右翼政治家稲田朋美が2月27日記者会見で上村遼太中1殺人事件に早速反応した。
稲田朋美「少年が加害者である場合は名前を伏せ、通常の刑事裁判とは違う取り扱いを受ける。
(犯罪が)非常に凶悪化している。犯罪を予防する観点から今の少年法でよいのか、今後課題になるのではないか」(asahi.com)
より厳罰主義で臨むべきだとの欲求を露わにした。
その厳罰主義とはテレビ・新聞が犯罪を犯した少年の名前を告げるのを許し、写真を載せるのを許し、少年裁判が被害者等に限って条件付きで許している傍聴を通常の刑事裁判並みに誰に対しても可能とし、裁判の模様もテレビ・新聞が報道できるように少年法を改正して、これらを以って少年犯罪を抑止する手立てにしようという内容の発言となっている。
だが、少年犯罪は大人の犯罪と違って、教育と深く関係している。その多くが活躍できる能力に基づいた活躍の場を学校社会に見い出し得ず、いわば活躍できる能力も活躍できる場も学校では見い出し得ず、活躍できる場は夜の公園とかゲームセンターとか大型店舗とかの学校外社会に求めて、そこで発揮できる他愛もないお喋りをして屯するとか万引きとか恐喝とかの能力を自分が活躍できる能力とするに至っている教育の問題を抜きにいきなり厳罰主義で臨んで、それが抑止力として働くとでも思っているのだろうか。
単細胞な女だ。
このような活躍の場と活躍できる能力の学校社会から学校外社会への移動は各学区ごとに無視できない数で多く存在するだろうから、日本全国で相当な数の現象にのぼるはずで、そういった現象は厳罰主義の法律でも止めることはできないはずで、数多くあるその中から突然変異のような形で今回のような事件や、3月1日のNHK日曜討論「中1男子殺害事件 いま子どもたちに何が」で取り上げていたように1988年11月に17歳の女子高生を誘拐・監禁して16歳から18歳の少年6人が41日間に亘って強姦を繰返し、最後には顔が変形する程の殴る蹴るの激しい暴行を繰返すようになって死なせてしまって、コンクリートに詰めて死体を遺棄した、恐怖で支配し従属させた女子高生コンクリート詰め殺人事件やその他類似の悲惨な事件が突発しているのだから、厳罰主義がどれ程に関与できるか疑わしい。
そもそもから言って、少年法による厳罰主義は事後対応の対処療法であって、教育こそが事前対応となる原因療法の役に当たるべきでありながら、そうであるなら、既発の過剰な暴力やイジメに彩られた少年事件を徹底的に検証して、それを以後の教育に生かして再発防止に努めるべきを、それを言葉だけで終わらせていたから、安倍晋三にしても教育行政を与る下村博文にしても今回の中1殺人事件で[検証」と「再発防止」の同じ言葉を使うことになっている。
だが、これまでの「検証」と「再発防止」が言葉だけで終わらせる運命を慣習としていたから、今回も見るべき検証もできず、見るべき再発防止策も見い出し得ず、同じ繰返しで終わって、喉元通れば熱さ忘れるで、すっかり忘れた頃に再び類似の事件が起こるといったことを繰返す可能性は否定できない。
このことは上記「日曜討論」で最後に、「子どもと向き合うにはどうしたらいいか」と問われて答えた、中学校教師生活22年、長年高名な教育評論家として意見を吐き、現在法政大学の教授として中学校生の生態ばかりか、大学生の生態も知ることになっていて、臨床教育研究所「虹」を主宰して教育研究の最前線に立って活躍している尾木直樹が「再発防止」となる子どもとの向き合い方に優れた答えを出してくれると期待したが、この尾木直樹にして人間性善説と楽観主義に彩られた答しか吐き出すことができなかったことからもほぼ証明できるのではないのだろうか。
尾木直樹「基本は大人だけで頑張らない。子どもたちを参画させて、事件の検証を進めて、普段の学校づくり、地域のつくり方も含めて子どもの意見を聞き取る。子どもと共に学校もつくって、地域もつくる。
子どもたちはネットをつくったり、色んなことに力量を高めている。うっかりしたら、僕らよりも遥かに力がある。LINEを使う力なんか物凄いんですから。だから、そんな中でみんな一緒になってパートナーシップ(協力関係)というものが物凄く大事かと思う。
我々だけが頑張ってしまっても、また事件が起きてしまう。子どもが入っていれば、強いと思いますねえ」――
学校社会が提供している場と能力に関わる利害に適合し、守られているからこその学校社会で活躍の場と活躍の能力を見い出すことができる大多数の子どもたちの存在であり、前者の利害の固守によって生じている不適合からの、いわば守られていないからこその学校外社会で活躍の場と活躍の能力を見い出すことになっている少数派の子どもたちの存在であろう。
そしてこういった利害の異なる状況が古くて新しい問題として延々・脈々として続いてきた。
当然、利害を固守し、その利害に守られたい側とその利害に多分敵意を向けている側とでは数の上でも意見の一致は困難で、尾木直樹が言う「子どもの参画」はテストがよくできる子、いい子たちだけの「参画」のみで一致を見る従来からの利害の固守となる公算が高い。国民の生活に深く関係する政策を政治家と有識者だけで話し合うようにである。
いわば少数派が参加しても参加しないと同じ結果となる。人間性善説と楽観主義に取り憑かれていなければ、「子どもと共に学校もつくって、地域もつくる」といった他愛もない結論を導き出すことはできまい。
全て解決できるわけではないが、学校の成績に関係しない教科授業、学校の成績に関係しない体育授業を設けたり、同じく成績に関係しない運動部とかスポーツクラブを用意して、少しでも学校社会の中で活躍の場と活躍できる能力を提供すべきではないだろうか。
テストの成績を上げたい、あるいは学力をつけたいという児童・生徒にはそのように応えてやり、勉強が決定的に苦手な児童・生徒は集めて必要な数のクラスに編成して、歌って踊るアイドルのように歌って踊らせたする授業を行って活躍できる場と能力を提供してやる。
アニメーションが好きな児童・生徒は音声を消して白い布を張った黒板に映写して、交代で生徒に声優を務めさせる。下手であっても上手であっても、学校の成績には関係なしとする。
楽しみながら充実した時間を過ごすことができたなら、何かを学ぶはずである。
体育授業も成績に関係なしとするから、大勢でワイワイ言いながら、サッカーの試合をしたり、ソフトボールの試合をしたりする。その試合に限って勝敗がつくことになるが、あくまでも楽しむことに主眼を置く。
成績に関係しない運動部とかスポーツクラブの場合は他校や街の同じ性格の運動部やスポーツクラブと適宜対抗試合を行うことにするが、成績に関係しないからトーナメント方式とかリーグ戦方式とかで順位を決定するといったことはせず、また技術を上げるために猛特訓を課すといったこともせずに対外試合のみを重ねていくことにすれば、お互いライバルではなく、楽しみながらの試合だから、他校の児童・生徒との交流・コミュニケーションが深まっていくことになる。
こういった活躍の場・活躍できる能力を提供することによって生じる新たな利害は学校社会で活躍の場と活躍の能力を見い出すことができているる大多数の子どもたちの利害と両立可能となるのではないだろうか。
少なくとも教育の問題を抜きにして懲罰主義に走る稲田朋美の少年法改正欲求よりは健全でまともだとは思う。
参考までに。
《日本の教育/暗記教育の従属性を排して、自発性教育への転換を - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2008年11月18日記事)
《考える教育は朗読劇から - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2010年9月21日記事)