8月15日敗戦記念日/みんなで靖国神社を参拝しよう

2007-08-15 11:54:08 | Weblog

安倍首相も小泉前首相も、公明党のみなさんも痩せ我慢せずに参拝しようよ


 小泉首相が敗戦記念日の今日8月15日、先ほど参拝したと9時前の民放ワイドショー番組で報道していた。

 首相時代の小泉純一郎「政治家として2度と戦争を起こしてはならない誓いを込めて、靖国神社に参拝している」

 安倍「2005年6月、わたしは、訪日中のインドネシアのユドヨノ大統領にお会いしたとき、小泉総理の靖国参拝について、『わが国のために戦い、命を落とした人たちに対して、尊崇の念をあらわすとともに、その冥福をお祈り、恒久平和を願うためです』と説明した。すると大統領は、『国のために戦った兵士のためにお参りするのは当然のことです』と理解を示してくれた。世界の多くの国々が共感できることことだからではないだろうか」(安倍・著『美しい国へ』)

 「国のために戦った兵士のためにお参りするのは当然のことです」は3歳の子どもでも理解できるごくごく当たり前のことだろう。だから、みんなで参拝という流れになっている。

 だが、戦うに値した戦前の日本国家だったろうか。戦ったことが正しかった戦前の戦争と言うことなら、「わが国のために戦い、命を落とした人たちに対して、尊崇の念をあらわすとともに、その冥福をお祈り、恒久平和を願う」のは、つまり「国のために戦った兵士のためにお参りするのは当然のことです」ということになる。但し戦ったことが正しかった戦前の戦争と言うことなら、小泉純一郎の「政治家として二度と戦争を起こしてはならない誓いを込めて、靖国神社に参拝している」は論理矛盾を引き起こすことになる。

 正しかった戦前の戦争を「二度と起こしてはならない」と否定することになるからだ。正しかった戦前の戦争を戦い戦死した兵士に対して「二度と起こしてはならない」は、その戦死ををも貶める侮辱行為に相当する。

 正しくなかった戦争だったからこそ、「二度と起こしてはならない」が論理的正当性を獲ち得るのであって、正しくなかった戦争だったということなら、そのような間違った「国のために戦い、命を落と」すといった疑いもせずに言いなりに同調・従属した無考え、あるいは自己判断放棄に対して「尊崇の念をあらわす」のは奇妙な倒錯行為となる。単細胞の安倍首相を、「あなたは素晴らしいアタマをしている」と誉めるようなものである。

 戦前の日本の戦争を悔い、戦うこととなって無駄な戦死を与えることとなった者の生命を謝罪の念を込めて惜しみ、国家はこうはあってはならない、国民もこうはあってはならないと戒めの場としてこそ、誰かさんのお得意の口先だけのものではない真の反省・誓いを示すこととなって、「その冥福をお祈り、恒久平和を願う」ことが真正の価値を獲得することができるというものではないだろうか。

 特に国家の政治に携わる者は軍国主義・全体主義が支配する間違った国家へと「二度と」もっていくことはしませんと「誓いを込め」るべきだろう。そうしてこそ、「恒久平和を願う」気持へと確実につながっていく。

 ところが中国との戦争も青息吐息の状態でありながら、アメリカと戦争する、相手の実力に対する自らの実力を正確に計算する能力も持ち合わせもせず、口先だけの強がりで戦争を始め、その挙句に原爆を2発喰らってやっと強がりの口先をへし折られて、目が覚めた無様な戦前の日本であった。

 <天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 
 杉山「南洋方面だけで3ヵ月はくらいで片づけるつもりであります」
 天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1ヶ月くらいにて片づくと申したが、4ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか」
 杉山「支那は奥地が広いものですから」
 天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3ヵ月と申すのか」
 杉山総長はただ頭を垂れたままであったという。>〔『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)/半藤一利氏解説から(昭和史研究家・作家)〕

 現在でもお笑いのネタに推奨できる見事な展開である。

 沖縄の戦闘でも、ソ連侵攻の満州でも、軍は自分たちが逃げるのが先で民間人を守らなかった非人間性、戦闘で形勢が不利になると、兵士を置き去りにして上官が先に撤退する「規律ある凛とした美しい」帝国軍人魂が支配していた日本の軍隊であった。正しい戦争などどこにもなかったのである。

 硫黄島の戦闘では2万余の兵士が送り込まれたものの、<兵士と言っても、その多くは急遽召集された3,40代の年配者や16、7歳の少年兵。中には銃の持ち方を知らない者もいた>(NHKスペシャル≪「硫黄島玉砕戦」・~生還者61年目の証言~≫07.8.5.再放送)という情景は明らかに既に戦争を継続するだけの国力を失った状況を示すものだが、それを正直に受け止めることをせずに口先だけの強がりを維持して「本土防衛、沖縄防衛」を叫び立てて援軍も送らず、実際は兵士を見殺しにした日本国家の姿・軍部の姿は「玉砕」の美名と同じく醜悪さと悪臭に満ち満ちた中身を実体とした組織に過ぎなかった。

 そして沖縄の戦闘でも硫黄島の戦闘で見せた捨石作戦を再度実演じて、兵士及び沖縄島民を多数見殺しにし、なお且つ島民に集団自決を強制する醜悪な戦争とした。

 なぜ間違えた国家となったのか。日本という国に拘り、大和民族に拘り、万世一系の天皇に拘り、行き着いた末が「他ノ民族ニ優越セル」という、共生や国際協調とは正反対の思い上がりを民族性とするに至り、その思い上がりがアジア諸国に対して自らを支配者の位置に置く衝動をもたらすこととなった。南方進出はその衝動の具体化であったろう。

 戦前の日本・軍部は間違えた国家のために兵士・市民の命をムダに落とさせたのである。国の政治に関わる人間なら、「国のために戦い、命を落とした」と事象を表面的になぞり、受け止めるカエルの面にショウベン面の顔向けなど本来ならできようがないのである。それをなぜ間違えた国家となったのかの問いかけも検証もないままに参拝し、「尊崇の念をあらわす」。戦前の日本を間違えた国家と把えていないからだろう。間違えた戦争だと総括していないからできる「尊崇の念」なのである。

 安倍「反省すべきは反省しながら、しかし総理としてですね、今進めている改革をしっかりと実行していくことが大切だと思います」
 
 安倍「ま、この選挙に於いて私は自民党の総裁として当然責任は私にあります。反省すべき点は反省しなければなりません。反省すべき点は反省しながら、新しい国づくりに向けてですね、一つ一つ結果を出していくことによって、えー、責任を果していきたいと、えー、思います。やっとこの改革も、着実に進んでいますし、え、経済の成長についてもですね、景気回復についても、やっとここまできました。ま、しっかりとみなさまに実感していただけるように経済を成長させていくことが私の責任だと思いますし、また年金の記録問題の解決、お約束をしたことを果していかなければいけないと思います。大変な困難な状況でありますし、苦しい状況でありますが、責任を果たしていくことが私の使命だと思います」

 総理・総裁としての自身の資質・能力を点検・総括もせず、「反省」と日本の将来を口にする。

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安倍改造人事「私一人で決めなければならない」

2007-08-14 16:46:52 | Weblog

 すべて任せてよし。信じる者は救われる。

 今朝8月14日のNHKニュースで内閣改造人事について安倍首相は「まだ人事は白紙の段階で、よく熟慮して決めていきたい。わたし一人で決めないといけない」と話していた。

 人事をあれこれ言うとき以外は殆どテレビに映らないからあれこれ言いたがる、それしか能のない、夏向けに暑苦しく太った森「日本は神の国」元首相から福田康夫元官房長官や谷垣前財務相の名前を挙げて挙党態勢でいくべきだとご教示預かったことに関しても、安倍首相は「いろいろな方がそれぞれの見識に基づいて話をされている。わたし自身、熟慮して断行する」。「安倍カラー」重視か「挙党態勢」重視かの質問には、「まだ白紙」と答えているが、「わたし一人で決めないといけない」と言っていることと「わたし自身、熟慮して断行する」と言っていることからすると、「安倍カラー」重視だろうと「挙党態勢」重視だろうと、自分のリーダーシップで決めていくということなのだろう。

 問題はそのリーダシップである。いくら自分のリーダーシップで決めたいと思っていても、本人が思っている程にリーダーシップがなければ、満足な内閣人事は望みようがなくなる。

 その点、政治とカネの問題も年金の記録の問題も天下りや談合の問題も「私の内閣で解決します」と固い約束を国民と交すことができる程に自らのリーダーシップに揺るぎのない自信を見せているのである。リーダーシップはあまりある程に内心に漲っているに違いない。

 安倍第1次内閣人事に於いてもそのリーダーシップは発揮された。他の誰もが備えていない安倍首相独自のリーダーシップこそが事務所費疑惑の佐田前行革相や同じく事務所費疑惑の松岡自殺元農水相や同じく事務所費疑惑の赤城前農水相といった適材適所を生み出し、「女性は産む機械」問題発言の柳沢厚労相や女性と官舎住まいの本間前政府税制調査会長や「原爆投下しょうがない発言」の久間前防衛相等々を優秀な人材と見なすに至ったのだろう。中川秀直幹事長や中川昭一政調会長、公明党の冬芝だ北側だといった胡散臭さばかり、いかがわしさばかりが臭う面々を周囲に集めることになったのだろう。

 稀有なリーダーシップによる鉄壁のメンバーであった。「私の内閣で解決する」はそういった有能なメンバーを自らのリーダーシップで使いこなし、諸問題を解決して正常な状態に持っていくということを意味する。人事決定も問題解決もすべて安倍首相のリーダーシップを必要条件とする原則を打ち立てたのである。そういったリーダーシップがエネルギーとなって、「わたし一人で決めないといけない」へと向かった。安倍首相自身からしたら、極く自然な勢いの落着き場所であったろう。

 ところが安倍晋三には首相としてのリーダーシップに欠けると見て、参院選では民主党に投票した不見識な有権者がいた。この倒錯的逆説は何を意味するのだろう。国民に見る目がないとしか言いようがない。第2次安倍内閣人事で安倍晋三の稀有なリーダーシップは証明され、名誉回復を見るに違いない。

 7月29日の参院選投票日当日の大勢がほぼ明らかになった夕方に安倍首相は次期首相になりたくてうずうずしている麻生外相と会談している。続投の話は交したのは明らかで、専ら次期幹事長は麻生と噂されているところをみると、安倍晋三は続投支持を交換条件に次期首相のエサで釣ったのではないか。その確約のお印として自民党幹事長職を約束した?――。自民党幹事長は自民党総裁に次ぐ実力者、ナンバー2が占める地位であり、総理・総裁への最短距離の場所提供を意味する。

 麻生は小派閥の領袖に過ぎないから、党を纏めきれないのではないかとの危惧の声があるとのことだが、安倍出身派閥である町村派は自民党最大派閥である。その援護を受け、幹事長職を失言を用心してそつなくこなし、援護を維持して次の総理・総裁にありつく。続投支持という芸を見せて、その後褒美に菓子にありつく犬のように。

