少子化で赤紙時代到来?

2006-09-17 04:40:35 | Weblog

 「少子化の進行で、日本の労働人口は減っていく。日本総合研究所の試算によると、経済成長率を1%台半ばと想定した場合、(20)15年に見込まれる日本での人手不足は520万人にのぼる」とする新聞記事(『新戦略を求めて・第3章 グローバル化と日本③ 人材確保外国から』(06.8.29.『朝日』朝刊)がある。記事は「不足分は女性、高齢者、若者の就労促進などで対応するのが最良だが、外国人の労働力にも頼らざるを得ない。グローバル化の中で、優秀な人材、留学生に来てもらうことは日本経済にとってプラスになる。長期的な視点から、外国人受け入れ戦略を練り直す時がきている。(編集委員・竹内幸史)」と提言している。

 提言はあくまでも提言であって、「最良」だとする「女性、高齢者、若者の就労促進」といった国内課題と「優秀な人材、留学生」等による「外国人受け入れ戦略」をうまく噛み合わせて将来的な労働人口不足をクリアできるかの各政策の実効性と、それが日本の経済維持の有効成分とすることができるかが問題となってくる。

 労働人口減対策の一つである留学生受け入れに関する記事が8月20日の『朝日』朝刊(06年)に載っている。

 『アジア留学生に奨学金 2千人国支給 日本で就職促す』

 「中国、韓国などアジア諸外国の優秀な人材に、日本企業にもっと来てもらおうと、日本の大学で学ぶ留学生への無償奨学金制度を経済産業省・文部科学両省が始める。大学・大学院に、採用意欲のある企業と提携して、留学生向けの専門講座やビジネス日本語講座などの2年間の特別コースを新設してもらい、その受講生1人当たり、住居費分、学費免除分、生活費などつき計20~30万円相当の支給を検討中だ。支援対象は2千人と想定している。
 特別コースは企業の中核を担える人材の育成が目標で、電気・IT産業界、環境関連産業など特定分野の企業群と提携し、それらのニーズにあった専門性の高い授業を想定。また、留学生の日本企業就職率が伸びない理由となっている、日本語の力不足や企業風土の特徴をあまり知らないことなどを解消するため、特別コースには実用性の高い日本語会話の授業や日本の企業文化などを教える授業のほか、インターシップ制度も盛り込んでもらう。両省が授業内容を審査し、奨学金制度を適用するかどうか決める。
 両省は関連予算として07年度予算の概算要求に約60億円を盛り込む方針。この中には、同じ目的で、既存の国費留学制度を使っている留学生らが無料参加できる就職支援プログラムも加える。
 経産省によると、04年度は約3万人の留学生が日本の大学・大学院を出たが、日本国内で就職した留学生は約5700人にとどまった。留学生支援策の拡充でアジアの優秀な人材の定着を増やそうとしている。(福間大介)」

 「20~30万相当」の無償奨学金制度とは思い切った支援であり、優秀な留学生獲得のための涙ぐましい努力を窺わせもする姿勢と言える。できることなら月8万円そこそこの国民年金生活に代えて、外国人と偽って「20~30万相当」の生活を手に入れたいものだが、書類の偽装はできたとしても、年齢は偽装不可能だから、一発で詐欺罪で逮捕というザマにならないとも限らない。

 経産・文科両省が「留学生の日本企業就職率が伸びない理由」に挙げている「日本語の力不足」は留学が希望に満ちた主体的選択であるなら、希望の度合い、主体的姿勢の度合いに応じて日本語力は発達するものであるし、なおかつ不足していても、卒業後も日本に希望を抱いていたなら(=夢を失っていなかったなら)、不足分を身振り手振りの身体コミュニケーションで積極的に補い、生活の進行と共に解決できる問題であろう。製造現場では日本語を知らないたくさんの外国人がさしたる不自由なく働いていることがその証明となる。彼らは一般日本人よりも低く抑えられている水準ではあっても母国では獲得できない高収入であることを目的に希望を持って出稼ぎに来ているのである。その希望と収入が支えとなって、積極的に仕事と日本語獲得に取り組んでいる。

 「理由」の二つ目として「企業風土の特徴をあまり知らないこと」を挙げているが、「企業風土の特徴」を知るのは就職してからのことで、「伸びない理由」とするには矛盾が生じる。就職はするものの、退職率が高いということなら、その理由とするには矛盾はない。

 いわば「日本語の力不足や企業風土の特徴をあまり知らないこと」を「留学生の日本企業就職率が伸びない理由」とすることは少々、いや、大分ズレているのではないか。

 入社試験は受けるものの、日本語が壁となって合格率が低いと言うことなら、企業の試験制度に問題があるということになる。企業だけではなく、高校・大学も試験の結果のみで受験者の能力を測る点に問題がある。試験の質問が違えば、結果も違ってくるごく機会的な審査であることを無視している。

 大体が日本語不足ということなら、企業就職に到達する以前に、大学・大学院の単位取得もままならないだろうから、卒業到達も怪しくなる。日本で勉強するにも就職するにも、日本語能力獲得を前提としなければならない。このことは日本人が外国の大学に留学する場合も同じであろう。留学を決めたときから、相手国の国語をある程度は勉強するのが一般的な方法のはずである。

 と言うことは別の問題が障害となっていると考えなければならないのではないだろうか。

 日本の大学・大学院に留学した外国人学生の多くが卒業後日本の企業に就職せず母国に帰る傾向は前々から言われていることで、いわば日本企業低就職率は伝統化している現象でもあるだろうが、中には日本は兎に角もアジアの最先進国であり、日本留学を母国で活動する場合の箔付け・ステータスシンボルと位置づけていることからの、言ってみれば最初から一時的滞在と決めた留学も相当数含まれているに違いない。そういった留学生を除いて考えなければならない。

 問題は留学前は反日ではなかったが、「日本に留学すれば、反日になる」という中国の「留日反日」という言葉が最も鋭く象徴している、日本で学ぶことを夢見、実際に学んでみて、当初の大学、もしくは大学院を卒業したが、既に日本、もしくは日本人に失望していて、卒業が我慢の産物でしかなかった、その成果を抱えて帰国していくといった留学生、最悪の場合は反日感情を抱えて帰国していく留学生の存在を企業入社試験にまで到達させていない理由に挙げなければならないのではないだろうか。

 言葉の壁よりも、生活習慣の違いよりも、何よりも問題なのは日本人との人間関係に馴染めるかであろう。いくら希望を抱き、夢を描いた留学であったとしても、人間関係が阻害したなら、夢も希望も泡と消える。日本で生活する間、ついてまわる基本要素である。生理的な忌避感、あるいは嫌悪感から逃れるには、日本から出て行く以外に解決の道はない。

 言葉や生活上の文化の違いは解決できる問題である。豚肉を食さない文化で育ったということなら、食べなければいい。しかし会社の忘年会などで酔った上司が、郷に入れば郷に従えだ、日本で生活していくんだったら、豚肉を平気で食うようにならなければならない。こんなうまいものを一生知らないなんて、不幸だよ、一度食べたら、味を教えた俺に感謝するさとしつこく強制したとしたら、その強制はそのことだけに限らないその上司の人間関係全般に関係した文化として他者に働きかけないではすまない。

 その文化とは、相手を独立した一個の人間と扱う対等性と対等性が必然とする相手に対する敬意の二つとも欠如させた関係性を自らの対人感受性とした文化であろう。

 〝独立〟とは誰にも侵すことができない・誰にも侵されないを要件としている。それを無視する対等性の欠如が逆に相手に応じて自分を上か下に置き、それを基準とした価値判断で上には従うが、下には従わせようとする意識を成り立たせて、そのような上下意識がまた対等性の一層の欠如へと向かう相互循環をきたす。

 日本の定住も国籍取得も容易に許さない法的な閉鎖性は日本人の外に対する心理的な閉鎖性が反映した制度でもあろう。そのような閉鎖性を抱えながらの留学生の受け入れである。閉鎖性の特徴的な現れが日系以外の流入と定住の遮断に向けた日系人に限った単純労働者の受け入れと定住許可なのは間違いない。

 それが例え遠い祖先の血であって、現地人との結婚で何分の1かに薄められていても、日本人の血が流れていることを唯一の正統的な権威とし、それに準ずる者として〝日系〟を受け入れながら、国の委託業務である外国人登録事務を改善してほしいという自治体の要望に「住民基本台帳のように簡単な制度にしていいのか。隣にわけの分からない外国人が住んでいたら、どう思いますか」(「移民送り出して120年で幕・日系子孫逆流、新たな貧困・国の冷淡ぶりに批判」(2002.12.12『朝日』朝刊)といった法務省の、日本人の血には権威・根拠は与えるが、外国人であることには変わらない単純労働者という地位・身分には信を置かない対等性の拒絶は明らかに日本人特有の権威性からの自分たちを日系人の上に置き、日系人を自分たちの下に置く態度であろう。

 日系人に対してもそういった態度である。製造現場での人手不足を補う何らかの方策を必要とした。そのカードが〝日系〟であって、多分100歩譲った決定だったのだろう。労働力不足がなければ、日本人だけでやっていきたい、外国人は誰も入れたくないというのがこれまでの基本的な姿勢(=単一民族主義)であった。

 このことは難民政策に於ける欧米と比較した難民の申請数の少なさがすべてを物語っている。アメリカがテロ対策の影響があるというものの、8万台の申請件数があるのに対して世界第2位の経済大国の地位にある日本の05年の申請者数は384件に過ぎない(認定者数46人、人道配慮による在留97人)。この数値は難民の日本に向けた信頼度・期待度が数値化された姿でもあろう。勿論、日本の難民に対するだけではない、日本人以外の外国人に対する排除姿勢に対応した難民側からの忌避意識が反映した数値でもある。外国人受け入れに排除意識がなくおおらかな気持ちがあれば、必然的に認定条件が緩められ、そのことに比例して認定件数が上がり、認定数も増えるだろうが、その逆の構図となっている。

 本質的には日本人以外の他処者を排除しようと欲する権威主義的な自尊意識と、将来的に労働人口の減少が見込まれ、「企業の中核を担える人材」として留学生をも育成の対象としなければならない政策上の必要性と果して齟齬をきたすことなく両立させることができるかである。

 権威主義的な自尊意識・上下意識は難民や〝日系〟に対してのみならず、様々な場面で演じられている。日本企業の国内、海外を問わない外国人幹部登用の低さ――これなどは日本人だけを優秀とする、いわば日本人以外は信用できないとする自尊意識(=自民族優越意識)が強く反映した人事政策であろう。

 アジア人や黒人を日本人の下に置き、自分を上に置く姿勢は彼らのアパート入居を嫌い、ときには拒否する姿勢となって現れている。そしてそのような外国人忌避は、健常者の障害者に対して自分を上に置く姿勢、障害者の健常者に対して自分を下に置く権威主義的な上下意識と響き合っている。上下意識は内と外との使い分けなく発揮されるからである。先進国と比較した障害者政策の極端な後進性、社会参加の少なさがそのことの証明ともなる。

日本人のアジア人に対する自尊意識・上下意識からの権威性がアジアからの留学生との人間関係を損ない、そのことが原因している日本企業就職率の低さだとしたら、カネの力でいくら留学生受け入れ条件を改善したとしても、根本的な解決策とはならないだろうし、そのことが災いして日本が決定的に労働人口不足に陥ったとき、ただでさえ外国人の流入を最小限に抑えて、子育てが終わった主婦、退職した高齢者で不足を補うことを「最良」としているのである、補いきれなかった場合の解決策として政治権力が解決を急ぐあまり、働いていない主婦や高齢者に対して自らの権威性・国家権力を発揮して再就職を強制する、いわば〝赤紙〟を突きつけない保証はない。

