今回発見イラク自衛隊日報も、同様経緯の南スーダン日報も、何らかの政治意思が働いた隠蔽と推理可能

2018-04-06 13:02:33 | 政治

安倍晋三:従軍慰安婦強制連行否定2007年3月16日閣議決定


「政府が発見した資料の中には、軍や官憲がいわゆる強制連行を
直接示すような記述も見当たらなかった」
とする
“政府発見資料”とは如何なる資料か、公表すべき

 一旦は存在していなかったとしたイラク派遣自衛隊日報が1年近く経過後にその存在を発見、4月2日(2018年)に防衛相の小野寺五典が公表、陳謝して問題化している。

 この存在していないとしていながら、かなりの期間を置いて発見・公表という経緯は南スーダン自衛隊PKO派遣部隊の日報と似たような構図を取っている。

 自衛隊の南スーダンPKO派遣は2011年8月8日に民主党菅無能が派遣を表明、野田佳彦が派遣を実施し、安倍晋三が引き継いだものだが、安倍政権時の南スーダン自衛隊PKO派遣部隊の「日報作成と開示の経緯」を時系列で振り返ってみる。

●2016年7月 南スーダンの首都ジュバで大統領派と反大統領派が激しい戦闘行為
          現地PKO派遣自衛隊施設部隊はその日報(活動記録)を作成、作成後、陸自の中央即応集団司令部に報告
●2016年9月末 「平和新聞」編集長のフリージャーナリスト布施祐仁氏が情報公開法に基づいて開示請求
●2016年9月・10月を中心に上記武力衝突が「戦闘行為に当たるかどうか」で国会質疑
●2016年12月2日 陸自の中央即応集団司令部は説明資料に使った後、廃棄したとして非開示扱い。
 開示請求に対して30日以内に対応を判断する必要上、電子データ保存の統合幕僚監部までは探索せず           
●2016年12月12日 この日を境に自衛隊南スーダンPKO派遣部隊に駆け付け警護と宿営地防衛の新任務を付与
●2016年12月26日 統合幕僚監部で電子データー化された日報を発見
●2017年1月27日 稲田朋美へ報告
●2017年2月7日 防衛省、日報の存在を公表
          統合幕僚監部「マスキング(黒塗り)処理などを行ったため、今月7日の公表に至った」(以上)

 この時系列の経緯から見てとれる疑念は情報公開法に基づいた開示請求には30日以内に対応を判断する必要上、電子データ保存の統合幕僚監部まで探索しなかったことにある。電子データが相手なら、文字検索をかけ、日報が存在していれば、日を掛けずに簡単に見つけることができる。それを確認もせずに30日期限を理由に統合幕僚監部の電子データを除いた対応は態度は疑念だけを与える。

 第2の疑念は2016年12月26日に統合幕僚監部が自部署で電子データー化した日報を発見していながら、防衛大臣である稲田朋美への報告が1カ月遅れの年を超えた2017年1月27日となっていることである。

 この時系列には現れていない疑念もある。「日報」は現地南スーダン自衛隊部隊がパソコンで作成、陸上自衛隊の「指揮システム」にある掲示板にアップロードするシステムになっていて、尚且、その掲示板からアクセス権限があれば陸上自衛隊だけではなく、防衛大臣の指揮監督を受けて陸上幕僚監部、海上幕僚監部、航空幕僚監部の事務を取り纏める防衛省内設置の統合幕僚監部もダウンロード可能のシステムとなっているにも関わらず、2016年12月26日に統合幕僚監部が発見した「日報」はその掲示板からダウンロードしてあったデーターでありながら、非開示通達後であったとしても、統合幕僚監部の電子データを探索しなかったのはなぜかという疑念である。

 大体が海外PKO派遣の自衛隊部隊の経験を記した電子データ化した「日報」の全てを削除し、紙媒体という形でも保存していなかったなら(今の時代、紙媒体のみで情報を残すことは再利用に不便となる)、特有・通有を合わせたそのときどきの様々な事例や経験を他の部隊やPKOの計画立案の部署等が参考することも学習することも不可能となってしまうばかりか、知見として確立させることもできなくなってしまう常識上、こういった常識に反して電子データが存在しないとすること自体の疑念も付け加えなければならない。

 2016年7月に南スーダンの首都ジュバで大統領派と反大統領派が激しく衝突していて、2016年9月26日召集、11月30日までの66日間の予定を14日延長、さらに3日延長となって2016年12月17日に閉会した第192回国会(臨時国会)ではこの衝突が戦闘行為である場合は「PKO5原則」に抵触する関係から、いずれの解釈が正当性があるかで質疑が紛糾した。

