スパコンは世界1位でなくても2位、3位であってもいい、日本人の創造性世界1位を目指すべき

2011-11-19 10:08:12 | Weblog

 2011年11月6月21日、日本のスパコンが7年ぶりに計算速度世界一の地位を獲得することとなった。このことが蓮舫議員の2009年11月13日民主党事業仕分けでの「スパコンは世界一になる理由は何があるんでしょうか?2位じゃダメなんでしょうか」の発言を亡霊の如くに蘇らせ、再び揶揄・批判の的とすることになった。

 日本の国民の多くが世界1位に拘っているようだ。私自身は「世界1位」でなくても、蓮舫議員が言うように2位であってもいいし、さらに2位以下の3位であっても4位であってもいいと思っている。

 所詮、大型コンピューターを何百台とつなぐ技術の積み重ねで獲得可能とするモノづくりが成果としたハード(=ハコモノ)であって、「世界1位」のハコモノを以てして直ちに政治や社会の質の向上・発展・活性のソフト足り得るわけではない。

 政治や社会の質の向上・発展・活性は日本人自身が生み出す創造性というソフトの力に何よりも依拠する。スパコンが直接政治や社会の質の向上・発展・活性の力となるわけではない。

 特に政治の分野はその質の向上・発展・活性は政治家の創造性というソフトの力に殆ど負う。

 社会の質の向上・発展・活性に関して言うと、人間の創造性に何よりも依拠する以上、スパコンはほんの部分的に寄与するに過ぎない。

 2009年11月26日の当ブログ記事――《カネをかけるべきは科学予算か社会制度か - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》 でも、社会制度の諸不備や社会の諸矛盾に視線を向けずにスパコンの世界順位争いやハコモノ技術に拘るモノづくり思考(ハコモノ思考)がすべてではないことを書いた。

 例えばノーベル賞受賞者で理化学研究所理事長の野依良治氏が事業仕分けで各科学予算の削減措置を受けたことに激しく反論していることを取り上げて、その反論の正当性を質した。

 野依良治氏「科学をコストでとらえるのはあまりに不見識」

 野依良治氏「うまく行かないこともたくさんあるが、先進国の平均寿命も、科学技術がなければこんなに延びなかった」

 〈「先進国の平均寿命も、科学技術がなければこんなに延びなかった」と言っているが、このことが事実だとしても、寿命の延びに貢献した科学技術が寿命の延びが原因の一つともなっている高齢化社会の加速に対する抑制――バランスのよい人口構成――にまで貢献していないことの事実は、例え医学が難産で生まれてくる赤ん坊の命を沢山救って人口増にいくらか貢献したとしても、差引きマイナスの現実が証明している。

 勿論高齢化は科学の課題ではなく、政治の課題だと言うだろうが、それを正当付けるためには科学技術が社会のすべの問題を解決するわけではないという事実も正当性あるものと認めなければならない。〉・・・・

 言っていることは、政治や社会の質の向上・発展・活性はモノづくりの科学の技術以上に日本人の創造性、特に政治家の創造性といいうソフトの技術にかかっているということである。

 計算速度世界1位の「京」が日本に存在するすべてのコンピューターに取って代わるわけではないし、取って代わることができるわけではない。

 「京」の開発に関わった富士通が「京」の技術を利用した新たなスパコンを5000万円台からの価格で販売する予定だそうだが、このスパコンが先端医療技術の開発に利用されたとしても、開発の速度を格段に早めるはするだろうが、開発された技術のすべてが革新的で飛躍的な効果を約束するとは限らない。

 もし約束するとしたら、従来の計算速度のスーパーコンピューターでも開発速度は遅くても、すべてに亘って革新的で飛躍的な技術を生み出してきたはずだ。

 だが、現実はそうはなっていない。コンピューターのない時代であっても、多くの科学者が時代時代に於ける先端技術を開発してきた。

 基本な何よりも人間自身の創造性(とたゆみない努力)にかかっているからである。

 と言うことなら、スパコンの計算速度は世界2位でも3位であってもいいわけである。 

 野田首相が米ハワイでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で省エネについて「講義」したと、《首相、APECで白熱教室? エコをテーマに熱弁》asahi.com/2011年11月14日21時18分)が伝えている野田首相自身にしても、モノづくりのハコモノ技術よりも何よりも日本人の創造性に基づいたソフトの技術の必要性を認識していない姿となっている。

 〈首脳会議は、議長のオバマ米大統領の発案による「ゼミ形式」〉で、〈野田首相は、マイケル・サンデル教授の「白熱教室」さながらに、5分間の熱弁をふるった。〉と書いてある。

 外務省による野田発言の紹介だが、〈野田首相は、石油危機をバネに日本企業が技術を磨いたと紹介。〉

 野田首相「日本のエネルギー効率の高さは世界平均の3倍以上。同じ水準なら域内のエネルギー消費は65%減る」

 記者会見――

 野田首相「わが国の経験と教訓、今後の挑戦を説明して、議論をリードした」

 記事、〈と自画自賛した。〉

 但し世界が注目している福島原発の収束問題に関しては、〈「事故を機に安全性の向上と国民の安心と信頼確保に取り組んでいる」「原発の安全性を世界最高水準に向上させる」などと触れただけだったという。〉・・・・

 いわば自画自賛できる事柄のみ取り上げたということなのだろう。

 確かに日本の省エネ技術は世界的に優れている。だが、資源を持たないという状況の強制による既存技術の改良の積み重ねを経たモノづくりのハード技術の発展と成果に過ぎない。

 その優秀な技術が日本の国全体、日本の社会全体の諸問題に波及して政治や社会の質の向上・発展・活性にまで力となり得るわけではない。全体的な国家の財政再建の知恵となるわけではないし、「社会保障と税の一体改革」の治療薬となるわけではない。

 政府に要求されていることは民間技術開発支援もその一つであるが、技術開発自体は民間の創造性というソフトにかかっていて、民間に任せなければならないことに対して政府自身が成すべきことは国民が不安なくより豊かな生活を送ることができる社会の構築に役立たせることができる政治的創造性のソフト涵養であろう。

 財政再建の創造的ソフトの涵養であり、社会保障政策の創造的ソフトの涵養であり、安全保障の戦略性を持った創造的ソフトの涵養、その他である。

 国際会議の場で省エネ技術しか“自画自賛”するものがないとは寂しい限りであるが、このことを裏返すと、野田首相自身が日本の政治が何を必要としているのか真に認識していないからではないだろうか。

 一人前とは言えない日本の政治だが、今後共アメリカの助けなしには外に向けても内に向けても満足に維持できないだろうから、一人前でない日本の政治は依然として続くに違いない。

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詭弁家枝野のやらせメール九電原発再稼働問題に見る合理的厳格性を欠いた越権行為

2011-11-18 10:25:12 | Weblog

 九電のやらせメール事件。これまでの経緯をざっとお浚いしてみる。 

 九電の玄海原子力発電所2・3号機運転再開に向けた経済産業省主催「佐賀県民向け説明会」で運転再開に関して地元の形勢有利とするために九州電力が関係会社の社員らに運転再開支持の電子メール投稿を指示していた世論偽装工作事件の原因分析や再発防止を目的に九電自身が設置した第三者委員会の中間報告書、最終報告書が共に古川康佐賀県知事の関与を指摘。

 だが、九電はこの最終報告書に対する対経産省提出の自らの最終報告書で知事の関与を否定したばかりか、経営責任を明確にするためと表明していた社長辞任を撤回、続投を決定し、第三者委員会の検証意思に反する姿勢を示した。

 対して第三者委郷原委員長と所管大臣の枝野経産相が批判で応じた。

 郷原委員長「第三者委の指摘に対する認識が示されず、全く内容がない。まやかし。

 形だけ(第三者委の)提言の受け入れを強調して社会的批判をかわそうとするもので、本質に向き合い、透明で公正な事業活動を行う姿勢は見受けられない

 (第三者委が示した2005年の公開討論会での「仕込み質問」への佐賀県側の関与について最終報告書が一切触れなかったことを問題視して)九電が置かれた環境と経営陣の認識のずれがいっそう深刻化している」(MSN産経

 枝野経産相「続投以前の問題だ。最終報告書には、みずから委託した第三者委員会が先月まとめた調査報告に記載のあった項目が載っていないと聞いている。第三者委員会に検証してもらい、それを踏まえて対応するのが趣旨なのに、報告書のつまみ食いをするようなやり方は公益企業としてありえるのか。深刻な問題で、何を考えているのかと思う」
NHK NEWS WEB