 尤もこれはひとつのカケだろう。安倍がコケたら、麻生もコケる可能性が生じるからだ。

 一部報道によると、安倍首相は評論家のあの厭味な桜井よしこに入閣を誘ったが、断られたと言う。従軍慰安婦軍強制性否定の強力な援軍となっただろうに、残念である。「単一民族発言」の麻生プラス桜井よしこで安倍国家主義を両脇から固め、「戦前レジーム」体制で塗り固めた鉄壁の陣容をなすことができただろうに、なぜ安部強いリーダーシップは桜井よしこには通じなかったのだろう。世界7不思議の一つになるのではないか。

 桜井よしこは自分が引き受けたなら、戦前色が勝ち過ぎてしまい、まずいことにならないかと懸念して遠慮したのだろうか。それとも安倍首相が自らのウリとしているリーダーシップは自分の能力を実際以上に見せようとする自己顕示から生じている見せ掛けのリーダシップに過ぎないということなのだろうか。

 俺にはリーダーシップがある、俺にはリーダーシップがあると四六時中自分に言い聞かせてあると思い込ませたリーダーシップに過ぎないとでも言うのだろうか。そうだとすると、「私の内閣が、私の内閣が」はリーダーシップの過剰なまでの安売りに過ぎなかったこととなり、「私が一人で決めないといけない」はリーダーシップの安請け合いとなってしまう。

 そんなことはあってはならない。戦前型の「規律ある、凛とした美しい日本」を作り上げようとしているリーダーシップである。時間を時代錯誤の方向に遡ろうとするそのエネルギーを見ただけでも凄い話ではないか。教育勅語や特攻隊員もどきの「お国のために生命を投げ打つ」ことに郷愁を感じ、そのような郷愁を戦後活動の主たるエネルギーとしているリーダーシップである。

 すべて新しい「私の内閣」に格差・貧困の問題、地方の崩壊といった諸問題の解決を任せ、「私一人で決めないといけない」強力・強靭な国家主義色に染まったリーダーシップに期待しようではないか。

次に同じ国家主義者のべったり犬・麻生が控えていることでもあるし。


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「硫黄島玉砕戦」から読み解く原爆投下

2007-08-12 11:10:43 | Weblog

 昨06年8月7日に放送したのだが、見逃したNHKスペシャル≪「硫黄島玉砕戦」・~生還者61年目の証言~≫が8月5日(07年)に再放送された。
    
 日本軍は昭和19年以降、硫黄島の戦闘に備えて全島を地下壕で以って要塞化。これは過去に例のない戦略だと言う。網の目のように張り巡らした地下壕は屈んで通れるのがやっとの広さで、長さ18キロにも達し、そこに司令部から戦車の堰堤壕、野戦病院まで設けた。最高指揮官栗林忠道陸軍中将は本土への最後の防波堤として島を死守せよと命じられていたという。

 最終的には飲料水の乏しい孤島に陸海軍合わせて2万人もの兵士が送り込まれた。兵士と言っても、その多くは急遽召集された3,40代の年配者や16、7歳の少年兵。中には銃の持ち方を知らない者もいたという。そのような雑多集団でしかない兵士たちに対して『硫黄島守備隊・戦闘心得』は一人残されても戦い続け、決して捕虜になるなとその心構えを説き、「苦戦に砕けて死を急ぐな」と勝手な自決や突撃まで禁じる徹底抗戦の過度な要求を課した。そして未熟集団の兵士たちはそのような過度な要求に忠実且つ従順に従った。

 いわば従うことによって、作戦は成立する。戦前の日本の戦争が軍部や国家指導者の戦争立案とそれに忠実且つ従順に従った国民の国家に対する一心同体を条件として成り立っていたようにである。

 そのような一心同体の行動によってこそ、アメリカ側が精鋭の海兵隊6万人も擁して5ヶ日間で占領できると踏んでいた計算に反して、物量の点でも劣る雑多集団の日本軍は激しく抵抗、戦いを1ケ月以上引き伸ばすことができたのだろう。

 昭和20年2月16日に始まって、3昼夜に亘る砲爆撃が日本軍を襲う。爆弾700トン、砲弾5000個。日本軍は地下で耐える。2月19日の朝、米軍が上陸。地下で猛爆撃を凌いだ日本軍は相手の隙を突く反撃に出て、米軍は大混乱に陥る。

 アメリカ兵「夜になれば必ずバンザイ突撃をしてくるはずだった。むしろ我々はそれを期待して待ち構えていた。そうすれば彼らは自滅だった。しかし残念ながら、そうならなかった。彼らは戦いを長引かせようとしていた。地下に篭る敵と戦うのは初めてだった」

 海兵隊の戦死者は戦闘の半ばで4千人(4189人)を超える。それまでの太平洋戦線に於ける戦死者の半数に相当する犠牲だという。

 衝撃を受けたアメリカは待機させた部隊のすべてを投入。硫黄島奪取に全力を注ぐ。そして米軍は続々と強力な兵器を注ぎ込んでいく。最も威力を発揮したのは地下壕の入口に直接火炎を噴き込む火炎放射器。対する日本側は補給も援軍もない持久という名の差引きマイナスのみに向かう袋小路の消耗戦。

 大城晴則(元硫黄島守備隊員)「サイパン・テニアン・グアムの場合は自分の陣地がやられたら、後方に戻って共同作戦取れってなってるけど、硫黄島の場合は自分の陣地を死守しろと言うんです。共同して後ろに下がったら、ご存知の通り硫黄島というのは小さいですから、海へおっこっちゃいますから。自分の陣地から絶対動いちゃいけないという命令は下がっていた。一人十殺、一人で10人殺せば必ず勝てるって言う」

 上陸から2週間後、米軍は日本の陣地を次々と壊滅させていく。大本営は危機的な状況をただ見守るだけ。実は米軍の上陸直前、硫黄島の支援方針を次のように決めていたとのこと。

 『陸海軍中央協定研究・案』(昭和20年2月6日)
 「硫黄島を敵手に委ねるの止むなき」――「補給もままならない実情では敵の手に委ねることも止むなしとする」と番組は解説。

 米軍海兵隊上陸は1945年2月19日、米軍の艦砲射撃開始はその3日前の2月16日、それに遡る10日前に既に大本営は硫黄島を見限っていた。これが徹底抗戦の実態であった。番組は硫黄島を捨石と見限り、沖縄と本土の防衛に集中しようという作戦だったと解説している。兵士の命を問題とせず、単に時間を長引かせるだけの道具とした。

 それでも硫黄島の戦闘で米軍に大打撃を与え、それが米軍全体の戦力低下を招いて、以後の戦闘に日本側に有利に働く計算があっての見限りなら許されもするが、いたずらに双方の戦死傷者を増やすだけで終わった何ら成算もない見限りだったのである。

 だからだろう、国民向けには事前に撮影した兵士が訓練している映像を使って、硫黄島の守備隊が健闘していると宣伝するゴマカシを働かざるを得なかった。大層な国家機密として当り前のことだが、既に捨石とされていたことは国民も兵士も知らされていなかった。

 新聞見出し。『既に敵二萬を殺傷、皇軍寡兵よく勇戦』――劣勢の中で戦う守備隊の姿が敢闘精神のカガミであるとして国民の意識高揚に利用されていったという。

 地下に立て篭もる日本兵士に対して米軍は大掛かりな掃討作戦を開始。最初は拡声器を使い、投降を呼びかけるが、日本兵は応じない。投降作戦に参加したジェラルド・クラッチ元海兵隊員、抵抗を諦めない日本兵が理解できなかった。

 「ある意味では彼らの勇敢さ、国への思いの強さに感心した。しかし、出てきて生き抜こうとしないのはバカげていると思った。我々はこれ以上傷つけるつもりも殺すつもりもない、君らは生きてこの島を出られる、日本に戻れるのだと約束した。それなのになぜなんだ。一体どんな思いが彼らの中をよぎっているのかと思った」

 日本の兵士たちは投降していけば、何日かしたら銃殺されると思い込んでいたという。その両者間の人間の生命の扱いに対する認識のズレは如何ともし難い。日本の権力者たちは兵士の命を問題とせず、戦闘が始まる前から硫黄島を見限ることができたことでも分かるように、自国兵士の命も、当然敵国兵士の命も生き延びさせる方向への想像性は持ち合わせていなかった。そのことだけでも人道に対する罪を問うことができる。

 ジェラルド・クラッチ「ボロボロの軍服を纏った憔悴しきった兵士が姿を現した。恐らく下級兵だったのでしょうか、洞窟の入口から5メートル程出てきた。そのとき髭も剃ったきちんとした身なりの将校が飛び出してきた。そしてその下級兵に向かって拳銃を抜くと迷わず兵士の肩を撃ち抜いた」

 大城晴則「捕虜になったら、国賊って言われ、戸籍謄本に赤いバッテンが書かれるらしいんです。そういう教育を受けとったんです」

 大城晴則「チョコレートとか携行食品を持ってきた兵隊が、向こうの待遇はいいから出ろよと来たとき、いや、出られない。それで結局その兵隊は国賊になるから可哀相だからと後ろから撃った。で、這い上がっていったらしいけど、死体はなかった」

 国家と国民が如何に一心同体であったかを物語って余りある。双方共に国賊にならないか監視し合っていた。こうも言える。この国家にしてこの国民あり。自らの頭で考えずに、上の言うことに下が言いなりになることが如何に恐ろしいことであるか、それが当時の日本人の姿であったことを元兵士は語っている。

 壕に退避した残兵は負傷兵が半数以上占める。大城晴則「3人1組の小部隊を作って竹槍と手榴弾を持たせてもらったと思うけど、出て行けと、帰ってくんなと。こうですね。いわゆる口減らしですね。食糧が限られているから」

 投降して生き延びるという生命に対する思いを持つことはなかった。「生きて俘虜の辱めを受くるなかれ」の国の教えにあくまでも自らを添わせて、疑うことを知らなかった。その一心同体性。

 ジェラルド・クラッチ「責任を問われるべきは日本の指導者たちです。彼らが長い時間をかけて、戦争の実戦や投降についての考え方を上から歪めてしまったのですから」

 だが、「日本の指導者たち」は「戦争の実戦や投降についての考え方を上から歪めてしまった」過ちを日本人自身の手で総括されることはなかった。如何に国民の生命を軽視したか、ムダに死なせたか、その罪を自ら問うことをしなかった。なぜ考えもなく国家の言いなりになり、国家の生命観に心中立てをして国民自らも自らの命を粗末に扱ったのか、その愚かさ・罪を国民自らも問うことをしなかった。

 元守備隊日本兵は「追い詰められて理性は働かなかった」と言っているが、最初から人間として極く当たり前に持ち合わせるべき正常な理性を持ち合わせていなかったに過ぎない。だからこそ、無謀な戦争をなぜ行うに至ったかの総括を自ら行う理性を働かず仕舞いで戦後60年余を過ごすことができた。総括のない場所にこそ、安倍晋三の「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」とする理性が理性として幅を効かすことができる。たいした美しい理性と言える。