 自衛隊がPKO(国連平和維持活動)に参加する際の条件

(1)紛争当事者間で停戦合意が成立していること
(2)当該地域の属する国を含む紛争当事者がPKOおよび日本の参加に同意していること
(3)中立的立場を厳守すること
(4)上記の基本方針のいずれかが満たされない場合には部隊を撤収できること
(5)武器の使用は要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること

 大統領派と副大統領派の衝突が「戦闘行為」であったなら、PKO5原則の(1)に抵触することになり、安倍政権は派遣の条件が崩れていながら派遣を続けていた責任を問われることになる。

 安倍晋三と当時の防衛相稲田朋美は2002年2月5日の政府答弁書、〈テロ対策特措法第2条第3項の「国際的な武力紛争」とは、国家又は国家に準ずる組織の間において生ずる武力を用いた争いを言〉い、〈テロ対策特措法第2条第3項の「戦闘行為」とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為を言う。〉を根拠として大統領派と副大統領派の衝突を「戦闘行為」に当たらない、PKO5原則に抵触しないと一貫して主張し続けた。

 要するに大統領派と反大統領派の争いは一つの国の中の二つの勢力争いに過ぎなく、「国家又は国家に準ずる組織」とは言えないのだから、そのような国家規模間で生ずる「国際的な武力紛争」には当たらないとして、「国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する戦闘行為」とは解釈できないとする論理の当てはめである。

 但し「戦闘行為」ではないとの位置づけは単にPKO5原則に抵触しないという問題を超えて、派遣地域は軍事的に危険な状況にはないとの解釈を施していることをも意味する。

 そして臨時国会が閉会した2016年12月17日から起算してきっちりと10日後の2016年12月26日に電子データー化された日報が統合幕僚監部で発見されたと公表。この10日間は国会での与野党の議論の白熱のほとぼりを冷ます冷却期間と推理することもできる。

 その根拠は公表された2016年年7月11、12日付分の約110ページの「日報」には11個所も「戦闘」という言葉が記載されていて、大統領派と副大統領派が戦車や迫撃砲を用いて激しく戦闘を展開したといった表現もあったからである。

 さらに臨時国会会期中の2016年12月12日に自衛隊南スーダンPKO派遣部隊に駆け付け警護と宿営地防衛の新任務付与を行っている。当然、激しい戦闘行為が展開されている危険地域勤務の自衛隊へのより危険な新任務付与と解釈した追及を予想したはずである。

 「戦闘」、「戦車」、「迫撃砲」といった文字をなぜマスキング(黒塗り)処理して隠さなかったのだろう。そういった文字までをマスキング(黒塗り)したなら、衝突の状況まで隠すことになって、既に南スーダンのPKO国連本部やマスコミが激しい戦闘を繰り広げたと報道していることと整合性が取れなくなることから、マスキングができなかった可能性は指摘できる。

 但し電子データ相手だと、「戦闘」という言葉を「武力衝突」という言葉にも、単に「衝突」という言葉にも簡単に変換可能となる。変換しなかったのは、そのゴマカシを南スーダン現地自衛隊員の何人かが現地の緊張感を軽視していると反発、その内の一人か、あるいはその者がある意図を持って他人に知らせ、その他人がマスコミ等に内部告発しない保証はない懸念から、結局のところ「法的な意味では戦闘ではない」との論法で逃げることにしたいうことかもしれない。

 南スーダンは大統領派と副大統領派の戦闘がやまず、国際連合難民高等弁務官事務所は2016年9月16日に隣国で避難生活を送る南スーダン人難民が100万人に到達したと発表している。殺人や強姦、強盗等の治安の悪化、貧困が難民の増加に拍車を掛けていた。

 安倍晋三は南スーダンの国家建設への協力を謳いながら、その途上にも至っていない社会混乱を置き去りにして自衛隊PKO派遣部隊の撤収を2017年4月17日に開始、2017年5月25日に最後の部隊が首都ジュバから出国、撤退を終了、2017年5月27日に帰国している。

 そして第48回衆議院議員総選挙が2017年(平成29年)10月10日に公示され、10月22日に投票が施行されている。

 もし南スーダンで 大統領派と反大統領派の“戦闘”に巻き込まれて、自衛隊PKO派遣部隊の自衛隊員から1人でも死者を出したなら、「戦闘行為ではない」=「派遣地域は軍事的に危険な状況にはない」と解釈していたことを虚偽とすることになって、安倍政権は結果通りの勝利を収めることはできなかったはずだ。