 このような批判を受けて九電は最終報告書の再提出の方針を表明。

 11月1日、作業手順のミスで停止していた玄海原発(佐賀県玄海町)4号機を再稼働。 

 11月17日、瓜生九電副社長が都内で記者会見。九電側の知事関与否定と第三者委員会側の知事関与指摘の両論併記の最終報告書再提出の11月内提出の可能性を示唆し、あくまでも第三者委員会の検証意思を無視する態度を示す。

 同じ11月17日の参院予算委員会。《九電原発再稼働「認めない」 枝野氏、経営姿勢を問題視》asahi.com/2011年11月17日23時23分)

 枝野経産相(福島瑞穂社民党の質問に)「自ら委託した第三者委員会の報告書を受け止めず、メンバーとトラブルになっているガバナンス(企業統治)の状況では、到底(原発の)再稼働を認めることができる会社ではない」

 福島瑞穂党首「傲岸不遜(ごうがんふそん)な九電の態度を見ていると(電力会社の)地域独占が問題だと思う」

 枝野経産相「九電に対する評価は全く同感だ」

 〈第三者委の委員長を務めた郷原信郎弁護士ら3人の元委員もこの日、福岡市内で記者会見を開き、九電のトップが暴走しているとして経産省が適切に指導、監督するよう要望した。郷原氏は、真部氏は第三者委の見解を受け入れず、細部の反論にこだわっているとして「自分たちの組織を変えるつもりがなく、原発を運営する事業者として信頼は得られない」と述べた。〉・・・・

 「九電のトップが暴走している」と言っても、あくまでもやらせメール事件誘発の企業体質と事件収拾に於ける合理的対応不能と責任遂行能力欠如に限った企業統治の問題、企業のモラルの問題である。

 特に違法と言える犯罪を犯しているわけではない以上、捜査機関等の第三者が関与できない九電という一企業の問題であろう。 

 もしそれが違法と言える犯罪であったなら、原因究明や検証に関して所管省庁か国会が設置した第三者委員会、あるいは捜査機関が当たるはずだが、そうではないから九電自身の設置で済んでいる。

 小泉内閣時代の教育タウンミーティングでの謝礼を支払ったヤラセ質問でも、捜査機関が介入して捜査したわけではない。犯罪ではなく、モラルの問題であった。

 九電という一企業のモラルの問題、経営姿勢の問題でありながら、再稼働はストレステストに基づいた原発の安全性の確認と地元自治体の同意を厳格に條件とすべきを、その権限もないにも関わらず、「ガバナンス(企業統治)」を條件に付け加える越権行為を犯している。

 枝野がやろうとしていることは販売商品自体が産地偽装や表示違反、認可外成分・違法成分混入等で欠陥製品である場合の販売差し止めはできるが、社長に問題がある、あるいは企業モラルに問題があるからと言って商品の販売まで禁止しようとすることと同じことであろう。

 オリンパスの巨額の損失隠蔽行為が問題となっているが、だからと言ってオリンパス製品の販売を禁止できないのと同じである。

 九電のガバナンス(企業統治)の問題、企業モラルの問題は原発再稼働問題と厳格に切離して、ガバナンス(企業統治)の問題、企業モラルの問題としてあくまでも合理的な厳格性に立って対処すべきである。

 脱原発か原発推進か以前の問題として、合理的な厳格性を過った本分を越えた越権行為は往々にして独裁主義に陥りかねない。

 枝野経産相は前任の官房長官時代、東電が原発事故対応と賠償で一企業では負い切れない巨額資金を必要とすることから、その権限もないのに東電の取引金融機関に債権放棄を求めるという合理的な厳格性を欠いた越権行為を既に前科としている。

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TPP日米首脳会談野田発言に対する間違った解釈の放置はその解釈を事実足らしむる

2011-11-17 11:41:39 | Weblog

 11月12日(2011年)の野田・オバマ日米首脳会談での米側発表の野田首相発言が、言った、言わなかった、訂正を求めろ、訂正を求めないで一騒動となっている。Web記事から、その経緯を見てみる。

 《首相「TPP、すべての物品やサービスが対象」》YOMIURI ONLINE/2011年11月13日12時44分)
 
 米側発表――

 野田首相「TPP交渉への参加を視野に、各国との交渉を始めることを決めた」

 オバマ大統領「両国の貿易障壁を除去することは、日米の関係を深める歴史的な機会になる。

  すべてのTPP参加国は、協定の高い水準を満たす準備をする必要がある」

 記事はこれを、〈広い分野での貿易自由化を日本に求めた。〉発言だとしている。

 野田首相「貿易自由化交渉のテーブルにはすべての物品、サービスを載せる」(以上)

 いわば米側は日本側が関税撤廃の例外品目を特定せずにすべての品目を交渉のテーブルに載せる意思表示として野田発言を発表した。

 しかしこれは当然のことであろう。TPPは原則(あくまでも原則であって、鉄則ではないが)関税ゼロを目指しているのだから、「テーブルにはすべての物品、サービスを載せ」た上でそれぞれの国が国益を追求する観点から、ゼロの例外を求めて自国が望む関税率の設定獲得の駆引きに臨み、理想に限りなく近い関税率への着地を謀るという手順を踏むはずだ。

 【原則】「多くの場合に当てはまる基本的な規則や法則」(『大辞林』三省堂)
 【鉄則】「変えることができない固い規則・法則。厳しい決まり」(『大辞林』三省堂)

 この米側発表に外務省が異論を唱えた。《【APEC】日米首脳会談の米側発表に外務省ビックリ! その真相とは…》MSN産経/2011.11.13 17:57)
 
 外務省「そのような発言を首相が行った事実はない」
 
 記事は、〈米側の報道発表を否定する報道発表をして火消しに躍起となった。〉と書いている。

 外務省「(首相は)昨年11月に(菅内閣が)策定した『包括的経済連携に関する基本方針』に基づいて高いレベルでの経済連携を進めると述べただけである」

 〈外務省が米側に説明を求めたところ、米側は同基本方針に「センシティブ品目(自由化に慎重な品目)について配慮を行いつつ、すべての品目を自由化交渉対象とし…」と書かれていたことを踏まえ、報道発表したと説明。誤解を認めたという。〉・・・

 記事、〈とはいえ、この基本方針は菅直人政権が閣議決定したもので、民主党政権のあいまいな姿勢が今回のような誤解を招いたともいえそうだ。〉云々と批判。

 外務省はここで既に錯誤を犯しているが、どのような錯誤か説明する前に先ず首相官邸HPから、『包括的経済連携に関する基本方針』を見てみる。
 
〈2. 包括的経済連携強化に向けての具体的取組

 我が国を取り巻く国際的・地域的環境を踏まえ、我が国として主要な貿易相手国・地域との包括的経済連携強化のために以下のような具体的取組を行う。特に、政治的・経済的に重要で、我が国に特に大きな利益をもたらすEPAや広域経済連携については、センシティブ品目について配慮を行いつつ、すべての品目を自由化交渉対象とし、交渉を通じて、高いレベルの経済連携を目指す。〉・・・・ 

 この文言からすると、「センシティブ品目について配慮を行いつつ」はあくまでも「センシティブ品目」に対して「配慮」しますよという条件であって、「自由化交渉対象」とするか否かに関して「配慮」しますよという条件とはなっていない。

 いわば、「センシティブ品目について配慮」はするが、センシティブ品目であろうとなかろうと、「すべての品目を自由化交渉対象」とすると言っていると解釈しなければならない。

 あくまでも主たる要件は「すべての品目を自由化交渉対象」とするということである。

 TPPが原則関税ゼロの貿易自由化の経済連携協定を目指している以上、当然のこととして要求される措置であろう。
 
 しかも外務省が「(首相は)昨年11月に(菅内閣が)策定した『包括的経済連携に関する基本方針』に基づいて高いレベルでの経済連携を進めると述べた」と言っている以上、「すべての品目を自由化交渉対象」とするということを言ったことになる。

 このことについてはまたあとで述べる。

 このように見てくると、米側の発表が間違っているとは思えないし、間違っているわけではない米側発表に外務省がビックリしたり、あるいは米側に訂正を求めたり、野田首相が国会で弁解に務めることはないはずである。

 外務省の訂正要求を伝える記事がある。《すべての物品自由化? 日米会談、米発表資料に訂正要求》asahi.com/2011年11月14日13時33分)