 現在でも労働人口不足に備えて次の総理を目指す総裁候補の面々が主婦や高齢者の再雇用を掲げているのである。主婦に対してならまだしも、20歳前後から60歳まで営々と働いてきたのだから、ご苦労様、定年後は旅行やその他の趣味でゆったりと過ごし、余生を愉しんでください、そうできるだけの年金は用意しますとするなら経済大国の名に恥じない豊かな国民として余生という名の指定席を確保できると言うものだが、その逆で、余生なしで働かそうとしている。経済的には豊かになっても、精神的には何と貧しい生活を強いられることか。政治家はその程度の意識しか国民に向けていない。お年寄りを大切にしようなどというスローガンは働かすための呼びかけでしかない。

 「お年寄り一人に対し生産年齢人口が4・8人という現在のレベルを50年間維持するためには、日本は毎年約1000万人の移民を受入れるか、または定年を77歳まで延長する必要がある」(「働く人の比率、50年後も維持するには――定年77歳に延長か移民1000万人受け入れか 『厳しい選択』国連予測」00.3.23.『朝日』朝刊))とする国連人口部の予測すらある。

 戦前、一方的な権威主義で以て赤紙一枚で国民を否応もなく戦争に駆り立てた前科があるだけではない。戦後の21世紀の自由と人権の時代に移り変わっても、愛国心で国民を集団的・権威主義的に統率したい衝動を疼かせているのである。あるいは公精神の涵養にとボランティア活動を義務づけて、同じく集団的・権威主義的に号令一下一つ行動に駆り立てる訓練にすべく国家意志を働かせている。再就職せよと〝赤紙〟を突きつける国家政策に従わない主婦や高齢者は白い眼を向けられ、従った主婦や高齢者を筆頭に働いているすべての国民から国賊、非国民の非難を浴びせられる戦前同様の光景を容易に想像してしまうのは、国民自身がそれぞれが独立した対等な個人であり、それぞれの意志は相互に尊重されるべきものであるとする独立性・対等性を行動判断(価値判断)としているのではなく、上に従い、下を従わせる権威主義を行動判断(価値判断)としていて、世の中の大勢・風潮に簡単に従い、横並びする習性を自らのものにしているからである。

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第90代日本国総理大臣天皇主義者安倍晋三

2006-09-14 04:10:22 | Weblog

 「第89代」は誤りで、「第90代」でした。謝罪し、訂正します(06.9.27)

 9月11日(06年)の日本記者クラブ主催自民党総裁選公開討論の要旨が翌日の朝日朝刊に載っている。歴史認識だけに限って拾ってみると、

 「【歴史認識】
 谷垣氏 日中国交回復のときに、中国は(日本の)戦争指導者と一般国民を分けて(中国の)国民に説明した。(A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝しては)説明がうまくいかないのだと思う。

 安倍氏 日本の国民を二つの層に分けることは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんな(そのように)理解しているということではないし、やや階級史観風ではないかとの議論もあるのではないか。
 村山談話は閣議決定した談話で、その精神はこれからも続けていく。個々の歴史的事実などの分析は歴史家に任せるべきだ。政府が(村山談話を)否定する談話を出さなければ、次の内閣もこの上に立って進めていくことになる。私は新しい談話を出すつもりはない。

 谷垣氏 第2次世界大戦は、中国との関係で言うと侵略戦争だったことははっきりしている。 そこを前提に考えないと、安定した日中関係はつくれないのではないか。

 麻生氏 満州国建国以来、南京攻略に進んだのは侵略と言われても止むを得ないことは歴史的評価がほぼ一定している。ただ、太平洋戦争と中国大陸とは混戦して話されるのでは、歴史認識としては難しい」
* * * * * * * *
 谷垣氏が問題とした「日中国交回復のときに、中国は(日本の)戦争指導者と一般国民を分けて(中国の)国民に説明した」というくだりの説明が同じ新聞の隣接させた記事で詳しく解説している。大方の人は理解しているかもしれないが、そうでない人のために参考までに全文引用してみる。纏めるのが下手なもんで――。

 『戦争指導者と一般国民分けて説明 安倍氏「中国側の理解」』(06.9.12.『朝日』朝刊)

 「安倍長官が11日の公開討論会で、中国が72年の日中国交正常化の際に自国民を説得した理屈を受け入れないことを示したことは、日中外交当局間でいわば常識だった認識から逸脱している。安倍氏が首相になった場合の日中関係に影を落とす可能性がある。
 中国は72年の日中国交正常化に先立ち、『日本の中国侵略は一部の軍国主義者によるもので、一般の日本人も戦争の被害者だった』との論理で、反日感情が強く残る自国民を説得した。周恩来首相(当時)が示した対日姿勢として知られ、『一般国民には罪がない』との立場から対日賠償請求を放棄した理由を国内向けに説明する際の根拠にもしている。
 中国が小泉首相の靖国神社参拝に強く反発してきたのも、この論理を楯にしていた。戦争指導者と見なすA級戦犯が合祀された靖国神社に日本の首相が参拝すれば『侵略責任があるのは一部の戦争指導者だけ』という前提が崩れかねないとの懸念があったためだ。
 王毅駐日大使は『A級戦犯は対外侵略を引き起こした象徴的存在であって、殆どが対中侵略に加担した。その扱いは日本の戦後処理、国際社会への復帰、中日国交正常化の原点に関わる問題だ』と朝日新聞のインタビューに語っている。
 安倍長官は『文書としてそんな文書は残っていない。交わした文書がすべて』と語ったが、戦後の日中関係が外交文書の積み上げだけで成り立ってきたわけではない。実際、『軍国主義者と日本の国民は別』とした中国側の説明を踏まえる形で、小泉首相以前の首相が靖国参拝を控えてきた面がある。
 安倍氏の発言については、日本政府関係者から『中国にとっては、戦争指導者と一般国民を分けるという整理は苦渋の選択だった。日本としてはこれによって賠償を求められず、仲良くやろうということになったのだから、歓迎すべきことだったはずだ』など、発言の真意をいぶかる声も出始めている」 (以上引用)

 「安倍氏 日本の国民を二つの層に分けることは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんな(そのように)理解しているということではないし、やや階級史観風ではないかとの議論もあるのではないか」

 この主張の中に安倍氏の戦争認識及び自分が理想とする国家観のすべてが込められていると言っても過言ではない。戦前の「日本の国民を二つの層に分けることは中国側の理解」であって、実態としては日本は国家元首である万世一系の天皇の統治のもと、政治権力層も軍部も国民も〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟(『国体の本義』)であり、「階級史観風」に分化することは不可能な親密な近親関係にあった。〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟であったがゆえに国家の戦争の場面で一億総玉砕といった一つの運命を選択可能とする思想を上から下まで国民全てが受容することができた。

 〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟思想は天皇陛下を国民の父と規定するもので、国民は一人残らず天皇陛下の赤子(乳飲み子)として暖かく保護されていた――。

 断るまでもなく、「二つの層に分ける」ことの否定は、一方が有罪で、他方が無罪と言うことはあり得ない、有罪であっても無罪であっても、一方と他方を「分けること」は不可能だから、有罪・無罪どちらかを共有するという、いわば同時共有説に立っていることを示している。
国家権力層と一般国民を「二つの層に分ける」「階級史観風」分化否定の〝国体〟(=〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟)にとっての望ましい国民像は、まさしく国家権力が如何ようにも制御可能な判断能力の持ち主である赤子(乳飲み子)なる成育状態の存在でなければならなかっただろう。いみじくも天皇と国民の関係を父親と赤子(乳飲み子)と規定したもので、これ以上の関係はない。国民はあやされる存在であった。安倍晋三もすべての国民に愛国心(=〝国を愛する心〟)を植えつけて、逆に国民を愛国心であやそうと言うことなのだろう。

 問題は中国が「日本の中国侵略は一部の軍国主義者によるもので、一般の日本人も戦争の被害者だった」とした戦争認識を安倍晋三(心臓?)が戦争指導者と一般国民を「二つの層に分ける」「階級史観風」分化を否定し、戦争指導者と一般国民を一体とする、あるいは運命共同体とする立場から、戦争指導者も一般国民も「戦争の被害者だった」と無罪判決を下す立場なのか、戦争の加害者だったとする有罪判決側に立つのかである。

 中国側の「軍国主義者」が日本側から規定すると戦争指導者なる言葉と化すが、この一事を以てしても日本側が戦争から侵略の部分を如何に薄めようとしているかが分かる。

 安倍氏の戦争指導者(中国側から言えば軍国主義者)に対する認識は次の新聞記事が伝えている。A級戦犯は「『日本において彼らが犯罪人であるかといえば、それはそうではないんだということだろう』と国会で答弁している」(『靖国「小泉後」安倍氏に重責 参拝明言せず A級戦犯犯罪と認めず』(06.8.6.『朝日』朝刊)

 これは麻生氏とも通じ合う認識・解釈である。「『少なくとも日本の国内法では犯罪人扱いの対象になっていない。戦争犯罪人とは、極東軍事裁判所の裁判によって決定された犯罪者だ』」(『戦争総括「小泉後」は 有力閣僚、「侵略」には留保も 「歴史家の判断待つ」』06.2.22.『朝日』朝刊 時時刻刻)

 いわば安倍氏は中国側の「日本の中国侵略は一部の軍国主義者によるもので、一般の日本人も戦争の被害者だった」とする軍国主義者と一般の日本人とを「二つの層に分ける」認識を否定して、戦争指導者も一般の日本人も〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟の同じ一員であり、両者とも「戦争の被害者だった」と、戦争指導者を限りなく「戦争の被害者だった」「一般の日本人」に近づけて、無罪同時共有説を打ち出しているのである。

 口ではグローバリズムを唱えながら、あるいは複数の外国と価値観の共有を言い立てながら、それはそうしなければ日本が世界の中で政治的・経済的に存立できないからで、本質的な精神は「日本においては」とごくごく狭い日本一国主義に染められている。

 安倍氏は「12日の記者会見で、日中国交正常化の際に中国が日本の戦争指導者と一般国民を分けて自国民を説得したことについて『日中正常化の際、それを前提としていたかどうかといえば、それは前提ではないだろう』と述べ、この区別が正常化を下支えしたとする考えを改めて否定した」(『戦争と国民区別「前提なかった」安倍氏』06,9,13.『朝日』朝刊)ということだが、これは中国側の戦争解釈、いわば周恩来〝二分説〟を日中双方が理解しあった上で日中国交正常化が成り立ったとする説の否定であって、その否定の上に中国・周恩来の〝二分説〟(安倍氏のA級戦犯無罪説に都合をきたす中国側の日本の軍国主義者単独有罪説)の否定を築き上げるべく補強した主張であろう。

 要するに周恩来の〝二分説〟を認めると、A級戦犯無罪説が成り立たなくなる相反関係にあることからの極めて便宜的な「前提」否定に過ぎない。

 同じ記事が安倍氏の否定理由を次のように伝えている。「安倍氏は『条約などを結ぶ際に色々と議論がある。「我が国がこう言ったよ」ということであれば、文書で残すのが普通だ』と語り、改めて経緯が文書化されていないことを根拠に挙げた。『私が会談の場にいないから、やりとりは知らない。私が知りうる情報は文書がすべてであろう。外交とはそういうものだ』とも語った」

 とすると、日本が国際復帰を果たす条件として「第十一条【戦争犯罪】 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し――」と規定したサンフランシスコ平和条約にサインする必要から、不本意ながら東京裁判を受け入ざるを得なかったとする東京裁判否定の主張は日本とその他のサンフランシスコ平和条約締結国との間で文書化されていないことを以て、外国政府を含めて誰もが否定し得る主張と化す。その主張を後世に正当な主張として伝えるためには、締結国との間で緊急に文書化することを課題としなければならない。

 無罪同時共有説を裏返すなら、「一般の日本人」を「戦争被害者だった」とする規定から外して、「軍国主義者」の煽動のもと「中国侵略」に同調・加担して、共犯者の立場で積極的に戦争行為に参加したとする方向――有罪同時共有説の方向へ限りなく近づける解釈の否定でもある。私自身は国民も戦争責任があるとする有罪同時共有説に立っている。

