になくすことができないゆえにその確保が常に問題となる。

 もしこれが装置の安全性を疑っていて、装置の徹底した安全性の確保の必要性を言っているのだとしたら、原発輸出に関して「安全性を高めて進める考え方がベースだが、もう一度きちんとした議論をしなければならない段階にきている」の答弁は整合性を得るが、福島原発事故で全電源喪失を想定していなかったことも、10メートルを超える津波を想定していなかったこともすべて原子力安全委員会の運転上の安全指針を含めた人的管理の安全性の問題であって、装置自体の安全性ではなかったことと矛盾することになる。

 答弁書では「各国における原子力発電所の安全性の確保については、一義的には、当該各国が自国の責任の下で判断するものと考えられている」と人的管理の安全性と装置の安全性を別個に扱っていながら、菅仮免の中ではどうもそれが混同しているようだ。

 このことは7月13日の例の「脱原発依存」記者会見の発言と今回の答弁の関係でも指摘することができる。

 7月13日の記者会見。

 菅仮免「私自身、3月11日のこの原子力事故が起きて、それを経験するまでは原発については安全性を確認しながら活用していくと、こういう立場で政策を考え、また発言をしてまいりました。しかし、3月11日のこの大きな原子力事故を私自身体験をする中で、そのリスクの大きさ、例えば10キロ圏、20キロ圏から住んでおられる方に避難をしていただければならない。場合によっては、もっと広い範囲からの避難も最悪の場合は必要になったかもしれない。さらにはこの事故収束に当たっても、一定のところまではステップ1、ステップ2で進むことができると思いますが、最終的な廃炉といった形までたどり着くには5年10年、あるいはさらに長い期間を要するわけでありまして、そういったこの原子力事故のリスクの大きさということを考えたときに、これまで考えていた安全確保という考え方だけではもはや律することができない。そうした技術であるということを痛感をいたしました。

 そういった中で、私としてはこれからの日本の原子力政策として、原発に依存しない社会を目指すべきと考えるに至りました。つまり計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもきちんとやっていける社会を実現していく。これがこれから我が国が目指すべき方向だと、このように考えるに至りました」云々――。

 「これまで考えていた安全確保という考え方だけではもはや律することができない。そうした技術であるということを痛感をいたしました」 は福島原発事故がそうであることに対応した人的管理の安全性に関する言及でなければならない。

 一方、答弁書では原発の輸出に関して、「諸外国が我が国の原子力技術を活用したいと希望する場合には、我が国としては、相手国の意向を踏まえつつ、世界最高水準の安全性を有するものを提供していくべきであると考える」と、「世界最高水準の安全性を有する」装置の提供に自信を見せている。

 この提供は外国のみならず国内的にも可能としなければならない。

 車が青信号の横断歩道を歩いている、あるいは歩道を集団登下校している学童の5人か6人を撥ねて、そのうちの何人かを死なせてしまう事故が時折り発生するが、例え運転者を裁判で厳しく罰則したとしても、車を廃止しないのは安全運転の確保(=人的管理の安全性の確保)で回避できるとして、車そのものは社会が許容しているからだろう。

 だが、菅仮免は一旦起きた場合の「原子力事故のリスクの大きさ」ゆえに原発そのものの廃止を主張した。

 いわば人的管理の安全性の面からの「脱原発依存」だと。

 当然、「脱原発依存」発言が例え個人的な考えだとしても、装置の安全性は保証できたとしても、人間のミスという不測事態が否定不可能ゆえに人的管理の安全性は保証できないための「脱原発依存」だと菅仮免は明確に宣言しなければならないはずだ。

 だが、宣言した場合、それが人的管理の安全性の不確かさゆえ、あるいは絶対ではないことの宣言となる以上、「各国における原子力発電所の安全性の確保については、一義的には、当該各国が自国の責任の下で判断するものと考えられている」との宣言は二律背反となって現れる。

 「世界最高水準の安全性を有するものを提供」が装置の安全性についての言及であり、「脱原発依存」発言が人的管理の安全性の不確かさ、絶対でないことからの主張であって、装置の安全性と人的管理の安全性を区別していたとしても、人的管理の安全性の不確かさ、あるいは絶対ではないことは国を選ばないし、所を選ばないからである。

 勿論、人的管理の安全性を原因とした事故は当該国の責任だとすることで輸出国は責任を回避できるが、「脱原発依存」が人的管理の安全性を根拠とした主張である以上、そのことを無視して原発を輸出することはやはり二律背反の矛盾を犯す行為に入るはずである。

 一旦主張した以上は他の閣僚がどう抵抗しようとも、内閣運営のリーダーとして自らの主張を押し通すべきを、押し通すことができずに人的管理の安全性は当該国の責任だとすることで常に絶対とは言えない人的管理の安全性に目をつぶった。

 このことも二律背反を示す「脱原発依存社会」の主張だと言える。

 あるいは装置の安全性と人的管理の安全性を明確に区別せずに深い考えもなく、「脱原発依存」だ、「世界最高水準の安全性を有するものを提供していく」だと言っているのかもしれない。

 だから、人気取りの「脱原発」発言だと軽んじられるのだろう。

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