 米側発表資料「大統領は、野田首相が『すべての物品及びサービスを貿易自由化交渉のテーブルに載せる』と発言したことを歓迎する」

 記事は、〈日本国内にはTPP参加で、主要農産物の関税撤廃や保険診療の崩壊への懸念が根強い。それだけに、首相がいきなり柔軟姿勢を示した印象を与える内容だった。〉と解説しているが、「柔軟姿勢」でも何でもない、当然の姿勢と見なければならないはずだ。日本のコメを「センシティブ品目」として関税撤廃の例外品目とすることを目指していたとしても、既に触れたように一旦はテーブルに載せて交渉の末に獲ち取らなければならない“例外”だからである。

 日本がテーブルに載せる前から、コメは例外にします、交渉相手国が、いいですよ、では自国は何々を例外としますと言って順次無条件に認められていくとしたら、交渉自体が収拾がつかなくなる。最初から交渉に参加しない方がいい。

 米側発表に〈驚いた日本側は「発表内容が事実と異なる」と米側に説明を要求し、米側と協議した上で日本側が訂正資料を発表。〉

 日本側発表訂正資料「日本側がこれまでに表明した基本方針や対外説明をふまえ、米側において解釈したものであり、会談でそのような発言はなかった」

 記事の結び。〈菅前政権が昨年11付きに閣議決定した「包括的経済連携に関する基本方針」では、「センシティブ品目(重要品目)について配慮を行いつつ、すべての品目を自由化交渉対象(とする)」としている。早くも米側が揺さぶりをかけた形だが、外務省は「深読みすべきではない」(幹部)と沈静化に躍起だ。〉――

 昨年の11月の菅内閣閣議決定の『包括的経済連携に関する基本方針』で、「すべての品目を自由化交渉対象とし、交渉を通じて、高いレベルの経済連携を目指す」としていながら、野田首相が発言したとする「貿易自由化交渉のテーブルにはすべての物品、サービスを載せる」は米側の「解釈」に過ぎないとしている。

 上記「MSN産経」記事を踏まえるなら、『包括的経済連携に関する基本方針』に書いてある文言を踏まえて米側が「解釈」を施し、報道発表したということになる。

 野田首相自身も11月15日午前の参院予算委員会で発言を否定している。山本一太自民党議員に対する答弁。《野田首相:TPP米政府発表は誤り 「一言も言ってない」》毎日jp/2011年11月15日 11時14分)

 野田首相「会談で一言も言っていない。方針(『包括的経済連携に関する基本方針』)の中に書かれていることを、米国なりの解釈で書いた。私の言ったことではなかったことを(米側が)認めた」

 山本一太議員「米政府に訂正を申し入れないのか」

 野田首相「米国も認めたことを共有すればそれでいい。意図的にやったとは思わない」

 藤村官房長官も訂正不必要の態度を示した。《官房長官 米に訂正求める必要なし》NHK NEWS WEB/2011年11月15日 12時56分)

 藤村官房長官「アメリカ側に説明を求めたところ、日本側がこれまでに表明した基本方針などを踏まえてアメリカ側で解釈したものであるということだ。以上を踏まえれば、アメリカ側の資料の該当箇所は、野田総理大臣の発言そのものではないので、訂正まで求める必要はないと考えており、双方でその確認はされている」

 米側が報道発表した、野田首相が発言したとする「貿易自由化交渉のテーブルにはすべての物品、サービスを載せる」は「野田総理大臣の発言そのものではない」と真っ向から否定し、ここでも『包括的経済連携に関する基本方針』を踏まえたアメリカ側の「解釈」に過ぎないとしている。

 アメリカ側も訂正の必要を認めなかった。但し日本側とは思惑を違えた不必要性の主張となっている。《米高官 首脳会談後の声明訂正せず》NHK NEWS WEB/2011年11月15日 12時10分)

 アーネスト大統領副報道官「声明はオバマ大統領と野田総理大臣の話し合いや、日本政府の公式な見解に基づいて作成したものだ。声明は今でも正確だと考えており、訂正する予定はない。

 アメリカ政府としては、TPPに対する野田総理大臣の関心を歓迎しており、今後は次のステップに向けて2国間協議を進めていく」

 アーネスト大統領副報道官は『包括的経済連携に関する基本方針』のみを踏まえたのではなく、野田首相自身の発言をも踏まえて作成した報道発表であり、間違ってはいないとしている。

 とすると、外務省の「そのような発言を首相が行った事実はない」の否定ばかりか、野田首相自身の「会談で一言も言っていない」の否定とも真っ向から対立することになる。

 だが、昨日(11月17日)の参議院予算委員会で野田首相は小野次郎みんなの党議員の追及に一転して発言を認めている。なぜ認めたのか勘繰るとすると、あくまでも勘繰りだが、誤魔化しにアメリカが同調しないとなると、ウソつきは野田首相だけとなって、アメリカ側に対しても都合が悪くなるからだろう。

 相手が同調することによってウソの誤魔化しも効くし、相手に対する都合の悪さを免れることができる。

 《【TPP交渉参加】 どうして起きた?日米発表食い違い 同床異夢浮き彫り》MSN産経/2011.11.16 22:39)

 野田首相「私が言ったのは『包括的経済連携に関する基本方針を踏まえて高いレベルの経済連携協定を目指す』ということだ」

 だから、アメリカ側は『包括的経済連携に関する基本方針』が明記している「すべての品目を自由化交渉対象とし、交渉を通じて、高いレベルの経済連携を目指す」の文言を野田首相の言葉とした。

 いわば野田首相は『包括的経済連携に関する基本方針』に則る(基準とする)としたことで、間接的にではあっても、限りなく直接的に近い形で、「貿易自由化交渉のテーブルにはすべての物品、サービスを載せる」と言ったことになる。

 小野次郎議員にしても当然の反応を示して、言ったこととしている。

 小野次郎議員「やっぱり言ってるのではないですか」

 米側が「センシティブ品目について配慮を行いつつ」の文言を付け加えなかったのは、既に触れたように、「センシティブ品目について」「配慮」「すべての品目を自由化交渉対象」とするか否かに関しての条件ではないと解釈したからだろう。

 記事は、〈首相の主張は(1)そもそも言っていない(2)「センシティブ品目について…」の部分が欠落している-の2点に集約される。米側が「センシティブ品目」も加えていれば問題はなかったとみられる。ではなぜ米側はこの部分を除外したのか。そこには日本の前向きな姿勢を明確にしTPPを推進したいとの思惑がちらつく。〉、さらに〈日米間の食い違いは、コメなどの例外扱いを認めさせようとする首相と、早急に成果を求めようとするオバマ大統領が、同床異夢にあることを浮き彫りにした。〉と解説しているが、コメなどを例外扱いとすることを認めさせるにしても、一旦は交渉のテーブルに載せた上での、つまり「貿易自由化交渉のテーブルにはすべての物品、サービスを載せ」た上での話し合いの決着を条件とするはずだから、野田首相の認識不足としか言いようがない。

 野田首相がもしあくまでも米側の解釈であって、自身は言っていないと言い張るなら、いわば米側の解釈は間違いだと拘るなら、間違った解釈の放置はその解釈を事実足らしめ、事実として独り歩きさせる危険性を往々にして抱えることになるから、だから国会で厳しい追及を受けることになっているのだから、強硬に訂正を求めて正しい解釈に変え、その正しい解釈を以って真正な事実だとする一国の首相としての矜持を示すべきではないだろうか。

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谷垣自民党総裁の国家の全体を見ない選挙区「我田引水論」に見る認識不足

2011-11-16 10:45:54 | Weblog

 谷垣自民党総裁が11月14日、党本部で挨拶し、東日本大震災からの復興に向けた民主党議員の取り組み姿勢を批判したという。《我田引水足らぬ=被災地の民主議員を批判-谷垣氏》時事ドットコム/2011/11/14-20:47)

 谷垣総裁「今の政権はふるさとへの愛情が足りない。大災害が起きたとき、被災地選出の議員が財務省と掛け合って予算を付けろと言って大暴れしたって、誰も我田引水なんて言わない。

 私は(地元の)京都に高速道路を通そう、河川を改修しようとやってきた。我田引水せよとは言わないが、今の政権はふるさとをよくするのが責任なんだという認識が甘い。このままいったら日本が駄目になる。(民主党を)早く追い込んで取って代わらないといけない」

 地元利益誘導のススメとなっている。しかも菅前首相が自身の無能を無視して大震災復興を理由に延命を謀ったのと同じく、大震災復興を口実に地元利益誘導を正当化しようとしている。 

 自民党時代の例からすると、「大災害が起きたとき、被災地選出の議員が財務省と掛け合って予算を付けろと言って大暴れ」するのが大物政治家、有力国会議員だったら、どうなるだろうか。

