日本国憲法は第5章「内閣 第66条2」で、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定している。
稲田朋美も安倍晋三も軍人の経歴はない。この意味では文民と言うことになる。だが、その精神性に於いて軍人の姿を取っていないだろうか。
2017年6月12日付「LITERA」に稲田朋美の戦前の天皇全体主義国家・国家主義国家を今以て信奉している歴史認識に関わる幾つかの発言が載っている。
「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」(赤池誠章参院議員らとの座談会、「WiLL」06年9月号/ワック)
「いざというときに祖国のために命を捧げる覚悟があることと言っている。そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない」(産経新聞2006年9月4日付)
「国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです!」(講演会での発言)
「首相が靖国に参拝することの意味は『不戦の誓い』だけで終わってはなりません。『他国の侵略には屈しない』『祖国が危機に直面すれば、国難に殉じた人々の後に続く』という意思の表明であり、日本が本当の意味での『国家』であることの表明でなければならないのです」(渡部氏、八木秀次氏との共著『日本を弑する人々』PHP研究所)
「『祖国に何かあれば後に続きます』と誓う」にしても、「祖国のために命を捧げる覚悟」にしても、「自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならない」にしても、「祖国が危機に直面すれば、国難に殉じた人々の後に続く」にしても、戦死を前提としているところは戦死を以って国への奉公とする戦前の天皇全体主義国家・国家主義国家の古臭い思想の再現であって、そのような思想を民主主義の現代に於いても引きずっている証明に他ならない。
いくら国のために戦場に赴くにしても、戦死を前提とすべきではなく、それは止むを得ない結果であって、生きて還るという信念を常に前提としなければならないはずだ。
なぜなら、それ程にも一人ひとりの生命(いのち)は尊いはずだからだ。戦前ならいざ知らず、戦後日本に於いても戦死を前提とした国家への奉仕を説く。
また、生きて還るという信念が一人ひとりの励みや強さを生み、自他の生命への尊重へと繋がっていく。一般的に言っても、生きて還った兵士の数の多い方が戦争は勝利している。
「祖国が危機」の際の戦死を前提とした国家への奉仕を戦前の言葉で要約すると、戦前に於ける突撃精神と言うことになる。突撃という言葉自体に戦死という意味を含ませている。
あるいは戦前の日本軍で頻繁に用いられた玉砕戦法自体が戦死を前提としていた。
安倍晋三にしても自著「美しい国へ」で、特攻隊員の日記を引いたうえで、「たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、(今の国民は)ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか」と書き、同じく自著「この国を守る決意」で、「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」と書いて、戦前の思想でしかない戦死を前提とした国家への奉仕を説いている。
稲田朋美にしても安倍晋三にしても、戦前の軍部が最大の体現者として国民に強制していた戦前の天皇全体主義(天皇・国家を全体とする、その利益を第一とし、個人に対しては天皇・国家の全体に奉仕を求め、その奉仕を最大の価値と位置づける政治上の主義)・国家主義(国家をすべてに優先する至高の存在あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想)に今以ってまみれている。
このような内閣総理大臣あるいは国務大臣を、その精神性に於いて真の文民に当てはめることができるだろうか。
2017年3月8日の参院予算委員で社民党の福島みずほが防衛相稲田朋美の過去の教育勅語賛美の発言を取り上げて、現在もその思いに変わりはないのかと問い質した。
稲田朋美「私は教育勅語の精神であるところの日本が倫理国家を目指すべきである、そして親孝行ですとか友達を大切にするとかそういう核の部分は今も大切なものとして維持していて、そこに流れているところの核の部分、そこは取り戻すべきだというふうに考えております」
稲田朋美は「教育勅語の精神」を「倫理国家への教導」と見做し、教育勅語はその書だとしている。だから、「親孝行」とか、「友達を大切にする」とかの教えを「核の部分」としていると。
だが、天皇を国民の頂点に置く天皇全体主義国家であった戦前の日本の天皇が国民を教え導くという体裁を取った「教育勅語」である。当然、天皇・国家の利益を第一としている。
もし国民の利益を第一としていたらなら、天皇全体主義国家という国家体制も国家主義という国家体制も取らない。戦前も戦後と同様に基本的人権を十分に保障した民主主義体制を取っていただろう。
「教育勅語」が戦前の日本の天皇が国民を教え導くという体裁を取った天皇・国家の利益を第一とした書であることは次の個所に象徴的に現れている。現代語訳