 そして一つの終局を迎える。3月21日大本営発表「硫黄島のわが部隊は戦局ついに最後の関頭に直面し、17日(3月)夜半を期し、最高指揮官を陣頭に皇軍の必勝と安泰を記念しつつ全員、壮烈なる総攻撃を敢行す、との打電あり。爾後、通信絶ゆ」

 新聞「最高指揮官陣頭に壮烈全員総攻撃」
   「1億死に徹すれば、危局活路あり。銘肝せよ、大戦に楽勝なし」
   「硫黄島の玉砕を1億国民が模範とすべし」
   「硫黄島へ誓え、1億の特攻魂 我らの魂は沸く」

 言葉が踊る。いや、大本営も新聞も、言葉を踊らせた。戦前の大日本帝国軍隊は言葉を一番の武器としていた。言葉でアメリカに戦争を仕掛け、言葉で戦い、その愚かさと無力さゆえに惨めで愚かしいしっぺ返しを受けた。原爆投下もそのしっぺ返しの一つではなかったか。

 硫黄島の玉砕は国への究極の献身として国民の心を動かし、硫黄島は「玉砕の島」となったと解説。国民は硫黄島の敗北がサイパン・グアム等の敗北に継ぐ敗北であることから次の敗北へのステップであり、日本の戦争そのものの敗北に向けた本格的な助走を孕むものだと判断する合理性を発揮すべきを、勇壮果敢な献身だとのみ情緒的な感慨で受け止めたと言うわけである。ここにも国家と国民の一体感を見ることができる。「天皇陛下バンザイ・お国のために命を捧げる」の一体感であり、一心同体の誇示であろう。

 番組は.「一方のアメリカは硫黄島の戦いを通じて一つの確信に達した」と伝えている。
 
 『米統合参謀本部議事録』――降伏を拒否し、捨て身の地上戦を挑んでくる日本にどう対処するか。アメリカは味方の犠牲をできるだけ減らすため、空軍力の増強、空からの都市爆撃を強化することにした。日本軍から奪った硫黄島の飛行場(戦闘機・爆撃機が無数に整然と整列している映像)はB29の護衛戦闘機の基地となり、日本本土への空襲はより激しいものとなっていく。無謀な徹底抗戦に突き進む日本に都市への絨毯爆撃で応じたアメリカ。硫黄島玉砕戦を経て、戦争は最後の局面へと向かう、と解説している。

 いわばアメリカは硫黄島から多くのことを学習した。勿論硫黄島の戦闘のみからではなく、それ以前の戦闘からも多く学んだだろうが、硫黄島の戦闘では地下壕に立て篭って相手の隙を狙ってゲリラ行動に出る米軍が経験したことのない戦術で日本軍は守備兵力2万余のうち、その殆どが投降を選ばずにアメリカ軍に掃討の手を煩わす徹底抗戦、戦死(玉砕)への道を選択した。日本側の2万余の兵力に対してアメリカ側が6万、3倍に相当する兵力を抱え、物量の点でも優りながら、日本側は玉砕を戦術としたのだからその殆どが戦死したのは当然の結末だとしても、玉砕戦を戦術としたのではないアメリカ側の戦死7千近く、戦傷2万余という結末は爆弾700トン、砲弾5000個といった物量だけでは済まないことを教え、あまりに逆説に満ちた成果であることを教えた。『硫黄島の戦い―Wikipedia』は「太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦闘」と伝えている。

 アメリカは日本が本土決戦と称する最後の戦いで硫黄島以上に地の利を生かして日本の領土全体に地下壕を掘り巡らす類の要塞化を施し、硫黄島同様に投降という手段を取らず、最後の一兵まで徹底抗戦を試みるのではないかと予想しなければならない。それがアメリカ側が硫黄島の戦いを通じて否応もなしに学習させられた以降の戦闘に対する危機管理・戦術であろう。

 徹底抗戦への執念とその規模に比例して、米軍側の戦死傷者は大規模化することを硫黄島は教えた。日本全土を戦場とした場合、その広さと時間的展開に応じて、米軍の犠牲は増加していく。

 予想されるそういった犠牲を前以て予防するために、まずは空からの徹底的な爆弾の嵐で可能な限り地下壕諸共都市を破壊尽くし、戦意を喪失させる。それが番組が言っている硫黄島陥落前からの「無謀な徹底抗戦に突き進む日本に都市への絨毯爆撃で応じたアメリカ」ということだろう。<東京大空襲(1945年3月10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)を続けざまに実施した。東京空襲の後の横浜空襲からは硫黄島を基地とする長距離戦闘機P-51の護衛がついた>(≪硫黄島―Wikipedia≫)

 人間は相手の態度に応じて自らの態度を決定する部分を持つ。相手の態度が学習させた自らの態度という関係に往々にして縛られる。

 結果としてすべての兵士が息絶えるまでとした日本側の徹底抗戦の玉砕態度とそのことによって蒙った自軍兵士の無視できない数の死傷がアメリカ側をして、自軍兵士の生き死にに敏感に対応することを否応もなしに学習させたと言えないことはない。

 このことを裏返すと、日本側は硫黄島戦を戦う前から「敵手に委ねるをやむなき」と、それが最終的に何らかの勝算あっての持久戦なら理解できもするが、結果として敗戦に向けて一つ一つを消化していっただけのことだから、単にその場を取り繕うための徹底抗戦・玉砕に過ぎず、そのように自国民兵士の生き死にを鈍感・無頓着に扱ったのに対して、アメリカ側は自国軍兵士の命を守ることを優先させた。そう学習させたのは日本の軍部及び政治指導者であり、言いなりに従って徹底抗戦を演じた兵士――いわば日本国民であろう。

 そして1945年4月5月6月の沖縄戦も本土防衛の捨石とされ、<日本軍が民間人を守らないこともあり、約50万人の島民のうち10万~15万人が犠牲となった。日本軍の死者は約6万5000人>(『日本史広辞典』山川出版社)という生命の軽視が国家・国民の一心同体のもと演じられた。国家によく従うことによって、集団自決も可能となる。

 そこへ持ってきて、45年7月16、原爆の実験が成功した。その10日後の1945年7月26日に日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が出される。対して日本は7月28日に「ただ、黙殺するのみである」と鈴木貫太郎首相が談話を発表。

 45年8月6日――広島原爆投下
 45年8月8日――ソ連、対日宣戦布告
 45年8月9日――長崎原爆投下。
 45年8月9日未明――ソ連、対日開戦・・・・と続く。

 「朝日」の07.8.6の朝刊記事≪原爆 こう投下された≫は、<トルーマン大統領は後に、ポツダム宣言に対する日本の態度が原爆投下を招いたと言った。「ただ、黙殺するのみである」という鈴木貫太郎首相の7月28日の談話を指している。しかし、原爆投下命令はその3日前だった。>と、ポツダム宣言に対する日本の態度如何に関係なしに原爆は投下されたように書いているが、最初のポツダム宣言を受諾した場合でもアメリカは原爆を投下したことになる。原爆が日本に大きな打撃を与えたとしても、投下自体がたちまち世界に対してアメリカが自らを極悪人だとする宣言に姿を変えることとなり、日本に与えた以上の打撃を自らに与える矛盾を犯すことになる。
 
 ≪原爆 こう投下された≫は<9日、政府内は、ポツダム宣言の受諾の条件をめぐって紛糾する。そこに2発目の原爆が長崎に投下されたことが伝わる。政府は10日、国体護持(天皇制の維持)だけを条件とした宣言受諾を、連合国側に通告した。米国は国体護持の確約を拒んだ。本土への空襲も緩めなかった。>としているが、日本に無条件降伏を求めたことは本土決戦を避け、それなしに戦争を終結させる意図からの要求であり、それが意図通りに進まないことに対して意図通りに進ませようとする圧力が原爆投下でもあったろう。

 米軍側の本土決戦の回避は、最大限の物量で本土決戦に応じたとしても、硫黄島の戦闘で否応もなしに学習させられたようにそれだけでは済まない予想もつかない米軍兵士の死傷者数に見舞われる可能性を前以て阻止することを計算に入れた措置であろう。

 もし日本がアメリカの原爆投下の非人間性・非人道性を批判するなら、軍部や国家指導者の戦争意志に対して自らも担った一心同体性を総括してからにすべきではないだろうか。自身が無関係な位置に立っていて、通り魔に襲われて被害を蒙ったという形の原爆投下ではない。一億総動員を受けて、兵士はその一員として戦争の場に立ち、一般国民は同じく一員として心理的に戦争遂行に加担していたのである。いわば日本の戦争に関して自らを正義の立場に置くことのできる日本人はそうはいないはずである。例え戦後生まれの日本人であっても、戦争総括の洗礼を受けていない以上、是非を言う資格はないのではないか。正義の立場に置くことのできる日本人だけがアメリカの原爆投下を非難する資格を持てる。

 国家と国民が全体として描いていた姿が「1億死に徹すれば、危局活路あり。銘肝せよ、大戦に楽勝なし」であり、「硫黄島の玉砕を1億国民が模範とすべし」であり、「硫黄島へ誓え、1億の特攻魂 我らの魂は沸く」といった一心同体性への上からの同調要求と要求に対する下の無条件的な従属であり、同罪の姿であろう。

 何がどう間違っていたか、どうあるべきだったか、まずは国家及び国民を自ら総括することから始めるべきではないか。総括が合理的な客観性を持って正しく行われたなら、安倍晋三みたいな国家主義者が戦後の時代に存在する余地は最初からなかったに違いない。当然A級戦犯の靖国合祀も起こり得なかった。

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党内からの首相退陣要求は安倍続投効果

2007-08-10 04:53:34 | Weblog

 7日(07.8)午後の自民党代議士会 

 中谷元・元防衛庁長官(谷垣派)「総理は責任を痛感していると言うが、自民党の政策を有権者に理解してもらえる態勢をつくるため、この際、いったん身を引くことで抜本的にやり直すべきだ」「抜本的な議論がないと、荒波は乗り切れない」(07.8.8./日刊スポーツ≪安倍首相ぼう然、面前で「やめろ」発言≫)

 小坂憲次前文科相(津島派)「この選挙は、安倍と小沢のピッチャー同士の投手戦。観客(有権者)は、ホームランを打たれた投手の交代を求めている。自ら続投を求めるのではなく、監督に意見を聞くべきだ」(同日刊スポーツ)

 石破茂元防衛庁長官(津島派)「首相は反省すべきは反省すると言ったが、何を反省しどう改めるか、はっきりさせるべき」(サンケイスポーツ≪安倍首相に辞めろコール、自民党代議士会は大荒れ模様≫)

 村上誠一郎氏(高村派)「人心一新というのは、トップが変わらないかぎり人心一新にはならない」(j-castニュース)

 福島テレビの≪自民党代議士会で首相退陣求める声≫(date:8/7 16:25)