 大物政治家、有力国会議員の「大暴れ」は必要性に的確に裏打ちされていない「大暴れ」のケースが相場となっている。もし必要性に的確に裏打ちされた予算請求なら、「大暴れ」の必要はなくなる。

 また、「大暴れ」はいくら大震災からの復興を名目にしようと、有力議員と非有力議員の地元との間に「我田引水」の地域間格差が生じる危険性大と言える。なぜなら、増税で賄おうと何しようと、復興予算には限りがあり、必要性の裏打ちもなく誰かが他よりたくさん分捕れば、他の誰かが少ない予算で我慢しなければならなくなるからだ。

 民主党政権の今の時代でも、「大暴れ」が演じられた場合、こういった地域間格差が生じない保証はどこにもない。

 かつての自民党時代、有力議員が公共工事で地元利益誘導を謀り、非採算事業化した例が多々ある。彼らにしても「ふるさとをよくする」の美名を利用した地元利益誘導であった。

 自民党の道路族のドン、古賀誠などは格好の例に上げることができる。古賀の選挙区に建設された有明海沿岸道路は「誠ロード」と呼び習わされ、朧大橋は「誠橋」として利益誘導の象徴とされているが、費用対効果の点でどちらも非採算事業とされている。

 いわば交通需要推計や費用便益の過大な算出のもと利益を度外視して、古賀の政治的影響力誇示のみを目的に建設されたということなのだろう。

 自らの政治的影響力を地元に誇示し、自民党有力政治家としての自らの勲章の対象とした。

 《2.高速道路の利用状況》なるPDF記事に次のような記述がある。

 〈我が国の高速道路の利用率13%(2003年)は、国土の広大な米国(31%―2002年)、高速道路ネットワークの充実したドイツ(30%―1998年)はおろか、英国(19%―2003年)やフランス(21%―2001年)に比べてもかなり低い水準である。

また、高速道路の利用率を経年的に見ると、高速道路の整備延長は伸びているが、それに対して高速道路の利用率は横ばいとなっている。

 その結果、わが国では、高速道路に平行した一般道路の交通事故や渋滞、環境悪化の発生が大きな社会問題となっている。〉――

 高額な通行料の問題もあるに違いない。だが、利用の少ない高速道路の建設というのは建設という名に反する逆説そのものである。公共性を持たせた建設は何らかの社会的生産に多大な貢献がなければ意味を失う。

 ましてや赤字を生み出していたなら、その建設に賭けた政策自体の否定となる。

 もし古賀誠やその他の族議員が国家財政や社会の発展具合、国民の生活、諸制度の社会的適合性等々をすべて引っくるめて全体を見、全体を把握していたなら、バランスの良い財政支出を心がけることとなり、無闇に赤字国債を垂れ流すことはしなかったろう。

 例え必要不可欠とする大震災の復興であろうと、先ず長期的展望に立って被災地全体を見て、その全体的展望の中から被災地間のバランス、各復興政策毎のバランスと優先順位、復興予算支出に於ける優先順位と各支出間の全体的バランス等を勘案して、復興事業は公平にスピーディに行われなければならない。

 当たり前のことだが、国家の運営に於いても同じであるように全体が個々を決定するという構造を取るということである。 

 このことは中央と被災自治体との調整によって行われる。「ふるさとをよくする」ことが政権の責任だとしても、同じ手続を踏む調整でなければならないはずだ。その調整がうまくいっていないということなら、政治の資質の問題となる。より多くは菅政権の問題であったし、現在では野田政権の問題となる。「予算を付けろと言って大暴れ」するとか「我田引水」とかの問題ではないし、かつての地元利益誘導をゾンビの如くに蘇らせてはならないはずだ。

 多分、民主党政権の復興の遅れに苛立っていたのかもしれないが、例えそうであっても、谷垣自民党総裁の「我田引水」論は全体が個々を決定するという構造からすると、先ず全体を見て個々の調整を考えなければならないはずだが、そのような手順を踏まない、全体的な認識能力を欠いた発言となっている。

 全体を見る認識能力を備えることによって全体に立つことができ、個々の問題により対応可能となるはずだ。

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野田首相のTPP参加によって「国益を最大限に実現をする」は説明責任不足と認識能力欠如の論理矛盾

2011-11-15 09:50:33 | Weblog

 ――野田首相が言っている「美しい農村」は虚構の世界――

 野田首相が東日本大震災の発災から8カ月目の11月11日(2011年)夜記者会見を開き、「TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入る」ことを明らかにした。

 野田首相「私としては、明日から参加するホノルルAPEC首脳会合において、TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入ることといたしました。もとより、TPPについては、大きなメリットとともに、数多くの懸念が指摘されていることは十二分に認識をしております。

 私は日本という国を心から愛しています。母の実家は農家で、母の背中の籠に揺られながら、のどかな農村で幼い日々を過ごした光景と土の匂いが、物心がつくかつかないかという頃の私の記憶の原点にあります。

 世界に誇る日本の医療制度、日本の伝統文化、美しい農村、そうしたものは断固として守り抜き、分厚い中間層によって支えられる、安定した社会の再構築を実現をする決意であります。同時に、貿易立国として、今日までの繁栄を築き上げてきた我が国が、現在の豊かさを次世代に引き継ぎ、活力ある社会を発展させていくためには、アジア太平洋地域の成長力を取り入れていかなければなりません。このような観点から、関係各国との協議を開始し、各国が我が国に求めるものについて更なる情報収集に努め、十分な国民的な議論を経た上で、あくまで国益の視点に立って、TPPについての結論を得ていくこととしたいと思います」(首相官邸HP

 TPP参加によってメリットとなる分野もあれば、デメリットを被るケースも生じるはずである。メリットばかりのいいこと尽くめはあり得ない。日本にとってすべてがメリットばかりとなるいいこと尽くめは関係国にとって悪いこと尽くめとなりかねない一人勝ちの不公平はどの国も許すまい。

 当然、デメリットの可能性を伝える責任があるはずだが、それを「大きなメリットとともに、数多くの懸念が指摘されている」とデメリットを「懸念」という言葉に置き換えて曖昧化し、誤魔化す不正直な説明責任となっている。
 
 そして、「世界に誇る日本の医療制度、日本の伝統文化、美しい農村、そうしたものは断固として守り抜き、分厚い中間層によって支えられる、安定した社会の再構築を実現をする」ことを自らの政治責任だと宣言した。

 この宣言は記者との質疑応答で述べた次の発言と同じ趣旨を取る。

 野田首相「これは、協議に入る際には、守るべきものは守り抜き、そして、勝ち取るものは勝ち取るべく、ということの、まさに国益を最大限に実現をするために全力を尽くす、ということが基本であるというふうに思います」

 「守るべきものは守り抜き、そして、勝ち取るものは勝ち取る」の対象は「世界に誇る日本の医療制度」であり、「日本の伝統文化」であり、「美しい農村」等々であって、それらを「断固として守り抜」くということは「国益を最大限に実現をする」ことだと言っている。

 だが、既に触れたようにTPP参加はメリットと同時にデメリットをも伴う以上、“国益の最大限の実現”は相対化される。

 いわばこの“最大限”は“相対的最大限”であって、決して“絶対的最大限”ではない。国益全体で見た場合、差引き計算で相対的にプラスの国益を獲得できるかどうかということであるはずである。

 それを“絶対的最大限”の国益の実現が可能なことのように言うことも、デメリットを「懸念」という言葉に置き換えるのと同じ不正直な説明責任に当たるばかりか、論理矛盾そのものを示している。

 交渉に参加してみないことには国益のどのような差引き計算を強いられるか、あるいは関係国の国益とどのような折り合いをつけなければならないか未知数と言えるが、少なくとも実現するとしている国益の最大限が無条件の“最大限”ではなく、“相対的最大限”であることを国民に周知させる説明責任は前以て果たさなければならないはずだ。

 このことが新聞やテレビ局の世論調査でTPP交渉に関して議論不足や説明不足の指摘が高いパーセンテージとなって現れることになっているのだろう。

 野田首相は記者会見でほぼ通例となっている情緒的な追想をエピソードとして交え、それが他人のエピソーである場合は、そのエピソードを大事にしている自身の人柄をウリとし、自身のエピソードである場合は、文学的体験に高めている自身の人柄のウリとし、好感度アップを狙う話術を用いているが、この記者会見でも例の如くに利用している。

 「私は日本という国を心から愛しています。母の実家は農家で、母の背中の籠に揺られながら、のどかな農村で幼い日々を過ごした光景と土の匂いが、物心がつくかつかないかという頃の私の記憶の原点にあります」――