 無罪同時共有説を正当とすると、戦後のメディアが、戦前の自分たちを政府・軍部に媚び、率先追従して国民を戦争に駆り立てる一大愛国キャンペーンの展開を専らの使命としていたとする自己総括とコンプレックスは見当違いな錯覚ということになる。「我々も〝億兆一心〟の〝一大家族国家〟の一員。A級戦犯も被害者、我々も同じ戦争の被害者なのだ。真の加害者は日本を戦争へと追い込んだ欧米の帝国主義国家・植民地主義国家なのだ」と開き直るべきだろう。

 A級戦犯容疑を受けた祖父である元首相岸信介の影響なのか、戦後生まれであるにも関わらず、A級戦犯を無罪とすることで戦前の日本の軍国主義とその対外表現であった戦争が持っていた侵略性・領土拡張意志を、中国・周恩来の〝二分説〟を否定したのと同じ論法で〝無罪同時共有〟とする、いわば過ちなきとする日本民族無誤謬論(=日本民族優越論)を自らの哲学、あるいは精神としている。

 日本民族無誤謬論(=日本民族優越論)を自らの信念としているからこそ、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ。日本の麗しさ、すばらしさを再構築しなければならない」といった個人性としてある資質を国民性・民族性と置き換えるマヤカシを平然と犯すことができる。

 「個々の歴史的事実などの分析は歴史家に任せるべき」とする態度を必要とするのも、自らの哲学、精神に破綻をきたさないため、あるいは否定されないためだろう。中国・周恩来の〝二分説〟を「階級史観風」だと否定する歴史解釈を自ら行いながら、「歴史家に任せるべき」とする矛盾は自らにとって都合の悪い点に関しては先送りするご都合主義以外の何ものでもない。政治家らしいご都合主義だとするなら、確かに政治家らしいご都合主義と言える。

 侵略戦争の否定、A級戦犯無罪説によって表される戦前的なものの肯定はそのままストレートに〝天皇の国〟の肯定に行き着く。それらを含めてこそ、日本民族無誤謬論(=日本民族優越論)を成り立たせる条件を獲得することができることができる。

 また戦前的なものの肯定が「戦後レジーム(体制)からの新たな船出」という歴史の塗り替えを必要とするに至っているのだろう。

 当然、安倍晋三の「美しい国」の理想のモデルは戦前の「天皇の国」となる。

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第2次刺客選挙ボツ発in参院選?

2006-09-13 06:50:07 | Weblog

 2匹目のドジョウ狙いか
 
 安倍官房長官が9月11日の日本記者クラブ主催の公開討論会で、自民党の新総裁に選ばれた場合、来夏の参議院選挙の公認候補者を差し替えることもあり得るという考えを示したことについて、武部幹事長が理解を示したのに対し、青木参議院議員会長は疑問を呈したといったことを、昨日9月12日(06年)の午後のNHKニュースが流していた。

 武部幹事長「選挙区で、事前に負けることが確実だと思われる候補者がいれば、それを差し替えてでも当選を期すのは当然のことだ」

 青木参議院議員会長「参議院選挙の選挙区の候補者は各都道府県連が『勝てる候補』として、選んだ人だ」

 総裁選挙対立候補の谷垣財務大臣「公認候補を差し替えた例がない訳ではないが、公認は地元が決めるもので、デリケートな問題だ」

 対する同じ対立候補の麻生外務大臣「余程の理由があるならともかく、公認候補を選挙まで1年を切った段階で差し替えるのは、なかなか難しい。そんなに簡単な話ではない」

 肯定派は武部幹事長のみで、それ以外は反対、もしくは疑義派である。

参院選の結果が安倍内閣の死命を制し、短期か長期かを占う。総理総裁の夢を叶えても、参院選で敗北して短期政権で終わったなら、女性スキャンダルで2ヶ月しか持たなかった宇野内閣は別格として、歴代短期政権何位の記録を歴史として残すだけのことである。背に腹は変えられない、手段を選んではいられない、奇麗事を言ってはいられない、後がない、なり振り構ってはいられない。人が言っていることなどどうでもいい、何が何でも参院選に勝つこと――それが自分が自分に課した唯一絶対の至上命令となっているだろうことは間違いない。

 だからこそ、消費税増税問題を曖昧にしている。貧乏人だけが痛みを伴う消費税増税如きで総理大臣の地位を失ってたまるかと思い決めているかどうかは分からない。

 総裁選では楽勝境地の安倍氏にしても、来夏の参院選に思いを馳せると窮地に立たされる思いに駆られて、昨年の郵政民営化選挙で見せた小泉首相の見事に成功を収めた手法に縋りつきたくなったのでないのか。そう2匹目のドジョウを期待して。2匹目が失望成分と相場が決まっていながら。

 郵政民営化法案が参議院で否決されると衆議院の解散に打って出て、総選挙へと持っていき、法案に反対した議員を除名し、除名議員が非公認で立候補すると対立候補として刺客を放って、多くの選挙区で勝利を収めた。勝利はマスコミの力添えが何といっても大きかった。刺客候補の選挙区に各局のテレビカメラが集中して自分で勝手に大騒ぎするような熱の入れようで選挙戦を異様なまでに盛り上げ、そのような加熱した報道が選挙を過熱させ、それがまた報道を過熱させる循環をもたらし、一般の選挙区にまで波及して選挙に対する有権者の意識を自民党候補寄りに刺激して歴史的な自民党の大勝利となった。勿論小泉効果もあった。

 マスコミの取材・カメラが刺客候補に殺到したのは、刺客候補が著名人を含んでいたこと。今は見る影もなくなってしまったが、当時は飛び鳥を落とす勢いだったIT界の寵児東大卒の若きホリエモンまでゲットして、刺客のうちに加えたのである。惜しくも落選はしたが、選挙を盛り上げる広告塔としては金額には代え難い計り知れないコマーシャル効果があった。自分の選挙区の候補者が誰なのか知らない有権者がいるのに、マスコミのお陰で関係ない遠隔地の選挙区で誰と誰が戦っているのかまで知ることとなり、否応もなしに関心を高めざるを得なかったのである。

 著名人ではなくても女性でまだ若くて美人を立てたこと。女性忍者である〝くノ一〟とまで命名して面白おかしく騒ぎ立てた。政治に素人であろうと何であろうと構わない。票が目的である。票を釣るためのエサ。そのエサに最初にマスコミが飛びついてテレビ受像機を通して日本全国にエサをばら撒く。バラ撒かれたエサに今度は有権者が飛びつく。あくまでも自民党候補のエサである。有権者の関心はエサに対するのと同様に自分の選挙区の自民党候補に傾く――狙ってしたことなのか、予期しなかった結果なのか、磁石の効果のように自民党候補を有権者に惹きつけていった。

 安倍晋三が夢よ再びと郵政選挙の再現を狙ったとしても不思議ではない。候補者選考を小泉首相の手法をそっくりと踏襲して官邸主導とする。何といっても安部晋三自身が小泉チルドレン第1号なのである。そっくりに似たとしても当然の結果であろう。

 マスコミは今から手ぐすね引いて待ってるのはないか。差し替えられることとなる候補者は武部幹事長の「選挙区で事前に負けることが確実だと思われる候補者」に当たることとなり、失礼な話となるが、悔しがって意地でもと非公認で立候補すれば、当然除名と言うことになりかねないし、その騒動と袖にされて悲憤慷慨する姿を報道するだけでも価値が倍増するというのに、若い美人の刺客と野党候補の三つ巴の選挙戦ともなれば、報道のためのお膳立てとしては最高のものとなる。

 差し替えられた候補が非公認で戦わずにすごすごと舞台から降りたとしても、ピンチヒッター候補は野党候補に対する刺客であることに変りはないから、報道価値が減るわけではない。

 読売新聞のインターネット記事(「参院選候補、差し替えも検討…安倍氏が示唆」2006年9月12日0時31分)に次のようなくだりがあった

 「安倍氏は党幹事長として前回2004年参院選を指揮したが、候補者の半数以上は安倍氏の幹事長就任前に決まっていた。選挙結果は、自民党の獲得議席数は49で、民主党の50議席に及ばなかった。安倍氏は、総裁として迎える来年夏の参院選では、候補者選定の段階から関与したいという思いがあるようだ。

 だが、参院選の公認作業は、各都道府県連や支持団体が提出する公認申請を党本部が追認する形で決定している。公認を取り消した場合、県連や支持団体の強い反発が予想される。安倍氏周辺も『県連を巻き込んで大騒動になる。差し替えは難しいのではないか』と不安を漏らしている」

 しかし小泉首相は前回総選挙では強い指導力は発揮して、官邸主導を貫いた。方法が例え常識や通念、一般ルールに反していたとしても、結果がよければ、すべてを補う。いわば結果が絶対となって、差し替える場合は、結果を出すための刺客が当然のこととして絶対条件となる。そのためには前回総選挙のようにマスコミの飛び入りの協力を欠かすことはできない。勢いマスコミが飛びつくエサとなる美人・著名人を如何に用意するかが勝敗の分岐点となる。いよいよ2匹目のドジョウを狙って、第2次刺客選挙ボツ発ということになるのだろうか。

 政治家はホリエモンのことを「カネで何でもできるといったカネ万能主義を広めた」とその無節操を批判したが、自分たちは選挙に勝てさえすればいいという無節操を犯しているのだから、似た者同士、同じ穴のムジナ、両者を同列に置くべきを、何ら省みることはなく済ませている。勝てば官軍、結果がすべてを補うからだろう。ホリエモンは結果を出せなかった。尤も決定したわけではない。例え不本意にも負け組に加わることになったとしても、安倍晋三は負け組にも愛の手を差しのべて再チャレンジの機会を与える再チャレンジ政策を掲げている。マスコミ的に言えば、再チャレンジの機会に再び刺客候補の一人に加えたら、サイコロの目がどっちに出ようが、選挙戦を盛り上げ、世の中を賑わすことだろうということだけは確実に言える。

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安倍晋三の危険な「美しい」論理矛盾

2006-09-12 03:11:01 | Weblog

 その日本民族優越意識

 「日本を美しい国にしていく」

 「戦後レジーム(体制)から新たな船出をすべきだ。21世紀にふさわしい国の在り方を示す新憲法制定のためリーダーシップを発揮していく」(『安倍官房長官の出馬会見(要旨)』06.9.2.『朝日』朝刊)

 以前このブログに書いたことの繰返しになるが、「美しい国にしていく」とは、かつてはそうであったが、現在「美し」くない国になっていることを意味する。確かに現在の日本が美しくない国であることは痛いほどに理解できる。格差、矛盾、犯罪、怠慢・怠惰、放縦、無責任、私利私欲等々――このように日本の現在を美しくない国としたことに関しては、自民党政治にしても大いに関与・貢献もしているはずである。

 かつて日本が「美しい国」として存在したことがあったのだろうか。かつて存在したなら、それをモデルとして「日本を美しい国にしていく」ことは可能となる。安倍晋三には無理であっても。

 かつて存在したことがないということなら、安倍晋三は自己の論理矛盾に気づいていないことになる。それぞれの段階で完結体とすることができ、積み重ねや他人に伝えていくこともできるモノづくりの技術の物理性と違って、人間の行動として現れる精神性はそれが一人の人間の場合でも社会的規範に即して常に合理的・同一的姿を取る完結体として現れるわけではなく、逆に常にその時々に応じた不完全な形を取りやすくできていて、その総合的な反映として現れる各時代に「美しい国」を存在させることができなかったなら、将来に於いても存在させる力を獲得しようがないだろうからである。

 安倍晋三官房長官が出馬表明記者会見で、「『美しい』という言葉を使った経緯は」とメディアから問われて、おこがましくも「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ。日本の麗しさ、すばらしさを再構築しなければならないという思いで使った」(毎日新聞インターネット記事 06.9.1. 20:49)と答えたそうである。
  
