不法滞在に時効はないのか

2009-03-10 00:30:52 | Weblog

 埼玉県蕨市に住むカルデロン・アラン夫妻(夫は36歳の若さ)が15年以上前日本に不法入国、解体工事の現場等で働き、3年前に不法入国が発覚、国外退去の処分を受けたが、来日後に生まれ、現在中学1年生・13歳ののり子嬢(記事は「のり子さん」と書いてあるが、よそよそしい。友達は彼女をどんな愛称で呼んでいるのだろうか。「のりっぺ」、「のりっぴー」、あるいはお互いに呼び捨てで、「のりこぉー」なのだろうか)が日本語しか話せず、フィリピンに帰国しても生活できない等の理由で日本国内に在留する特別許可を求めたところ、今年(09年)1月、1ヶ月の滞在のみ認める決定が下され、その期限である2月13日に東京入国管理局に出頭、娘1人の在留は認めても、家族そろっての在留は認めないと伝えられたという。

 NHKインターネット記事を殆どなぞって書いたが、昨9日のNHKニュースが同じ9日の日に入国管理局から帰国を求められていた両親のうち父親1人が身柄を収容されたと伝えていた。

 家族の弁護士によると、今月13日までに両親、または家族全員の帰国を決断しなければ、国外退去に向けて母親とのり子嬢の2人も収容すると通告してきたという。

 民族的な使命感に燃えて水際で我が日本の単一民族性を維持し、その民族的優越性の数的優位性を絶対死守するために外国人を止むを得ず以外は入れたくない法務省入国管理局としたら国家に殉ずるための当然な措置であろう。

 だが、自国文化の創造的発展・躍動性の確保は他国文化との摩擦や凌ぎ合いの中から生まれてくるものだが、文化とはそれぞれの国の人間が血として持っているものだから、当然なこととして様々な外国の様々な外国人との触れ合いが、文化の創造的発展・躍動性確保の必須条件となる。

 我が国の日本民族優越論者たちはそれを遮断して、歴史に記録されている現在に役立たない過去の日本の文化の優越性を言い立てて、日本民族優越性の証明としている。現在に役立たないからこそ、「政治とカネ」だ、官僚の天下りだ、政治家の親分子分の関係だ、裏ガネだといった劣る文化の蔓延・跳梁跋扈を許していることとなっているのだろう。

 日本社会を逃れてアメリカに渡った日本人学者がその地の文化の刺激を受けて自らの血としている文化的創造性を発展・躍動させて優秀な研究を行い、ノーベル賞を取るといった事態も生じる。

 日本に残った学者の中でも優秀な研究を行ってノーベル賞を獲得する研究者もいるにはいるが、優秀な研究を成し遂げるその多くが暗記教育から外れた者であろう。暗記教育から外れるとは、日本社会の活動原理となっている権威主義性を文化とすること、自らの血とすることへの拒絶を意味する。

 知識であれ何であれ、暗記教育と同様に権威主義的に上の知識に従っていたのでは自らの知識・創造性を自分の手で抑制・去勢することとなって、学問・研究の発展的成果は望みようがない。発展させるためには暗記教育から外れることが第一条件となる。

 言葉を変えて言うなら、普通の日本人とはならないということである。そのためにこそ、外国人の持つ文化、血が必要となる。

 のり子嬢(のりっぴー?、それとものりっぺ?・・・)とこれまで触れ合い、これからも触れ合うことになる日本人の友達たちは彼女の不法滞在者の子として生まれ、13歳にまで成長した一般の日本人が持たない特殊な文化・環境の刺激を受けて自分たちが血としている一般的日本人の文化が意識しないままに微妙に変化を見る。素晴らしいことではないだろうか。

 彼女のまだ若い父母についても同じことが言える。父親の方は15年以上も不法滞在者として日本に暮らしていた。友人として触れ合う日本人がそのことに刺激的な何かを感じないとしたら、日本人同士の友人間では得難い何らかの文化性を失う。

 いや日本人が血として持っている日本の文化の創造的発展・躍動性の確保のためには一人二人の外国人の入国では不足である。多くの外国人が入ってくることによって「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本の他にはない」といった麻生太郎名言の一つである独善性は通用しなくなって、生活そのものとは無縁の歴史上の文化にすがって日本民族の優越性を言い立てる蒙昧から目を醒ますことができるようになる。
 
 ミャンマーの軍事政権の迫害を逃れて日本にやってきて難民としての受け入れを求めているミャンマー人、あるいは中国の官憲から政治犯として追われて日本にやってきたチベット人等も大歓迎で受け容れるべきだろう。
 
 例え出稼ぎで日本に不法滞在した外国人であっても、10年とか15年とかの時効を設けて、時効後出頭した者は日本に特別滞在を許可し、その後の生活態度を審査して日本国籍を与えるといった方法は採用できないものだろうか。

 殺人などの凶悪犯にとっては時効はあくまでも逮捕されない幸運に恵まれた結果獲得する法的措置だが、不法入国者に時効を設けた場合、時効を目的として不法入国するケースが増えるという懸念が生じて受け入れ難いという意見が大勢を占めるに違いない。

 だが、不法入国者が跡を絶たず、少なくない不法滞在者が生活に追い詰められて犯罪を犯す現状を考えた場合、時効を目的とした不法入国者は犯罪を犯して逮捕された場合、当初の目的が即破綻することになるから、自ら犯罪を犯さない生活を自らに強いることになるだろう。

 不法入国が同じ跡を絶たないなら、時効を目的とした不法入国を逆に誘導して、不法入国者の犯罪抑止に役立てたらどうだろうか。

 もし犯罪をそれが微罪であっても犯したなら、逮捕した場合、直ちに強制送還すればいい。彼らは彼らの目的を自分の手で壊すことになる。

 また金持ちニッポンを狙って犯罪が目的で入国する者もいるが、彼らはどこでどう指紋を採取されているか分からないから、時効を目的とはしまい。時効の有無に関係なしに不法入国を果たすだろう。

 殺人に時効は反対だが、不法滞在には時効を設けるべきだと思うが、独善的日本単一民族主義者には通用しない“戯言”なのだろうか。

 参考引用――
 

≪フィリピン人家族 父親を収容≫NHK/09年3月9日 14時13分)

 不法滞在のまま長年日本で暮らし、中学生の娘が日本語しか話せないなどとしてフィリピン人の家族3人が国内にとどまれるよう特別許可を求めていた問題で、入国管理局から帰国を求められていた両親のうち父親1人が9日、身柄を収容されました。母親は収容されませんでしたが、今月13日までに帰国を決断するよう通告されたということです。

 この問題は、不法滞在のまま15年以上日本で暮らしてきた埼玉県蕨市のカルデロン・アランさん(36)夫妻が、中学1年生ののり子さん(13)は日本語しか話せないとして家族全員が国内に在留できる特別許可を求めているものです。東京入国管理局は、娘1人を残して帰国するか、家族3人全員で帰国するか、9日までに決断しなければ国外退去に向けて身柄を収容すると通告していたため、両親が9日に出頭したところ、父親のアランさん1人が身柄を収容されたということです。

 また、母親のサラさん(38)は収容されませんでしたが、家族の弁護士によりますと、今月13日までに両親、または家族全員の帰国を決断しなければ、国外退去に向けてサラさんとのり子さんの2人も収容すると通告されたということです。

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第2回WBC第1ランド決勝日本×韓国戦/日本がもし敗れるとしたら、その敗因は?

2009-03-09 18:02:25 | Weblog

 7日の対韓国戦、14-2 7回コールド勝ちが敗因となるのでは?
 
 大勝ちした次の試合というものが往々にして前の試合の打線の活躍がウソのような貧打に終わって惨めな敗戦で終わることがある。それは次の試合が前の試合とすべてに於いて条件が違っているにも関わらず、大量得点を叩き出した打撃の小気味よい感覚を各選手とも身体が覚えてしまって、その感覚を引きずり、前の試合と同じ条件で戦うからだろう。

 同じ感覚のまま試合に臨むと、相手投手の違い、当然球種の違い、攻め方の違い、相手チームの同じ轍は踏まないぞというプラスアルファーのモチベーション等の条件の違いに柔軟に対応できず、逆に身体が覚えた感覚が阻害要因となって、感覚と試合条件との違いのズレが貧打となって現れる。

 勿論、大勝ちした次の試合が往々にして貧打で終わる過去を教訓として学び、気持を引き締めて試合に臨むだろう。だが、気持を引き締めたからといって、身体の感覚が気持どおりに簡単に修正可能なら、スランプなど存在しなくなる。

 スランプとは好調時の身体の感覚が失われ、戻らない状態を言う。気持は一生懸命好調時の身体の感覚を思い出そうと、あれこれの練習方法を試すが、一旦スランプに陥ると、なかなか感覚が戻ってくれない。

 気持と身体の感覚が常に一体であるとは限らないことの証明であろう。

 弱敵相手に14点も叩き出したなら、好調な打撃を引き出した身体の感覚を気持が割り引いて受け止めるからまだしも、強敵相手の韓国を相手に14点も叩き出したとなれば、自分たちの強さ、打撃力が韓国よりも上であることを確信してしまい、その確信が身体の感覚を強固に引きずることになる。 

 またマスコミが「侍日本」の強さを煽り立て持ち上げる。

 韓国は14対2の二の舞を演じまいと心引き締めてかかってくる。日本が14対2,7回コールド勝ちの快適な身体の感覚を引きずったまま戦うことになったら、実力の差は縮まり、逆に逆転する可能性すら生じる。

 ただいま午後6時ちょっと過ぎ。日本と韓国によるA組1位決定戦が午後6時半から東京ドームで行われる。大勝ちした次の試合が往々にして貧打で終わる過去の例に倣うかどうか。懸念は杞憂で終わるのか。結果は如何?