 このことの言及から、「守るべきものは守り抜き、そして、勝ち取るものは勝ち取る」の対象とする農業に関して、「美しい農村」という言葉を使ったのだろうが、「美しい農村」だとしている「母の背中の籠に揺られながら」の「のどかな農村」は現実には果たして存在したのだろうか。

 個人的には存在したかもしれないが、そうであっても既に過去に終幕を迎えた農村であって、現実の農村は厳しいまでにガラリと姿を変えていると認識しなければならないはずだ。

 実際の農村は終戦後以降も特に裏日本側の農村は貧しく、娘を身売りして生活の足しとし、高度経済成長期に入ってからの1960年代から1970年代にしても農民は現金収入のための出稼ぎの時代を生きてきたこと、そして現在は過疎化、限界集落、高齢化、後継者不足、都市と農村の格差と農村内格差 耕作放棄地等々からすると、「美しい農村」は虚構の世界でしかない。

 このようなマイナスイメージの風景に彩られた農村を「美しい農村」だとして、「断固として守り抜」くことを以てして国益の最大限の実現だとしたなら、存在しないものを守るということになって認識不足も認識不足であるばかりか、やはり論理矛盾そのもの提示となる。

 例え野田首相が「記憶の原点」としている「美しい農村」を断固として取り戻そうと意志した発言だと百歩譲って見做したとしても、TPPに参加しても参加しなくても、「美しい農村」風景とは程遠い厳しい現実が正体であり続けることに変わりはない。

 TPPに参加した場合、一層の厳しい現実が待ち構えることとなり、「美しい農村」などと言っていられないだろう。

 記者会見の発言で美しい言葉を並べ立てて、それを以て説明責任を果たしたとは言えない。美しい言葉が説明責任に何ら役立っていないことは世論調査が何よりの証明となっている。

 現時点に於ける現実の姿、将来予想される現実の姿をゴマカシなく的確に摘出することによって論理矛盾を避けることが可能となり、説明責任を限りなく果たし得る。

 この過程を踏む姿勢の提示こそが現実の矛盾、不備の的確な是正がより可能となる。国益の侵害を可能な限り抑制し得る。ゴマカシは逆に果実を遠ざけることになる。

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細野環境相が言う「贖罪」とはパフォーマンスでしかない除染ボランティアをすることではない

2011-11-14 09:35:08 | Weblog

 細野環境相が13日午前(2011年11月)、福島県伊達市でボランティア約60人と一緒になって除染ボランティアを行ったという。内容は民家の庭先表土削除作業。

 細野環境相「地区のみなさんに迷惑、心配かけているので贖罪(しょくざい)の意識も込めて作業した」(asahi.com

 果たして細野環境相の“贖罪”は除染ボランティアすることなのだろうか。

 政府自体の“贖罪”に関して言うと、政府の復旧・復興対策に遅れを見せている以上、政府が贖罪とすべきことは1日でも早い実効性を伴った復旧・復興の推進であり、その完了であるはずである。

 環境省の関わりについては解決を必要とする懸案は先ず第一に震災によって生じた瓦礫の一刻も早いスムーズな処理であり、除染で生じる汚染土の処理であるはずである。

 汚染土の処理に関しては各市町村に設けた仮置き場に3年以内に搬入後、福島県内に設ける1カ所の中間貯蔵施設に移動させ、30年以内に県外で最終処分するとしているが、具体的な方策は決まっていないという。

 東日本大震災で発生した大量のがれきを被災地以外で処理する広域処理について見てみると、受け入れを表明している自治体はあるものの、現在東北以外で唯一受け入れて実際に処理を進めているのは東京都のみである。

 《クローズアップ2011:大震災8カ月 がれき、行き場なし 「放射能」誤解強く》毎日jp/2011年11月11日)が伝えている約616万トンの瓦礫が発生した宮城県石巻市の例から受け入れの進捗状況を見てみる。

●瓦礫発生量
  岩手県全体で   約476万トン
  福島県全体で   約228万トン
  宮城県石巻市のみで約616万トン
●被災地内で処理しきれない膨大な瓦礫の広域処理受け入れ先が難航。
●瓦礫は「1次仮置き場」に集積。その後大規模な「2次仮置き場」に運び、粉砕・焼却処理の方針。
●石巻市の2次仮置き場での瓦礫処理
 
 約685万トン(石巻市約616万トン+東松島市&女川町分)のうち391万トン
 残る294万トンは広域処理
●搬出先選定は難航し、東京都以外で受け入れを決めた自治体はない。

 〈県外搬出のめどが立たないまま県は10月、放射線量の検査を始めた。石巻市の2次仮置き場に集積されたがれきの山から20カ所を選び、木材やプラスチック、繊維などに選別して検査。今月中には結果を公表する。〉と記事。

 放射線量検査が10月からの開始となったことと搬出先選定難航について。

 県議会「放射線量の検査をしないと、県外搬出のめどが立つはずはない」

 県震災廃棄物対策課担当者「国から検査に関するガイドラインが示されるのが遅かった。県だけで判断できる問題ではないので、国が示す調査方法を踏まえて判断したかった」

 「国が示す調査方法を踏まえ」なければ、先に進まないということなら、国の遅れをやはり問題視しなければならない。

●環境省の調査。現時点で受け入れに前向きな市町村と組合――全国で54市町村・一部事務組合。
●岩手県の4市町村から受け入れを打診されている秋田県の場合。
 6月時点――6市5事務組合と民間処理業者13社が受け入れ可能としていた。
 牛肉や稲わらなどの放射能汚染が顕在化以後、25市町村と7事務組合の全てが難色を示す。

 秋田県担当者「隣県として支援したいが、県民の不安を取り除かないと話が進まない」

●7月に首都圏から秋田県大館市と小坂町の処理施設へ運ばれた焼却灰に国の処分基準(1キロ当たり8000ベクレル)を上回る放射性セシウムが含まれていたことが判明、住民が態度を硬化、住民団体が結成され、反対活動が続いている。

 放射能汚染への懸念が受け入れのネックとなっていることが分かる。

●このネック解消のために環境省は瓦礫〈処分基準設定の根拠や、搬出入時の放射線量測定方法などを示したガイドラインを作成。〉、〈ガイドラインを簡潔にしたQ&Aや説明資料を都道府県に配〉布。
 
 環境省幹部「住民へ説明してもらうには、自治体の担当者に分かってもらわないといけない」

 但し、〈放射能汚染への誤解は根強〉く、〈同省の担当課には「放射性物質を拡散させるようなことを国が進めるとは何事か」といった苦情の電話がかかり、応対で業務がストップする日もあったという。〉と放射能に対する拒絶反応の、なかなか溶けない頑固さを伝えている。

 環境省幹部「社会の空気を変えていかなくては復興が進まないが、丁寧に説明する以外に方法がない」

 とすれば、環境省のトップとして細野環境相が自らが先頭に立って為すべきことは除染のボランティアよりも、瓦礫の広域処理を一刻も早く進めるべく「社会の空気」を変えることに鋭意務めることであろう。

 環境省任せの瓦礫処分基準設定根拠や搬出入時の放射線量測定方法等のガイドライン作成やガイドラインを簡潔にしたQ&Aや説明資料の都道府県配布で住民の放射能アレルギーが解消するならいい。現状に於いてさしたる効果を見ていない以上、各種風評被害の排除と共に瓦礫処理引き受け要請の全国自治体行脚を行うことを自らの責任、自らの“贖罪”とすべきではないだろうか。

 北海道に於ける広域処理受け入れ状況を見てみる。《北海道11団体で受け入れ可能 被災地のがれき》MSN産経/2011.11.11 22:39)

●高橋はるみ北海道知事が11月11日の道議会決算特別委員会で道内市町村と事務組合を含めて11団体が条
 件付きで受け入れ可能と回答。
●4月の調査では49団体が可能としていた。
●受け入れ可能とした11団体は放射性物質の安全性確認等が条件。
●個別の市町村名は非公表。

 〈環境省などの要請に基づき実際に受け入れる場合、道は現地に調査員を派遣して放射性物質をチェックする方針。受け入れ後、焼却灰から基準値を超える放射性物質が検出されれば、灰を搬出元に返還することも検討〉・・・

 「個別の市町村名は非公表」が放射能アレルギー状況にある住民の反発を恐れて瓦礫処理の広域受け入れに自治体が如何に及び腰になっているかを何よりも物語っている。国の要請であるから止むを得ないの姿勢なのだろう。「何も好き好んで引き受けるわけではない」の内心の声が聞こえそうだ。