 言っていることが事実でないとしたら、根拠も実体もない優越論と化す。

 「再構築」しなければならないということは、「日本の麗しさ、すばらしさ」が現在の「日本が美し」くない国の姿を取っていることに対応して崩壊した状態にあることを伝えているはずである。

 と言うことは、現在は美しくなくても、日本がかつて「美しい国」として存在したことがあるとする考えに立っていることを示している。どの時代を「美し」かった(「麗し」かった、「すばらし」かった)とするのか、安倍晋三は明らかにすべきである。その時代をモデルとした「美しい国」の規範精神を新たに制定を目指している新憲法や教育基本法に反映させて、「戦後レジーム(体制)から」の「新たな船出」を図ろうということだろうから。

 愛国心の涵養に拘っているところから推測すると、天皇のため・お国のための日本人総愛国心時代だった熱き戦前を「美しい国」と思い定めているのだろうか。靖国神社に祀られているという戦没者への異常なまでの美しい思い入れ・熱愛からすると、それぞれに対する情熱は時間的連続を得て一つに融合する。戦後生まれの遅れてきた愛国少年だったのかもしれない。

 過去のすべての時代が美しかったが、戦後の昭和の時代のみ美しさを失ったとすると、2000年の歴史のうちの最後を占めるわずか60年そこそこの期間で変質してしまう程に、最初の1900年以上の長きにかけて培ってきた「日本の麗しさ、すばらしさ」がトイレットペーパーで作ったたちまち水を含んで崩れてしまう船のように軟弱且つ脆弱な民族的資質に過ぎなかったことになる。

 いわば、日本が「美し」さを失ったとする時代区分を戦後の時代のみに限定するなら、日本人が日本民族という自らの心理的、人的、地理的、自然的を含む諸々の民族的環境に2000年以上に亘って相互影響し合って、あるいは相互制約を受けて培い、培わされた全体的な精神・意識としてある本質部分の民族性が持つ恒常性を無視し、否定する論理的矛盾を侵す指摘となる。

 逆に戦後の昭和の時代の日本の国が「美しい」姿を取っていないとするなら、過去のすべての時代を歴史・文化・伝統として受け継いだ美しくない姿だとしたほうが、日本民族優越論を掲げる保守政治家には認めがたいことだろうが、民族性が持つ恒常性に論理的にも整合性を与えることができる。

 国家、もしくは民族を評価するに当たって、根拠も実体も獲得不可能であることを無視して、あるいは不可能であることを「敏感に感じ取る」感性を持たずに美しくなかったものを美しかったとする無理やりな事実の構築は危険な優越論へと向かわないとも限らない。

 前述の朝日記事の『安倍官房長官の出馬会見(要旨)』には、「日本は美しい自然と長い歴史を持つ」と述べたくだりがあるが、それを以て日本人自身が美しく、品性豊かだとするなら、客観的認識に関わるその幼稚性を疑わざるを得ない。いくら日本の自然が美しくても、また歴史がいくら長くても、そのことが日本人の性格や行動様式をプラスの価値観で特徴づける決定要因とはならないからだ。歴史の長さによってではなく、歴史が与えた時代的環境や時代的な状況が性格や行動に影響を与えはするが、それらの時代性が長い歴史の僅かな一部分を占める現出である場合は、歴史全体で培ってきた民族性を覆って異質のものとするほど力を持つとは考えにくい。民族の本質部分を形作ることとなった民族性はそれほど柔ではなく、如何ともし難いほどに頑迷に出来上がっているからである。

 どの民族の如何なる歴史も美しくはない。歴史は人間がつくり出していくからだ。人間自体が美しい生きものではないのだから、歴史は美しくなりようがない。歴史を仔細に眺めていけば、権力欲や名誉欲からの権力闘争、領土拡張欲、支配欲、名を残すため、あるいは記念碑づくりのためのパフォーマンス、金銭欲からの利益誘導、地位欲(今の時代の代表は大臣病)・地位漁り・嫉妬・虚栄心・保身・形勢を見て有利な方に付こうとする事大主義、打算・縁故主義、都合が悪いとなると決め込む事勿れ主義etc.etc.――そういったもの渦巻かせて歴史は成り立っている。

 だからこそ21世紀の時代になっても族益・省益がなくならないのであって、既得権益にしがみつく人間もなくならない。自己利害の生きものであることから抜け出ることができない。

 ゆえに自分の国の歴史を素晴しいとすることも、自民族を優秀だとする非合理な優越論に相当する。合理的精神を欠く人間でなければ掲げることのできない優越意識であろう。

 また「日本は美しい自然」を持つに関して言えば、富士山は日本を代表する「美しい自然」であるにも関わらずユネスコの世界遺産登録から漏れた原因が日本人が「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」だからこそそうすることができた、世界で最もゴミの多い山という名誉ある評価を得ていたからであって、「美しい自然」と国民性が相互反映の関係にないことの最たる証明であろう。

 ゴミの山は何も富士山だけの問題ではない。日本人全体の問題としてある社会道徳に関わる責任意識の欠如を賜物とした景観であろう。また私的な場面だけではなく、社会的な場面に於いても日本人の責任意識のなさ、無責任性はよく言われることで、社会の一員として自律した行動を取れないことからきている全体性であろう。自分は一個の個人ではあるが、同時に社会の一員であり、一員としての行動を取る責任を有するという主体的な規範意識に則った行動性を確立して初めて責任意識を備えることができる。

 当然、「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」になれるかどうかは確固とした規範意識の確立が絶対条件となる。総裁選で誰それが優勢だからと、ポスト欲しさや自己保身、あるいは自己権力の拡張を目的として無節操に雪崩を打って支持に走る姿は国会議員として社会の重要な一員を形成しているという規範意識のみならず、国民に対して常に保持していなければならない重要な一員としての務めを果たそうとする責任意識を放棄して、自己利害のみに立っていることから可能となっている現象であって、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民」とすることから程遠い姿となっている。

 このような日本人の美しくなさは戦後の時代にのみ現れた突然変異体ではなく、戦前にもあったことである。電車がまだ窓の開け閉めができる汽車と呼ばれていた時代、窓から駅弁のカラや果物の食べかすを放り捨てたりは当たり前の光景であったし、政治家・官僚の美しくない犯罪・乞食行為は戦後の昭和の時代と似たような頻度・規模で繰返され、日本人が「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」感受性を民族性として持っていたなら完璧に不可能な無責任を乱舞させていた。それらを受け継いだ現在の世界で最もゴミの多い美しくない富士山であり、戦後日本の相も変わらない政治家・官僚の美しくない犯罪・乞食行為であろう。

 江戸時代にはワイロは付け届けという形で広く日常的に行われていた。ワイロの通用は人事・政策が情実・縁故で左右される各種談合場面を付随させたことを意味する。ワイロ・談合の跋扈は「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」感受性を抹消条件としなければ生じない。

 「感じ取る国民」だったが、戦後のアメリカナイズの影響を受けて、あるいは個人の権利意識が行き過ぎて、その感受性が麻痺し、「感じ取る国民」でなくなった、だから「再構築」しなければならないは、民族性の本質的な普遍性・恒常性の無視を条件としているゆえに論理的な合理性を持たない。「美しいか醜いかを感じ取る」感受性は民族性としてあるものではなく、民族とは関係のない個人的資質としてあるものだろう。そのような資質を持たない人間はカメレオンのくるくる変化する警戒色のように自己の置かれた状況に応じて必要なら発揮する機会的・便宜的なポーズで以て「美しいか醜いかを感じ取る」感受性を代用するから、自然を愛するからと言って、その人間が信用できるわけのものではない。

 広大な屋敷を構え、広い庭に大きな池をこしらえてそこに色鮮やかな特大の錦鯉を何匹も放って日々眺めてその美しさを愛でる政治家が裏でカネで政治を操り、不正な巨額の政治献金を受け取っていたといったこともあったのである。

 安倍本人自体が「美しいか醜いかを敏感に感じ取る」ことのできる人間だったなら、戦前の日本の戦争と兵士たちの戦争行為を仔細に総括しないでは済まないだろうし、総括したなら、靖国神社に参拝して「国のために戦った」、「国に殉じた」と単純化できないだろうし、当然「次のリーダーも参拝すべきだ」と言った言葉も出てこないだろう。

 人間は決して性善には出来上がってはいない。「日本を美しい国にする」、「日本人は行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る国民だ」――これは日本人を性善として把え、日本人性善説に立つ主張でもあろう。耐震偽装問題で日本人性善説に懲りていたはずなのに、性懲りもなく日本人性善説に取り憑かれている。このことだけでも合理的精神の欠如を疑われても仕方がない。

 日本人のみを性善とする考えは勿論、合理的な論理性の欠如、もしくは合理的な客観性の欠如を条件として成り立たせ得る日本人優越意識の反映としてある。両者は共犯の関係にあるといえるだろう。合理的な論理性の欠如、もしくは合理的な客観性の欠如は人間の現実の姿を見る目を持たないことによって到達可能となる。

 人間の現実の姿を見る目のない政治家が一国の総理大臣になる。ある意味滑稽であり、空恐ろしいことでもある。自民族優越意識を政治立場上の糧としながら、平等・互恵を解く。普通の人間だったならなかなかできない芸当である。自民族の優越性を内心に抱えながら、何ら矛盾を感じることなくバランスよく自由と民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値観の共有を謳うことができる。

 それもこれも安倍晋三がツラの皮が厚いのとは正反対に、「行動が美しいか醜いかを敏感に感じ取る」ことのできる感受性豊かな人間に仕上がっているからだろう。

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総裁候補たちの退屈な言葉と国民の政治知識

2006-09-10 13:10:25 | Weblog

 9月8日の金曜日の夜7時からのNHKの「自民党総裁選告示/候補者に生中継で聞く」の番組の出だしで、記者が「二人に比べて、自分の長所はどこか」谷垣・麻生・安倍の各候補にそれぞれ聞いた。

 谷垣「二人に比べてどうというような僭越なことはあまり考えたことはないのですが・・・・」(これでカメラは麻生氏に移る。比べてどこが「僭越」だと言うのだろう)

 麻生「優れているというところをお二方に比べてと言えば、一番長く生きていることかもしれませんね」(かすかな笑いを得る)

 安倍「私は麻生大臣とまったく逆で、三人の中で一番若いということです」

 聞いていて、アホらしくなってチャンネルをパッチと変えてしまった。尤もビデオを撮ってはいたが。

 なぜこうもまともなことしか言えないのだろうかと腹立たしくさえなった。特に谷垣・麻生両氏は勝ち目のない選挙なのだから、開き直って毒のあるようなこと、何か挑戦的で刺激的なことを言って、一矢を報いることをしないのだろうかと情けなくなった。例えば、「勿論二人よりも優れているところは何と言っても私の政策です。ただ政策が優れているからと言って、人気と比例するわけではないことが唯一不満なところです」

 谷垣氏にはこれくらいのことは言ってもらいたいと思った。人気と政策が必ずしも比例しないことは一面的には事実として存在する関係式である。それを利用しない手はない。

 今日の朝日朝刊(06.9.9)に「安倍支持50%超、『公約内容を認識』11%」の見出し記事が載っていた。「安倍氏の政権公約については、『発表したことを知っている』が61%を占め、『知らない』は27%、『内容を知っている』は最も少なかった。次の首相に安倍氏を挙げた人でも、『内容を知っている』は10%だった――」

 自分たちの生活に直接的・間接的に影響する国政に知覚的態度を取れない国民も問題だが、面白くも何ともないまともなことしか言えない日本の政治家の言葉の刺激のなさ、つまらなさも問題であろう。昨今の報道娯楽番組の司会者にお笑いタレントが起用されるのはテレビ局がカネをかけて養成しながら、まともなことしか言えないアナウンサーよりも的確でユーモアある言葉を自在に操れるお笑いタレントの方が視聴者を惹きつけるだけの利用価値があるからだろう。