 <中谷元・元防衛庁長官「私は、一度総理は身を引いてですね、これからどう進んでいくのか、そういう議論を全党的にしなければ、とてもこれからの自民党の運営は極めて難しいと」

 小坂憲次・元文科相「ホームランを打たれてしまった投手(党首)に対してはですね、やはり交代を求めた、これは政権の交代を求めたんではなくて、ピッチャーの交代を求めたんだと思います」>

 今回の大敗で参院選最大派閥だった津島派が35議席から22議席へと13議席減らし、安倍出身派閥の町村派が28議席から7議席減らしたものの21議席と津島派と肩を並べる結果となったことへの小坂憲次・石破茂、その他の津島派の面々のこのような踏んだり蹴ったりを招いた張本人安倍晋三への恨みつらみはひとしおなのだろう。数は力の数を奪われてしまったのだから。

 ≪“反安倍派”結集へ≫(07.8.9/スポーツ報知)

 <崖(がけ)っぷちの安倍晋三首相(52)に対し、ついに“チーム・反安倍”が結集した。自民党の小坂憲次前文部科学相、園田博之元官房副長官ら、安倍首相に距離を置く議員6人が8日、都内で会合。表向きは倒閣ではなく、安倍政権の政策転換を求める勉強会だが、続投に批判的な議員らを集めていく狙いがありそうだ。
 会合には小坂、園田両氏に加え、渡海紀三朗、三原朝彦、山本公一、後藤田正純氏が出席し、今後は野田毅元自治相が参加予定。園田氏は「本来の自民党を取り戻すための会」と説明した。当選回数にかかわらず、広く参加を呼びかけていく方針で、今月中に再度、会合を開く。7日の代議士会では、小坂氏から面前で退陣を求められ、ぼう然とした安倍首相が、さらに窮地に立たされた形だ。
 一方で党本部では、大敗した参院選を振り返る、地域ごとの国会議員の会合が開かれた。「全部おわびと弁解から始めないといけない選挙なんて、勝てるわけがないと思った」「テレビなどで総理のご発言を聞いていると、我々の実感と違う。危機感が官邸に伝わっていない」など、厳しい意見が続出した。
 会合で発言した猪口邦子前少子化担当相は「地方紙が大事ということを言いました。民主党の小沢党首は、目の前に20人、30人しかいなくても、行けばその地方の新聞の1面トップに出る。そこから学んだ方がいい」と話していた。>

 昨9日に開かれた各派閥の会合後の主だった議員の様子を同夜のNHKニュースウオッチ9が伝えている。
 額賀元防衛庁長官(津島派会長代理)「安倍総理ですね、責任感じて、人心一新、そしてまた人事を考えると、あるいはまた政策の見直しをすると言ってますから、そういうことをまず示していただかなければ進まないと思います」

 「まず示し」たくとも、安倍総理、口先だけの人間だから、示すことができないでいるのだということに早く気づくべき額賀元防衛長官ではないだろうか。

 後藤田正純(津島派)「安倍さんも、その信任されたと、お思いだからこそ、今回続けたがっていらっしゃるわけですから、じゃあ、その自信があるんであれば、もう1回、じゃあ、総裁選して見ましょう。自民党の人間がですね、イエスと言うかノーと言うか、正々堂々と総裁選を開くべきだと――」

 後藤田正純、自分の中では安倍晋三を既に総理・総裁と認めていないらしく、肩書きではなく、「安倍さん」とさん付けで呼んでいる。素晴らしい兆候ではないか。

 中谷・元防衛長官「とにかく今しなきゃいけないことは、先の参議院選挙の総括であって、これを行うには一度総理が身を引いてですね、えー、どういうことをするかということから考えないと再出発できないと――」

 山崎拓・元副総裁「(閣僚は)総入れ替えすべきだと思いますよ。今回の事態を招いたのは今の内閣の責任ですから。本人がやめない以上、あとの人を全員交代させるべきだと思いますよ」

 総入れ替えさせておいて、自分だけ残った、自分だけ残ったと囃し立てるのも一つの手か。

 古賀元幹事長「厳しい環境の中で総裁・総理は続投をご決意いただきました。一つの茨の道を選ばれたわけでありますが、結果に対する責任と反省を目に見える形で私共に示していただかなければならないと思います」

 古賀先生、古賀大明神、最初の郵政民営化法案採決では本会議を欠席して棄権の形を取り、反対票を投ずるよりも自分への風当たりを弱める工夫をして、お陰で党除名処分を免れ、郵政解散選挙では党公認を得るために郵政民営化賛成にまわり、昨年の総裁選では安倍支持を打ち出して主流派にくっつく形勢を見るに敏な事勿れな態度に終始していながら、安倍形勢悪しと見たのか、なかなかの強気である。

 高村元外相「この敗北で腰を抜かすことなく、必要な改革はこれからも進めていく。郵政選挙の圧勝で傲慢になった部分があったとすれば、それは反省して改革の陰の部分にしかるべき手を打っていく――」

 なーに「腰を抜かす」どころか、安倍晋三、顔色は冴えないが、「職を辞すべきとの声があることは承知している。大変厳しい道だが、私の判断が間違っていなかったと思っていただけるよう全力を尽くしたい」としぶといまでの自信を漲らせている。この自信はどこから来ているのか。法案を何本通したと、数の力を自分の力と勘違いしてそれを成果とする〝判断の間違い〟をベースとしていることは間違いない。

 麻生「今回の選挙の結果、色々と意見が出るということは、これ出ない方がおかしいんです。閣内にいる一員ということでもありますんで、私としてこういう状況をきちんと踏まえて、総理・総裁がきちんと決断を自分なりに踏まえられたら、それに従って我々はそれを支えていかなければならない」

 安倍の次を狙っているのだから、それはそうだろう。但し自民党内の反安倍勢力が大きな力となった場合、麻生の安倍支持は反安倍の流れに飲み込まれる可能性も出てくる。坊主憎けりゃ、袈裟まで憎しの袈裟になる可能性である。

 安倍首相「党内で色々な意見、厳しい意見が出るのは当然だと思います。ま、こうした意見を受け止めながら、しっかりと党を纏めていくべくリーダーシップを発揮させていただきたいと思います」

 そうだよ、「私の内閣」なのだから、私の自民党なのだから、しっかりと纏めていかなければ。「私の内閣、私の内閣」と機会あるごとに他の誰のものでもない〝自分の内閣〟だということを宣伝し続けてきた。宣伝してきた手前、そう簡単には手放すことなんかできるものではない。中身はボロボロの内閣だったが、それがボロボロだったとピンとくるほどには賢い頭ではないし。

 まあどっちにしても、こういったワクワクするような愉しい自民党内紛場面は安倍首相が続投したからこそ賞味可能となった第1幕、第2幕といったところだろう。続投にも意味があるわけである。次の幕が待ち遠しい。

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従軍慰安婦/女性拉致兵士は軍服を着た朝鮮人なのか

2007-08-08 00:40:32 | Weblog

 7月30日(07年)に米下院本会議で採択された日本政府に謝罪を求める従軍慰安婦決議の〝罪状認否〟は安倍首相は従来どおりに「無罪」を主張したことがSankei Webの記事(2007/07/31 13:35≪首相「残念」 慰安婦決議採択でコメント≫)に出ている。

 <安倍晋三首相は31日、首相官邸で記者団に対し、米下院本会議が慰安婦問題をめぐる対日非難決議を採択したことについて、「(4月に)訪米した際、私の考え、政府の対応については説明してきた。こうした決議をされたことは残念だ」と述べた。
 首相は「20世紀は人権が侵害された世紀だった。21世紀は人権侵害がない、世界の人々にとって明るい時代にしていくことが大切だ。これからもよく説明していくことが大切だ」と述べ、引き続き米国側に事実関係と日本の対応について説明していく考えを示した。
 慰安婦問題をめぐっては、首相が4月末に訪米した際、ペロシ下院議長ら議会指導者との会談で、「人間として首相として心から同情している。そういう状況に置かれたことに申し訳ない思いだ」と語っている。
 塩崎恭久官房長官も同日の記者会見で、「決議案が採択されたことは残念だ」と述べた。>

 ≪米下院の従軍慰安婦決議(要旨)≫が8月1日の『朝日』朝刊に出ている。

 <日本政府は、1930年代から第2次世界大戦にかけ、旧日本軍が「慰安婦」として世界に知られる、若い女性に性的な奴隷状態を強制した歴史的な責任を明確な形で公式に認め、謝罪し、受け入れるべきだ。この制度の残虐性と規模は前例がない。20世紀最悪の人身売買事件の一つである。
 日本の教科書の中には、慰安婦の悲劇などを軽視しようとするものがある。最近、日本の官民の要職にある者は、河野洋平・内閣官房長官が93年、慰安婦に対し謝罪し後悔の念を表明した談話の内容を、弱めるか撤回してほしいと要望した。
 首相が公式の謝罪声明を出せば、日本の誠意と、従来の声明の位置づけに対する一向に止まない疑いを晴らすのに役立つだろう。
 日本政府は、旧日本軍のために慰安婦が性的な奴隷状態にされ、売買されたという事実はなかったという主張に明確に反論すべきだ。
 日本政府は、慰安婦に関する国際社会の声を理解し、現在と将来の世代にこの恐ろしい犯罪について教えるべきだ。>

このような訴状に対して安倍首相は前回同様に「20世紀の人権」を「21世紀の人権」にすり替えて再度「無罪」を主張したというわけである。

 中国海南島で日本軍の慰安婦にされた6人の女性を今年6月に野田正彰・関西学院大教授(精神病理学)が診断したところ、<重い心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの症状が出ている>(≪米慰安婦決議 「私たちの力不足」抗議書出した社長 「心の治療支援を」「心の傷」診察の医師≫(07.8.1『朝日』朝刊)とのこと。<自宅に押し入って日本兵に連れ去られ、継続的に暴行されたという60年以上前の被害体験により、今なお悪夢や人格変化などの症状が続いている>(同記事)その恐ろしさは簡単には想像できない。

 <抗議書を出した社長>とは、「性的奴隷」なる存在の否定派人間の一人で、米大使館に「抗議書」を手渡したが受け入れられず、「私たちの力不足」の結末を迎えたと言うわけである。

 従軍慰安婦日本軍関与否定説に立つ者は軍関与を裏付ける直接の記録・文書の類がなく、慰安婦とされたとする女性たちの証言に関しても、その証言を裏付ける記録・文書の類が存在しないことを否定の根拠に挙げているが、「自宅に押し入った日本兵に連れ去られ、継続的に暴行された」といった証言に関しては<「軍服のような服を着た人に連れて行かれた」といった証言は、軍の命令の証拠にはならない。当時、軍服を着た民間の朝鮮人はたくさんいたし、そもそも彼女たちは軍命の存在の証人たりえない。>(≪日本人を差別する慰安婦非難決議≫)なる無罪説があることを知った。