 細野環境相が瓦礫の広域処理受け入れ先難航の現実から読み取るべき決定事項は既に触れたようにやはり除染ボランティアなどではなく、環境省の広報任せ・通達任せにするのではなく、また自治体の住民の反発を恐れた及び腰任せにするのではなく、環境相自らが前面に立つ形で全国の自治体を回り、頭を下げて住民に前以て国の責任で放射能除染を確実に行うゆえに放射能をばらまくようなことはないと説明してまわる全国行脚以外に他にあるまい。

 今早急に何が必要されているかの意味に於いて細野環境相のいっときの除染ボランティアはパフォーマンスに過ぎない。

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菅前首相の「政権発足半年間は仮免期間」が許されないことはタイのインラック首相が証明となる

2011-11-13 10:11:22 | Weblog

 ――菅前首相の震災対応と重なるインラック・タイ首相の洪水対応――

 タイは5月から10月頃までが雨季だそうだが、雨季の初め頃から始まった、タイ政府が「50年に1度」と宣言した例年の約1.5倍を記録する降雨が今回の洪水騒動をもたらした。

 要するに防ぎようがなかった想定外の自然災害だった。インラック・タイ首相も「他国も防ぎようのない自然災害」(日本経済新聞電子版)だと想定外に位置づけている。

 だが、防ぎようがなく襲いつつある進行過程での対応、襲ったあとの後処理過程での対応はもはや想定外とのみ片付けることは許されないはずだ。想定外からどのような被害へと拡大していくか視野に入れることのできる想定内の過程へと移行するはずだからだ。

 いわば進行過程以降の各対応は政治の責任となる。被害拡大を想定して、その拡大を最小限に抑える責任、経済活動及び国民生活を復旧・維持する責任を可能な限り果たさなければならない。

 だが、タイのインラック女性首相は各対応に於ける責任を果たしていないと批判を受けている。野党民主党からも批判を受け、バンコク都知事及び副知事からも批判され、国民からも批判を受けている。

 スクムパン・バンコク都知事の場合は、〈早くからバンコクの浸水を警告したが、政府は「危険はない」と楽観的な予想を繰り返した。〉と「毎日jp」記事が伝えている。

 いわば当初から想定外ではなく、想定範囲内としていた。多分、異常気象時代に突入していること、世界各地で豪雨と洪水に見舞われていたことも誘因となった想定であったのだろう。

 以上のことからすると、例え今年の7月8日に首相に就任、総選挙でタイ貢献党の首相候補となるまで政治経験はなく、タイ中部を中心に洪水が発生した10月初めまでたったの約3ヶ月の首相経験であったとしても、経験不足だからと許されるわけではなく、当然責任を免れる得ることではないこと、免罪され得る責任ではないことを証明している。

 《タイ前首相、洪水対応「首相の指導力欠如」》日本経済新聞電子版/2011/11/9 0:54)

 アピシット最大野党・民主党党首(前首相)「首相が指導力を発揮せず、指揮命令系統の混乱を招いた」

 そして、〈9日に再開する国会では、新政権が公約に掲げたバラマキ政策を見直し、復興予算に充てるよう要求する考えを示した。〉という。

 野党民主党アピシット前首相が提示した「首相が指導力を発揮せず、指揮命令系統の混乱を招いた」という批判は東日本大震災の復旧・復興に当たった菅前首相の対応にそっくり重なる。

 また、新政権が公約に掲げたバラマキ政策を見直し、復興予算に充てるよう要求する考えであるという点に関して言うと、民主党政権が置かれていた状況にそのまま当てはまる。

 菅前首相は2010年6月8日に就任、半年経過したその年の12月12日、東京都内開催の支援者の会合で次のように発言している。

 菅首相「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間で、いろいろなことに配慮しなければならず、自分のカラーを出せなかった。これからは本免許を取得し、自分らしさをもっと出し、やりたいことをやっていきたい」

 つまり菅前首相は就任半年間は試験運転の時期だから、あるいは助走期間だから、真剣勝負までいっていなくても許されるとの認識を示した。

 この認識が正当性を持つとしたら、インラック首相も「他国も防ぎようのない自然災害」を持ち出さなくても、洪水発生後の各過程での対応に関してまでも経験不足を理由に責任を免れることが可能となる。自己免罪が効くことになる。

 だが、菅首相は政権発足半年経過後も、本免許取得に至らなかった。特に政権発足9ヶ月後に発生した東日本大震災は「他国も防ぎようのない自然災害」だったが、自然災害発生以後の各分野の復旧・復興対応に自衛隊10万人派遣以外に、「指導力を発揮せず、指揮命令系統の混乱を招」き、遅れや矛盾を生じせしめた。

 いわば菅前首相の「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間」云々の発言自体が有効性を備えていなかったし、許される言葉ではないことをタイのインラック首相がはからずも教えてしまった。

 菅前首相はインラック首相が首相就任まで政治経験がなかったことと違って、野党議員としての長い政治経験、そして自社さ連立政権での与党議員として、閣僚としての政治経験を積んできている。野党議員であったとしても、与党との間の真剣勝負に事欠かなかったはずだ。よしんば政治経験が浅くとも、一国の首相に就任したと同時に真剣勝負で国政の場に臨まなければならなかった。それがトップリーダーとして負わなければならない責任であろう。

 だが、トップリーダーとして自覚していなければならない責任を忘れて、「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間」だと、半年間は真剣勝負でなくてもいいと自分から認めてしまった。

 自分自身の責任に対するこの甘え、一国の首相として許されるはずもない自分勝手なこの自己免罪が東日本大震災に於ける真剣勝負が求められる危機管理対応にも影響して、真剣勝負としての力を発揮できず遅れや不備を招くことになった要因であろう。

 いや、一国の首相として真剣勝負するだけの力・素質を元々から備えていなかったということに違いない。

 国家の危機に臨んだ場合の菅前首相とインラック・タイ首相の重複した姿が以上のことを考えさせた。

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菅前首相の「政権発足半年間は仮免期間」が許されないことはタイのインラック首相が証明となる

2011-11-13 10:11:22 | Weblog

 ――菅前首相の震災対応と重なるインラック・タイ首相の洪水対応――

 タイは5月から10月頃までが雨季だそうだが、雨季の初め頃から始まった、タイ政府が「50年に1度」と宣言した例年の約1.5倍を記録する降雨が今回の洪水騒動をもたらした。

 要するに防ぎようがなかった想定外の自然災害だった。インラック・タイ首相も「他国も防ぎようのない自然災害」(日本経済新聞電子版)だと想定外に位置づけている。

 だが、防ぎようがなく襲いつつある進行過程での対応、襲ったあとの後処理過程での対応はもはや想定外とのみ片付けることは許されないはずだ。想定外からどのような被害へと拡大していくか視野に入れることのできる想定内の過程へと移行するはずだからだ。

 いわば進行過程以降の各対応は政治の責任となる。被害拡大を想定して、その拡大を最小限に抑える責任、経済活動及び国民生活を復旧・維持する責任を可能な限り果たさなければならない。

 だが、タイのインラック女性首相は各対応に於ける責任を果たしていないと批判を受けている。野党民主党からも批判を受け、バンコク都知事及び副知事からも批判され、国民からも批判を受けている。

 スクムパン・バンコク都知事の場合は、〈早くからバンコクの浸水を警告したが、政府は「危険はない」と楽観的な予想を繰り返した。〉と「毎日jp」記事が伝えている。

 いわば当初から想定外ではなく、想定範囲内としていた。多分、異常気象時代に突入していること、世界各地で豪雨と洪水に見舞われていたことも誘因となった想定であったのだろう。

 以上のことからすると、例え今年の7月8日に首相に就任、総選挙でタイ貢献党の首相候補となるまで政治経験はなく、タイ中部を中心に洪水が発生した10月初めまでたったの約3ヶ月の首相経験であったとしても、経験不足だからと許されるわけではなく、当然責任を免れる得ることではないこと、免罪され得る責任ではないことを証明している。

 《タイ前首相、洪水対応「首相の指導力欠如」》日本経済新聞電子版/2011/11/9 0:54)

 アピシット最大野党・民主党党首(前首相)「首相が指導力を発揮せず、指揮命令系統の混乱を招いた」

 そして、〈9日に再開する国会では、新政権が公約に掲げたバラマキ政策を見直し、復興予算に充てるよう要求する考えを示した。〉という。

 野党民主党アピシット前首相が提示した「首相が指導力を発揮せず、指揮命令系統の混乱を招いた」という批判は東日本大震災の復旧・復興に当たった菅前首相の対応にそっくり重なる。