 じゃあちょっと聞いてみようかとチャンネルを回しても、面白くも何ともないまともな言い回しでしか政策を語ることができない場面にどれ程の人間が我慢するだろうか。7時代の裏番組は何をやっているのだろうかとチャンネルを試しにまわしてみたら、朝日テレビの「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」は別としても、TBSが「金スペ、紳助に騙されるな」でお笑いタレントと若い女性タレントが勢ぞろいしていて、フジテレビが「歌舞伎界禁断の裏側大暴露」とかの刺激的な番組名の歌舞伎の常識を破る現代風の演目を載せている市川何とやらの番組で、日テレが巨人対ヤクルト戦――。勝敗ありと見たが、間違った判断だろうか。

 退屈な場面の逆説が小泉首相の「ワンフレーズ」の的確性であり、是非は別として人気を博した理由であろう。

 国民を政治に無知な状態に置いておくためには、政治家のユーモアは必要ないのかもしれない。メディアの高い支持率を得ているという報道に触れるだけで、その人がいいのかもしれないと無条件・無考えに従う、メディアの判断を上位に置いた権威主義性からの支持が支持を生む、あるいは人気が人気を生む雪崩現象。

 ポスト欲しさから、自己保身や自己権力の拡張から優勢な候補に擦り寄って支持を表明する。雪崩を打つのは自民党の派閥議員だけではないと言うことなのか。兎に角も相互関係にあるということであり、それぞれが別個に存在しているわけではない。

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サマワ日本自衛隊の美しい姿

2006-09-09 04:04:51 | Weblog

 安倍晋三の「美しい国」の成果

 朝日新聞8月最終日近くと9月始めにかけて日本の自衛隊のイラク・サマワでの活動内容を検証する記事がいくつか載っている。その一つの『サマワからの報告 下』 (06.9.1.『朝日』朝刊)と題した、安全をカネで買ったとする内容の記事がある

 部族有力者のために自宅前の道路から幹線道路までの1.5キロを舗装する特別利益供与の便宜を図ったとか、自衛隊宿営地を引き継ぐ役目のイラク軍のサマワ駐留司令官が土地の有力部族であるザイヤード族の地主に「自衛隊と合意したとする年額約3千万円の土地謝礼の協定書を見せられ」、「『自衛隊と同じ処遇をしろ』と詰め寄られた」とか伝え、司令官の話として「自衛隊は金を使って部族長に様々な事業契約を与えた。ザイヤード族から運転手、護衛、清掃作業員を雇っていた。その代わりに安全を得ていた」とサマワ駐留の実態を暴露している。

 そして「今回、ムサンナ洲で実施した世論調査で、陸上自衛隊の活動について、『役立たなかった』との回答が31%あった。理由は『成果が特定の部族や個人に偏っていた』が25%と最も多く、『成果が特定の地域に偏っていた』が24%で続いた」と報じている。そして最後に「イラク国民のための復興支援事業が、自衛隊がイラクに踏みとどまるための道具になってしまった」と記者(編集委員・川上泰徳)は解説している。

 安全をカネで買うのはある面、止むを得ないだろう。それがその土地での安全を図る有力な手段であるなら、利用しない手はない。但し、それが金額的にも方法としても適正な範囲にとどまっていたかは別問題である。安全を図るを口実に相手の言いなりに必要以上にカネを与えていいわけのものではないし、また特定の個人を利するだけの便宜を供与しても許されるわけのものではないだろうからだ。取引して、浅く広く利益を与える方向へ持っていくぐらいの頭は使わなければ、日本人をしている意味を失う。

 国内の例で言えば、株主総会を平穏無事に取り仕切るためにカネで片付くことならと、暴力団や総会屋に多額のカネを払って口を閉じていてもらうとか、何か厄介な問題が起きたときの事件処理に睨みをきかせてもらうために月々現金を渡して備えておくとか、法律的にも社会的にも許されることではない違法行為を社会的責任を負っている大企業が時折犯していることが露見して問題になることがある。

 それとも民族的な権威主義性からして、強い立場にある相手の要求に言いなりになるのは当然の行動様式というわけなのだろうか。とするなら、サマワですっかり日本人を見せてきたわけである。美しくも麗しい日本人の姿を。

 特定の部族と特定の有力者のみに偏った利益を言いなりに与えていたとしたら、いくら安全を買うためであるとはいえ、公正・公平であるべきルールを逸脱した阿諛追従の部類に入る。カネで安全を買うは形式で、実際は土地の有力者にカネを使って取り入ったことになりはしないか。取り入りつつ、復興支援に当たった。

 まあ、かつてアジアでもカネの力に任せて、相手国の高官にワイロを送りご機嫌取りをしてきた。高官の私腹を肥やすご機嫌取りのウラでしたたかにカネ儲けをして、戦後の日本の発展に大いに寄与はした。

 小泉内閣が吹っ飛ぶからと、死者を一人も出さないを絶対前提としたことがそもそもの間違いだったのではないか。いくら戦闘地域ではないからとこじつけたとしても、死者を一人も出さないは自らの行動の幅を窮屈に狭める制約事項を自作自演するようなもので、そのことが勢い元々日本人の性格としてあるカネで解決の姿勢に拍車をかけたといったことではなかっただろうか。

 「戦闘地域ではないとはいえ、どのような危険が待ち構えているかも分からない。国のため、天皇陛下のために命を捧げる覚悟で任務に当たってほしい。万が一にも名誉の戦死を遂げ、お国に殉じることがあるようだったら、靖国神社に英霊として祀り、神として祀り、とこしえに顕彰の栄誉にあずかることになるだろう。夢々生きて俘虜の辱めを受くることなかれ」と訓示して送り出していたなら、カネで算段することばかりに頭を使わずに、少しは命は張ったのではないだろうか。

 最初から「安全」に関わる無理な厳しい制約を自らに課し、行動の選択、あるいは政策の選択に制限を加えたのだろう。そのために当然の結果のように相手の無理難題に言いなりになることを自らに強いなければならなかった。日本の官僚が各業者に談合や随意契約で不当に余分な利益を与えたりするのと似たようなことをサマワで演じたのである。同じ日本人だから、同じ行動になるのは止むを得ないを当然とするなら、自我同一性の確認には役に立ち、こっそりとプールした裏金を使ってちょっと一杯し合うときのように乾杯する価値はある。

 復興支援よりも、一人の死者も出さないこと=小泉内閣を吹っ飛ばさないことがイラク・サマワの優先的な駐留目的となった。有力者宅から幹線道路までの舗装の便宜を図るといった内容の復興支援となった。有力部族の有力者の近縁の者を法外な給与で雇うといった縁故主義に手を貸す復興支援となった。

逆に小泉内閣が吹っ飛んでもいい、懸命に役目を果たす上で死者が出たとしたら、止むを得ない、その覚悟で公平・公正を基準とした復興支援事業を行うことを目標にサマワ住民の全体的な利益につながるサマワ社会の発展的再建を図って貰いたいと指示を出していたなら、行動の自由度を確保できて、特定の人間との取引を必要としなかったのではないだろうか。

 世の中は奇麗事では片付かないと言うなら、次期総理となるであろう安倍晋三の「日本を美しい国にする」という公約は奇麗事そのものに堕す。奇麗事では片付かない美しい国ということになって、論理矛盾を侵すことになるからだ。

 仔細に眺めてみれば、様々な矛盾が噴き出てくる。アメリカ人だろうが日本人だろうが、あるいは中国人だろうが韓国人だろうが、他の如何なる国の人間だろうが、人間のやることすべてに於いて矛盾はついてまわる。往々にして不正もついてまわる。だから政治家・官僚の不正、犯罪、乞食行為はなくならない。

 しかし、表向きの評価としては矛盾や不都合な部分は除外されて、自衛隊の駐留はイラクの復興支援・人道支援に役立ったと位置づけられて美しい姿を纏うことになる。靖国の戦没者がそれぞれの戦争行為を問われることなく、またどのような戦争を戦ったかは問題とせず、「国のために戦った」、「国に殉じた」と評価されて、美しさだけを残すようにである。

 安倍新総理が「日本を美しい国にする」ことができたとしても、美しさだけを残した「美しい国にする」ことしかできないだろう。そのことは既に靖国神社参拝で証明済みとなっている。

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小泉内閣メルマガでの首相参拝批判が意味するもの

2006-09-08 06:51:53 | Weblog

 「五百旗頭真防衛大学長が、7日に配信される小泉内閣メールマガジンの中で、『靖国参拝一つで、どれ程アジア外交を麻痺させ、日本が営々として築いてきた建設的な対外関係を悪化させたことか』などと批判した」という記事が9月7日(06年)の『朝日』夕刊に載っている。

 「通算248回を数えるメルマガでの首相批判は異例だ」と言い、「『小泉政権をこう見る』と題した寄稿文で、五百旗頭氏は『信用という対外資産は、首相が靖国参拝に拘ったことによって大きく損なわれた』とも批判した。
 その一方、『小泉首相のあり余る魅力と国民的な人気がアジア外交への批判を封じている』と分析。対米関係や北朝鮮訪問を評価した上で、『アジア外交の失点は小さくないが、それは小泉首相が再浮上の機会を後継者たちに残したものと考えて対処しなければなるまい』と記し、次期政権での中国や韓国との関係改善に期待感を示した」となっている。

 靖国参拝がアジア外交を損ねたという別に珍しくもない広く行われている「首相批判」を、首相が今月の9月末には退陣するという間近に迫ったこの時期に、しかも「小泉内閣メールマガジンの中で」の首相批判となると本来ならあり得ない「異例」のことを「異例」でなくした。なぜなのだろう。

 「小泉内閣メールマガジンの中で」首相を批判できる立場にあるなら、また「アジア外交を麻痺させ、日本が営々として築いてきた建設的な対外関係を悪化させた」と真に憂慮していたなら、その「悪化」を少しでも防ぎ止めるべく、ガン治療の絶対条件となっている早期発見・早期治療と同様にもっと早くに批判して靖国参拝を思い直させようと働きかけるべきではなかったろうか。例え結果的に翻意させることができなかったとしてもである。小泉内閣最後の年だからと果たせずにいた公約の8月15日参拝を強行した後である。

 首相の立場でこれ以上参拝することはないと分かっているこの時点で批判したとしても、それが如何に痛烈な内容であっても、小泉首相に対してはもはや何の役にも立たないカエルの面にショウベンなのは分かりきっていることで、これまでもショウベンだったが、批判そのものは遅きに失したものでしかない。

 となれば、批判が主ではなく、誰が見ても分かることだが、「アジア外交の失点は小さくないが、それは小泉首相が再浮上の機会を後継者たちに残したものと考えて対処しなければなるまい」の結論に主眼を置いた議論の展開と見るべきだろう。

 「後継者たち」と複数形にしているが、安倍晋三が反安倍派にしたら幸運にもということになるが、親安倍勢力からしたら、当然不運にもということになる何らかの突然死に見舞われない限り安倍晋三で決まりなのは分かりきっていることだから、安倍晋三を頭に置いた「後継者たち」ではないと言ったら、ウソになる。

 また、「後継者たちに残した」「再浮上の機会」とは、前段の批判を受け継がなければならない以上、靖国参拝の中止を手段とした「再浮上」の構築を置いて他にないはずである。

 しかし安倍はかつて宣言している。「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」

 安倍晋三は自分で自分の足に公約と言ってもいい参拝の足枷をはめたのである。一旦口に出して置きながら、参拝を中止したなら、「行くか行かないかは外国から指図されるものであってはならない。それによって首脳会談ができる、できないというのは間違いだ」と常々公言している手前からも、中国の批判を恐れて中止した言行不一致、二枚舌の政治家と受け取られかねず、首相の公式参拝のみならず天皇の公式参拝まで実現させようとしている勢力の批判は勿論、参拝賛成派の一般国民からの批判にしても免れるわけにはいかないだろう。