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小沢政策秘書逮捕/それでも政権交代は必要

2009-03-07 13:53:25 | Weblog


 民主党は小沢代表が辞任しなければならない事態が生じても、「それでも政権交代は必要である」を合言葉に政権交代を目指して邁進するしかないだろう。

 西松建設から不法に政治献金を受取っていたとして民主党代表小沢一郎の公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で東京地検特捜部に逮捕された。

 逮捕理由は西松建設が企業献金であることを隠すためにOBを代表としたダミーの政治団体を設立、そこを迂回させて小沢氏側政治団体に献金、公設秘書がそれを知りつつ献金を受けて、政党以外への企業献金を禁止している政治資金規正法に違反した容疑だという。

 ダミーの政治団体は資金を西松建設社員や家族が個人献金の形で払い込んだ会費で成り立たせていたが、西松建設はその会費をボーナスで補填するなかなか手の込んだ遣り口を用いている。

 抜け道のない法律は存在しないと言う。この言葉だけ見れば、絶対なるものは存在しないという警句に取れるが、最初から抜け道を用意してつくる法律と言うものもある。いくら美人だからと言っても、自分を完璧な美人に仕立てることは誰もできないように、人間には“完璧な絶対”をつくる力はないが、可能な範囲内でより絶対を求めると、規制対象が不利となるから、そこからの要請・圧力等を受けて不利となる絶対は前以て避けてつくる。

 今回問題となっている政治資金規正法も最初は不利となる絶対を避けようとした。安倍内閣時代、国会議員・閣僚の事務所費架空計上等の「政治とカネの問題」が噴出、規正法を改正せざるを得ない立場に立たせられたものの、与党はより絶対が通ると不利なことが起こることを想定して事務処理が煩雑になるからとの口実で政治資金管理団体に限って人件費を除く5万円以上の領収書の公開を主張、対して野党民主党はすべての政治団体を対象に人件費除外は同列ではあるが、1円以上にすべきだと対立。

 ねじれによる参議院野党優勢の状況下で与党国会議員・閣僚の中から起きた「政治とカネ」の問題だから、民主党案よりも厳格でないと国民に不信の目を向けられる別の不利を避けるために与党が譲歩、福田内閣時代の07年12月21日に改正案が成立。

 領収書公開に関してはその対象を国会議員の関連団体に限定。(四国新聞WEB 記事から)

(1)1万円超の領収書と収支報告書は総務省や都道府県選管に提出し、情報公開制度に基づいて公開。
(2)1万円以下の領収書は各政治団体が保管し、請求があれば原則として公開。

 これを以て、「1円以上公開」と銘打っているところが何となく胡散臭さを感じるが、“抜け道のない法律は存在しない”からすると、1万円以上の支出に関しては5千円ずつ2枚に分けることも可能だから、抜け道が不可能というわけではない。

 また人件費は公開対象外だから、それを水増し計上して、水増し分を好きに使うこともできる抜け道を設定できないことはない。

 一時問題となった弱い立場にある公設秘書から強い立場にあることを利用して使用側の議員にその給与の一部を強制的、あるいは半強制的に政治献金させるのと似た構造の手口と言える。違いは実質的に頭をはねるのと、見せ掛け上のピンハネかの違いしかない。

 「政治とカネ」の問題が跡を絶たないのは日本の社会が権威主義の関係性を色濃く成り立たせているからだと思う。企業や団体、あるいは特定の個人が実力ある政治家の権威を万能と看做して実力ある政治家をカネでうまく取り込むことができれば、その政治家の権威で何事も物事がスムーズに動かすことができると、その口利きに価値を置くからだが、政治家を動かすことができれば、周囲の人間も動かすことができると看做す権威主義の上下関係を両者間に見ているからだろう。

 問題は政治家を直接動かさなくても、秘書を動かすことで、政治家を動かすのとほぼ同じか、あるいはそれ以上の口利き効果を上げることができる権威主義の力が社会に機能しているということである。

 勿論、秘書が政治家の権威を自らのものとするには仕える政治家がペイペイであってはならない。仕える政治家が相当な実力者であることによって、秘書は政治家の威を借りて徐々に権威づき、権力づいていって、ときにはその政治家と等身大の、あるいは陰では等身大以上の権威・権力を身につけるようになる。
 
 秘書が権威・権力づく初期的な経緯は周囲の人間が政治家に対して頭を下げて何かをお願いする従属関係に自己を置く権威主義にそもそもから囚われていることが出発点となっていて、そのような上下の関係性が政治家に面会をするにも秘書を通し、秘書の許諾を得るために政治家に頭を下げる前に秘書に頭を下げる暗黙の従属関係を秘書に対しても応用することとなって、そのことが逆に秘書を上の関係に置くことから始まっているのではないのか。

 自己が政治家に頭を下げなくて済む政治家以上の実力者なら、秘書に対しても頭を下げる必要は生じないが、政治家が時間を経て実力者にのし上がる程に周囲からその政治家以上の実力者は政治の舞台、あるいは人間社会そのものから去って世代交代を果たしていくため、実力者は常に少数者によって独占され、少数者であるがゆえに、その周囲は権威主義の力学が余計に強力に働くことになる。

 だからと言って、今回の政治献金問題が小沢氏が動いたのではなく、秘書が勝手に動いたことだとは言わない。事実は東京地検が公表する捜査結果としての事実を待つしかない。

今回の逮捕、あるいは小沢問題でマスコミの中には自民党の反転攻勢だとか、自民党に追い風が吹いたとか、事件を相手の失点として麻生内閣は5月に選挙を行うのではないのか等々、さも自民党に有利な状況となったかのように取り沙汰している向きもあるが、そういった風潮のみに目を向けて、やはり民主党はダメだ、政権担当能力は自民党でなければならないと自民支持に回帰するとしたら、その者は二大政党制の真の意義を理解しない者であろう。

 ここで自民党の支持率が回復して民主党の支持率を上回り、首相の顔に再び麻生が君臨して総選挙で自民党が勝利したなら、日本はおしまいだ。

 再び、麻生が首相になる。考えてみたらいい。生活実感看取能力ゼロの麻生がである。

 日本の政権担当構造を二大政党制による政権交代に持っていく現在の折角のチャンスを生かさない手はないだろう。

 戦後から続く政権の自民党のほぼ一党独占によって、政治の競争原理が働かず、日本の政治は競争場面を持たないまま自民党が利害代弁している大企業優先のみに振り子が振れ、国民を後回しとする不公平な政治が行われてきた。

 「政治とカネの問題」も既に触れたように企業等の組織・集団、あるいは社会的地位や財産のある特定の個人と政治家の双方がカネを力とし、権威とする権威主義的価値観に利害の一致を見ていることから生じている一大問題点であるとすると、
カネのない、あるいはカネに余裕のない一般国民はカネを力とする政治家の力とはなり得ず、利害損得の立場を異とすることになる。いわばカネの面でのお友達にはなれない利害関係を持つ
 
 当然の結果として、自民党政治はカネの面でのお友達である企業・団体、あるいは特定の個人により多くの顔を向けた政治となる。企業利益代弁の政治となる。金持ち優遇の政治となる。

 日本の農業の現状を見てみれば理解できる。自民党政治は農業従事者を選挙の票とするために様々な保護政策を取ってきたが、農協は除いて個々の殆どの農家は選挙の票とはなってもカネになるお友達関係にまでなっていないから、票になること以外は放置され、今のような農村の衰退を招いた。

 あるいは日本の政治が競争原理を政権担当上の、あるいは政策作成上のエネルギーとし得なかったために農業政策で競う場面が生まれず、過疎化・高齢化の弊害をもたらすこととなった。

 政治に競争原理が働く日本の社会であるなら、自民党が大企業の利害代弁者であっても構わない。一方に一般国民の利害を代弁する政治勢力が必ず生まれ、競争原理に則って政策を競い合うことになるからだ。しかし日本の社会はそうはなっていなかった。