 また、新政権が公約に掲げたバラマキ政策を見直し、復興予算に充てるよう要求する考えであるという点に関して言うと、民主党政権が置かれていた状況にそのまま当てはまる。

 菅前首相は2010年6月8日に就任、半年経過したその年の12月12日、東京都内開催の支援者の会合で次のように発言している。

 菅首相「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間で、いろいろなことに配慮しなければならず、自分のカラーを出せなかった。これからは本免許を取得し、自分らしさをもっと出し、やりたいことをやっていきたい」

 つまり菅前首相は就任半年間は試験運転の時期だから、あるいは助走期間だから、真剣勝負までいっていなくても許されるとの認識を示した。

 この認識が正当性を持つとしたら、インラック首相も「他国も防ぎようのない自然災害」を持ち出さなくても、洪水発生後の各過程での対応に関してまでも経験不足を理由に責任を免れることが可能となる。自己免罪が効くことになる。

 だが、菅首相は政権発足半年経過後も、本免許取得に至らなかった。特に政権発足9ヶ月後に発生した東日本大震災は「他国も防ぎようのない自然災害」だったが、自然災害発生以後の各分野の復旧・復興対応に自衛隊10万人派遣以外に、「指導力を発揮せず、指揮命令系統の混乱を招」き、遅れや矛盾を生じせしめた。

 いわば菅前首相の「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間」云々の発言自体が有効性を備えていなかったし、許される言葉ではないことをタイのインラック首相がはからずも教えてしまった。

 菅前首相はインラック首相が首相就任まで政治経験がなかったことと違って、野党議員としての長い政治経験、そして自社さ連立政権での与党議員として、閣僚としての政治経験を積んできている。野党議員であったとしても、与党との間の真剣勝負に事欠かなかったはずだ。よしんば政治経験が浅くとも、一国の首相に就任したと同時に真剣勝負で国政の場に臨まなければならなかった。それがトップリーダーとして負わなければならない責任であろう。

 だが、トップリーダーとして自覚していなければならない責任を忘れて、「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間」だと、半年間は真剣勝負でなくてもいいと自分から認めてしまった。

 自分自身の責任に対するこの甘えが、一国の首相として許されるはずもない自分勝手なこの自己免罪が東日本大震災に於ける真剣勝負が求められる危機管理対応にも影響して、真剣勝負としての力を発揮できず遅れや不備を招くことになった要因であろう。

 いや、一国の首相として真剣勝負するだけの力・素質を元々から備えていなかったということに違いない。

 国家の危機に際した場合の菅前首相とインラック・タイ首相の重複した姿が以上のことを考えさせた。

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野田首相の対ダライ・ラマ行動基準に見る対中覚悟は尖閣諸島中国人船長逮捕と五十歩百歩

2011-11-12 11:30:27 | Weblog

 チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世が高野山大学(和歌山県高野町)等の招きで10月29日(2011年)に来日した。10月31日午後、高野山大で特別法話。11月4日、被災地を訪問、復興を祈願。11月7日午前、民主、自民両党の国会議員十数人と都内のホテルで会談。

 主なところで、民主党は長島昭久首相補佐官、防衛省の渡辺周副大臣。自民党は安倍元首相。ダライ・ラマ14世が民主党政権の政府高官と会談するのはは初めてだそうだ。

 会談出席者のうち、政府高官ということだからだろう、野田政権からちょっとしたイチャモンがついたという。《ダライ・ラマと会談して口頭注意された長島補佐官 外務省は「条件はない」と説明》MSN産経/2011.11.8 22:03)

 藤村修官房長官が11月8日の記者会見でダライ・ラマ14世と会談した長島昭久首相補佐官を口頭で注意したことを明らかしたという。

 藤村官房長官「(国内滞在中は)政治的行動や政府関係者との接触はしないのが通例だ。政府の一員なので、これまでの立場とは違う」

 ダライ・ラマ14世の日本に於ける活動基準がそうなっているというわけである。政府の一員となった以上、軽々しくダライ・ラマとの会談の席に加わらないで貰いたいと言ったことになる。

 これは誰の目にも明らかなように対中配慮なのは言うまでもない。当然、長島氏は首相補佐官でもあることから、一番困るのは野田首相ということになる。いわば野田首相から出た口頭注意と見ることができる。

 対して長島首相補佐官。

 長島首相補佐官「一議員として会談した」

 首相補佐官として会談したわけではないとの、政治家がよく使う使い分けで弁解したが、記事は、〈藤村氏からの注意を「分かりました」と受け入れたという。〉と書いている。

 但し外務省の扱いは野田内閣の扱いと違っていると記事は伝えている。

 外務省&ダライ・ラマ法王日本代表部事務所「ビザ発給に当たり、そのような条件は付いていない」

 どう行動しようと、ダライ・ラマ14世の自由決定にかかっているとしている。

 これが事実とすると、野田内閣はビザ発給でダライ・ラマ14世側にもいい顔をし、中国に対してもいい顔をしようとしたことになる。

 この日本に於けるダライ・ラマ14世活動基準とこの基準に対応させた日本側の活動基準(ダライ・ラマ14世は日本では政治的行動を行わないことと政府関係者はダライ・ラマ14世に接触しないという基準)をアメリカに於けるそれぞれの活動基準と比較してみみる。

 オバマ米大統領は2011年7月15日、中国側の「断固反対」の制止を無視して、ワシントン滞在中のダライ・ラマ14世と2010年2月に続いて2回目の会談を行なっている。

 ホワイトハウスの発表「チベット固有の宗教、文化、言語の保護、チベット人の人権保護への強い支持を強調するものだ」(asahi.com

 一方オバマ大統領は、〈昨年2月以来開かれていない中国政府とダライ・ラマ側の対話への「揺るぎない支持」を表明するとしている。〉と記事は解説。

 アメリカ側のこの対応は中国のチベットに対する思想・信教の自由、表現の自由等の基本的人権の扱いに危惧を抱いていることの現れであり、会談をセレモニーとして中国に警告を発したということであろう。

 いわばアメリカに於けるダライ・ラマ14世の活動基準とアメリカの対ダライ・ラマ活動基準は基本的人権を政治的な核として対応し合っていると言える。

 勿論、中国は会談後も抗議の声明を出している。オバマ大統領とダライ・ラマ14世会談から1週間後の7月22日午前のクリントン米国務長官と中国の楊外相とのンドネシア・バリ島での南シナ海の領有権問題などを巡っての会談。楊外相が中国側の「厳正なる立場」(中国中央テレビ)を伝え、抗議した。(asahi.com

 〈オバマ米大統領がチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世と会談し、中国が反発した後だったが、両氏は記者団の前で握手し、談笑するなど友好ムードを強調した。〉(同asahi.com

 日本の首相はダライ・ラマに会おうともしないし、例え会ったとしても、中国の抗議の手前、一週間後に外相会談をセットするなどといった相手を刺激することはしないだろう。

 この姿はチベットが中国によって人権抑圧を受けていることに無神経なのか、あるいは中国の反発を避けるために触らぬ神に祟りなしでチベットの人権抑圧問題にシカトを決め込んでいるかどちらかであろう。

 もしこの逆でチベットの人権抑圧問題に極めて敏感であるなら、オバマ大統領のように野田首相はダライ・ラマ14世と会談し、会談をセレモニーとしてダライ・ラマの立場を支持して、中国に対して間接的に抗議の意思表示を示すはずだ。

 だが、そんな気配はないどころか、政府関係者はダライ・ラマ14世に接触しないことを日本側の対ダライ・ラマ行動基準とする対中配慮一辺倒となっている。

 ここにあるのは日本を中国の下に置き、中国を日本の上に置く卑屈な態度である。中国に対して自立(自律)できていない姿だと言い換えることもできる。

 自立性(自律性)を基盤とした対等な意識にもし立っていたなら、中国の民主主義や人権に関わる不足は看過できないはずだ。民主主義や人権、あるいは軍事面に於いても相互に対等な土俵に立つことによって警戒心を解き放ち、真に友好な関係を築くことができるからだ。

 相互に対等な土俵に立つには相手の不足を改めることを求めなければならない。日本は中国の国防予算の透明性を求めるが、人権に関しては面と向かってその改善を求めることはしない。多くが沈黙をして見て見ぬ振りをする。

 中国当局に拘束された人権家劉暁波氏の釈放を先進国の首脳の殆どが求めたが、我が日本の菅前首相は中国の反発を恐れて「釈放されることが望ましい」と願望を述べただけで誤魔化した。