読みやすいように改行を適宜行った。
「あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。
そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい」――
「もし危急の事態が生じたら」との文言で最終的に国家(=公)への奉仕と天皇への奉仕を求めている。天皇・国家の利益を第一と考えているからこその国家(=公)への奉仕であり、天皇への奉仕に他ならない。
当然、「父母に孝行」も、「兄弟仲良く」も、「夫婦は仲むつまじく」も、「友達とは互いに信じあい」も、「行動は慎み深く」も、「他人に博愛の手を差し伸べ」も、「学問を修め」も、「仕事を習い」も、「知能をさらに開き起こし」も、「徳と才能を磨き上げ」も、「進んで公共の利益や世間の務めに尽力」も、「憲法を重んじ、法律に従いなさい」も、天皇・国家の利益を第一と考えた国家(=公)への奉仕と天皇への奉仕を目的としている。
ここには子から兄弟、夫婦、友人、同僚や社会の人間へと段階を踏んで、それぞれの段階での道徳を守らせて善き国民に育てて、最終的に天皇・国家への奉仕に仕向ける国民統治の仕掛けがある。
「教育勅語」を国民統治装置と言う所以である。
そのための各段階での道徳の教えであって、それを道徳の教えだけ取り出して、「教育勅語の精神であるところの日本が倫理国家を目指すべきである」などと言う。
「教育勅語」が戦前の天皇全体主義国家・国家主義国家の産物である以上、「倫理」を国家体制の大本に置くはずはない。大本に置いていたなら、もっと国民の命を大切にしたはずだ。
そして戦前の天皇全体主義国家での最大の天皇・国家に対する国民の奉仕は侵略を性格とした日中戦争・日米太平洋戦争で「祖国のために命を捧げる」こと、「自分の国を守るためには、血を流す」こと、「祖国が危機に直面すれば、国難に殉じた人々の後に続く」ことなどなど、戦死を以って天皇と国に尽くすことであった。
このような人間類型を形作るのに「教育勅語」が非常に役立った。殆どの誰もが生きて還るという信念をサラサラ持たずに、喜んでかどうか分からないが、「天皇陛下、バンザーイ」と叫び、靖国に祀られることを思い描いて死んでいった。
稲田朋美は戦前の天皇全体主義国家・国家主義国家の産物ででしかない「教育勅語」を自らのバイブルとする。そして安倍晋三にしても2017年3月31日、「教育勅語」を「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書を閣議決定している。
だが、天皇・国家の利益を第一と考えた国家(=公)への奉仕と天皇への奉仕を目的として天皇全体主義・国家主義で覆われている国民統治装置としての「教育勅語」が民主主義と基本的人権と平和主義を精神とする日本国憲法に反していないと誰が言えるだろうか。
戦前の天皇全体主義・国家主義に取り憑かれている稲田朋美にしても安倍晋三にしても、その精神性に於いて果たして純粋な文民に当てはめることができるだろうか。
稲田朋美は2016年8月15日は8月13日~16日アフリカ東部ジブチ訪問のために参拝は中止以外、2005年の初当選以降、終戦記念日の8月15日とサンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権が回復した4月28日に欠かさず靖国神社を参拝しているという。
靖国神社に祀られている日中戦争・日米戦争で犠牲となった軍人・兵士は二つの類型に分けることができる。一つは戦前の天皇全体主義・国家主義を国民統治装置として利用し、国民を支配する側と、もう一つは戦前の天皇全体主義・国家主義を国民統治装置とされて支配される側である。
後者に於ける日中戦争・太平洋戦争の戦死者の殆どは既に触れたように生きて還るという信念を固く持って戦争をしたわけではない。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」を兵士のモットーとして、いわば「天皇のため・お国のために戦って死ぬこと」を前提として戦地に赴き、多くの命を無駄死にさせた。
当然、靖国神社に祀られている後者に属する軍人・兵士の多くは戦前の天皇全体主義・国家主義の力学に心身共に囚われていた。
いわば靖国神社に祀られている後者に属する多くの軍人・兵士の戦争行為は戦前の天皇全体主義・国家主義と支配される関係の中で切っても切れない関係にあった。
そうである以上、それを国家のために尊い命を捧げたと顕彰することは戦前の天皇全体主義・国家主義を顕彰することを意味することになる。
戦前の天皇全体主義・国家主義の力学に基づいて戦前の戦死者を「国のために尊い命を犠牲にした」と顕彰することで、今の時代の若者に「国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです」などと戦死を前提とした国家への奉仕・犠牲を靖国神社を装置として求める。
このようにも戦前の天皇全体主義・国家主義に立っている稲田朋美を、安倍晋三も同類だが、その精神性に於いて真の文民と言えるのだろうか。
稲田朋美にしても安倍晋三にしても時代が時代なら、たちまち戦前の天皇全体主義者・国家主義者としての顔を見せるに違いない。
なぜなら、そのような顔こそ、内面と外面、それぞれの思想と何の抵抗もなく一致することになるからだ。