菅仮免の広島平和祈念式「脱原発依存」発言から見る「政治は現実であって、理想ではない」

2011-08-08 09:11:14 | Weblog



 菅仮免が一昨日8月6日(2011年)の広島原爆死没者慰霊式・平和祈念式で挨拶し、そこでも再び「脱原発依存」を主張した。首相官邸HP《広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつ》から、その部分だけを抜き取ってみる。

 菅仮免「本年3月11日に発生した東日本大震災は、東京電力福島原子力発電所に極めて深刻な打撃を与えました。これにより発生した大規模かつ長期にわたる原発事故は、放射性物質の放出を引き起こし、我が国はもとより世界各国に大きな不安を与えました。

 政府は、この未曾有の事態を重く受け止め、事故の早期収束と健康被害の防止に向け、あらゆる方策を講じてまいりました。ここ広島からも、広島県や広島市、広島大学の関係者による放射線の測定や被ばく医療チームの派遣などの支援をいただきました。そうした結果、事態は着実に安定してきています。しかし、今なお多くの課題が残されており、今後とも全力をあげて取り組んでまいります。

 そして、我が国のエネルギー政策についても、白紙からの見直しを進めています。私は、原子力については、これまでの『安全神話』」を深く反省し、事故原因の徹底的な検証と安全性確保のための抜本対策を講じるとともに、原発への依存度を引き下げ、『原発に依存しない社会』を目指していきます。

今回の事故を、人類にとっての新たな教訓と受け止め、そこから学んだことを世界の人々や将来の世代に伝えていくこと、それが我々の責務であると考えています」――

 「あらゆる方策」「講じてまいりました」と過去完了形で言うと、方策自体がすべて成功裏に終了した印象の言葉となる。だが、実際には事故が完全収束を見たわけではないし、全県民対象の内部被爆検査を実施中の自治体もあるし、今後とも原子炉から放射能が漏洩しない完璧な保証があるわけではない。厳密に言うと、「事故の早期収束と健康被害の防止に向け、あらゆる方策を講じているところです」と進行形で発言すべきだろう。

 菅仮免は「原発への依存度を引き下げ、『原発に依存しない社会』を目指していきます」の発言について、午後の記者会見で次のように説明している。8月7日朝日テレビ「サンデーフロントライン」から。

 菅仮免「政府の方針と、今日の、おー、私の、おー、挨拶は、あー、方針としては、えー、方向性を、えー、一(いつ)にしている。つまり一致していると…」 

 これだけのことを言うのにもう少しハキハキと言えないものだろうか。喋り方にも性格だけではなく、思考能力も反映することから考えると、頭の回転を示すスムーズな判断ができないのかもしれない。

 平和祈念式挨拶の「脱原発依存」発言は政府の方針だと言っているが、国会答弁では、7月13日の「脱原発依存」記者会見は「私としての考え方を申し上げたもので、決して、政府の考え方、あるいは内閣の考え方と私が申し上げたことと矛盾するものではないと考えております」と言っていることの、あるいは7月29日記者会見では「(第2回エネルギー・環境会議での減原発の)議論の方向性と私がこの間申し上げてきたこと(「脱原発依存」)は、方向性としては決して矛盾するものではありません」と言っていることの繰返しに過ぎず、本人が言っているだけのことで、政府方針と一致しているとの保証はどこにもない。

 大体が政府代表者の公の場での発言は特に説明がなければ政府方針であるはずだが、繰返し繰返し「脱原発依存」は政府の方針だと殊更ら断らなければならないのは少なくとも原発問題に関して自身の立場と政府代表者としての立場にズレが生じていることの暴露でしかない。

 もし厳格に一致していたなら、政府代表者なのだから、自身の発言を政府の方針に持っていくことに何の妨げもなかったはずだ。

 だが、妨げる障害があるから、何度も繰返して矛盾しないだの、方向性は一致しているなどと言わなければならない。既に求心力を失っている状況にあることの暴露でもあろう。失った求心力の失地回復を図る指導力さえも最早効果を見ないまでに衰えていることの証明ともなっている。

 だとしても、一国の首相として「脱原発依存」の理想を掲げ、「政府の方針と一致している」と宣言した以上、それが菅内閣内でも個人の考えで、政府方針だとは認められなかったが、今後とも認められなかった場合は認めさせて政府方針とする責任を負ったことになる。