 元従軍慰安婦の証言はそれを裏付ける記録・文書の類がないとして、その信憑性を疑うなら、女性を拉致・連行した「軍服のような服を着た人」がイコール「軍服を着た民間の朝鮮人」だと証明できる記録・文書の類を提示するのでなければ、その実証性は客観性を失い、取り上げ不可能となる。

 しかし元従軍慰安婦の証言がそうであると言っているのと同じく、「軍服のような服を着た人」がイコール「軍服を着た民間の朝鮮人」だと証明できる記録・文書の類を上記HP自体は何ら提示していない。

 そういった記録・文書が存在しないとしても、「軍服のような服を着た人に連れて行かれ」て軍の慰安所に閉じ込められ、上は将校から下は一般兵士にまで性行為の対象とされたとしたら、連行者が実際に「軍服を着た民間の朝鮮人」だったとしても、一連の場面が「軍命令の存在」の有無に関係なしに軍の権威のもとに行われた行為とならないだろうか。つまり民間の朝鮮人が絶対的であった日本軍の権威を軍服を着用することで自らのものとし、それを初期的な段階で利用し、それ以降は上は将校から一般兵士までが軍の権威を笠に女性たちを思いのままに支配した。

 例えそれが純粋に民間人経営の慰安所であったとしても、女性を集めるために「民間の朝鮮人」が「軍服」を利用することを常習としていたなら、軍の憲兵等の治安部門か現地の日本の警察がその情報を把握していなければならないだろうから、その放置が可能とした「軍服を着た民間の朝鮮人」の情景でもあったろう。放置は慰安所の存在とそこで働く女性の確保に必要な「軍服を着た民間の朝鮮人」の存在を軍の利益と見なし、優先とさせていたことを動機とした放置であったろう。

 あるいは日本軍が朝鮮人に自分たちの軍服を水戸黄門の印籠代わりに貸付けて女性を確保しやすいように仕向けたとうことなら、あり得る話で、その可能性は否定できない。当時は日本人は朝鮮人に対して支配者の位置にいて、朝鮮人は日本人に対して服従する関係にあったからである。いわば朝鮮人は使役される側に立っていた。日本軍の占領地内では日本兵、もしくは日本軍の息のかかっていない朝鮮人が好き勝手な行動を取ることは困難であったであろう。息がかかっていることによって、その限りに於いて虎の威を借りる狐のように日本軍の権威を笠に着ることができる。

 もしも日本軍と何ら関係もなく、また日本側が何ら情報を把握していなかったことが許していた「軍服を着た民間の朝鮮人」の跳梁跋扈と言うことなら、その情報収集能力・治安維持能力は倒錯性を帯びることになる。怖いと評判を得ていた日本の憲兵は実体は無能集団に過ぎず、張子の怖さで持っていたことになる。

 果して当時は民間の朝鮮人が日本軍と関係なしに日本軍の軍服を着てのさばり歩くことが許されるような時代事情にあったのか、インターネットで調べてみると、<フランスの雑誌パリマッチ記者、アルフレッド・スムラーの著書「日本は誤解されている」から抜粋。>と、書物の形で記録されている「軍服を着た朝鮮人」のことが書いてある≪韓国併合当時の先進国の評価≫なるHPに出会った。


 <最初の数日間は平穏無事で、日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、麻雀をしていた四人の女優を強姦した。
前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、この男達は朝鮮人であった。
(中略)
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった。
この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時、香港住民は日本軍よりも朝鮮人を激しく憎んだ。>――

 ここに描かれている軍服を着た朝鮮人は単なる民間人ではなく、「日本軍の馬を管理する男達」ということなのだから、日本軍に所属する軍属であろう。中には兵士もいたかもしれないが、非軍人の軍属と言えども、それなりに軍の規律下にあったはずである。にも関わらず、「日本の正規軍よりも凶暴だった」ことと「民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった」ということを突き合わせると、これは上のなすところ、下これに倣うことによって生じた、いわば日本軍のほぼ全体の問題としてあった情景と見なければならない。日本兵にしても婦女暴行を働かなかったわけではないし、軍属であるなら、朝鮮人は孫悟空がいくら空を飛んでもお釈迦様の手のひらから外に飛ぶことができなかったように日本兵の管理下にあったはずだからである。

 フランスの雑誌『パリマッチ』の記者だというアルフレッド・スムラーはどのような特徴で日本人と朝鮮人を見分けていたのだろうか。「一般の日本人よりも背が高」いとしているが、一般的には日本人と朝鮮人は顔も体型も似通っていて、「一般の日本人よりも背が高」いということはない。「内鮮一体化政策」によって日本語の強制が行われたのは1938年3月からだということだが、日本軍に関係する朝鮮人となると、支配者である日本人に順応するためにも否応もなしに日本語を使わざるを得なかったことは十分に考えられるから、いわゆる朝鮮訛りから朝鮮人と見分けていたのだろうか。だが、「一般の日本人よりも背が高」いと見ていたとなると、その見分けが疑わしくなる。

 日本軍のホンコン攻略作戦を『日本史広辞典』(山川出版社)で見てみると、<1941年(昭和16)12月8日の太平洋戦争開始と共にイギリス軍香港要塞を攻撃した作戦。酒井降中将に率いられた支那派遣軍第二三軍が予定より早く9日未明に作戦を開始し、13日に九竜半島を占領。18日に香港島に上陸、激戦の後25日同島を占領した。同月29日に第二三軍の統括する軍政庁が発足し、大英帝国の戦略拠点香港は日本の占領下に入った。>となっている。

 <第二三軍の統括する軍政庁>が占領政策を敷いた中での朝鮮人軍属もしくは朝鮮兵の婦女暴行等の跳梁跋扈はやはり日本軍のほぼ全体の問題でもあったから起こり得たに違いない。それが朝鮮人軍属もしくは朝鮮兵だけの問題であって、日本兵は軍の規律に従っていたということなら、「軍政庁」のその相矛盾する統率能力・治安維持能力は説明不可能となる。

 それが日本軍の軍服を着用しているものの、軍属ではなく、軍の何らかの下請の民間人であったとしても、やはり軍政庁が治安維持を引き継いだ以上、犯罪行為の放置は犯罪者の犯罪行為以上に問題となる。

 1941年の香港占領に18年遡る1923年(大正12)9月1日関東大震災では朝鮮人が井戸の毒を投げ込んだ、放火したといった流言が広まり、憤激した自警団・軍隊・警察、一般人によって数千人の朝鮮人が虐殺されている。呉林俊(オ・リムジュン)なる在日著者の『朝鮮人のなかの日本』(三省堂・昭和四六年三月一五日初版)の中に「横浜市震災史」から引用したという朝鮮人虐殺の場面が描かれている。

 <ヒゲ面が出してくれた茶碗に水を汲んで、それにウイスキーを二、三滴たらして飲んだ。足が痛みだしてたまらない。俄に降りつのってきたこの雨が、いつまでもやまずにいてくれるといいとさえ思った。
「旦那、朝鮮人はどうです。俺ア今日までに六人やりました」
「そいつあ凄いな」
「何てっても、身が守れねえ。天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさあ」
 雨はますますひどくなってきた。焼け跡から亜鉛の鉄板を拾って頭にかざして雨を防ぎながら、走りまわっている。ひどいヒゲの労働者は話し続ける。
「この中村町なんかは一番鮮人騒ぎがひどかった・・・・」という。「電信柱へ、針金でしばりつけて、・・・・焼けちゃって縄なんかねえんだからネ・・・・。しかしあいつら、目からポロポロ涙を流して、助けてくれって拝むが、決して悲鳴を上げないのが不思議だ」という。・・・・
「けさもやりましたよ。その川っぷちにごみ箱があるでしょう。その中に野郎一晩隠れていたらしい。腹は減るし、蚊に喰われるし、箱の中じゃ身動きが取れねえんだから、奴さんたまらなくなって、今朝のこのこと這い出した。それを見つけたから、みんなでつかまえようとしたんだ。・・・・」
「奴、川へ飛び込んで、向う河岸へ泳いで逃げようとした。旦那、石ってやつはなかなか当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ。で、とうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分ぐらい水の中にもぐっていた。しばらくすると、息がつまったと見えて、舟のじきそばへ顔を出した。そこを舟にいた一人が、鳶(トビ)でグサリと頭を引っかけて、ズルズルと舟へ引き寄せてしまった・・・・。まるで材木という形だあネ」という。「舟のそばへくれば、もう滅茶々々だ。鳶口一つで死んでいる奴を、刀で切る、竹槍で突くんだから・・・・」>――

 何人殺したと手柄とする。日本人の自らの残虐さに気づかないこの残酷さよりも、朝鮮人が殺されて手柄とされる存在であったことの残酷さの方が際立って酷い。朝鮮人は日本の植民地の国民として、劣る人間と蔑視され、差別を受けていた。日本の子どもたちも日本の大人たちの差別の意識を受け継ぎ、朝鮮人の子どもに石を投げつけたり、悪口を浴びせたり、バカにしたりした。一般的には日本人は朝鮮人を差別し、朝鮮人は日本人に対して卑屈な場所に追いやられる関係にあった。戦後も在日を隠す韓国・朝鮮人が多くいたのもそのためだろう。

 こういった戦前の関係を考えると、両者間に馴れ合いがなければ、「日本の正規軍よりも凶暴」さを発揮することはできなかったろうし、「殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった」からこそできた「凶暴」さということではなかったのではないか。日本兵の意を受けて進んで悪事を働くことによって受けをよくし、気に入られようとする、卑屈な場所に追いやられている人間が陥りやすい迎合の意識がそう仕向けたといった構図ではなかっただろうか。

 悪ガキ集団でガキ大将の命令を受けて悪事を働くとき、下の者は尻込んだり、ヘマをしたりすると馬鹿にされたり、相手にされなくなったり、悪くすると総攻撃のいじめを受けたりするから、怖いのを我慢して思い切ったことをして、ガキ大将に気に入られようとする。但し極端に思い切ったことをしてガキ大将を逆に恐怖に陥れたりしたら逆効果で、ガキ大将の地位を脅かす危険人物とされ、陰湿な復讐を受けて出る杭は打たれるといったことになりかねない。あくまでもガキ大将のコントロール可能の範囲に立ち位置を定めておなければならない。

 日本兵と行動を共にしていた朝鮮人も心理面も含めた対人距離の取り方で同じ境遇にあったに違いない。常に自分を卑屈な位置に置き、命令に対しては期待以上のことをして相手に喜ばれる存在となる。