 2007年7月29日の参議院議員選挙で自民党が大敗して参議院で与野党勢力が逆転、その主たる原因を自民党は「国民目線に立った政策を怠った」と検証したが、裏を返すなら、大企業目線に立った政治――大企業利害代弁の政治――に終始していたから、一般国民の仕返しを受けたと言うことだろう。

 それ以来、参議院のねじれ現象もあって、自民党は「国民目線に立った政治」を一生懸命に演じているが、それが口先だけの演技なのは一つの政党で国民の上から下までの利害をすべて代弁することができないからだ。すべてを代弁しようとすると、どっちつかずになるか、どちらかにゴマカシを働くことになる。

 社会の矛盾は人間がすべての人間の利害を満足させることができない能力の限界から生じている。人類は万能ではない。麻生などに至っては、全然万能ではない。

 結果的にどの政治集団・政党も特定の集団・組織の利害を代弁することになる。自民党は既にDNAに組み込まれているゆえに企業優先の利害代弁者であることから逃れることができず、その限界を抱え続けることになるだろう。

 新しい政党である民主党は寄り合い所帯とは言うものの、大企業の利害代弁者である自民党に対抗するためには同じ大企業の利害代弁者であることは存在理由をなくすゆえに現在言っている「国民生活第一」の一般国民の利害代弁者であり続けることを自らの立脚点とし、そこに存在意義を示す必要がある。

 国民は自分が置かれているそれぞれの立場から、大企業利害代弁者たる自民党に一票を投じるか、一般国民利害代弁者たる民主党に一票を投じるかを決める。自己の立場・利害と一致する政党が政権担当者となった場合、精神的なものを含めてそれ相応の利益を得ることができるが、逆の場合はそれぞれの政権党が目指す利害代弁の外に置かれる。

 例えば民主党は最低賃金を1000円に引き上げるよう求めたが、自公政権は中小企業の負担が増し、経営を悪化させるからと反対、1000円案は日の目を見なかった。このことによって中小企業以上の企業は利益を得ただろうが、6~700円の最低賃金で働く一般国民には利益とはならなかった。立場の違いに応じて受ける利害の違いが生じる典型的な例だろう。

 勿論、中小企業が経営を圧迫されて倒産したなら、そこで働く労働者は最低賃金さえも失うという意見があるのは承知しているが、多くの中小企業が大企業の下請としてある意味搾取される存在となっているのだから、中小企業の負担は大企業が吸収すべきと考えるが、どんなものだろうか。

 いずれにしても、一つの政党が国民すべての利害を十分に満たすことができないとなれば、いつまでも一つの政党に特定の集団の利害を代弁させるのではなく、その集団から外れた国民は自らの利害を代弁させる政党を見つけ、その政党に自らの利害を代弁させるべく特定集団の利害代弁者たる政党と政権担当を競わせて、利害が特定の集団のみの一方に偏るのを防ぐべきだろう。

 二大政党制はそのことにこそ存在理由がある。

 また政治が競争原理によって動くようになると、競争そのものが政治家の行動を監視する自動監視装置となる。政官癒着や族益・省益行動、あるいは「政治とカネの」不正行為が即イエローカードとなって競争の場面から退場させられることになるからだ。

 いわば二大政党制自体が政治家の尻を叩くことになる。2007年11月6日に次のような記事を『ニッポン情報解読』に書いた。同じことの繰り返しになるが、参考のために一部抜粋して再度掲載してみる。

 ≪『ニッポン情報解読』by手代木恕之 小沢辞意表明/二大政党か大連立か≫(2007.11.6)
  
 ――《断るまでもなく、各政党はそれぞれの階層の利害を代弁する。どのような立場に立っているか、政治は立場だとも言える。一つの政党がすべての階層のすべての利害を代弁することは不可能である。一つの階層でもそれを構成する各集団、あるいは各個人、さらに地域の違いによって利害は微妙に異なり、それらが複雑に絡み合い、完全には一致を見ることはないからだ。自民党という一つの政党の政策でありながら、「ふるさと納税」を一つ取っても、各地方自治体の状況に応じて賛否の態度が異なることから、すべての利害を等しく代弁することは不可能であることを示している。

 一致を見ることがなく、また等しく代弁できない利害に折り合いをつけるために賛成多数決という民主主義が考え出された。そこに否応もなしに格差や矛盾が生じる。政治の役目はその格差・矛盾を最小限に抑える努力を改革という名で行うことだろう。

 以上のことを踏まえて、小沢代表が辞任記者会見で(注・福田首相との大連立構想が党に持ち帰って否定されたことからに辞任表明。)「国民の生活が第一の政策を実行する」という名目で国民の生活上の利害を大連立の必要事項の一つに加えていることを考えてみる。

 <代表辞任を決意した3番目の理由。もちろん民主党にとって、次の衆議院選挙に勝利し、政権交代を実現して「国民の生活が第一の政策を実行することが最終目標だ。私も民主党代表として、全力を挙げてきた。しかしながら、民主党はいまだ様々な面で力量が不足しており、国民の皆様からも、自民党はだめだが、民主党も本当に政権担当能力があるのか、という疑問が提起され続けている。次期総選挙の勝利はたいへん厳しい。

 国民のみなさんの疑念を一掃させるためにも、政策協議をし、そこで我々の生活第一の政策が採り入れられるなら、あえて民主党が政権の一翼を担い、参議院選挙を通じて国民に約束した政策を実行し、同時に政権運営の実績も示すことが、国民の理解を得て、民主党政権を実現させる近道であると判断した。

 政権への参加は、私の悲願である二大政党制に矛盾するどころか、民主党政権実現を早めることによって、その定着を実現することができると考える。>(2007年11月04日18時48分/asahi.com≪小沢氏「混乱にけじめ」「報道に憤り」とも))から一部引用。

 元々自民党は国家優先の立場から、大企業の利害を優先的に代弁してきた。小泉・安倍内閣が競争原理の名のもと特にその代弁を強力に推し進めた結果、その負の遺産として大企業と中小企業との格差、高所得者と中低所得者との生活格差、都市と地方の格差を拡大の方向に舵を切ってしまった。

 そのような大企業利害代弁の政党に「国民の生活第一」の利害を潜り込ませて、その利害を有効に代弁し切れるのだろうか。すべての利害を等しく代弁できないという人間の限界と照らし合わせると、どっちつかずになるか、埋没してしまうか、そのどちらかの運命を辿るように思える。

 そうなった場合「国民の生活第一」を民主党は裏切ることになる。

 自民党の現在のC型肝炎問題や年金記録漏れ問題で見せている「国民の目線に沿った政権運営」(民主党の「国民の生活第一」)は参院選与野党逆転が次の衆院選へと波及することを恐れる防御手段であって、元々のDNAはあくまで国家優先・大企業優先であることに変わりはない。

 「国民の目線」が元々のDNAであったなら、C型肝炎問題も社保庁の杜撰な年金記録も生じなかっただろう。「国民の目線」を欠いていたからこその諸問題なのである。

 小泉も安倍も国家優先・大企業優先のDNAを色濃く受け継いでいたからこそ、強い者有利の競争原理一辺倒を政策とし得たのであり、そのマイナス面として格差社会が生じても最初は鈍感でいれた。日本国家の経済を成り立足せることだけを考えて、その代償として中小企業や地方が疲弊していくことを放置した。生活弱者を平気で切り捨てた。

 それもこれも一つの政党がすべての階層のすべての利害を等しく代弁できないからに他ならない。経済が右肩上がりに成長を続けた時代は、大企業優先でも、大企業の利益のおこぼれが先細りしていく形であっても下位階層にまで満遍なく届いていったことと、それがおこぼれであっても戦後の貧しい時代の生活の規模と比較した場合、桁違いにそれを補っていたこと、それでも格差は厳として存在していたのだが、おこぼれが国の経済の成長と連動して少しずつ右肩上がりに増えていったことが格差を見えにくくしていたために、大企業の利害代弁の自民党が同時に国民の利害をも代弁しているように錯覚させて国民の支持を集めることができていた。

 しかし失われた10年以降、中国特需やアメリカの好景気を受けて国の経済が回復し、大企業が利益を上げるに至っていながら、大企業一人勝ち状態でおこぼれが下位階層にまで届かず、当然のこと、経済の回復に連動して豊かになっていくのではなく、逆に実質賃金の目減りといった形で次第に貧しくなっていく二重の逆行状態に曝されたことから、自民党が大企業の利害を代弁こそすれ、国民の利害を代弁する党ではないことに多くの国民がやっと気づいた。

 その象徴的な出来事が最低賃金政策に現れている。自民党は民主党の最低賃金時給一律1000円まで引き上げの主張に労働コスト増で国の競争力を失わせると否定的考えを示し、<07年度の最低賃金の引き上げ額を労使代表者らが議論する厚生労働省の中央最低賃金審議会の小委員会は8日、全国平均で自給14円に引き上げ(現行時給平均673円)を目安にすることを決めた。>(07.8.8『朝日』夕刊≪最低賃金平均14円上げ 10年ぶり高水準)が、最低賃金時給を1000円に引き上げた場合、国内総生産(GDP)が1・3兆円増加するという労働運動総合研究所の試算がありながら、平均14円引き上げの6~700円台にとどめるのは国際競争力を優先させたい企業の利害を代弁した決定であり、逆に国民の利害を代弁していないことの証明であろう。