 こういった経緯を考えると、「日報」の一旦は不存在とした判断は「戦闘行為」、「戦車」、あるいは「迫撃砲」といった南スーダンに於ける危険な状況の隠蔽を策す政治意思が働いた第192回国会(臨時国会)終了後の発見・公表であり、同時に2017年10月の総選挙を見据えた深慮遠謀からの政治意思と推理することもできる。

 では、イラク自衛隊日報が南スーダン自衛隊PKO派遣部隊の日報と似たような構図を取っていることを見てみる。陸上自衛隊イラク派遣の活動状況を記録した日報の不存在の経緯については「毎日新聞」記事の画像から必要個所をピックアップしてみる。

●2017年2月16日 野党が要求していたイラク派遣部隊の日報について防衛省が「不存在」と回答。
●2017年2月20日 稲田防衛相(当時)が国会で イラク派遣部隊の日報は「残っていないと確認した」と答弁
●2017年7月28日 稲田朋美が南スーダン派遣部隊の日報問題の責任を取って辞任
●2017年11月27日 陸上幕僚監部が全部隊に海外派遣で作成した日報などに関する調査を指示
●2018年1月12日 陸自研究本部が幕僚総務課にイラク派遣部隊の日報が見つかったと報告
●2018年1月31日 陸幕衛生部が総務課に日報があると報告
●2018年2月27日 陸幕が統幕に報告
●2018年3月31日 統幕が小野寺五典防衛相に報告
●2018年4月2日 安倍晋三に報告後、小野寺五典がイラク日報の存在を公表
            2017年5月に情報公開され、開示された文書「日米の動的防衛協力」を巡り他にも開示すべき文書があったと小野寺五典が公表(以上)

 これらの経緯を見ると、南スーダン自衛隊PKO派遣部隊の日報と同じく似たようなそっくりの構図と取っていることが明かとなる。

 2017年2月16日に野党がイラク派遣部隊の日報の公開を求めたのは南スーダンPKO派遣部隊日報の隠蔽が現地の実情隠しと映ったために同じことがと疑ったことが発端になったのかも知れない。だが、南スーダン日報に対する当初の対応と同じく防衛相は「不存在」とした。

 防衛省が南スーダン日報の存在を公表したのは2017年2月7日であり、その9日後にイラク日報の不存在を野党に伝えたことになる。実際には存在していたということなら、そこに隠す必要がある不都合な事実が存在した疑いが出てくる。

 自衛隊海外派遣状況分析の「陸自研究本部教訓センター」で2018年1月12日に見つかった文書はファイル名「教訓業務各種資料」の電子データ(PDF)であり、4日後の2018年1月26日に医官らが所属する陸幕衛生部で発見されたファイル名「国際復興支援業務」は紙媒体だという。

 紙媒体であったとしても、保管場所は決められていて、ナンバーや索引を振ってあるだろうから、陸上幕僚監部が全部隊に海外派遣で作成した日報などに関する調査を指示した2017年11月27日から約2カ月後の発見というのは決して早いとは言えないし、ましてや「陸自研究本部教訓センター」発見の文書が電子データ(PDF)であるなら、PDF記事の作成と編集を行うシェアソェフト「Acrobat DC」を所有しているはずだから、これを使って複数のPDF記事に対する文字検索が可能となるということだから、野党が2017年2月16日にイラク派遣部隊の日報の開示を求めた時点で、テキスト形式の電子データであれ、PDF形式の電子データであれ、たいした時間を掛けずに存在の有無を確認できたはずだが、約1年近くもあとになって発見というのは何らかの意図が働いていたと見るしかない。

 文字検索にかければ簡単に発見できる電子データが対象であることに反して2017年2月16日に一旦は不存在とした文書が1年近くも経った2018年1月12日に最初の発見の報告があったという事実経過からすると、2017年11月27日の陸上幕僚監部の全部隊に対する海外派遣作成の日報等に関する調査指示は発見という決着にソフトランディングするための手続きだった疑いが出てくる。
 
 疑えばキリがないが、陸自研究本部が幕僚総務課にイラク派遣部隊の日報が見つかったと報告した2018年1月12日は第48回衆議院議員総選挙の投開票が行なわれた2017年10月22日から約2カ月半で、この2カ月半をほとぼりを冷ます冷却期間と見ることもできる。

 いずれにしてもイラク日報と南スーダン日報は相当な時間を経過させて不存在、発見、存在公表というプロセスを取った点で非常に似た構図を見せている。南スーダン日報の一連の経緯に見た政治意思をイラク日報の一連の経緯に置いたとしても、左程の違和感はない推理となるはずだ。

 野党は小野寺五典の防衛相に対するシビリアンコントロールが機能していない証拠として批判している。両日報に於ける長である防衛相「への報告の遅れ一つ取っただけで、シビリアンコントロールの機能不全を示している。

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