 いわば「脱原発依存」を言い、「政府の方針と方向性は一致している」と言うだけでは済してはならない責任を負ったということである。

 認めさせる方策を頭に描いているのだろうか。認めさせる具体的行動に出て、閣議で「脱原発依存」を決定すべきだろう。

 政治は現実であって、理想ではない。理想を掲げる場合は現実のものとする具体的な道筋を提示する責任を有し、その実現を副次的な責任としなければならない。

 そして実現の結果(=成果)を最終的な責任とすべきだろう。

 また、退陣表明した首相が遠い将来の理想を語るには次ぎの首相にその理想を引き継がせる責任をも有するはずだ。一旦は閣議決定したとしても、あれは菅内閣の閣議決定であって、私の内閣の閣議決定ではないということになったなら、理想を持ち出した責任を失うことになる。

 政治とは現実であり、理想を現実とする責任を果たして初めて政治と言える以上、実現困難な理想を現実足らしめるためには強力な指導力、議席数、閣僚や官僚に対する統治能力、それらの結果としての内閣支持率等が必要条件となる。

 いわばこういった要件を総合力とすることによって理想を現実とする補強となり得る。

 朝日新聞社が8月6日、7日に実施した世論調査によると、次の内閣も「脱原発」を引き継ぐべしとする声が圧倒的に高い。

 《世論調査―質問と回答〈8月6、7日実施〉》asahi.com/2011年8月8日0時22分)

 先ずは理想を現実とする総合力の一つである内閣支持率を見てみる。 

◆菅内閣を支持しますか。支持しませんか。

支持する ――14%(前回調査7月9、10日15%)

支持しない――67%(前回調査7月9、10日66%)

◆菅さんの次の首相は、原発に依存しない社会をめざす姿勢を引き継いだ方がよいと思いますか。引き継がない方がよいと思いますか。

引き継いだ方がよい ――68%

引き継がない方がよい――16%

 これは「脱原発」国民世論から発した継続姿勢への期待であろう。

◆菅首相は、「原子力発電に依存しない社会をめざし、計画的、段階的に、原発への依存度を下げていく」と表明しました。菅さんのこの発言を評価しますか。評価しませんか。

評価する ――61% 
評価しない――27%

 当然、理想を言いっ放しでは責任を果たしたことにならない。「脱原発依存」を厳格に政府方針とし、次の内閣に継続させなければならない。

 次の内閣が継続しなくても、政治は「脱原発」の国民の声に従うべきだとしても、子ども手当の例があるように国民の声自体が変わる状況が生じない保証はない。当然、一旦口にした理想の現実化に向けて国民の声をリードしていくのも政治の責任となる。

 子供手当に関する質問と回答を見てみる。

◆民主、自民、公明の3党は、所得制限のない子ども手当を今年度いっぱいでやめ、来年4月から所得制限のある児童手当に戻すことで合意しました。子ども手当をやめて児童手当に戻すことに賛成ですか。反対ですか。

賛成――63%
反対――20%

 子ども手当は政権交代を担わせた大きな柱だったはずだが、様々な状況が国民の声を変えさせるに至っている。当然、国民の「脱原発」意識も変わらない保証はない。このことは次ぎの質問自体が証明している。

◆原子力発電を段階的に減らし、将来は、やめることに賛成ですか。反対ですか。

賛成――72%(前回調査7月9、10日77%)
反対――17%(前回調査7月9、10日12%)

 1カ月の経過で賛成が前回調査より5ポイント減り、反対が逆に5ポイント増えている。菅仮免が「脱原発依存」を明確に打ち出したのは7月13日の記者会見であり、前回調査は記者会見以前の7月9、10日であるのだから、「菅首相は、『原子力発電に依存しない社会をめざし、計画的、段階的に、原発への依存度を下げていく』と表明しました。菅さんのこの発言を評価しますか。評価しませんか」の質問に対して評価回答が61%も占めていることから考えても、記者会見発言を受けて前回調査よりも賛成が増えていていいはずだが、逆に5ポイントも減っていることは押しとどめる何らかの力が働いていると見て、5ポイント以上の減少と見なければならないはずだ。

 この減少は次の内閣への引継ぎを68%もの国民が望んでいることに反して菅仮免自身が自らの「脱原発依存」の声に力を与え得ていない現状の提示でもあろう。

 その影響力からすると、「脱原発依存」の理想を周囲に対して現実に僅かにでも近づける状況をつくり出し得ず、逆に現実から依然として遠い理想のままに置いていることを示す。

 つまり政府一致となっていないことの証明でもあり、その力のなさが諸に現れている内閣支持率であり、政策評価や実行力評価の低さとなって現れているということなのだろう。

 最早退陣の道しか残されていない。平和祈念式挨拶の「脱原発依存」発言がその道しか残されていないことを却って国民の前に露にしたのである。


 
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