 だからと言って参拝を強行したら、アジア外交を自らの手でますます袋小路に追いやることになる。

 そこで五百旗頭真防衛大学長のご登場を願った。その役目は小泉靖国参拝がもたらしたアジア外交の停滞を「小泉首相が再浮上の機会を後継者たちに残したもの」と、実際にはそんなことを意図していたはずはないのだが、そう解釈づけることで、安部晋三に靖国参拝中止の「機会」を与えると同時に、その解釈自体を中止の正当化の理由付けの「機会」に提供しようと図ったものではないだろうかと、こちらとしたらそう解釈づけることができないわけではない。

 つまり安倍晋三が自らの足にはめた足枷である「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ」とする方針を転換させるための正当化の道筋をつける布石ではないだろうか。また批判が強いほど、正当化の理由付けとして効果を持つ。

 そのように意図した布石であるなら、「小泉内閣メールマガジン」という場を使ったことにも意味が生じてくる。しかも防衛大学長の意見である。憂慮のバロメータになるだろうし、無下に無視するわけにはいかないという口実に利用できないわけではない。

 もしそのような狙いを持った深謀遠慮なら、「異例」でも何でもなくなる。

 また小泉靖国参拝はアジア外交を損ねただけではない。アフリカ外交まで損ねている。中国にとっては小泉首相の靖国参拝強行は中国の国益に叶う事柄であったろう。一般に流布しているように中国国内の反体制派の目を反日に向けさせて政権に対する不満を逸らせる口実になるという意味ではなく、靖国参拝強行によってつくり出された日本に対する激しい対抗意識をエネルギーとして世界のすべての国に対する外交に振り向けることができただろうからである。

 外交とは他国との競争の上に自国の政策を売り込むことでもあるから、日本が靖国参拝問題の関わりからも負けるわけにはいかない競争相手国となっているだろうことを考えると、そのことによってもたらされた対抗意識は十分に外交上の力となり得たはずである。

 「常任理事国入りを目指す日本がドイツ、インド、ブラジルと連携したG4案をAU(アフリカ連合)は拒否。中国はAU各国に『中国と敵対する国』の常任理事国入りへの反対を求めていた。
 日本が最も頼りにしたナイジェリアのオバサンジョ大統領は4月26日、胡主席を招いた夕食会で『今世紀は中国が世界を引っ張る。我々は中国のすぐ後ろにいたい』」(『アフリカ戦略、中国に後手・ODA「倍増」打ち出したけど』(06.5.2.『朝日』朝刊))

 日本の常任理事入りに対して「中国は各国大使館に現地政府関係者を招き、日本が戦争行為で残虐な行為をしたことを告発する映画を上映して日本への不支持を呼びかけたとの報告が外務省に入った」(『小泉時代 「強い男」演じた外交』 06.5.3.『朝日』朝刊)

 「中国と敵対する国」という日本に対する位置づけと「日本が戦争行為で残虐な行為をしたことを告発する映画を上映」はもし靖国参拝問題で中国との関係がこじれていなければアンフェアな外交戦術と見なされ、逆に中国は卑劣な手を使うと批判されただろうし、日本も批判して得点稼ぎができただろう。

 しかし中国の戦術から窺うことができるのは、日本に対する対抗意識のエネルギーの激しさのみである。対する日本は「一度中国の言いなりになったら、次々と難題を持ち出してくる」といった程度の批判では中国に対抗する外交エネルギーとしては不完全燃焼のガス湯沸かし器程度の力しか与えないのではないか。

 次期総理安倍晋三が五百旗頭真防衛大学長の「機会」提供を受けて靖国参拝を控えたとしても、あくまでも首相職を全うするため、アジア外交のみならず世界外交を成り立たせるための見せかけの方便に過ぎず、外交の強いエネルギーとはなり得ないのではないだろうか。外交の場面で中国の存在感がますます強まり、日本がその背後に隠れてますます影を薄くしていくといった事態が起きないとも限らない。単純・単細胞な国粋主義だけではやっていけないことは確かである。

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自民党総裁選・消費税論争の美しくない日本の風景

2006-09-06 15:30:28 | Weblog

 世論調査では今後の政策課題として社会保障・経済格差の是正・消費税に国民は強い関心を持っているというが、自民総裁選での谷垣候補の消費税姿勢は正否は別として明確である。「増大する社会保障の財源として消費税率を2010年代半ばまでに10%まで引き上げる」

 対する安倍・麻生氏は経済成長を重視し、その中で歳出削減等を行って財政を健全化していく考えである。

 安倍氏「なお対応できない部分を消費税でお願いする。抜本的な税制改革の中で国民と議論する」と消費税増税は最後の最後だとしている。この点は麻生氏も同じである。

 麻生氏「歳出削減で足りないとなって、初めて消費税、間接税という話になる」

 麻生氏は次のようにも主張している。「直接税の伸びが分からない段階で、景気を中折れさせかねない消費税を何年にいくら上げると言うのは、軽率のそしりを免れない。消費税率を3%から5%に上げて逆に税収が減った教訓から学ぶなら、今の段階で決めるべきではない」

 対する谷垣氏は「『将来のことがわからないから具体的なことを語れない』では、国民の将来への不安を拭うことにはならない」

 麻生氏「景気が上がるときに消費税を上げると言ったら景気が萎えるでしょ。これまたやったらアホですよ」とテレビで放送していた。いわゆる中折れ懸念説の繰返しである。

 再び対する谷垣氏「時間はあまりない。少なくとも10%必要だと認識する必要がある。日本は中福祉低負担だ。見合う負担をしないと、子供や孫にツケを回す」といったような反論を試みていた。  

 安倍・麻生両氏の消費税増税先送り論は景気回復維持による税収増を前提としている。景気変動の危険性を無視しなければ成り立たない〝経済成長〟論とも言える。失われた10年からやっとこさ脱却した途端に、バブルから突き落とされて暗い谷底を10年間も彷徨った苦い経験から得た右肩上がりが永遠に続くことはないという教訓を忘却の彼方に置き忘れてきてしまったらしい。

 今回の景気回復が自力回復なら、自信を持つのもいい。中国・アメリカの景気拡大に牽引された他力回復であり、証券取引の活況も外国人投資家が先導役を果たした活発化と株価上昇であった。キャリーファンドとかの外国人投資家が日本のゼロ金利政策を利用して日本の金融機関からタダ同然の多額の融資を受け、それを外国で運用して得た利益が10兆円にものぼると、確かNHKだかで放送していた。国の借金が8000兆円超、地方が200兆円超、合わせて1000兆円超とも言われている財政赤字を抱えていながらである。勿論外国投資家だけではない。日本の持てる者の持てるカネを有効に活用せしめ、格差社会を形成したゼロ金利でもあった。一方で社会保障費の削減で低所得層に痛みを強いていながらである。その結果の格差社会でもあった。
 最も始末の悪いことは周囲の状況に恵まれた僥倖に過ぎない景気回復を小泉構造改革による直接的な成果だと小泉首相自身も周囲もそう信じていることだろう。その過信が税収増に景気変動のファクターを加えない誘因だとしたら、安倍氏も麻生氏も政治家として美しい姿とは言えない。

 小泉構造改革が失われた10年からの景気回復をもたらしたと位置づけること自体が滑稽な過信に過ぎないのだが、戦後の日本の発展は靖国神社に祀られている戦没者の礎の上に築かれたとする小泉首相自身の、戦争のマイナスに戦後の発展をプラスすることで差引き戦争のマイナスを限りなくゼロに近づけようとするペテンにも通じる自己欺瞞の類ではないだろうか。

 日本は自ら犯した侵略戦争によって多くのものを失ったが、他国が犯した朝鮮戦争によって失った経済を回復させ、戦後の発展の礎としたというとろこがウソ偽りのない歴史的事実であろう。アメリカの援助もあった。明治以降、今日まで輸出依存・外需依存の発展を日本の歴史・伝統・文化としてきたのだから、そのことに連動する日本民族の自力性の欠如なのである。大和政権成立以前から中国から制度・文物・文化を移入して日本という国を成り立たせ、現在も欧米、特にアメリカの制度・思想を手直しして日本の運営に応用していることがそのことを証明している。

 最近米国景気の減速傾向が言われている。だが、04年に中国が米国を抜いて日本の最大の貿易国にのし上がり(中国側からすれば中国の最大の貿易国は欧州連合で、次いで米国。日本は03年1位から第3位へと位置を下げている分、上位2国と比較した場合、その絶対性は薄れている)、米国の景気減速の日本への影響は少ないとする考えもあるようだが、中国経済の成長パターンが日本と同じ輸出依存で、輸出の2割が米国向けであることから米景気の減速が中国の景気に影響を与え、それが撥ね返って日本の対中輸出を冷え込ませる要因となる可能性が高いと言うことである。勿論米国景気の冷却による日本への直接的影響は全然ないというわけではないから、対中米合わせた輸出量の低下は相当な打撃となる可能性無きにしも非ずであろう。

 いわば景気拡大は絶対前提とはならないということである。現在の原油高の景気に与える影響も計りかねているはずである。景気が減速し、税収が伸びない中での財政運営にしてもままならないだろう。税収がマイナスに転じたら、歳出削減と赤字国債発行を常に連動させていかなければならないといった事態も起きかねない。

 現在の景気が不安定なバランスの上に成り立っていることを指摘する『朝日』夕刊記事(06.9.1.『朝日』夕刊)がある。

 「世界貿易、日独もっと貢献を 06年国連報告書 不均衡是正、米国頼み懸念」
 
 「【ジュネーブ=大野良裕】途上国の立場から世界貿易の拡大と開発の両立に取り組む国連貿易開発会議(UNCTAD)は8月31日、06年の貿易開発報告書をまとめた。米国の国内消費が世界経済を牽引している今の状態は『永遠に続くものではない』と分析。先進国で大きな経常黒字を抱えている日本とドイツを名指しし、『国内需要の拡大によって世界的な貿易不均衡の是正に貢献すべきだ』と呼びかけている。
 報告書はまた、貿易不均衡が原因となって途上国の通貨、株式、商品市場の変動幅が大きくなっていると指摘。90年代後半のアジア通貨危機のような大規模な金融危機が起きる可能性は低いものの、世界の経済成長を米国の消費が支えている現状は、米国にとって過大な負担になりつつあると分析している。
 その上で、米国の輸入需要が落ち込めば世界経済の悪化が連鎖的に拡大するとの懸念を提示。日独などが米国の負担を分かち合う必要があると主張している。
 報告書はまた、90年代からの中国の国内需要の伸びが、途上国全体の成長に弾みをつけてきたと評価。この傾向を維持するために『人民元の切り上げは急速にではなく、斬新的に進めなければならない』としている」
 日本の景気回復が「米国の消費」と「中国の国内需要の伸び」に支えられたもので、自力性からの実現値ではないことを国連貿易開発会議の『貿易開発報告書』は伝えている。そしてアメリカにおんぶに抱っこの他力本願はそろそろ改めろとの警告である。

 「米国の国内消費が世界経済を牽引している今の状態は『永遠に続くものではない』」にも関わらず、自力回復ではない、外需依存によってプレゼントされた日本の景気回復プロセスを無視して、日本の総理・総裁を目指そうという政治家が景気拡大を絶対前提として、消費税増税は今語る時期ではないといったことを主張している。まったく以て美しい姿と言えるだろうか。

 国・地方を合わせた巨額の財政赤字、巨額の国債発行残高、景気回復がマイナスの要素として働く国債利払いの増額、それに日本の政治家と官僚たちの美しくない私利私欲癖と無能と惰性がグルになってもたらしている非効率な予算遂行上のムダの累積等々を見ると、素人目にも日本の財政状態が軽症を超えてかなり重症に陥っているように見える。

