――集団登下校は子どもから判断力と危機に対する身体能力を奪う、功罪中の“罪”を抱えていないだろうか――
京都府亀岡市の府道で集団登校中だった市立小学校児童と保護者、合わせて10人の列に18歳少年の無免許・居眠り運転の軽乗用車が突っ込み、2年生の女子児童と26歳の女性保護者が死亡、妊娠中の胎児まで死なせ、2人を重体に陥らせた。
車が突っ込んだ瞬間とそれ以後に児童たちを襲った恐怖とパニックは年少だけに凄(すさ)まじいものがあったに違いない。例え無事であった児童でも、血を流して倒れている仲間の児童を否でも目にしただろうから、その恐ろしさに竦み、心理的な混乱は避けることができないままに後遺症として残らないとも限らない。
最近の集団登下校中の悲惨な事故は昨年(2011年)4月18日に栃木県鹿沼市の国道で集団登校中の小学生の列にクレーン車が突っ込み、6人が死亡した悲惨な事件が記憶に新しい。
にも関わらず、普段は集団登下校は安心・安全だからと、一種の「集団登下校安全神話」を纏わせて、無自覚に制度を維持してきたところはなかっただろうか。
であるなら、そろそろ集団登下校を考え直すべきときがきているように思えるが、どんなものだろうか。
集団登下校を児童の安全を守る危機管理としていることに反して当たり前に歩道や道路脇を歩行している集団登下校中の児童が突っ込んできた自動車事故に遭遇して身体の安全・生命の安全を奪われ、さらには友達を失ったショックや短期的・長期的に自動車恐怖症に陥る児童も出る可能性を考えると、精神の安全をも奪う、逆の危機管理となるたびに考え直すべきではないかとい思いを強くする。
この思いは事故の遭遇に無防備である点だけではなく集団登下校が児童にとって日常的に育まれるべき年齢相応の判断力と危機に対する身体能力を逆に育み困難としている問題点となっていると前々から疑っていたことも背景にある。
私が自身の2006年10月2日アップロードのHP――《市民ひとりひとり 第128弾 中学校構造改革(提案)》に児童・生徒に暗記教育、あるいは暗記式知識授受・情報授受を強いている日本人の行動様式・思考様式となっている権威主義性を排するために中学校の非義務教育化を提案、その中で生徒が幼少の頃から習慣づけられている集団主義的なもの・権威主義的なものを断つ方法の一つとして小学校の集団登下校の廃止を取り上げた。
当ブログ――《『ニッポン情報解読』by手代木恕之》でも何度かこの《中学校構造改革(提案)》を取り上げたが、集団登下校の廃止に関しては取り上げないままでいた。次に引用してみる。
〈中学校を非義務教育化したからといって、日本人が封建主義のはるか彼方の時代から思考様式・行動様式としていた集団主義・権威主義から即座に解放されるわけのものではない。幼い頃から徐々に訓練づけていくことによって、その効果は大きくなるはずである。幼少から習慣づけられている集団主義的なもの・権威主義的なものを気候が暖かくなるにつれて着ている衣服を一枚ずつ脱いでいくように剥いでいかなければならない。
まずは小学校の集団登下校の廃止から取り組まなければならないだろう。集団登下校とは複数の年長者が共同責任者となって、学校で決めた同じ地域に住む一定人数の年少者と指定された集合場所で落ち合い、学校まで集団で登校することを言うが、年長者と年少者が特に会話を交わすというわけでもなく、学校が決めたこと――いわば上が決めたことに形式的・機械的に従っている体裁のもので、 集団主義・権威主義の補強に役立っているが、それは同時に自己責任意識の培養から遠ざかるものである。集団の意志を優先させ、個人の意志を抑圧する集団主義の行動様式においても、上位権威者の言いなりに従う権威主義の行動様式においても、そこには自発的行為性はなく、いわば集団・上位権威に意志・意識・行為とも預ける形で自己を存在させているために、責任をも預けて、習慣的なものとすべき自己責任意識は常に欠いている状態にある。当然、自発的活動は望むべくもない。
集団登下校は車の事故から身を守ること(現在は痴漢から守ること)を主目的としたものであろうが、どう車を避け、道路をどう横断するかは自分が決め、自分の責任とすべきである。いわば集団で守り合うのではなく、最初から自分で守るという意識を持たせることによって、身体的なものだけではなく、精神的な反射神経をも養うことができる。身体的・精神的反射神経も、「生きる力」の一部となり得るものである。
(確かに幼児に対する性犯罪の防止は難しい問題だが、集団登下校が集団主義・権威主義の日々の刷り込みになっていることも事実である。集団登下校になるべく頼らない防止法を考案すべきではないだろうか。例えば勤めを離れた高齢者が健康維持の運動にいつも決まりきった時間に決まりきったコースを散歩するケースが見受けられるが、そういった高齢者を対象にスケジュール表をつくって、ときには各高齢者に最寄りの学校の児童が登下校する時間帯の通学路に散歩のコースと時間を交互に変えてもらうとか、あるいは警察のパトカーや地域の防犯巡回車が単に通学路をなぞって走るのではなく、「ただいま警察(あるいは地域)のパトーカーが巡回中です、不審者を見かけたとかの目撃がありましたら、パトカー(巡回車)を停めてお知らせください」とか言葉を使った音を出すことで走行中の通路だけではなく、声が届く広い範囲にまで心理的な警戒効果がカバーできるようになるのではないだろうか。