 <最低賃金を全国一律で時給1000円に引き上げたら、消費の活性化などで国内総生産(GDP)が0・27%、約1・3兆円増加するとの試算を民間シンクタンクの労働運動総合研究所(労働総研)がまとめた。

 試算によると、時給1000円未満で働く労働者683万人の賃金を一律で1000円に引き上げた場合、企業が負担する賃金の支払額は2兆1857億円増える。だが、所得が増える分、家計の消費支出も1兆3234億円増えるため、企業の生産拡大などでGDPを1兆3517億円押し上げる経済波及効果があるとした。

 一方、年収1500万~2千万の高所得者の賃金を同じ支払い総額分上げた場合、消費支出は7545億円増にとどまる。労働総研代表理事牧野富夫・日本大学経済学部長は「低所得者の賃上げの方が景気刺激策としては有効」と話す。

 消費の内訳を見ると、低所得者層では食料品や繊維製品など中小・零細企業が多い産業分野にまわる傾向が強く、最低賃金上げの恩恵は中小企業の方が大きい。>――

 にも関わらず、安倍前首相も含めた自民党が「最低賃金の大幅引き上げは中小企業の労働コストを押し上げて経済を圧迫し、かえって雇用機会を失わせる」と一律1000円引き上げに反対してきたのは最低賃金で国民の利害代弁を優先させた場合、期間工や請負社員の給与といった他の賃金体系に波及して最終的に企業の人件費を圧迫することを恐れることからの大企業の利害代弁から抜け出れない大幅引き上げ反対であり、賃金格差の維持であろう。

 大連立で大企業の利害も国民の利害も代弁するといった欲張った芸当はできようはずがない。できたなら格差社会など出現しなかったろう。少なくとも自民党は自らの体質としている国家優先・大企業の利害代弁のDNAを払拭することは不可能だろう。

 政権交代する二大政党が並立する政治状況が実現したとき、自民党が例え大企業の利害を代弁しても、それが行き過ぎて現在のように国民の生活を犠牲とするようになったとき、「国民の生活第一」の民主党に国民の利害を代弁する政権を担当させて、一方に傾きすぎた振り子を元に戻す。「国民の生活第一」の民主党の国民の利害代弁の政治が行過ぎて振り子が国民の利害のみに傾き、国の経済の競争力を失う恐れが出てきたなら、自民党に政権を託して、振り子を正常に戻す。こういったバランスが各種格差と矛盾を最小限に防ぐ最良の手段ではないだろうか。

 勿論、政権交代は上記効用だけではない。国会議員・官僚に国の経営に真剣な態度を取らすよう仕向ける効果も政権交代には期待できるはずである。「長期政権は腐敗する」という警句の逆の選択になるのだから。》(以上抜粋掲載)――

 「連立で大企業の利害も国民の利害も代弁するといった欲張った芸当はできようはずがない」最適例として、自公連立政権を上げることができる。公明党は生活弱者の利害を代弁していると言いながら、生活弱者の利害どころか、逆の自民党格差政治に手を貸して、生活格差を広げる役割を担ってきた。

 民主党は小沢代表が辞任しなければならない事態が生じても、「それでも政権交代は必要である」を合言葉に政権交代を目指して邁進するしかないだろう。

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麻生定額給付金/消費誘因の喪失を無視して「消費刺激」を言うマヤカシ

2009-03-05 10:06:29 | Weblog

 生活実感看取能力なき麻生の定額給付金受取りの矛盾

 明らかにすることをあれ程にもしぶとく抵抗を示していた我が麻生太郎が定額給付金を受取る意向を表明したと3月2日、各新聞・テレビが一斉に報じた。

 受取りの理由を麻生太郎、かく曰く。

 「生活給付という部分の、部分が、かなり減ってきている。比重はむしろ、消費刺激という比重が、高くなってきている。生活給付という部分が非常に大きいときは、私のような者が頂戴するのは、如何にもさもしいではないかと、いう気持があったのは正直なところです。消費刺激というんであれば、私もそれを何らかの形で地元で消費に当てる――」「NHKニュース9」/09.3.2)・・・・・・・

 「生活給付」を主目的としていたウエイトが下がり、「消費刺激」のウエイトが高まったから受取ることにした。「生活給付」なら、私みたいな金持ちが「頂戴するのは、如何にもさもしい」ことになるから、頂戴するわけにはいかなかった。羨ましい限りである。

 高額所得者が受取るのは「さもしい」と決めつけたのは08年12月15の参議院決算委員会での国会答弁である。

 「多額のカネを今貰っている方が、でも、1万2千円を頂戴と言う、方を、私は、さもしいと申し上げたんであって、1億も収入のある方は、貰わないのが普通、だと、私はそう思っております。従って、そこのところ、人間の矜持の問題かもしれませんけど――」

 「1億円あっても、さもしく1万2千円欲しいと、言う人もいるかもしれない。そりゃあ、その人の、――、哲学・矜持、考え方の問題なんだから・・・・・」(「NHKニュース」/09.1.6)

 そして自身が受取るかどうかは、「まだ予算が通っていない段階で話すのもいかがなものか。今後、判断させていただく」(「時事通信社」、「全所帯となれば俺も入るわけだが、わたしのところに来るわけではない。貧しいところや生活に困っているところに出すわけだから、豊かなところに出す必要はない。分け方は政府で検討する」(「msn産経」 /2008.11.4 13:18)
 
 今年1月は――

 「貰う貰わないは、この予算が決まり、地方で配分をされ、その段階に於いて、配る方といたしましては、判断させていただきますと――」(上記「NHKニュース9」/09.3.2)

 私は以前のブログで、<ニセモノではあっても「矜持」がかかっているから、受け取ることはないだろう。>と予測したが、予測そのものが間違っていたのか、麻生の「矜持」が正真正銘のニセモノ、簡単に剥げ落ちるメッキであったためからなのか、先ずは目出度くも(?)受取る方向に決着がついた。

 上記3月2日の「NHKニュース9」は受取った場合の麻生太郎の定額給付金の使い道について次のように伝えていた。

 「何に使うか、用途まで、あなたに説明しなきゃいけないの、――というようなおちょくるようなことはやめてくださいと、誰かに言われたけども、あの、家内と相談します」・・・・・

 内心は「なぜ説明しなければならないのか」と言いたかったのだろうが、言えば苛立っていたと書かれると分かっていたから、人を介した言葉となったに違いない。

 「何に使うか――」云々は決して“おちょくり言葉”ではないからだ。そう言って記者たちをおちょくってやろうという意図があったから、「おちょくる」という言葉が出たのだろう。

 大体が公明党ゴリ押しの「定額減税」形式から始まって、「定額給付」で収まった段階から「生活支援定額給付金」と銘打ち、鳩山総務相は総務省内に財務省や法務省、金融庁から職員を出向させる形態で昨年11月11日に「生活支援定額給付金実施本部」を設置、発足式まで開いているのである。

 いわば2007年夏のサブプライムローン問題の表面化に端を発した不況から「生活支援だ、生活支援だ」と騒ぎ出して、昨年9月のリーマン・ブラザーズショックを経て「100年に一度の経済危機」へと進化した中で従来以上の景気悪化(=消費縮小)の加速が目に見えていたのである。にも関わらず、今頃になって「消費刺激という比重が高くなってきている」と言う。

 何を以て「生活給付という部分がかなり減ってきて」、「消費刺激という比重が高くなってきている」と言うのだろうか。景気が一段と悪化したから、「消費刺激」が必要になったとしているのだとしたら、「100年に一度の経済危機」と最初から危機の程度を察知し、景気のなお一層の悪化は織込み済みのはずだったのだから、悪化に対応した「消費刺激」の対策を同時進行で打ち出していなければならなかったはずで、「消費刺激という比重が高くなっ」たも何もないはずだ。

 1月7日の「msn産経」記事≪【麻生首相ぶらさがり詳報】「定額給付金は生活給付と消費刺激」(7日夕)≫は次のようなことを報道している。

 <●【定額給付金】

 --定額給付金についてだが、全国市長会の佐竹会長が「定額給付金が生活支援ではなく、消費刺激とすると同じ2兆円でも考えが違ってくる。もう一度、検討すべきだ」と述べたが、2兆円の使い方について再検討する考えはあるか(09年1月7日夕、首相官邸)