 日本人の中国人・朝鮮人差別は日清戦争から発しているという朝日記事(07.8.1朝刊)がある。

≪歴史は生きている 第2章 日清戦争と台湾割譲(下)≫『朝日』朝刊)記事中の解説記事≪日本人のアジア観≫

 <日清戦争は、日本人が持つ中国や朝鮮へのイメージを大きく変えた。
 例えば、福沢諭吉が率いる「時事新報」。開戦直後の1894年7月29日に「日清の戦争は文野の戦争なり」と題する社説を掲載した。
 「文野」とは「文明と「野蛮」のことだ。戦争を「文明開化の進歩をはかる」日本と、「進歩をさまたげんとする」清国との戦いと位置づけた。11月には朝鮮に対しても、「文明流」の改革のためには「脅迫」を用いざるを得ず、「国家の実験」を日本が握るべきだとする社説を載せた。
 反戦主義者として有名な内村鑑三ですら、この時点では同様の認識だった。同年8月、日本は「東洋における進歩主義の戦士」で、中国は「進歩の大敵」だと訴える論文を欧米人向けに英語で雑誌に発表した。
 日中関係を研究する敬愛大(千葉県)の家近亮子准教授は、「日清戦争の勝利は日本に、アジアは遅れているという認識を根付かせた。蔑視感情も広がった」と指摘する。その意識は10年後の日露戦争でさらに強まり、中国侵略に踏み出す行為につながる。
 こうした意識は今もどこかに残っていないだろうか。家近さんは7月、学生に「あなたはアジア人だと意識したことがありますか」とアンケートした。
 教室の半分近くを占めるアジアからの留学生は、86%が「ある」と答えた。これに対し、「ある」と答えた日本人は63%のとどまり、「むしろ欧米人だとよかった」と記した学生もいた。(吉沢龍彦)>――

 「東洋における進歩主義の戦士」が侵略戦争をやらかし、その過程で南京やその他での虐殺や強制連行、従軍慰安婦、捕虜虐待、人体実験、日本刀の試し斬り、その他の悪行を仕出かした。例えそれに朝鮮人が加わったとしても、被植民地国の人間として従属した関係で日本兵と一体となって行った共犯行為と考えるべきだろう。彼ら朝鮮人が軍属であろうと純然たる民間人であろうと、軍服を着ていたとしたら、そのことが一体であったことを象徴しているはずである。

 「軍服のような服を着た人に連れて行かれた」に対して「軍服を着た民間の朝鮮人はたくさんいた」は朝鮮人のみに罪をかぶせることになりかねない、その危険を孕んだ関連づけとしか思えない。
  * * * * * * * *
いつまでも記憶しておくために参考までに

①日清戦争
 1894年(明治27)から翌年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午(こうご)農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵。日本は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃式船に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛(いかいえい・中国山東半島北東端の都市)などで勝利し、95年、下関で講和条約締結。(『大辞林』・三省堂)

②甲午農民戦争
 東学党の乱とも。1894年(甲午の年)、朝鮮南部一帯に起こった農民反乱。朝鮮では1860年代以降各地に農民反乱が起こり、民衆宗教である東学が全土に広がった。朝鮮政府はこれを禁じて教祖崔済愚(さいせいぐ)を処刑したが、民衆は教祖伸冤(しんえん)の運動をおこし、やがて「斥和洋倡義」(「日本と西洋を排斥して朝鮮の大義を唱<=倡>える」意。言ってみれば幕末の攘夷論といったところか?)を掲げて圧制打破と侵略阻止を唱えた。94年全羅道古阜(こふ)に農民蜂起がおこると、東学の教団組織を通して朝鮮南部一帯に拡大。朝鮮政府は鎮圧のために清国に出兵を求め、日本も対抗して出兵、日清戦争の契機となった。反乱軍は一時解散したが、日本軍が占領を続けたため再び蜂起し、翌年日本軍により鎮圧された。>

③日露戦争
 1904年(明治47)から1905年にかけて満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、またロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国はアメリカ大統領ルーズベルトの勧告をいれ、ポーツマスで講和条約を締結した。(『大辞林』・三省堂) 

④韓国併合
 1910年(明治43)8月22日調印の「日韓併合ニ関スル条約で韓国を日本の植民地にしたこと。韓国(大韓帝国)という国号は廃され、朝鮮となった。>(『大辞林』山川出版社)

⑤関東大震災
 1923年(大正12)9月1日発生。社会主義者や朝鮮人の不法逮捕・虐殺事件が勃発。

⑥日中戦争
 1937年(昭和12)7月7日盧溝橋事件に始まり、45年8月15日、日本の無条件降伏に至るまでの日本と中国の戦争。(『大辞林』・三省堂)

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安倍憲法改正「日本人自身の手で」のマヤカシ

2007-08-05 00:53:41 | Weblog

憲法改正は政治的立場・政治信条が問題となる

 現在の日本国憲法がマッカーサー以下のGHQの手で全面的に制定されたわけではなく、日本人の手が加えられて制定されたことは周知の事実となっている。にも関わらず、安倍首相は次のように憲法改正の意志を表明している。

 「占領下にあって、占領軍の手で作られたというのは紛れもない事実です。中身がよければいいではないかという意見もありますが、制作過程というものに拘らざるを得ません。日本人自身の手で憲法をつくるべきだと思います」

 すべてに亘って「日本人自身の手で」なければならない、外国人の手を煩わしてはならない、それが「自主憲法制定」ということだと言いたいのだろう。

 例えそうであっても、「日本人自身の手で憲法をつくるべきだ」はマヤカシの主張であることに変わりはない。

 なぜなら、同じ日本人であっても、常に政治的信条が同じだとは限らないからだ。政治的立場を異にすれば、当然憲法の中身・精神も異なってくる。それを「日本人自身の手で」を絶対条件、もしくは優先条件としたとき、国民の選択に関わる意識はそこに向かい、憲法の中身・精神は二の次に置かれる危険を孕むことになる。

 いわば「日本人自身の手で」つくられたとしても、逆に「日本人自身の手で」つくられなかったとしても、問題は常に憲法の中身・精神に置かなければならない。

 終戦の翌年の1946年1月、幣原内閣の国務相松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会が憲法草案を起草し「日本人自身の手で憲法をつくる」機会を持ったが、GHQによって拒絶されている。それは「日本人自身の手」によるものだからではなく、草案が旧大日本帝国憲法の字句をいじっただけで、旧態依然の非民主的な憲法の中身・精神を引きずっていたからであろう。

 いわゆる松本草案なるものをHP≪憲法改正に関する資料≫によって主だったところを見てみる。

 ≪Ⅲ.憲法問題調査委員会の改憲調査≫

 憲法改正要綱(甲案・松本草案=1946・2・8-GHQに提出)

第1章 天皇

 1.第3条ニ「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」トアルヲ
   「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」ト改ムルコト

 第2章 臣民権利義務

 8.第20条中ニ「兵役ノ義務」トアルヲ「公益ノ為必要
   ナル役務ニ服スル義務」ト改ムルコト
 9.第28条ノ規定ヲ改メ日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル
   限ニ於テ信教ノ自由ヲ有スルモノトスルコト
 10.日本臣民ハ本章各条ニ掲ケタル場合ノ外凡テ法律ニ依
   ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ侵サルルコトナキ旨ノ
   規定ヲ設クルコト≫――

 単に字句を変えただけのことで、天皇絶対主義は変わらない。国体維持の意志に変化はない。自分たちが規定した天皇の絶対性を好き勝手に「侵シ」て恣意放恣な国家運営で国を破滅に導いておきながら、国民には相変わらず「侵スヘカラス」と求める天皇の地位を利用した国民支配の欲求・精神も何ら変わらずに持ち続けている。

 結果として旧憲法同様に天皇の「臣民」という大きな枠をはめられた中で国民は存在することが義務付けられることとなっている。そこから出発して「公益ノ為必要ナル役務ニ服スル義務」とする「兵役ノ義務」に代わる国家権力による国民動員へと進む。

 「信教ノ自由ヲ有スル」は天皇の「臣民」と規定された中での制限付の人権でしかない。国民の生存権を天皇の「臣民」という範囲内のものとしているから、「法律ニ依ルニ非スシテ」と法律に制限していない「自由及権利」の行使は「侵サルルコトナキ旨ノ規定ヲ設クルコト」と二重に厳しく制限することを要求することとなっている。いわば「自由及権利」は常に制限付であって、保障にまで至っていない後進性に包まれていた。

 憲法制定が「日本人自身の手」によるものであるとすることを絶対条件、あるいは優先条件とするなら、そのような条件に合致する戦後内閣の「日本人自身の手」によるこの草案に対するGHQの拒絶は「日本人」からしたら不当な差別、もしくは弾圧となる。だが、憲法の中身・精神を制定の優先条件とするなら、欧米流の民主主義と人権の価値観に反する天皇主義・国家主義は十分に拒絶する理由となって、差別にも弾圧にも相当しない。

 次に同HPから、<(この説明書は,松本国務大臣により起草され,昭和21年2月8日,前出の「憲法改正要綱」とともに連合国最高司令部に提出された))>とする≪政府起草ノ憲法改正ニ対スル一般的説明≫を、既にご存知の向きをあるかもしれないが、参考までに引用してみる。

 <政府ノ起草セル憲法改正案ノ大要ニ付キ大体的ノ説明ヲ試ムルコト左ノ如シ

 〔1〕
  ポツダム宣言第10項ハ「日本国政府ハ日本国国民ノ間
  ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スルー切ノ障擬
  (しょうげ=障害)ヲ除去スヘシ言論,宗教及思想ノ自
  由並ニ基本的人権ノ尊重ヲ確立スヘシ」ト規定セリ政府
  ハ比ノ趣旨ニ遵応シ1889年2月11日発布セラレ爾
  後一度モ変更セラルルコトナクシテ今日ニ及ヒタル日本
  国憲法ノ改正ヲ起案セントス即チ今回ノ憲法改正案ノ根
  本精神ハ憲法ヲヨリ民主的トシ完全ニ上述セル「ポツダ
  ム」宣言第10項ノ目的ヲ達シ得ルモノトセントスルニ
  在リ

 〔2〕
  上述ノ根本精神ニ基キ憲法ノ改正ヲ起案スルニ当リ第1
  ニ起ル問題ハ所謂天皇制ノ存廃問題ナリ之ニ付テハ日本
  国カ(が)天皇ニ依リテ統治セラレタル事実ハ日本国歴
  史ノ始マリタル以来不断ニ継続セルモノニシテ此制度ヲ
  維持セントスルハ我国民大多数ノ動スヘカラサル確信ナ
  リト認ム乃(かくし)テ改正案ハ日本国ヲ共和国トシ大
  統領ヲ元首トスルカ如キ制度所謂大統領的共和主義ハ之
  ヲ採ラス天皇カ統治権ヲ総覧(そうらん=政治、人心な
  どを掌握して治めること)行使セラルルノ制度ヲ保持ス
  ルコトトセリ>(以下はHP参照)

 ポツダム宣言が無条件に「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スルー切ノ障擬(しょうげ=障害)ヲ除去スヘシ言論,宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ヲ確立スヘシ」と求めていながら、「天皇カ統治権ヲ総覧行使セラルルノ制度ヲ保持スルコトトセリ」と、旧憲法第1章天皇の第4条「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」を持ってくる倒錯的な民主主義の感覚は恐れ入る。「天皇カ統治権ヲ総覧行使セラルルノ制度ヲ保持スルコトトセリ」とは、「統治」が「主権者が国土・人民を支配し、治める」(『大辞林』三省堂)意味である以上、天皇を元首と位置づけて、旧憲法第1章天皇第1条の「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の条項を暗黙裡に含むものであろう。