あるいは通行人がいたら時折クルマを停めて、窓からでもいいから、「何か変わったことはありませんでしたか」と声をかけるのも、通行人がたいしたことはないと思っていても、教えたことが重大な情報につながるといったことも起こり得るかもしれない し、効果があるのではないだろうか 。
あるいは下校時間帯に市の広報のスピーカーから、童謡の『浜辺の歌』や『ふるさと』のメローディーを流したなら、心を浄化を促す効果とならないだろうか)
大体が、学校が決めたとおりの道を決めたとおりに集団で登校して、歩道や道路脇を忠実に歩いていたとしても、車の方から暴走して突っ込んできた場合はどう避けようもない。集団登校の列に暴走車が突っ込んできて、何人かの死者を出した事故が実際に起きてもいるし、青信号の横断歩道を渡っていて、車にはねられることもある。もし暴走運転者が幼い頃から通学は一人か数人の親しい仲間とだけで行い、他人任せではない自らの判断で通行の激しい車を避けて信号機のない道路の横断や狭い道路の歩行の安全を確保する習慣 (=「自分で課題を見つ
け、それを自分の力で考え、解決する」総合学習方式の能力)を学習していたなら、例え車を運転する立場に変わっても、歩行者の安全に配慮する反射意識が条件的に働き、運転にT・P・Oを設けるようになるのではないだろうか。
集団登校の廃止は当然、父母の交通整理の廃止につなげなければならない。かつては緑のおばさんと呼ばれ、緑色の服を着て、小学生の通学路の交通整理に当たったが、現在では生徒の父母が交代で勤めている。父母が道路の両端から黄色の旗を横断歩道を囲うように差出して車の通行を止めると、それを合図に子どもたちは一斉に道路を渡る。少し遅れて歩いてきた生徒がいると、急いで手招きして、慌てて走らせてでもついでに渡らせようとし、子どもも、その指示に言いなりに従う。子供は父母が車を止めたついでに渡りたいと思ったなら、自分から走り出すはずである。いわば手招きは本人の判断に反する意志の強要、あるいは支配でしかない。例え自分から走り出しても、手招きされるのを学習していて、条件反射的に応じたものなら、間接的な意志の強要・支配となる。
これは一見些細なことではあるが、他のことによる個人の意志の強要・支配とも併せた複合的な集団主義・権威主義習慣の積み重ねを考えると、些細では済まされなくなる。世の大人たちは知らず知らずのうちに日常的に子どもたちに集団主義・権威主義の行動様式を重ね着させているのである。〉(以上)
集団登下校の側面として存在する安全に関わる責任の他者への預託は主体性の放棄そのもので、自ずと判断力の自発的育みを阻害することになるはずである。
主体性とは「自分の意志・判断によって自ら責任を持って行動する態度のあること」(『大辞林』三省堂)を言うから、当然、集団登下校はこのような性格性の排除要件となり得る。
また交通整理の父母が黄色の旗で示す意思に全面的に従う行動性、あるいは集団登下校で責任者となる上級生の意思に全面的に従う行動性は安全に関わる責任を他者に預けるだけではなく、危険に対する自身による身体的・精神的反射神経の育みを自ら阻害する要因ともなり、当然の結末として、危機に対する身体能力を奪うことにもつながるはずである。
最近の子どもの運動能力の低下が広く言われているが、集団登下校も助長している運動能力の低下ではないだろうか。
また、HPでは書き残したが、集団登下校は一般的には道草を自動的に禁じることになっている。道草はその多くが日常普段は見かけない人物や物象に対する興味や関心によって占められる。
いわば集団登下校は新たなモノに対する関心や興味、心惹かれるモノに対する関心や興味を遮断する役目を負い、知らず知らずのうちに精神の成長を抑圧しているということはなかっただろうか。
以上見てきたようなマイナス点を考慮したとしても、それを無視して、集団登下校に於ける児童の安全を守る危機管理としての側面を優先してその制度を維持するのか、マイナス点を重視して、児童一人ひとりの責任に任せて単独で登下校させるか、単に無自覚に制度を維持するのではなく、少なくとも自覚的な選択は必要であろう。
最低でも小学校入学時の出発点では友達2人か3人の親しい友だち同士による登下校とすべきではないだろうか。相手を誰にするかは当事者に任せ、その2人か3人が成長して単独の登下校とするか、あるいは相手を変えるかどうかの判断もその時期と共に各人に任せる。
いわば各々の責任と判断力に任せる。そのような責任と判断がついたとき、危機に対する身体能力も自ずとついているはずである。