 「直聞いてないんで、何とも答えようがありませんけど。何回も、今日の国会でも言ったと思うんですが、生活給付金という意味合い、消費刺激という意味合いと両方あるわけですから。できたころは何、石油の値段がリッターあたり160円とか170円といっている時代だったですけど。今は100円というようなラインになってくると、状況が違っている。いろいろ説があります。灯油の値段は半分以下になったとか。いろいろ説があるんですが、いずれにしても生活給付の問題があることは確かですから、生活給付と消費刺激という面が両方ありますんで、ぜひ給付が来たら、ぜひ消費できる方、余裕のあるところはぜひ使っていただきたい。私自身はそういう気持ちが強くあります」

 --首相は昨日(6日)のぶらさがり取材で、自身が定額給付金を受け取るかどうかは「そのときになって考えたい」と答えた。これまで受け取らないという趣旨のことを発言していたが

 「基本的にこういったものは個人に来るわけですから。それは政府として受け取れとか、受け取るなとかいうのを政府が決めてなんとかするというのは、ちょっとおかしいんじゃありませんか。それぞれ個人が判断すべきもんだと思います、というのが基本。だから受け取る、受け取らないという話は決められてするものではなくて、自分で判断されるのが基本だと、私は思っています」>――

 1月7日の段階で既に「生活給付金という意味合い、消費刺激という意味合いと両方あるわけですから」と言っている。2ヵ月も経て、改めて「生活給付という部分がかなり減って、消費刺激という比重が高くなってきている」とするのはどういうことなのだろうか。日本国総理大事の意思表明である。ただ単に対応が遅いで済ますことができるだろうか。

 また、なぜ石油や灯油の価格を持ち出したのか意味不明だが、それらの価格の値下がり以ってして「生活給付」(=生活支援)の側面が後退したとでも言いたいのだろうか。政治の側から国民生活を言う場合、特に景気悪化時期に於ける「生活給付」(=生活支援)と「消費刺激」は車の両輪でなければならず、「生活給付」(=生活支援)が「生活給付」(=生活支援)のみで終わっていたなら、生活の余裕のないところに「消費刺激」への誘因は生じにくいはずだし、逆に「生活給付」(=生活支援)の側面が後退した局面とは生活に余裕が生じた状況を言うはずで、そのような状況下では「消費刺激」は自ずと生じるから、取り立てて「消費刺激」に向けた政策は必要としなくなるはずである。

 このことは与謝野馨経済財政担当相も言っていることである。

 (定額給付金の支給を行っても)「従来の消費を抑えた場合は、プラスマイナスゼロになることは当然だ」(≪給付金効果 政府、説明できず≫中日新聞/2009年1月14日 07時03分)

 「従来の消費を抑えた場合」とは「生活給付」(=生活支援)が「生活給付」(=生活支援)のみで終わって、「消費刺激」への誘因が生じにくい場面――いわば「生活給付」(=生活支援)と「消費刺激」が車の両輪とならない状況を言うはずである。

 テレビが拾う街の声も「給付されたとしても、将来がどうなるか不安で、とてもとてもパッと使う気にはなれません、貯蓄に回します」という声が圧倒的に多い。

 表立ってパッと使うのは自公の国会議員と閣僚ぐらいのものだろう。

 街の声は「消費刺激」への誘因を誘い出してくれる程の「生活支援」とは言えないと言っているのである。いわば「生活支援」と「消費刺激」が車の両輪とはならない定額給付金に過ぎないと。だから70~80%の国民が経済対策としての評価を否定しているのだろう。

 一般生活者の生活実感が定額給付金に「消費刺激」を誘因する程の価値を見ていないとしたなら、全国市長会の佐竹会長が「定額給付金が生活支援ではなく、消費刺激とすると同じ2兆円でも考えが違ってくる」と言った言葉も、単なる形式的な名目替えに過ぎなくなる。

 例え名目替えを行ったとしても、どっちつかずであることに変わりはないと国民は見ているということである。

 一般的な生活実感からしたら、石油や灯油の値下がりだけで「生活給付」(=生活支援)の側面が後退し、「消費刺激という面」が生じたとは言えないはずで、麻生首相がもしそういった意味で取り上げたのだとしたら、単細胞に過ぎるというだけではなく、一般生活者の生活実感看取能力ゼロをここでも証明したと言わざるを得ない。

 上記「中日新聞」は麻生首相と与謝野馨経済財政担当相とが連携した次の発言をも伝えている。

 麻生首相(野党の質問に)「過去に例がないこと(経済の悪化)が起きているので、余裕のある方は、ぜひ消費してほしい」と高額所得者も給付金を受け取り、消費に回すことを重ねて要望した。

 与謝野「高額所得者でも給付を受けた場合、消費マインドは当然生じる」

 街の声と比較して判断すると、二人とも定額給付金は「100年に一度の経済危機」に関係なしに生活に余裕ある者のみが――いわば「生活支援」を必要としない者のみが「消費マインド」(=「消費刺激」)を充足可能とすると言っているのである。

 逆説するまでもなく、生活に余裕のない者は定額給付金は「生活支援」に役立っても、「消費刺激」には役立たないと言っているのである。

 つまり一般生活者にとっては元々そうでなければならないのだが、特に景気悪化時期には「生活給付」(=生活支援)には「消費刺激」への誘因を引き出す要素が加味されていなければ人間らしい生活を送ることはできない。逆に「消費刺激」を言うなら、十分な「生活給付」(=生活支援)が必要となる。

 カネはたくさん持っていれば、あるいは銀行等にたくさん預けていれば、精神的な安心感を与えてくれる。だが、実質的な価値は消費することによって生じる。いわばカネは消費の道具としてある。

 たくさん持っていることによって生じている安心感は何があってもいつでも必要な消費に向けることができて生活を維持できるという予定調和から発している安心感であって、やはり消費の道具としての意味づけをカネに置いている。

 「消費刺激」への誘因を引き出してくれる程の一人頭12000円~20000万円でないということなら、そもそもからして「生活支援」とは名ばかり、「生活支援」と「消費刺激」が車の両輪とはならない、先程言った“どっちつかず”の定額給付金に過ぎないということになる。

 “どっちつかず”な政策となっていながら、そのことに気づかないのは「100年に一度の経済危機」だと言いながら、その状況下に置かれている一般生活者の生活実感を看取する能力を麻生を始め、麻生内閣の面々、自公国会議員の殆どが持たないからだろう。

 麻生が「生活給付という部分の、部分が、かなり減ってきている。比重はむしろ、消費刺激という比重が、高くなってきている」と言うのも同じ線上からの発想で、単に政策遂行者側の必要性に立った言い分に過ぎない。

 当然「生活給付という部分が非常に大きいときは、私のような者が頂戴するのは、如何にもさもしいではないかと、いう気持があったのは正直なところです」も、「消費刺激というんであれば、私もそれを何らかの形で地元で消費に当てる」も政策遂行者の言葉としては妥当と言うことはできても、一般国民の生活実感とは縁もない、当然と言えば当然のことでもあるのだろうが、空言に過ぎないことになる。

 大体が「さもしい」と言ったのは「私のような者」――いわば自身を主として指してのことではない。先に例示した「さもしい」発言を再度取り上げてみる。

 「多額のカネを今貰っている方が、でも、1万2千円を頂戴と言う、方を、私は、さもしいと申し上げたんであって、1億も収入のある方は、貰わないのが普通、だと、私はそう思っております。従って、そこのところ、人間の矜持の問題かもしれませんけど――」

 「1億円あっても、さもしく1万2千円欲しいと、言う人もいるかもしれない。そりゃあ、その人の、――、哲学・矜持、考え方の問題なんだから・・・・・」――

 「多額のカネを今貰っている方」で「でも、1万2千円を頂戴と言う」人間、「1億円あっても、さもしく1万2千円欲しいと、言う人」――そういった他者を指して言った「さもしい」であり、麻生自身を「さもしい」の外にしっかりと置いている。本人は最初は受取らないと言っていた「さもし」くない人間としていたのである。

 麻生は言葉は達者だが、その多くがマヤカシに満ちている。

 政府は「100年に一度の経済危機」だからと、様々に政策を打ち出してきた。各大手企業からの派遣切りが横行すると、雇用維持や宿舎提供の人材派遣会社への支援を打ち出した。だが、人員整理は非正規雇用ばかりではなく、さらに正規社員カット、大卒・高卒の内定取り消し、企業倒産と悪化の一途を辿っている。

 1月31日の「毎日jp」記事≪クローズアップ2009:雇用情勢悪化の一途、前途見えぬ失業者 少ない求人争奪≫は次のように伝えている。

 <厚生労働省は30日、非正規雇用労働者の雇用状況などをまとめた。09年3月までの半年間の失職者数は、昨08年11月調査では約3万人、12月は約8万5000人、そして09年1月調査では約12万5000人と膨らみ続けると予測、その一方でNECが2万人超の人員削減を発表するなど、業績悪化で大手企業の雇用カットも加速する。>――

 新卒者の内定取り消しに関しては、2月27日の「J-CAST」 が、<新卒者の採用内定取り消し状況について、全国のハローワークが2月19日現在で確認したところ、342事業所、1574人に上った。内訳は大学生などが1280人、高校生が294人>と伝えている。