 安倍国家主義者が策す改正憲法が時代事情から基本的人権を否定することができないとしても、愛国心を要求することで基本的人権に制約を加える国家主義意識を紛れ込ませることは可能となる。決して「日本人自身の手で憲法をつくる」ことが絶対条件でも優先条件でもないことを肝に命ずるべきだろう。

 最初に現在の日本国憲法がマッカーサー以下のGHQの手で全面的に制定されたわけではなく、日本人の手が加えられて制定されたことは周知の事実となっていると書いたが、国会図書館が自ら所蔵する書籍・記録等を案内するHP≪「ラウエル「私的グループによる憲法改正草案(憲法研究会案)に対する所見」 1946年1月11日 | 日本国憲法の誕生」≫には次のような説明がある。

 <「GHQは、民政局のラウエルを中心として、日本国内で発表される憲法改正諸案に強い関心を寄せていた。なかでもとりわけ注目したのは憲法研究会案であり、ラウエルがこれに綿密な検討を加え、その所見をまとめたものがこの文書である。彼は、憲法研究会案の諸条項は「民主主義的で、賛成できる」とし、かつ国民主権主義や国民投票制度などの規定については「いちじるしく自由主義的」と評価している。憲法研究会案とGHQ草案との近似性は早くから指摘されていたが、1959(昭和34)年にこの文書の存在が明らかになったことで、憲法研究会案がGHQ草案作成に大きな影響を与えていたことが確認された。>

 では、1945(昭和20)12月27日に幣原首相とGHQに提出した「憲法研究会案」をHP≪憲法研究会「憲法草案要綱」≫で見てみる。

 根本原則(統治権)
 
 日本国の統治権は、日本国民より発する。
 天皇は、国政を親(みずか)らせず、国政の一切の最高責
 任者は、内閣とする。
 天皇は、国民の委任より専ら国家的儀礼を司る。
 天皇の即位は、議会の承認を経るものとする。
 摂政を置くことは、議会の議決による。

 「国民の権利・義務」に関しては10カ条ほど列記されているが、主なところを拾ってみると、

 国民は、法律の前に平等であり、出生又は身分に基づく一
 切の差別は、これを廃止する。
 国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法
 令をも発布することはできない。

 これは「憲法改正要綱(甲案・松本草案)」の第2章臣民権利義務10.の「日本臣民ハ本章各条ニ掲ケタル場合ノ外凡テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ侵サルルコトナキ旨ノ規定ヲ設クルコト」の制限付と違って、思想・信教・言論・学問の自由を全面的に保障する条項であろう。その他に、

 国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する
 。
 男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する。
 民族人種による差別を禁じる。――等となっている。

 同じ「日本人自身の手で」憲法草案が起草されながら、憲法の中身・精神として込められた「憲法問題調査委員会」の「憲法改正要綱(甲案・松本草案)」に於ける天皇絶対主義・国家主義と、それと正反対の「憲法研究会」に於ける「憲法草案要綱」の統治権を国民に置き、国民に諸権利を保障する民主主義は明らかに「日本人自身の手で」を憲法制定の絶対条件、もしくは優先条件とすることのマヤカシを証明して余りある。

 もしもGHQという「占領軍」の関与がなければ、幣原内閣の「憲法改正要綱(甲案・松本草案)」が無条件に通り、日本国民はそれを日本の戦後憲法として頭に戴いていた可能性が高い。戦争は戦前と戦後を画して新時代を開く契機とはなり得ず、戦前と戦後が殆どそのままつながることとなって、当然のこととして安倍晋三にとって「戦後レジームからの脱却」は必要としなくなる。天皇及び首相の靖国神社参拝は戦前の慣わしどおりに行われ、「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」存在として学校のすべての教室に天皇と皇后の御真影を掲げることと、授業に於ける教育勅語の朗読が義務づけられ、様々な奉仕活動が国家に対する奉仕の代理行為として当然の義務とされていたことだろう。

 学校が火事となった場合、校長や教師は戦前と同様に例え焼け死ぬことになると分っていても、御真影を救い出すべく炎燃え盛る教室の中に飛び込むだけのことはしなければならなくなるだろう。

 「憲法草案要綱」を作成した憲法研究会のメンバーの主たるメンバーである高野岩三郎は「憲法研究会案」をGHQに提出した1945(昭和20)12月27日の翌日に「日本国共和国憲法私案要綱」を発表している(上記HP≪憲法研究会「憲法草案要綱」≫を参照)。

 その主たる柱は「根本原則」として「天皇制二代ヘテ大統領ヲ元首トスル共和制ノ採用」と「日本国ノ主権ハ日本国民ニ属スル」とする主権在民の明確な位置づけである。

 「憲法改正要綱(甲案・松本草案)」の「改正案ハ日本国ヲ共和国トシ大統領ヲ元首トスルカ如キ制度所謂大統領的共和主義ハ之ヲ採ラス」は「日本国共和国憲法私案要綱」に向けた敵対趣旨として表現されたものに違いない。

 だが、この共和制憲法は日の目を見ず、天皇制は現在の日本国憲法に規定されている内容のものとなった。これは「占領下にあって、占領軍の手で作られた」ことも影響した象徴天皇制だろう。戦前の国体を戦後に於いてもその維持を画策した天皇主義・国家主義の一派にしたら、それが象徴天皇制であったとしても、とにかくも天皇なる存在に対して「天皇制二代ヘテ大統領ヲ元首トスル」類の歴史からの抹消を逃れることができたことは「占領下にあって、占領軍の手で作られた」ことのすべてを否定できない事実としてあるものではないだろうか。

 この点についても、安倍首相の憲法の自主制定論には筋が通らない部分がある。それとも安倍晋三は天皇が戦後の憲法によって歴史から抹消されていたなら、それを「日本人自身の手で憲法をつくるべきだ」とする主張のもと、天皇制を復活させる予定表を組むようなことをするのだろうか。

 このような仮定の方が「戦後レジームからの脱却」はより一層理解を得やすいのではないか。

 日本の憲法だから、「日本人自身の手で」つくったものでなければならないとする条件性は一種の国粋主義への拘りだが、百歩譲って、それでよしてしても、安倍国家主義の手にその改正を委ねた場合、基本的人権の保障や自由と民主主義の価値観の共有を彼特有の美しい言葉で飾り立たとしても、その国家主義は憲法の精神に否応もなしに投影されて、それが教育の場で愛国心教育や奉仕活動への動員といった形で表現されていくことになるに違いない。既に愛国心教育に拘り、昨年の自民党総裁選時には「大学9月入学」の教育制度改革を唱え、高校卒業の4月から9月までの5ヶ月間を社会奉仕活動への義務化に持っていこうとしているのである。

 そこには愛国心教育や奉仕活動を通して国家に従うとする国家への従属精神を植えつける意図を隠している。だから、国家を成り立たせる力は国家への従属精神では発展不可能である経済の能力であり、技術を生み出し、運営する能力であり、政治の能力であり、社会の治安を守る能力等でなければならないのだが、「命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」と国家に向けた物理的な生命の投げ打ち・生命の従属を短絡的に求める思考回路を持つに至っているのだろう。

 「日本人自身の手で」憲法を制定するにしても、安倍国家主義者の「手」に決して委ねてはならない。中身がカラッポの人間ほど国とか民族といった権威を振りかざす。国民を権威とする以外のどのような権威も、そののさばりを許してはならない。「主権在民」とはそういうことであろう。

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政治資金規正法再改正/領収書1円から

2007-08-04 01:35:07 | Weblog

 お灸論にすり替えさせるな

 <中川秀直幹事長は一日の記者会見で「国民の批判を正面から受け止めなければならない。すべての政治団体を対象に一円以上の領収書を公開するのが民意の大勢だ」と、政治資金規正法改正案を秋の臨時国会に提出する意向を表明。改正法の成立を待たずに、同趣旨の党内規則を設ける方針も示した。>(07.8.2/東京新聞朝刊インターネット記事≪参院選惨敗 また規正法改正 自民「1円から領収書」≫)

 「民意の大勢だ」の後にasahi.comは「政治活動の自由の視点は、国民に受け入れられなかった」を付け加えている。(07.08.02/「領収書、1円以上から公開が民意」 中川自民党幹事長)

 資金管理団体に於ける1件5万円以上の経常経費に領収書添付の義務づけを内容とした改正政治資金規正法自民党案の国会提出前に安倍美しい首相は「これからやるべきことは指摘、批判に応えて法律を整えていくことだ。それが責任の果たし方なのではないか」と法の整備を確約し、それを自らの責任とした。

 そして確約どおりに整備した資金管理団体に限った5万円以上の光熱水費等の経常経費に領収書添付を義務付ける「改正政治資金規正法」を自民党案として成立させたのは6月29日(07)。資金管理団体のみに限り、その他の政治団体はその限りではないとしたのは、両者の線引きが難しいからということと、民主党案の1万円以上では事務処理が膨大なものとなり煩雑すぎて現実的でない、政治活動の自由を損なうといったことを理由に散々ケチをつけていたが(石原伸晃などもテレビに出て盛んに批判していた)、その他の政治団体に付け替える自由裁量を残したことがザル法と指摘された所以であろう。

 実際にもザル法であることが資金管理団体ではない、しかも常駐職員のいない、いわば幽霊団体のような政治団体を実家に置き(赤城本人は活動実体があったと言っているが)、多額の経常経費を計上していたことが発覚、資金管理団体ではない政治団体を利用すれば経費の付け替えや不正流用は可能となることを世間にあからさまに証明することとなった。安部美しい首相の「これからやるべきことは指摘、批判に応えて法律を整えていくことだ。それが責任の果たし方なのではないか」は約束にもならない、責任にもならない空手形だったことが証明された。

 赤城前農水相の(早くも「前」となり、松岡は「前」から「元」農水相へと順送りされることになってしまったが)疑惑が持ち上がっても本人がどのような説明にも優る領収書の公開を頑強に拒否しているにも関わらず、安倍美しい首相は「赤城さんはきちんと説明されていると聞いてる」、野党の辞任要求に対しては「そういう問題ではない」、その他の政治団体が抜け道にならないかの指摘には、「おカネを取り扱う流れの中心になっている主たるものは資金管理団体だ」、法そのものについては「政治資金法改正案が成立したわけだから、まずは施行してどうかということをみなさんに見ていただきたい」と改正案が万全な内容の規正法であってザル法でないことを自信たっぷりに訴えた。

 だが、実態的には空手形のザル法に過ぎない改正政治資金規正法の不備を不備でないと見せかける策として、政治資金規正法の再改正ではなく、再改正だと朝令暮改同然となってカッコーが悪く、責任を果たさなかったことが公になるからだろう、自民党内規で国会議員が一つ指定できる資金管理団体にカネの出入りを集中させることを義務づける方針を打ち出して、赤城徳彦の事務所費疑惑共々「絆創膏」を張って衣服の綻びを塞ぐような姑息な手段でザル法に折り合いをつけようとした。

