
安倍晋三が3月20日の参院予算委員会で維新の党の真山勇一議員が自衛隊が他国と共に訓練を行う意義に関する質問を行った際の答弁中、自衛隊を「我が軍」と表現したという。
安倍晋三「我が軍の透明性を上げていくことに於いては大きな成果を上げている。自衛隊は規律がしっかりしている、ということが多くの国々によく理解されているのではないか」(asahi.com)
記事は安倍晋三が自衛隊を「軍」(=軍隊)として表現することは次の点で問題だとしている。
先ず憲法9条が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めている点。いわば自衛隊を「軍」(=軍隊)とすることは憲法9条の規定に反する不的確な表現を一国の首相が行ったことになる。
次に2006年の第1次安倍内閣の答弁書で「自衛隊は我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織で、『陸海空軍その他の戦力』には当たらない」としている点。
要するに憲法違反とならないように自衛隊を「軍」(=軍隊)に当たらないと閣議決定していることに反して安倍晋三自身が自らが自衛隊を「軍」(=軍隊)に当たる組織であるが如くに表現している点に問題があるということなのだろう。
大体が実質は軍隊であるにも関わらず「自衛隊は我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織で、『陸海空軍その他の戦力』には当たらない」とすること自体がマヤカシ以外の何ものでもないが、何しろ世界に対して日本の軍事的影響力を高めようと意図していることから考えると、他国軍との共同訓練という場面を想定する中で自衛隊を実質的に他の国の軍隊と同等、あるいは遜色のない優秀な組織として扱いたい衝動を常日頃から抱えていてることを図らずも曝(さら)け出したといったところに違いない。
果して記事が指摘する二つの問題点のみだろうか。
安倍晋三の発言に応えてSNSに次のよう投稿が現れている。
〈「我々の」でもなく「我が国の」でもなく「我が」って何なんだよ。しかも「我が自衛隊」ではなく「我が軍」。〉
〈みずからの近衛兵であるかのように自衛隊を「我が軍」とサラッと言えちゃうところにも彼のおぞましさが現れているわけです。〉・・・・・
要するに安倍晋三の「我が軍」という発言に独裁者的表現を見ている。あるいは独裁者的表現の臭いを嗅ぎ取った。
独裁者は自国軍隊を自身が所有する軍隊と見做し、国家や国民の利益のためにではなく、自身の政治的利益を目的に利用する。独裁者自身と自国軍隊の一体化の病理に侵されることになる。
一体化によって強大な国家権力を個人的に握ることになる。独裁者は自身の国家権力をより強大化すべく欲すると、国民の利益を犠牲にしてまで自国軍隊組織の肥大化を謀り、自身と一体化させた軍による国民支配を強化する。
安倍晋三が自衛隊を「我が軍」と表現したとき、その表現に 自衛隊と自身を一体化させた独裁者的ニュアンスが顔を覗かせていなかったろうか。
安倍晋三はA級戦犯全員無罪を自らの歴史認識とし、東京裁判否定、さらには日本の戦争の侵略否定を歴史認識としている。戦前という歴史的空間に日本無罪、あるいは日本軍無罪の世界を見、戦後の世界にその無罪を持ち越している。
あるいは安倍晋三は靖国参拝を通してそこに葬られている戦死者に対して常に一体感を見せている。
靖国の戦死者が戦前の日本国家を一身に背負い、国家の戦争意志を国家に代わって貫徹した国家の体現者であるのに対して戦後の参拝が国家体現者であった戦死者を通した追悼である以上、自ずと戦前の国家体現を同時に行っていることになる。
それが「お国のために戦った」という戦死者に対する追悼の表現となって表れているのであって、戦後はいつの間にか消えてしまったが、「天皇陛下のために戦った」という追悼の表現となって表れた。
いわば「お国のために戦った」と戦前の「お国」を同時に体現し、「天皇陛下のために戦った」と戦前の天皇を同じく同時に体現しているのである。
安倍晋三は最も強烈なその国家体現者の一人である。
このような戦前無罪の歴史認識を持ち、戦前の国家体現者である安倍晋三が自衛隊を「我が軍」と言ったとき、そこに軍隊と自身の一体化を常に策謀・欲求している独裁者さながらに自衛隊と自身を一体化させようとする意識が些かも働いていなかったと果して断言できるだろうか。
ただ単に日本国憲法が培うこととなった戦後日本の民主主義がそれを拒んでいるのであって、意識としては安倍晋三の歴史修正主義、軍国主義、国家主義から言っても、働いていたと見る方が妥当性があるように思える。