 日本綜合地所が一旦採用した大学卒53人の内定を取消し、1人頭42万円支払うとした補償金を100万円で解決、支払いを済ませたものの、会社自体は今年の2月に破産している。政府が悪質な内定取消しは企業名を公表すると騒いでいたが、企業側としたら倒産で失う信用と比べたなら、内定取消し公表で失う信用は左程のことはないに違いない。

 そもそもからして内定取消しは企業が経営危機に陥っている状況を示す。日本綜合地所の経営陣は今回のことで多くを学習したのではないのか。内定を取消さずに倒産していたなら、補償金は支払わずに済んだと。

 尤も学生たちが得た合計5300万円は負債として債権側の誰かがかぶることになる。会社側は倒産すればどうせ誰かがかぶるんだと気前よく42万円から100万円に吊り上げた可能性も疑えないことはない。

 倒産と内定取消し公表を天秤にかけることができる間は企業は内定取消しは行わないだろう。学生側からしたら、内定取消しに遭わずに無事入社できたとしても、程なく会社が倒産したなら、元も子もない。

 要は社会はそう簡単には出来上がっていないにも関わらず、政府は「100年に一度の経済危機」だと大騒ぎしながら、このことがストレートにダメージを与えている個々の企業の経営の内実まで理解せずに悪質な内定取消しは公表すると、公表でさもすべてが解決するようなことを言う。「100年に一度の経済危機」と言いながら、実際は個々のケースに立ってそのことを実感できていない。

 特に生活実感看取能力を備えていない麻生には実感できまい。

 非正規雇用であろうと正規雇用であろうと、仕事を失った者、仕事と共に住いまで失った者は十分な蓄えがある者を除いて、この不況下で思わしい再就職は望み薄く、一挙にその日、その日を食べていくことだけで手一杯となって生活防衛一辺倒となり、消費誘因は損なわれることとなる。

 彼らに必要なのは「消費刺激」の12000円ではなく、「生活支援」となる12000円であろう。インスタントラーメンだけの1日一食となった者にとっては、1日2食のインスタントラーメンに戻す消費誘因とはなり得る12000万円かもしれないが、「生活支援」の色彩は拭い切れない。

 政府は失業者対策にワークシェアリングへの雇用形態の転換や農林漁業や介護企業への転職を勧めているが、ワークシェアリングで雇用カット要員の雇用を維持できたとしても、働く場所の提供という目的は果たすことができるものの、全員に行き渡ることとなる労働時間短縮に伴う給与の目減りで、雇用形態としてのワークシェアリングそのものは消費誘因を押し下げる要因を抱えることになる。いわば失業者を出すよりはましな消費誘因とななり得ても、景気回復に向けた力強い消費誘因とまではなり得ない。

 このことは農林漁業や介護関係についても言える。この辺の事情を2月19日の「毎日jp」記事≪農林水産業:就労相談9383件、採用441人≫が次のように報道している。

 <農林水産省は18日、農林水産業への就職希望者のため、同省や都道府県、関係団体が設置した窓口の相談状況をまとめた。昨年12月から今月10日までに441人の採用が決まり、うち269人を林業が占めている。同日までの相談件数は累計で延べ9383件。

 林業以外で採用が決まった人は農業132人、漁業40人。同日時点の求人数は1844人だが、採用に至るケースは低水準にとどまっていることについて、農水省農村計画課は「収入の低さや住宅事情、重労働などがネックになっている」と話している。

 農水省は18日に雇用対策推進本部(本部長・近藤基彦副農相)を設置した。【行友弥】>――

 景気が回復すれば逃げ出す「農林水産業再就職441人」といったところなのではないのか。

 ただでさえ「外国人研修制度」の名の下、単純労働者として外国人を低賃金で雇用している農林漁業である。新規参入労働者の身分ではなおさらに望む給与の保証は得られず、例え再就職できたとしても、「収入の低さ」が必要最低限の生活必需品の消費に向かうことはあっても、力強い消費誘因を引き出すとは考えにくい。

 地方自治体が各自進めている臨時職員募集も採用期間が短い等の理由で敬遠され、募集人員を満たさない自治体が相当数出ている。さいたま市では臨時職員100人の募集に応募が8人だったと1月19日の「msn産経」記事≪「派遣切り」雇用…肩すかし 職場あわず各地で「ミスマッチ」≫)が伝えている

 「雇用のミスマッチ」からは不足だらけの雇用状況を見ることはできても、消費活動を連想させる話題はどこにも見当たらない。経済はさらに悪化している。

 要するに定額給付金は麻生が何と言おうが、「生活給付という部分の、部分が、かなり減ってきている。比重はむしろ、消費刺激という比重が、高くなってきている」と言おうが、生活に「余裕のある方」たちのための消費刺激欲を満足させる消費誘因とはなっても、生活不安を抱えて節約を強いられながら日々を送る多くの一般国民にとっては従来どおりに節約を継続する流れの中で遣うことになるだろう。必要に迫られた場合にのみ、必要に迫られた生活必需品にのみ、消費は向かうことになるということである。

 与謝野が言っていた「従来の消費を抑えた場合は、プラスマイナスゼロになることは当然」と言う現象が起きるということである。

 いわば節約を迫られている生活者にとっては消費動向に変化はない。いや、変化させることはできない。一人頭12000円から20000円を定額給付金として支給されたとしても、消費に関してはプラスマイナスゼロと言うわけである。

 それを麻生は「生活給付という部分の、部分が、かなり減ってきている。・・・・・・私のような者が頂戴するのは、如何にもさもしいではないかと、いう気持があったのは正直なところです」云々と言う。このマヤカシは胡散臭いばかりに臭い立つ。

 他の閣僚は――

 「ニコニコ給付金として喜んで受け取り、地域の消費活性化につなげたい。」(鳩山 総務大臣)

 「消費活性化のために意味があると思いますので受け取ります。地域で何か買うとか、飛騨牛を食べるとか・・・アハハハ。」(野田 消費者政策推進 特命大臣)

 「受け取って環境エコ商品を地域で購入し、環境問題に少しでも貢献したい。」(斉藤 環境大臣」

 どの声も街の一般的な生活者の一般的な声を遠くに置いている。マヤカシもここまでくれば、勲章ものである。

 自民党幹事長細田は 定額給付金にかかわる「模範回答集」を作成、議員に配ったという。

 消費誘因などどこにも見い出せないにも関わらず、「生活支援と内需拡大の呼び水の両方の意味があります。民主党が言っていることも結局は同じことです」(FNN/09/01/09 18:53)と書いているという。

 国民が期待していないことを細田は言っている。

 麻生を筆頭に生活実感看取能力なき政治家たち。

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新聞を読まない麻生太郎は情報統制者

2009-03-02 07:02:25 | Weblog

 我が日本の誇る、尊敬すべき偉大な自民党政治家(中川昭一とか笹川堯とか、自民党には偉大が政治家が何と多いことか)麻生太郎が「自分は新聞を読まない」と公言していたということを迂闊・無知にも知らないでいた。2001年4月の小泉純一郎、橋本龍太郎、麻生太郎の3人で争った自民党総裁選のインタビューで「テレビは見ないし、新聞は読まない」と語ったと「日刊スポーツ」ウエブ記事に出ている。

 以下、同記事参考引用。

 (≪麻生首相はSY!新聞読まないに批判続出≫日刊スポーツ/2009年2月28日7時39分)

 <麻生太郎首相(68)が27日の衆院予算委員会で「新聞には、しばしば偏っている記事が多いように思う。それをうのみにしてはいかんと自戒している」と述べ、新聞批判を繰り広げた。民主党の逢坂誠二議員に「一国のトップリーダーが『新聞を読まない』と公言することがあっていいのか」と指摘され、答えた。

 麻生氏は「読む時は、責任者の名前が載っている記事は名前を見て読むようにしている。(署名がなければ)見出しを眺めるぐらいはするが、自分のことが書いてあるとだいたい(内容が)違うんで、あまり読まない。ほかの人もきっと違うんだろうと思う」と、不信感を示した。

 漫画好きの麻生氏だが、「テレビは見ないし、新聞は読まない」(01年総裁選のインタビュー)と公言。最近の麻生氏に対する報道は、言動への指摘や世論調査の厳しい結果などが多い。耳に痛い話も受け止めているのか、疑問符がついた格好だ。質疑では逢坂氏を長妻昭議員と間違えるなど、相変わらずだった。

 麻生氏が進めた09年度予算案と関連4法案はこの日衆院本会議で可決。年度内成立が確定した。これを合図に、自民党の反麻生の動きは、本格的に“解禁”。麻生氏に総選挙前の自発的辞任を求める武部勤元幹事長は、関連4法案の採決を棄権した。地元・北海道での会合に向かうためというが、憶測を呼んでいる。