 「美しい国づくり」を言うだけのことはある美しいゴマカシである。
 
 そこへもってきて参院選の与野党逆転の大ショックを受けて目が覚めたのだろう、政治とカネの問題、特にそのことを代表して赤城農水相の事務所費疑惑が敗北の大きな一因になったと見たのだろう、<同党は七月三十一日、所属国会議員に対し、政治資金収支報告書に不適切な記載がないか、外部監査を義務付け、問題が発覚した場合、閣僚や党幹部に起用しないことを決め>(上記同東京新聞)、その上8月1日には赤城農水相に詰め腹を切らさせている。

 それでも足りないと見たのか、「5万円」にあくまでも拘っていたことをケロッと打ち捨てて「1円から領収書」である。アツモノに懲りてナマスを吹きたくなったのか、あまりにも矢継ぎ早に過ぎる打つ手の早さである。

 これが与野党逆転という民意を素直に受け止めて謙虚に改める、首相の言っている「反省すべきは反省する」という姿勢から出た「1円から領収書」なる素早い対応ということであったとしても(中川幹事長も言っている。「一円以上の領収書を公開するのが民意の大勢だ」)、これまでの「5万円」は何だったのかと言いたくなる、あるいは「これからやるべきことは指摘、批判に応えて法律を整えていくことだ。それが責任の果たし方なのではないか」とした安倍美しい首相の確約宣言、責任遂行宣言は何だったのかと言いたくなる、それらを美しく忘却させた「5万円」から「1円」の進展であること、さらにあまりにも矢継ぎ早の対策であることを考えると、例え法案化されて政治家の政治とカネに有効な網をかけることができたとしても、発意の精神そのものは<多くの有権者は自民党政治を信頼しているのだが、失政があると自民党に猛省を促すために一時的に野党に投票する>(97.7.10『朝日』朝刊≪政態拝見 橋本氏とお灸 自民党政治はよくなったか≫」)有権者の「お灸論」行動を逆手に取って、お灸をすえられて改心した態度を示すことでお灸効果があったと見せかけ有権者を満足させ、懐柔する心がけから出たものではないかと疑いたくなる。

 また政治資金規正法再改正案はこれまでどおり事務所費、光熱水費、備品・消耗品費等の経常経費から人件費を除くとしている。そうした場合、今度は不正支出を人件費に付け替えるといったことはしないだろうか。公設秘書問題では、将来的には禁止の方向に制度改正へと持っていくとのことだが、年収1千万円前後の秘書給与の何パーセントかを半強制的に寄付させることを常習としていたり、配偶者等の親族を公設秘書に当て、その給与をまるまる自分の政治資金とする国会議員が多数いるのである。かつては公設秘書の名義の貸し借りが行われ、名義の借り料を差引いたカネを自分の収入としていた議員もいた。私設秘書やその他の被雇用者と口裏を合わせて、その給与に2階部分を増築し、増築箇所にいつでも不正支出できるカネを前以て埋め込んでおくといったことも可能なのではないだろうか。あるいは既にそういった手法を活用している国会議員もいるかもしれない。

 いずれにしても完璧な法律は存在させ得ない。狡猾な人間は必ずと言っていい程に抜け道を見つける。そのような構造上の宿命に対する謙虚さを欠いているばかりか、欠いているからこそ、それをさも存在させることができるかのように美しい言葉を並べ立てて約束し、例えそのことが空手形に終わったことが明らかになっても、その責任を取らない二重の謙虚さの欠如。一国の総理大臣に関しては謙虚さの要素をこそ、国民は問題とすべきではないだろうか。

 「1円から領収書」が法律として成立したとしても、自民党さんやるじゃないかと満足してはならない。お灸論にすり替えさせたなら、最初からやるべきことをやらなかった責任問題をウヤムヤとしてしまうし、同じようなことの繰返しをいつまでも許すことにもなるだろう。

 安倍美しい首相は参院選大敗後「美しい国」を口にしていないと『朝日』の記事に出ていたが、自分の足元に美しくない言動の閣僚を抱えていただけではなく、それを擁護する自身の美しくない対応、さらに選挙都合で一旦は離党させた議員を復党させるなり振り構わない無節操、あるいは年金記録問題で、「システムをつくった時の厚相は菅直人だ」とさも張本人であるかのように名指しで批判したりする美しくない自らの言動から考えて「美しい国づくり」を口にする資格はそもそもからしてないのだが、そのことと併せて口にする資格のないことに自分から気づかず、人気のなかったことを周囲から知らされて気づく「鈍感力」も一国の首相にはふさわしくない資質と言えるのではないだろうか。

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安倍キレイゴトを後継する麻生キレイゴト

2007-08-02 04:07:35 | Weblog

 7月31日(07年)の夜7時半からNHK「クローズアップ現代」。麻生日本の未来を託するにふさわしい次期総裁候補議員、安倍首相の参院選敗北に関わりない続投を問われて、

 「じゃあ、誰がやられるたって、代えろって、代えるタマがいりますけども、その人に次の衆議院の選挙するんですよと、その人、今の段階で、今、誰かおられるんですかと、いう話をご自分自身も立候補されるか何か、されないと、代えるっていう場合は確実に誰か代えるタマがいるんですよ」

 「このタイミングで別に麻生政権というところは頭ん中になかったですか?」
 麻生「(言下に)ありません。人の弱みに突け込んでやるのは、あまり趣味ではない」

 要するに安倍首相に「誰か代えるタマ」がいない、だから続投ということに決定したということなのだろう。

 ところが安倍首相も中川秀直暴力団風押出し幹事長も、番組の冒頭で改革への意欲を続投の理由に挙げている。

 安倍「反省すべきは反省しながら、しかし総理としてですね、今進めている改革をしっかりと実行していく――」
 中川「イバラの道ですよ、私は。しかしそれが正しい選択であると、私もそう思っております。あ、今、やっぱり改革と成長のためにね、この基本路線否定されたとは思いませんし、改革を止めるなという意味ではまったくないわけですから、そのためには党内にやっぱり一丸となるべきだと。足を引っ張り合っているときではないと――」(同「クローズアップ現代」)

 〝タマの不在〟説に立ってこの食い違いを解くとしたら、表向きは改革の続行を続投理由としているが、実際は〝タマの不在〟が止むを得ず続投を選択させたということに当然なる。但し、安倍首相自身に首相としての当事者能力なし、「代えるタマ」もいない。人材不足の自民党だと内輪を曝したことにもなる。

 だが、「このタイミングで別に麻生政権というところは頭ん中になかったですか?」と問われて、「人の弱みに突け込んでやるのは、あまり趣味ではない」と、参院選与野党逆転の大敗という「弱みに付け込」むことになるタイミングでなければ、麻生政権が頭にあることを示唆している。これは自身を「タマ」に位置づけていることを示すもので、「代えるタマがいるんですよ」と矛盾する言葉となる。

 麻生政権が頭にある(自身を「タマ」に位置づけている)ことは、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本、中国、韓国(プラス3)の外相会議出席のためにフィリピンを訪問している<麻生氏は総裁選出馬について「今すぐというわけじゃない」と前置きしつつ意欲を語り、世論調査での自身の支持率が高いことを「期待が高いというのは感謝しなければいけない」と述べた。>(07.8.1/asahi.com≪麻生外相、ポスト安倍に意欲 閣僚人事「重厚な人を」≫)とする記事が証明いている。

 これらの矛盾を解く鍵は「その人に次の衆議院の選挙するんですよと、その人、今の段階で、今、誰かおられるんですか」という言葉にあるだろう。衆議院の任期は残すところ2年しかない。その間解散という突発事態が起こればなおさらのことだが、起こらないにしても、2年間で地方格差や所得格差、年金不信を解決できなければ、衆院でも与野党逆転、政権交代の可能性も出てくる。そうなった場合、そのときの総理・総裁は責任を取って辞任は当たり前の結末とし待ち構えているもので、それが自分自身であってはならないのは当然の利害であろう。

 ここは参院選敗北・与野党逆転ついでに損な役回りは安倍晋三に付き合って貰うことにして、衆院選与野党逆転・政権交代となった場合は仕方がないながら、自民党総裁の後継だけは自分がうまく滑り込んで将来の総理大臣を狙う。滑り込むについては安倍首相は自民党最大派閥の町村派に所属しているのだから、その後押しも必要となる。ここは続投を支持して恩を売っておいて、チャンス到来となったなら、見返りに町村派の支持をお願いする――といった自分に都合のいいシナリオを描いているのではないだろうか。

 要するに火傷間違いなしの火中の栗は拾いたくないといったところだろう。大体が総理・総裁の後継候補者を「タマ」と呼ぶよう政治家である。そのような麻生の人格からして、「人の弱みに突け込んでやるのは、あまり趣味ではない」は言葉だけのキレイゴトと見ないわけにはいかない。

 昨日午後2時に赤城農水相が記者会見を開いて辞任を発表した。首相秘書官を通じて首相に官邸に呼ばれ、いわば引導を言い渡されたのだろう、「官邸で総理とお会いしたところ、総理も同じお考えであると察しまして、私からその場で辞表を提出しますと申し上げ、直ちにその場で辞表を書いて、総理に提出をし、受理をされたと――」(昨夜のNHK「ニュースウオッチ9」)

 安倍「当然、私、にすべて責任が、あります。この任命責任については痛感をしています。ま、今後ですね、エー、政策の面に於いて、エー、しっかりと国民のみなさんの期待に応えていくことによって、責任を果たしていきたいと思います」(同「ニュースウオッチ9」)

 辞任の必要なしとする人事を行っておきながら、参院選敗北という痛い思いをしてから一度決定しておいた人事を事務処理能力に問題があるからと変える。痛い思いをすることがなかったなら、同じくなかった人事変更であろう。そうでありながら、「私にすべて責任があります」とさも責任を感じているが如く言う。「私にすべて責任があります」が単なる言葉でしかないことを証明して余りある。

 大体が昨年の就任以来、何度「私にすべて責任があります」を聞かされただろうか。何度も同じ言葉を聞かされると、言葉に持たせるべき信用を自ずと失っていくことになる。

 「私にすべて責任があります」と、それを受けて「国民のみなさんの期待に応えていくことによって、責任を果たしていきたいと思います」はまさに安倍晋三の十八番(オハコ)の常套句となっている観がある。それが言葉だけのキレイゴトでないと受け止められていたなら、いわば「国民のみなさんの期待に応え」る責任を果たしてくれるに違いない信用を失わずに少しでも維持していたなら、キレイゴトであることを免れ、こうも参院選で大敗を喫することはなかったろう。

 常套句となっていること自体が既に言葉だけのキレイゴトとなっていることを証明している。

 もし安倍後継が麻生ということになったなら、安倍のキレイゴトに続く麻生のキレイゴトを国民は覚悟しなければならないに違いない。

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