4月17日(2012年)の衆院厚生労働委員会。岡田副総理が与野党協議次第では民主党が掲げている最低保障年金制度や年金一元化政策を撤回する用意があると答弁。《社保改革法案、総崩れ》(MSN産経/2012.4.18 00:14)
記事には実際には、〈平成21年衆院選マニフェスト(政権公約)に掲げた来年の関連法案の国会提出を見送る考えを示した。〉と書いてあるが、自民党は元々民主党の最低保障年金制度には真っ向から反対して、消費税率が同じ10%でも、社会保障政策が大きく異なるという立場を採り、その撤回を迫っている関係からすると、新年金制度の柱としている最低保障年金制度法案の国会提出見送りは撤回そのものを意味するはずだ。
〈後期高齢者医療制度見直し法案に関しても、政府・民主党は今国会への提出を5月中旬以降に先送りする方針だ。〉と記事は紹介している。
〈消費税増税関連法案の迅速な審議入りを求めて野党に譲歩姿勢を示した結果、民主党の社会保障改革の目玉法案は「総崩れ」の様相を呈している。〉・・・・・
消費税増税自体がマニフェスト違反だが、消費税増税法案国会成立と引換えに取引する最低保障年金制度撤回も違反の上に違反を重ねるマニフェスト違反であるはずだ。
公明党の坂口力元厚労相の質問に対して次のように答弁している。
岡田克也副総理「年金制度について今から各党間で話し合い、大きな方向性で合意できれば、来年の法案提出に必ずしも固執する必要はない。
新制度であれ既存制度の手直しであれ、話し合いで合意に至るのがより早い道だ」
記事最後の解説。〈ただ、新年金制度関連法案の来年提出と後期高齢者医療制度廃止はマニフェストに掲げられ、今年2月に閣議決定された一体改革大綱にも明記されたもの。法案提出の先送りは民主党内の反発も予想される。〉・・・・・
だが、この撤回に関して野田首相は拒否の姿勢を示していた。《新年金制度の撤回拒否 野田首相「一つのゴール」》(MSN産経/2012.3.6 16:33)
3月6日午後の衆院予算委員会。最低保障年金創設を柱とする民主党の新年金制度について――
野田首相「党内議論の積み重ねの末に描いた一つのゴールだ。基本的に堅持する。
(自公両党が現行制度の存続を主張していることについて)ゴールを見ながら整合的に現行制度を改善するのが社会保障と税の一体改革だ。議論がかみ合う余地はある」
自公の現行制度(の改善)存続にしても、民主党の新年金制度にしても現行制度の改善に目的を置いているのが社会保障と税の一体改革なのだから、「議論がかみ合う余地はある」と言っているが、自公の現行制度改善・存続と民主党の新年金制度とは似て非なるもので距離があり過ぎ、答弁に無理がある。
岡田副総理の撤回意思には伏線がある。《民主年金案、修正の用意=民主・前原氏》(時事ドットコム/2012/03/25-19:10)
3月6日の衆院予算委員会で野田首相が民主党案の基本的堅持を言ってから20日あまりして、前原民主党政調会長が新年金制度の修正意思を表明した。3月25日の新潟市内の党の会合。
前原政調会長「我々の考え方だけを絶対だと言い続けては、前に進まない。国民のために大所高所からしっかり議論することも大切ではないか。
時の政権が固執しすぎて、国民生活が混乱することは一番避けなければならない。どのような(政権の)枠組みになっても、基本的な部分の信頼関係と方向性を共有しないといけない」
そして今回の岡田副総理の撤回意思ということなのだろうが、だとしても、前原の言っていることはメチャクチャである。
「我々の考え方だけを絶対だ」としてマニフェストに掲げた新年金制度政策であったはずだ。マニフェストとは、何度もブログで書いているように、他党の政策に優る自党の優越性ある政策を創造、列挙した上でその優越性を国民の選択に委ねるのがマニフェスト選挙であるはずである。
いい加減な気持で政策を創造してマニフェストに並べ立て、選挙時、いい加減な気持でその優越性の選択を国民に委ねたわけではあるまい。
いい加減な気持で優越性の選択を国民に委ねたのではない、マニフェストに目玉として掲げた政策の数々であり、民主党が国民の選択を受け、政権を獲った以上、その優越性を認められたのであり、そう簡単にはその優越性の看板を降ろして言い訳はない。
大体が一人で政策をつくるわけではない。党内やシンパの党外の何人もの政策通が雁首を揃えて仕上げるのであり、仕上げた上で自らの政策の優越性を訴えたのである。マニフェストに掲げた政策を以って国民の生活向上、幸福を約束したのである。
降ろした場合、他党に優る優越性あるとした自らの言葉を裏切ることになる。いや、自らが創造した政策に対する裏切りであり、同時に国民に対する裏切りともなる。国民にウソをついたことになる。
単に撤回だ、与党案の丸呑みだ、修正だでは済ます訳にはいかない一旦は掲げた優越性の看板であるはずだ。
ただ悲しいことに優越性は常に数(=議席)と共に存在し、数(=議席)の保証を必要とする。数(=議席)を失ったとき、実質的に政策としての優越性を保持していたとしても、数(=議席)の喪失と同時に政策の優越性をも喪失する。
なぜなら、優越性が国民の選択を受けたということは、それらの優越性ありとされた政策が法案となって国会を通過し、成立するための数(=議席数)を国民から与えられたということでもあるからだ。
となると、2010年参院選で数(=議席)を失った時点でマニフェストに掲げた数々の政策の優越性そのものを失ったことを意味することになる。
時の首相菅前仮免許は参院選民主党大敗を与野党熟議の機会を与える「天の配剤」だと抜かして、狡猾にも自己責任回避を謀ったが、数を失うことが何を意味するのか、どれ程のことか合理的判断能力を元々欠いていたから、気づかなかった。
数(=議席)を失うことで、政策の優越性そのものを失い、政策の変質を迫られることになった。あるいは撤回を余儀なくされ、野党案の丸呑みで替えるといった事態が生じることになった。
現在強いられている苦境を乗り切って自らの政策の優越性を守り切るためには再度自らの政策の優越性をマニフェストに掲げて優越性を絶対的に保証する3分の2以上の数(=議席)の獲得を目指す選挙のやり直し以外に道はあるまい。
その可能性は限りなくゼロに近いかもしれないが、例え可能税ゼロに終わったとしても、そのように目指すことが、政治家として筋を通すことではないだろうか。
一旦は掲げた政策の優越性である。数(=議席)保証を再度獲ち取って守らなければならないはずだ。
野田首相が不退転を言うなら、そうすべきだろう。何も進まない政治・何も決めることができない政治に決着をつけるためにも。