 来月4日には、定額給付金を盛り込んだ08年度第2次補正予算関連法案の衆議院再議決が予定され、本会議欠席を表明した小泉純一郎元首相への同調者が焦点。民主党は内閣不信任案提出も検討しており、麻生氏はいよいよがけっぷちだ。>――――

 たくさんの人間が新聞・テレビから多くの知識・情報を得るこのメディア時代に逆説めくが、「テレビは見ないし、新聞は読まない」が政治家麻生太郎にとっての国民の動向や経済・政治の動向に関わる情報確立方法であり、そのような情報形成の成分に新聞・テレビは入れていないということである。

 麻生太郎が自民党の一国会議員である間はいい。だが、世界の中の日本国総理大臣麻生太郎となった現在、「テレビは見ないし、新聞は読まない」で立場上必要な日々刻々と変化する世界の各情報に精通するには麻生太郎にとって残る情報媒体はマンガしかないことになる。マンガで十分ということなのだろう、ローゼン殿下。

 今回「テレビは見ないし、新聞は読まない」が各マスコミに取り上げられたのは上記新聞記事が既に指摘しているように2月27日の衆議院予算委員会で民主党の逢坂誠二議員が「一国のトップリーダーが新聞を読まないと公言することがあっていいのか」と追及したことに始まっている。

 その質問と答弁をその箇所だけではなく、麻生太郎の情報処理能力の程度が理解できるよう、少し前の場面から「衆議院インターネット審議中継」の動画を文字化してみた。

 逢坂誠二議員が「定額給付は自治の理念を阻害するような行為ではなかったのか」を先ず問う。

 麻生「先ず、定額給付については、色んなご意見があるんだと思いますが、私共に窺う多くの意見の中には早くに出して貰いたいという意見の方が極めて多いというのが最近の実態だと、私自身はそのように思っております。また所要経費というものにつきましては、これはご存知のように全額国庫が補助するということでもありますので、誰を対象にいくら給付するか、という制度の根幹部分については、国が責任を持って定めることとしております。

 但し、なるべくこれ、単純、チェックなものにしなければいかんと、根幹の部分につきましては、実施に際しては、市町村が工夫をされる。最大限尊重することとしておりまして、今色々なプレミアム付きの商品券の発行を始め、色々なことを、各地方自治体でやっておられますんで、実質的な取組というものを数多く検討されております。

 私はこのように思っておりますんで、色々な市町村が様々な対応をなさる、いうことを、私共はできるようにと意味で、決して地方自治体に反するようなものでもないと考えておりますんで、私共にとっては、趣旨(よく聞き取れなかったが)に取りまして、多くの方々から期待されている部分に早く応えたいもんだと思っております」

 (もう少しテレビを見たり、新聞を読んだりして話し言葉を練ったらどうかといつも思うが、「テレビは見ないし、新聞は読まない」ということだから、サジを投げる以外に方法はないのか。)

 逢坂誠二議員「ところで総理、ところで総理。そんな素晴らしい制度であるなら、総理、貰うんでしょうね、この定額給付金。如何ですか」

 麻生「あのー、給付のー、制度につきまして、ご説明、ご質問がございましたから、私のことに関しましては、私が私なりに判断させていただきます。ずうっと、お答えしている通りです」  

 逢坂誠二議員「要するにですね、未だにですね、その定額給付金に対して、ご自身の対応すら喋れない。それそれぐらい曖昧なものだというふうに言わざるを得ない。そして、本来ですね、分権の旗振り役であるべき総務省が如何に中央集権的な、今全国の自治体の現場に行きますと、総務省からですね、事実的(?)指導・助言と称して、たくさんの文書が来て、それに添ってやらざるを得ないような事務を、全国一律押し付けている。これは分権の精神、自治の精神を蔑ろにするものだと、いうことを指摘せざるを得ません。

 さて、そこで総理、総理。今回もう一つ、私は残念なことがあるのですが、総理の政治家としての資質、あるいは内閣の、政治家としての資質、これについてちょっと言及したいと思うんですが、総理の発言はなぜこんなにぶれるんでしょうか。

 総理の発言、郵政民営化について、随分、ぶれた。ぶれたと報道されておりますし、私自身もぶれたというふうに思っております。2005年当時、総理、ほんとーに郵政民営化に反対だったんですか?どうですか?」

 麻生「あの、ぶれているという指摘、いうに関しましては、私自身と見解が違っております。私は一貫して同じことを申し上げていると、私自身はそう思っております。

 しかし、ぶれていると受け止められる、というようなことは好ましいことではありませんから、説明不足、いうんであれば、言葉足らずというところも生んでいるんだろうと、思っていますんで、こういったことは、今後とも注意をしていきたいと思っております」

 逢坂誠二議員「今。ぶれまくっているという声がありましたけども、私はまさにぶれまくっているというふうに思います。

 それでは元財務大臣、前財務大臣の中川大臣のことについては、如何ですか。ローマでああいう記者会見があった。そして2月の16日に帰国をした。その夜に総理は、中川財務大臣、まあ、頑張ってやって貰いたい、というふうなことをおっしゃったそうですねぇ。

 でも、次の日の昼、予算成立までに中川大臣にその地位に就くというふうにおっしゃった。それも容認された。しかしながら、その日の夜になって、野党のみならず、与党からも批判が出た。結果的に中川大臣はその職を辞したわけでございます。

 私はですね、これ、トップリーダーとしてですね、まさに判断がやっぱり遅い。ずれている、ぶれているというふうに思わざるを得ません。トップリーダーに必要なのは、、創造力、決断力、強い意志だと、私自身は思っておるんですが、こんなに、総理、ぶれているからこそ、内閣の支持率が上がらないじゃないんですか。総理、如何ですか」

 麻生「あの中川大臣の件、ぶれている、という話、ではないのではないんじゃないでしょうか。中川大臣の話に関しましては、ご本人が自分で最終的にやるという決断を降ろされて、最終的にはご自分でやる意志を示されておりましたし、私は薬が切れれば、そういったことも終わると思いましたから、私自身としては、とも思っておりましたから、ご自身が自分の体力を医者に行かれて、病院に行かれて、判断をされ、最終的に判断をされたんで、それはご自身の意志を尊重すべきは当然のことだと私自身はそう思いました」

 逢坂誠二議員「あのですね、私は今回の予算委員会の質疑を通してですね、本当に政治家の質が問われているというふうに思うんですが、総理の、その判断のぶれ、発言のぶれ、あるいは中川財務大臣のことに対する、その決断力のなさ、これはやはり国民は見ているというふうに思います。

 そして私は、こんなことを言いたくないのでございますけれども、一国のトップリーダーが私は新聞を読まないと、いうことをですね、公言するような、そーんな、ことがあっていいのかというふうに思いますけれども、総理、なぜ新聞を読まないんですか?」

 麻生「私が新聞を読まないというのは、私は新聞の記事にはしばしば偏っている、といった記事が多いような、私自身は思っておりますんで、それを鵜呑みしちゃあいかんもんだなあと思って、常に自戒をしているからだと思います」

 逢坂誠二議員「自戒をしているからだということは、やはり、総理、新聞はお読みになっていないわけですね。総理、お読みになっていないわけですね?」

 麻生「今、今、お答え申し上げましたように、私は新聞を読むときは基本的に自分の責任者の名前が載っている記事、誰々が書いた、いうことを、逢坂太郎が書いたとするなら、相手の人の名前を見て読むようにしていますが、名前が載っていない記事っていうのは、見出しを眺めるぐらいは致しますけれども、私は中、中身を読んでも、中が自分のことが書いてありますと、大体が違いますので、あんまり読まない。他の人も違っているんだなあと思います」

 以上で、逢坂議員は別の質問に移る。


 新聞を読む・読まないの答弁を通して見えてくる麻生の姿は、自己を常に正しいとする立場に置くことによって可能としている自分に都合のいい記事は読むが、自分に都合の悪い記事は読まない、いわば快・不快を判断基準とした情報選別者の姿である。

 情報を選別する者は簡単に情報統制者へと早変りする。自分に都合よく選別した情報で自己を情報統制するばかりか、他をも選別した情報で律しようとするからだ。

 「中が自分のことが書いてありますと、大体が違いますので、あんまり読まない」が自己を常に正しいとする場所に置いていることを証明している。

 つまり自分が正しいから、「違」うことは間違っているということになり、だから、「あんまり読まない」という情報選別への場面転換が生じることになる。

 我が麻生太郎は現在民主主義体制の時代に身を置いているから問題はないが、全体主義体制の時代に存在していたなら、あるいは全体主義体制に容易に変わり得る不穏な時代に生息していたなら、その情報統制者の側面が活発化することとなって簡単に独裁者の姿を取るに違いない。

 自己は常に正しいとは限らないと自己を客観視できる人間はときにはあっても、一般的には快・不快で情報を選別しない。自己に不快、あるいは不都合な情報からも、学ぶべき点・役に立つ点を見つけようと努力する。