 重症状態にある症状を景気の状態によって効き目が良くもなれば悪くもなる漢方薬を息長く使って解放に向かうのをじっと待つのが得策か、こちらから緊急の大手術を仕掛けて、回復を策してみるのが得策か。麻生氏が言う「消費税率を3%から5%に上げて逆に税収が減った教訓から学ぶなら」、そのことを恐れるだけの姿は美しくなく、再び同じ轍を踏まない政策の創造をしてこそ美しい姿と言えるのであって、その鍵は例えば食料品に関しては従来どおり5%とするといった運用方法と国民への説明にかかっているはずである。

 安倍氏にしても「なお対応できない部分を消費税でお願いする」と言い、麻生氏にしても「歳出削減で足りないとなって、初めて消費税、間接税という話になる」と消費税増税への道を全面的に閉ざしているわけではない。麻生氏の景気の中折れ懸念も、安倍氏の消費税増税の当面の排除も実際は表向きの理由で、消費税増税を前面に出した場合の不人気からの来夏の参院選への影響を恐れる選挙都合からの措置だとしたら、いわば参院選を凌いでからそろりと持ち出すべき増税論だとしているとしたら、国の進路を担う政治家として美しい姿どころか、潔くない醜い姿だと言わざるを得ない。

 参院選で自民党敗北ということになったなら、安倍内閣は短期政権で終わる可能性が一気に吹き出てこないとも限らないから、麻生氏よりも当選が確実視されている安倍氏の〝饅頭恐い〟ならぬ〝消費税恐い〟の意識は強いだろうが、「美しい日本」を掲げる以上、自己都合を排除すべきである。そうでなければ言行不一致の美しくない姿を曝すことになる。国民の顔色を窺って無難な形で持ち出すとしたら、〝改革〟の名が泣く。

 国連貿易開発会議の上記分析が指摘している世界とアメリカとの経済に関わる関係を別の面から表現した私自身の2003年5月18日付のメールを見つけた。アメリカのイラク侵略に今からでも遅くない、アメリカ製品の不買運動を通して反対の姿勢を示そうと呼びかけたメールに対する私の返事である。現在も続いているイラクの内戦状態に関わることなので、参考までに記載してみようと思う。
* * * * * * * *
 「Re: [kokkai2] イラク戦争への反対は今から」(2003年5月18日 18:15)

 手代木です。

 アメリカは世界の胃袋です。その胃袋たるや、ゲテモノ食いの胃袋であって、世界各国が生産する自動車からテレビ、カメラ、高級エビなどの魚類、衣類、雑貨、その他その他、自国が輸出する総額以上の金額の製品を、呑み込んでいます。極言すれば、世界の経済はアメリカの貿易赤字で成り立っていると言えなくもありません。アメリカが貿易赤字だと言うことは、世界の多くの国々が対米黒字の恩恵を受けていると言うことです。日本もその内の一国に入ります。

 もし世界がアメリカ製品不買運動を本格的に展開したなら、アメリカ国民も対抗上、それぞれの国のアメリカ向け主要輸出品に対して不買運動を起こすでしょう。経済的な打撃は貧乏な国・貧乏な人間からと相場が決まっています。日本が例え生き残ることができたとしても、発展途上国・後進国から恨まれることになるでしょう。

 私はアメリカのイラク攻撃を支持した人間の一人ですが、イラクのフセイン政権崩壊は既に既成事実となった出来事であり、その事実の上に事態を進展させる他はありません。フセイン政権崩壊後のイラクがどう転ぶかは、イク人自身の問題です。利権争い、主導権争い・宗派闘争・個人的名誉欲等に打ち勝って、平和で民主的な新生イスラム国家の基礎をつくれるか否かは自己決定案件であって、(アメリカの)最終的関与はアメリカの手から離れたところにあります。

 世界のマスメディアが大量破壊兵器が未だ発見されないことを以って、イラク攻撃の大義の不在をあげつらうばかりなのをやめて、イラクの将来はイラク人自身の問題であることをすべてのイラク人に伝えなければ、私欲や雑念から離れた国づくりの自覚を促すことはできないと思います」
* * * * * * * *
 イラクは今以てイラク人自身の愚かさを繰り広げている。それを煽ったのはある意味反戦平和を掲げる世界のマスメディアと言えるのではないだろうか。イラクの現在の内戦状態をアメリカの責任と把える報道が跡を絶たないのだから。

 cf:安倍新総理に敬意を表して、それが短期政権で終わること願いつつ、今後とも〝美しい・美しくない〟をキーワードに無理なこじ付けが混入するかもしれないが、情報を解読していきたいと思っております。

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教育現場で見せる親の「無理難題要求」

2006-09-05 16:22:47 | Weblog

 教師は学校社会の教育者でなければならない。

 教師などに常識では考えられない理不尽な申し出をする親のことがここのところ話題になっているらしい。インターネットで調べたところ、06年7月23日の産経新聞に詳しく出ていた。

 持ち込み禁止の携帯電話を生徒から取り上げた中学教師が保護者に「『基本料金を日割りで払え』と言われ、言葉が見つからなかった」とか、「あの子の親と仲が悪いから、今すぐうちの子を別のクラスに移して」と言う親、「うちの子がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」とか言う親のことを取り上げ、「保護者が教師に無理難題を言うケースが各地で急増している。教師が頭を悩ますこうした『理不尽な親たち』について、大阪大の小野田正利教授(人間科学、教育制度学)は、文部科学省の科学研究補助金を受けて教育関係者や弁護士、精神科医らによる『学校保護者関係研究会』を発足させ、原因究明と対策に乗り出した」(同記事)と伝えている。

 同じ記事内からさらに見てみると、
「ある幼稚園では、おもちゃを取り合う園児を見た親が『取り合うようなおもちゃを置かないでほしい』と申し入れた」

 「小学校の1学年全クラスの担任配置表を独自に作成し、『この通りでなければ子供を学校に行かせない』と要求した保護者もいる」

 記事は続ける。「《病む先生…》 先生たちはお手上げだ。文科省調査では、全国の公立小中学校で精神性疾患による教職員の休職者は一昨年度、病気休職者の56%を占める3559人に達した。10年前のほぼ3倍だ。研究会メンバーの嶋崎政男・東京都福生市教委参事は『現場感覚でいうと、精神性疾患による休職の多くに保護者対応による疲弊が関係している』とみる。
 小野田教授の調査に、小中学校・園の8割が『無理難題要求が増えた』と回答。背景として嶋崎参事は『教師の能力に問題があるケースもあるが』と前置きした上で、『行政による「開かれた学校」がうたわれた結果、些細(ささい)なことにもクレームが寄せられるようになった』と指摘する。
 保護者の理不尽な要求への関心は高まっており、小野田教授の講演依頼は学校やPTA、民生委員から殺到している」

 次は原因。

 「《家庭に原因》 『過保護型』『放任型』『過干渉型』。嶋崎参事は、無理難題を言う保護者の養育態度を3種類に大別する。いずれも家庭内の人間関係に原因がある場合が多く、過干渉型の場合、親にとって『良い子』を演じる子供が教師の言動を大げさに報告し、事態を悪くすることもある。
 また、要求態度については、子供の言い分をうのみにする溺愛(できあい)型▽教師の困った様子を見て満足する欲求不満解消型▽利得追求型-などに分類している」

対応策は「《学校の限界》 このような保護者への対応として、嶋崎参事は(1)複数の教師で対応に当たる(2)専門家のアドバイスを受ける(3)マニュアルを作る(4)事前研修の実施-などを提案する。
 その一方で『学校に無理な要求をする保護者は皆何らかの問題を抱えている。その解決のために学校と話したいという意思表示と考えるべきだ』とし、要求を機に保護者を“味方”に変える努力を呼びかける。
小野田教授は『たてつかない弱者をいじめる“言った者勝ち”の傾向が社会に蔓延(まんえん)している』と指摘。社会問題としてとらえ、第三者機関の設置や学校の“守備範囲”の限定を訴えている」

 そして最後に「研究会で把握している保護者からの要求」の実例を挙げている。

「《保育園・幼稚園》
『うちの子は箱入り娘で育てたい。誰ともけんかさせないという念書を提出しろ』
『行事のスナップ写真でうちの子が真ん中に写っていないのはなぜだ」
『子供が1つのおもちゃを取り合ってけんかになるからそのおもちゃを置かないでほしい』
《小学校》
『石をぶつけてガラスを割ったのは、そこに石が落ちていたのが悪い』
『義務教育だから給食費は払わない」
『(夜中に電話で呼び出して)飲食店での話し合いに応じろ』
《中学校》
『(保護者がクレームを言いに来た日の)休業補償を支払え』
『風呂に入らないので入るように言ってほしい」
『(けがをした生徒を病院に行かせたところ)なんでやぶ医者に行かせるんだ』」
(引用以上)

 悪者は親だとする主眼を出発点としているから、まさに教育荒廃は親が元凶、親の家庭教育の未成熟が原因といった趣一辺倒の内容となっている。同じ目で見ているからだろう、保守政治家が家庭教育を問題視するわけである。「教育の基本は家庭教育である。親の子どもに対するしつけがいい加減だから、学校での生活態度を確立できない。集団生活に馴染めない。朝食を食べさせないで学校に行かせる親、昼食にコンビニ弁当を持たせる親。親を教育する教育が必要である」云々。
 
 「親を教育する教育」が必要なら、政治家を教育する教育も官僚を教育する教育も必要としなければ、公平が保てない。親・政治家・官僚――この三者は同じ穴のムジナに見えて仕方がない。このような親がいてこそ、同じ穴の自民議員を支持することとなり、結果として自民党は政権党として成り立つことができている。常識を知らない親(=大人)のお陰というわけである。

 大体が「無理難題要求」する親の、あった事実を単に表面的に把え、羅列しているに過ぎない。いわば出来事を表面的に把えて、最近の親はああだ、こうだと言っているに過ぎない。「『過保護型』『放任型』『過干渉型』」の原因分析にしても、表面的な分析で終わっている。

 「嶋崎参事は『教師の能力に問題があるケースもあるが』」と教師側の問題を部分的とし片付けていること自体が表面的分析を証明している。

 持ち込み禁止の携帯電話を生徒から取り上げた中学教師が保護者に「『基本料金を日割りで払え』と言われ、言葉が見つからなかった」という一事が問題点がどこにあるかをすべて物語っている。 

 「言葉が見つからなかった」のは教師が対応できるだけの言葉を持っていなかったということに他ならない。「いいえ、払うことはできません。持ち込み禁止となっている携帯電話を持ち込んだ。ルールを守らなかったのはあなたの子どもの方です。ルールを守っていたら、取り上げることはなかったでしょう。今後ともルールを守らなければ、それなりの罰則を与えることになります。当然の措置です」といったことを言えば済むことを、学校教育者でありながら「言葉が見つからなかった」。

 確かに「学校に無理な要求をする保護者は皆何らかの問題を抱えている」と言えるだろうが、「言葉が見つからなかった」教師も「問題を抱えている」のである。小野田教授が言っている「たてつかない弱者をいじめる“言った者勝ち”の傾向が社会に蔓延(まんえん)している」にしても、日本人が行動・思考様式としている権威主義性は時間を過去に遡るほどに権利意識の未発育を受けて強い磁力を放っていたのだから、過去の時代ほど“言った者勝ち”の傾向は蔓延していたはずで、今の時代だけの問題ではないはずである。

 「研究会で把握している保護者からの要求」のすべてが、教師が対応可能な臨機応変の言葉を持っていたなら、その場で片付く問題であろう。少なくとも当事者間で解決しなければならない問題のはずである。それを「文部科学省の科学研究補助金を受けて教育関係者や弁護士、精神科医らによる『学校保護者関係研究会』を発足させ、原因究明と対策に乗り出」さなければならない。飲み会で終わってしまうのではないだろうか。

 対応できない、当事者間で解決できないお粗末な事態は社会も教師自身も、学校教師を勉強を教えるだけの人間と把えているだけで、教師は学校社会の教育者であるという明確な位置づけを行っていないことがすべての原因となって起こっているのではないだろうか。教える勉強にしても教科書に書いてある範囲の内容を機械的に伝え(=指示)、それを生徒が機械的に記憶する(=従属)暗記教育だから、殆ど用意してある言葉を使うのみで、ない言葉を自分から見つける訓練づけも習慣も与えられていない。当然、マニュアル化している言葉は使えるが、マニュアルにない言葉は使えないという障害が起きる。