 その「違い」がどのような誤解によるものなのか、あるいは悪意からの誹謗中傷によるものなのか、それが世論に対してどの程度の影響力を持ち、自身にどれ程に有利・不利に働くのか、支持率に撥ね返るプラス・マイナスはどれくらいか等々、それぞれに客観的に判断して、総合的に対策を講じるにはしっかりと記事を読み解くことから始まる。

 快・不快を判断基準とするのではなく、新聞・テレビを含めて、自分が発する事実・情報がどう解釈され、どう評価されて二次情報と化しているのか、科学的認識基準で記事(=情報)と相対さなければならないはずである。

 それを「中が自分のことが書いてありますと、大体が違いますので、あんまり読まない」と一国の政治指導者として必要とされる適切な情報処理を行わずに、「大体が違います」と言うだけで自己に不都合な情報として避ける。

 多分、元々客観的認識能力を欠くところがあるのだろう、自分から自分を快・不快を判断基準とした情報選別者の場所に置いているためになおさらに客観的認識能力を偏らせることとなって、情報統制を自他に強いることが可能となる。

 だから、どう判断しても発言がぶれているにも関わらず、逢坂議員が「2005年当時、総理、ほんとーに郵政民営化に反対だったんですか?どうですか?」と併せて質問したことには一切触れず仕舞いで、「ぶれていない、言っていることは一貫している」とする情報統制の網を自分にかけることができ、他の者にも同じ網をかぶせようとすることができる。

 しかも、単に周囲に「ぶれていると受け止められ」ているに過ぎない、「説明不足」、「言葉足らず」が原因だろうと、自分で自分を客観的に見つめることができない自己正当化に走る。

 もし「ぶれ」が真に「説明不足」、「言葉足らず」が原因であるなら、麻生太郎は何度も「説明不足」、「言葉足らず」を繰返していることになり、総理大臣としての言語能力を満たしているかどうかが新たな問題として浮上する。

 当然、「今後とも注意をしていきたいと思っております」といった反省では追いつかず、地位上の資質を問わなければならなくなる。

 こういった客観的認識の欠如が最も如実に現れている答弁が 「先ず、定額給付については、色んなご意見があるんだと思いますが、私共に窺う多くの意見の中には早くに出して貰いたいという意見の方が極めて多いというのが最近の実態だと、私自身はそのように思っております」であろう。

 各新聞社やテレビ局の世論調査は不愉快を与えるから「見出しを眺めるぐらい」で中身は詳しく読まない。その結果、70~80%の国民が定額給付金は経済対策として有効でないと世論調査で見せている意思表示には背を向けて、逆に給付されたなら、80%近くが受け取るとした意思表示のみに目を向け、それを唯一の頼りに自分の周囲に集まる支持者が「麻生さん、早く出してください、みんな待っているんですよ。麻生さん、早く出してください」と元気づけるために口々に言うことが自己は常に正しいとする価値観に合致するし、自分に都合がよく、不快でもないから、それをすべてとして客観的実態に反した偏った判断、偏った情報解読ができる。

 動員をも受けて集まった自民党支持者の群れの中に自身を置いて、自民党の政策を無条件に正しいとする周囲の姿勢のみを自己判断の味方とする情報統制を自らに行う。
 
 自己の姿(=首相像)が国民にどう映っているか、政策がどう受け止められているのか、いわば人柄とかリーダーシップとかを含めて自身が生み出して発信している諸々の事実がマスメディアによってどうように二次的に情報化され、それを国民がどう判断し、どういう評価を下す情報上の事実(三次情報)となっているか、それを客観的に公平に判断する能力が必要とされる一国の政治的指導者がそのような情報処理過程を欠き、欠くがゆえに公平な情報判断能力を発揮できない情報統制に陥っている。

 素地としてある情報統制者の姿が公平な情報判断能力を阻害することになっているからなのは間違いない。

 この一事を以てしても、一国の政治的指導者としての資格を失う。逢坂議員が「総理の政治家としての資質」を問おうとしたのは、このことだろう。

 勿論、発信する側の情報が常に正しいとは限らないようにその情報を受取る側が自らの知識とする過程で常に正しい判断・解釈が施されるとは限らないのは断るまでもない。麻生太郎が世論調査の結果が常に正しいとは限らないと言うのはこのことに当たるが、麻生の言い分は多分に自分に都合の悪い世論調査の結果だからということもある。

 「責任者の名前が載っている記事」は「相手の人の名前を見て読むようにしています」にしても、世論調査に於ける国民の判断と同様に署名記事が必ずしも正しい内容(=正しい情報)を発信しているとは限らないはずだが、世論調査は常に正しいと限らないとする条件付けを行いながら、署名記事に関しては相対的な条件付けを行わない矛盾を犯して気づかないでいる。

 だが、肝心なことは、どのような情報をどう判断し、どう評価しようとも、我が麻生太郎と同様に誰もが自己の判断と評価を正しいとして行動を取るということである。 

 だからこそ、国会議員や閣僚、総理大臣といった国家的立場からの情報発信者、あるは新聞・テレビ等の社会的立場からの情報発信者はその情報がより客観的公平性を保つように努力し、と同時に自らが発信した情報がどのような事実として解読・処理され、それぞれがどのような二次情報・三次情報として知識化されているか、判断基準とされているか、常に検証する責任を負うはずである。

 主たる情報発信者の側に立つ人間が新聞の記事が「しばしば偏っている」からと言って「新聞を読まない」とするのは、発信した情報がどう解読・処理され、どのような影響を社会に与えているかの検証を怠る無責任に当たる。

 また情報を「うのみに」するしないは本来的には本人の情報解読能力・情報処理能力が解決すべき問題であって、新聞記事の偏りは読んで初めて分かる事柄であるゆえに、必ずしも「読まない」理由付けとはならない。

 また、都合の悪い情報をことさら遠ざけ、都合のいい情報だけを近づける情報統制はそのことに対応して、都合のいい意見を言う人間だけを近づけ、自分に都合が悪い気に入らない忠告や意見を言う人間は近づけないこととなり、結果として周囲をイエスマンで固めることになる。安倍内閣や現在の麻生内閣が「お友達内閣」だとか「お仲間内閣」だと言われる所以は、自他に対して情報統制者であることから始まっている現象であろう。

 中川昭一の財務大臣辞任問題でも、「ご本人が自分で最終的にやるという決断を降ろされて、最終的にはご自分でやる意志を示されておりましたし、私は薬が切れれば、そういったことも終わると思いましたから、私自身としては、とも思っておりましたから、ご自身が自分の体力を医者に行かれて、、病院に行かれて、判断をされ、最終的に判断をされたんで、それはご自身の意志を尊重すべきは当然のことだと私自身はそう思いました」と言っているが、問題となっているのはやる・やらないの本人の判断ではなく、職にとどまらせることによって事が済むかどうかの、あるいは本人の責任がそれで片付く事柄かどうかの任命権者の判断であろう。

 記者会見で見せた失態・醜態によって失った日本の政治家の信用を、大袈裟に言えば、日本人の信用を「薬が切れれば」といった後付の取返しで修復できるかどうか、任命責任者が判断して処理する問題だった。

 それをやるやる・やらないはすべて相手の判断任せで、やらせる・やらせないの判断を自身は持たかった。これは任命責任者としての判断の誤りであり、任命責任の放棄以外の何ものでもない。

 このような判断間違いも、自分に都合のいい記事は読むが、自分に都合の悪い記事は読まないことに現れている情報選別から発した自他に対する情報統制が対人事にも現れている都合のいい意見を言う人間だけを近づける情報解読・情報処理の機能不全が原因なのは間違いない。

 総理大臣たる麻生が中川昭一の進退問題でぶれたことで、日本の政治家の信用、日本人の信用をなおさらに失ったのではないのかと危惧する。

 逢坂氏の定額給付金は受け取るのか受け取らないのかの質問に、「私のことに関しましては、私が私なりに判断させていただきます。ずうっと、お答えしている通りです」と答えているが、ぶれていると言われるのが怖いから、定額給付金が支給された段階で判断すると一旦網をかけた情報統制から抜け切れないでいることからの「ずうっと、お答えしている通りです」なのだろう。

 だが、逢坂氏の「イエスかノーか」の追及に正確に答えるには、「ずうっと、お答えしている通りです」では適切・妥当な情報処理とはならないはずだが、自身では適切・妥当な情報処理の範囲内としているから、的外れの答弁であること気づかない。

 「私共に窺う多くの意見の中には早くに出して貰いたいという意見の方が極めて多いというのが最近の実態だ」と情報処理していながら、自身に関してはそのような情報処理の外に置く。本人はその矛盾に気づかないが、多くの国民が気づいていて、世論調査でノーの意思表示を示すこととなっている。

 自己に都合のいい情報のみを受け容れ、都合の悪い情報は排除する一国のリーダーに情報の公平・的確な解読・処理は期待しようもなく、当然、一国のリーダーとしての資格を欠くことになる。

 このような資格喪失の面からも、麻生内閣は早々に退陣すべきだろう。

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