 このようなことは何も学校教師に限ったことではなく、国会の質疑応答でも、党首討論でも、お互いに自分が用意した言葉をぶつけ合うだけで、用意していなければ、相手の言葉を把えてその不備・矛盾を突くといったことが満足にできない。いわば日本人性となっている日本人全体の問題であろう。

 勿論このことも日本人の行動様式・思考様式となっている権威主義性からきている。子供の頃か親にああしろ、こうしろ、あるいは逆のそれはしてはダメだ、これはしてはダメだと肯定か否定いずれかの指示を受け、その指示をなぞって従属するだけの権威主義的対人関係・意思疎通に慣らされてきて、それが小中高校と暗記教育の知識授受を通して上塗りされていく。

 親に暴力を振るわれて育った子は成長して同じように暴力をふるう傾向にあるという調査結果があるそうだが、刷り込まれ学習した対人関係の方法が暴力を介在させて成り立たせたものだから、将来的な対人関係でも同じ手段を必然化させる傾向にあるということだろう。権威主義的な指示・従属を慣習として育った場合にしても同じ経過を踏む。単に暴力が介在しているかいないかの違いしかない。尤も一方的に指示を出して従属させる関係は心理的暴力を手段としていると言えないことはない。

 かなり前に別のところで目撃談として一度書いたことだが、幼稚園の園児が散歩から帰る時間に園長が上がり口となっている廊下の敷居のところに園児を迎えるべく現れた。先頭を歩いてきた園児は順番に縁側の前で園長を半円に囲むような形で立ち、園長とそれぞれ声を掛け合うでもなく残りの園児が揃うのを黙って待った。幼稚園園児だから、しんがりは他処見しいしい歩いていたのだろう、かなり遅れていた。保母が早く歩きなさい、みな待ってるでしょ、と急かした。これもああしなさい、こうしなさいの指示で、但し相手が幼い園児だから、指示がまともに機能しない。保母はときにはヒステリックになる。言うことを聞かない子供にヒステリックになる母親のように。指示する側は指示が思い通りに実現しないとヒステリックになるのは、有効な言葉を持たないからでもあるが、両者の位置関係から言えば、相手(園児・子供)が下位権威者の立場にあるから可能となっているヒステリー対応であって、保護者にはそういった態度は取れない。逆に教師や保母よりも上位権威者と見ているから、親の「無理難題要求」に対して反論もできず黙って伺うといった従属状態を示しもするのだろう。だとしたら、保母にしても教師と同様に教育者の立場には立てない。少なくとも園児から見たら社会の一員として、大人としてそれ相応の社会経験を積み、社会の先達者として教育者の立場にいるはずだが、権威主義的な指示・従属の関係性ばかりが全面に出て、教育者の立場に立つことを阻害している。

 園児がみんな揃ったところで、主だった保母が「園長先生、ただいま」と指揮すると、園児たちはすぐ近くにいるというのに、大きな元気のよい声を出すようにこれまた指示されていて、指示通りにだろう、「園長先生、ただいまー」と声を一斉に張り上げて帰りを告げると、園長は初めて、「お帰りなさい」と応じた。このときのために早く到着した園児には何も声をかけないで、「お帰りなさい」を温存しておいたのだろう。

 挨拶が終わると、「ただいま」を指揮した保母が今度は、「さあ、手を洗ってうがいしてから教室に入りましょう」と次の指示を出すと、園児たちは元気よく「ハーイ」と返事して、それもそういうふうに「ご返事しましょう」と洗脳されていたのだろう、背後の手洗い場に一斉に群がり、指示されたとおりに手を洗ってうがいしてから、終わった者順に廊下に上がっていった。

 帰り着いた者から誰の指示がなくても順に「園長先生、ただいま」と普通に声をかけ、手洗い場で手を洗い、口をうがいしてさっさと廊下に上がって教室に戻り、みんなが揃うまでの時間、指示されたことではない自分が興味のあること――絵本を広げるとかオモチャで遊ぶとか、自分で考えて自分で行動する訓練とそういったことの学習・習慣づけが一切ない。あるのは上が下を従わせる指示と下が上に従う従属の権威主義性の刷り込みのみである。

 保母が指示する「園長先生、ただいま」の言葉にしても、手を洗いうがいを命ずる言葉にしても用意されている言葉であり、その指示を受けて園児が口にする「園長先生、ただいま」の言葉も、手を洗い、うがいすることを指示されて「ハーイ」と応じる言葉も、用意されている言葉を用意されたとおりに鸚鵡返しに口にするだけのことで、そこには自分の言葉は存在しない。いや、存在することを許さない。

 知り合いの誰かと出会って、相手が子どもに挨拶しても殆どの子どもが黙ったままで、「おはようは?」と親に促されて、初めて促された言葉どおりに「おはよう」と言う。「ありがとうは?」と親に指示されてから、「ありがとう」を言う。「バイバイは?」・・・・。
 
 幼い頃からそのように訓練づけられている。指示を指示通りになぞって従属する関係には用意された言葉の受け答え(ああしなさいこうしなさい、これをしてはダメ、あれはしてはダメといった指示の言葉と、そのことに機械的に対応する言葉)のみで、それぞれの性格や思いから自然に出てくる自由な言葉の介在はない。

 権威主義性に則った指示と従属の関係は創造的な言葉の介在を許さないだけではなく、自立性(自律性)の介在も許さない。自立性(自律性)は権威主義性成立の否定要因だからなのは言うまでもない。

 「外で誰かにおはようと声をかけられたら、お母さんに言われなくても自分から挨拶してもいいのよ」という教え方で子どもに考えさせ、親の指示を受けてそれに従属するのではない自分で判断させる訓練の習慣が殆どない。

 例え教師の「言葉が見つからな」い状況が教師だけの問題ではなく、日本人全体の問題であったとしても、教師は勉強を教えるだけの人間ではなく、社会が学校社会の教育者であることを教師の使命として求め、教師自身もそれを教師であることの使命とする自覚を持ち、自らを律することを相互の位置づけとする――そういった認識がなく、学校教師が勉強を教えるだけで終わっていて、学校社会の教育者たる自覚も資格も有していないから、言葉を見つけることができないのであり、親の「無理難題要求」に対応しきれないといった事態が生じる。

 また教師は学校社会の教育者として、権威主義的な意味ではなく、保護者よりも上に位置する権威(オーソリティー)であって、またそうでなくてはならず、自信を持って対等に渡り合う姿勢を持たなければならない。だが、やはり勉強を教えるだけで終わっている。

 道徳とか規律とかを教えるにしても、教科書ないしは参考書を用意して授業として教えるだけから、用意してある他人の言葉を伝えるにとどまり、生徒も機械的に受け止めることしかできない。対人関係の構築や社会化は本来は親や教師、あるいは生徒同士が日々発する言葉の中から必要とするキーワード・感性を自分で見つけて学び身につけていくものだが、教師にしても生徒にしても子どもの頃から指示と従属の人間関係に馴染み、その範囲内の言葉を日常語としているから、見つけようにも見つけることができないのだが、それ以前の問題として、指示・従属の関係は見つけるというプロセス自体を本来的に必要としていないから、権威主義的人間関係に慣らされている人間ほどその種の意識作用を作動させず、指示・従属の対人関係、あるいはその範囲内の社会化にとどまることになる。

 いわば実際には親を教育する教育は小中高大学といった教育機関が担っているのだが、学校教師がコマ切れ知識を暗記させる勉強しか教えることができず、学校社会の教育者足り得ていないから、家庭で常識をしつけられずに育った子が学校社会に送り込まれてきても、小中、あるいは高校、大学と暗記学力は身につけさせることはできるが、常識のしつけに関しては素通りさせるだけで常識知らずの社会人として社会に送り出し、結婚して子を設け親となっても、自らが常識を弁えていないから子どもに満足なしつけができるはずはなく、親の子どもでしかない子どもが小学校に送り込まれてきても、やはり学校自体がその子を常識を弁えないまま社会化させ大人に成長させていくだけの素通りの役目しか果たさず、常識を弁えないクローン人間を次々につくり出していく無限循環を繰返す機関にとどまっている。学校社会が生徒に用意されている言葉ではなく考える言葉、あるいは考えさせる言葉を伝えることを役目としていながら、教師自体が考える言葉・考えさせる言葉を持たないから、その役目を機能させることができないでいるということだろう。

 ということなら、親の「無理難題要求」よりも、学校教育が素通りを許している原因となっている教師の考え・考えさせる言葉の欠如を問題とすべきだろう。そのような言葉を持ったとき、教師は単に勉強を教えることから、学校社会の教育者となることができる。そのための第一歩として、教師は勉強を教えるだけであってはならない、学校社会の教育者でなければならないという自覚を持ち、そうあるべく自らを厳しく律することから始めなければならない。「言葉が見つからなかった」などと言っている場合ではない。

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靖国参拝矮小化の美しくないレトリック

2006-09-04 05:21:12 | Weblog

 昨日9月3日(06年)の日曜日に盛岡で開催された自民党東北ブロック大会での靖国参拝問題に関する総裁選3立候補の意見表明の模様を日テレ「NEWS24」でやっていた。「自論を述べるにとどまった」と解説していたから、政策論争とは言えない単なる同じ場面の繰返しで終わった顔見世程度の内容だったのだろう。

 安倍氏「中国がいわゆる総理が靖国参拝があれば会わないという、これをやっていれば会わないっていう、それはやはり間違っているのではないかと言うことを私は中国に申し上げております」

 麻生「首脳だけ会わずに、経済も他のすべてもうまくいっている状況と、首脳だけ会って、他はみなうまくいっていない状況と、どちらがいいかと言えば、それははっきりしているじゃないですか」

 谷垣氏「無用に他国の国民感情を刺激しないことも大事なことだと私は思うんですね。で、そういう意味で総理になったら靖国参拝を控えるべきと――」

 中国が問題にしているのは歴史認識に関わる日本の姿勢であって、それが肯定し難いから〝会わない〟のだから、日本側の歴史認識を議題にすべきを、安倍氏と麻生氏は〝会う・会わない〟に問題を限定し、矮小化するレトリックを巧妙に展開したに過ぎない。麻生氏が「それははっきりしているじゃないですか」と聴衆に半ば問いかけると、拍手さえ起きた。

 麻生氏の比較は一見もっともらしく聞こえるが、「どちらがいいか」だけでは済まない問題をさも済む問題に見せかけただけのことである。済むとしたら、「経済も他のすべてもうまくいってい」さえすれば、首脳は会わなくてもいいという極論に行き着くことになるからだ。そういったことに気がつかずに拍手しているのだから、自民党支持者はそれほど頭がいいとは言えない。

 「首脳だけ会って、他はみなうまくいっていない状況」という説明にしても、「他はみなうまくいっていない」から、決定的な断絶に至らないように「首脳だけ」でも「会」うつながりを維持するというケースもあるはずである。自分の都合のために比較にならない比較を持ち出したに過ぎない。得々とした顔で話していたが、巧妙な上にも巧妙なレトリックを展開しただけだろう。

 最も正直な姿勢を示したのは谷垣氏だが、あくまでも安部・麻生両氏に比較した評価であって、日本自らが戦争を総括することで日本側の歴史認識をきっちりとつけようというものではなかった。会う・会わないはその先にある問題であろう。

 安倍氏は7割の自民党議員の支持を取付けて、総裁当選(=総理当選)が確実視されている。となれば、誰よりも正直であろうと努める姿勢を示さなければならないはずだが、自分の意見が矮小化とは気づかないとしたら、常々表明している「美しい日本をつくっていきたいと思います。自由と規律を知る凛とした国であります」の主張に反する美しくない姿と言える。

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