 アメリカはチベット人民や自国民に人権抑圧を働く中国とわだかまりの一切ない友好関係を築いているわけではあるまい。軍事力に関してだけでなく、人権問題に関しても常に警戒心を抱いている。

 野田首相は昨日(2011年11月11日)記者会見を開いて、TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入ることにしたと発表している。野田首相のTPP参加に向けた意志は単に自由貿易の活動範囲を拡大して経済的な国益を積み増すことだけではなく、最終的には中国をも引き込んで日米、その他で中国を抱き込む形とする対中安全保障を最終目的としていると伝えている記事もある。

 《「TPPで決断 野田総理の勝算」》NHK NEWS WEB/2011年11月11日) 

 野田総理に近い議員(TPPの)「隠れた主役は中国。安全保障のためだ」

 そして、〈野田総理は、まずは日米が中心となって、ASEANや豪州を含めた自由貿易圏のルールを作り、そこをベースにして中国を引きこんで行きたいという戦略なのです。〉と記事の解説。

 ということは、日本がアメリカと共にTPPを磁場として中国と経済関係を密接且つ濃密に築いて相互必要性を現在以上に強固とすることで中国の政治的・軍事的な動きを抑制する戦略的意志を持っているということになる。

 この覚悟は見るべきものがあると言えるが、もしそのような覚悟が自立性(自律性)に立った覚悟であるなら、日本を中国の下に置き、中国を日本の上に置くような態度を取らずに、如何なる場面でも同じ自立性(自律性)を発揮してダライ・ラマ14世との会談があってもいいはずだ。

 TPPに中国を取り込む大事の前の小事に過ぎないダライ・ラマとの会談だから行わなかったということなら、自立性(自律性)を感じないばかりか、恐る恐るの安全運転にしか見えない。

 このように見てくると、政府高官のダライ・ラマ14世との接触禁止の態度にしても、野田首相がダライ・ラマと会談を行わなかった態度にしても、対中安全保障策を深慮遠謀としたTPP態度にしても、所詮、尖閣諸島中国人船長逮捕と五十歩百歩のヤワな対中覚悟としか映らない。

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虐待死防止は過去の類似情報を危機管理の教科書とし、学習し、何事も疑ってかかることではないか

2011-11-11 11:24:25 | Weblog

 名古屋市名東区の中学2年、服部昌己(まさき)君が10月22日(2011年)朝、母親の愛人に虐待死させられ、14歳の短い生涯を閉じさせられた児童虐待死事件を、《名古屋・中2暴行死:日常的に虐待か…児相に通報5回》毎日jp2011年10月23日 1時45分)記事に基づいて、《中2虐待死に見る過去の児童虐待死を相変わらず何ら学習しない児童相談所の不作為とも言える危機管理 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》として10月25日(2011年)取り上げ、過去の児童虐待死例を何ら学習しない児童相談所の疑ってかかることを知らない姿を批判した。

 同じ「毎日jp」記事――《名古屋中2虐待死:通報5回 保護する機会を逸する》(2011年11月10日 10時13分)が同じ事件に対する児童相談所の対応を改めて詳しく分析・解説しているが、やはり過去の児童虐待死例を何ら学習していない姿以外は浮かんでこなかった。

 何事も危機管理とは常に最悪の事態を想定して、それが実際の姿を取らないよう、可能な限り備えることを言うが、危機管理に一貫して必要とされことは疑ってかかる姿勢ということであろう。

 「原発安全神話」は原発の危険性を何ら疑ってかからない姿勢によって輝かしく打ち立てられていた。いわば危機管理は機能していなかった。

 疑ってかかるには多くの情報を必要とする。勿論、収集した情報を多角的に学習するプロセスを踏まなければ、情報は生きてこない。学習してこそ、危機を想定することも、想定した危機に対応した有効な対策も打ち出すことが可能となる。

 また虐待はいじめと同じで、殴打(身体的暴力)や食事を与えない、威嚇(精神的暴力)等の手段を通して対象の人格を自分の思い通りに支配したい欲求をベースとする。

 上記記事は名古屋市中央児童相談所(児相)の職員が毎日新聞の取材に語ったという内容となっている。 

1.服部昌己君が通学していた市立田光中学校が虐待を疑って児相に2回通報。

2.6月14日 児相職員2人が家庭訪問。

 昌己君の顔には殴られたとみられる痕があった。

 母親の愛人の酒井容疑者「言葉遣いが悪くカッとなって殴った」

 市の基準では「顔などに殴打痕がある」ケースは一時保護検討の対象としていたが、酒井容疑者が暴行を素直に認めたこと、職員の「体罰をやめるように」という指導を受け入れる姿勢を見せたことを理由に保護を見送る。

 第一番に虐待者が当初暴行を素直に認めたり、素直に反省したり、二度と殴ったりしませんと約束したりしながら、虐待を続ける過去の例をいくらでも学習できるはずで、まずは疑ってかからなければならない兆候――現在の情報としなければならないはずである。

 家庭訪問に来た児相の職員がドアの向こうに消えるや、内心舌をペロッと出して、「ウッセエ、俺の勝手じゃないか」と口に出して罵る場面も疑ってかかる必要がある。

 次に、「顔などに殴打痕がある」ケースは一時保護検討の対象とする理由は相当に強い意志を持って殴らなければ、殴打痕がつくことはないことを以って取り上げていたはずである。

 相当に強い意志を持って殴るには憎しみの感情をエネルギーとせずに殴ることはできない。いわば酒井容疑者は昌己君を憎しみの対象としていた。憎悪の対象としていたと表現してもいいかもしれない。

 憎悪の対象が身近にいる間は憎悪の感情は反復性・常習性を持つ。

 大体が学校が2回児相に通報したということは虐待と疑うことのできる痕跡を昌己君の顔か頭の別々の所に目に見える形でとどめていたことに基づいた学校側の対応であったはずだ。

 最初の殴打痕が消えずにそのまま残っていたままで、新たな殴打痕がなければ、2度目の通報の必要性はかなり薄れる。

 つまり、「言葉遣いが悪くカッとなって殴った」と暴行を素直に認めた態度を過去の虐待例、もしくは虐待死例から疑ってかからなければならなかったし、殴打痕からも殴打の意志と憎悪の感情の程度を疑ってかからなければならなかったが、疑ってかかるという危機管理の初歩的な基本に則ることができなかった。

3.7月11日、田光中学校から児相に「昌己君が額にけがをしている」と虐待を疑う3回目の通報。

4.同7月11日、児相職員が2回目の家庭訪問。

 最初の家庭訪問は6月14日。約1ヶ月経過している。殴打痕が残る殴打が再度あった事実から、この時点で虐待の少なくとも習慣性を疑ってかからなければならなかった。最悪の場合を想定して、常習性まで疑ってかかるべきだろう。

 酒井容疑者「うるせえ!」

 最初の訪問時と打って変わったこの凶悪な態度は本人の正体と疑うべきで、子どもに対したとき、この巨悪な態度以上の凶悪さが発揮されていた危険性まで疑わなければならなかった。当然、「保護者の態度が拒否的」な場合も子供の一時保護検討の基準の一つとしていると記事が書いていることからして一時保護すべきだったが、児相は昌己君の証言からそのような対応を取らなかった。

 昌己君「母を階段に上らせようと介助した時、転んで階段の手すりに(額を)ぶつけた」

 児相は、〈暴力は確認できないとして再び昌己君の保護を見送った。〉と記事は解説。

 久保田厚美・児相相談課長「中学校とのやりとりを密にすればいいという方針だった」

 だが、〈実際は2回目の家庭訪問以降、児相が学校に連絡を取ったのは9月と10月のわずか2回だけだった。〉

 これはまさに危機管理を失念した怠慢行為そのものだが、こればかりではない。

 子どもが事実を証言した場合に招く虐待者の報復の暴力を恐れて事実を隠す、あるいは異なる事実で糊塗するケースを過去の虐待情報から学習していなかった。

 酒井容疑者の態度豹変させた「うるせえ!」の凶悪性と再び繰返された殴打痕から殴打の継続性を読み取り、最低限常習性を疑うべきを、児童相談所としての危機管理を機能させることができなかった。

 羽根祥充児相相談課主幹「昌己君は『酒井容疑者から暴行を受けた』とは一度も言ってないんです」

 過去の情報から何ら学習していない愚かしい姿だけしか浮かばないが、記事は、〈苦渋の表情で釈明する。〉と書いている。

 〈昌己君は学校でも暴行について口にしなかった。「登校途中に高校生にからまれてけんかした」「お母さんが熱中症になって倒れそうになった時に支えて、けがをした」……。学校での昌己君は笑顔を見せ、落ち込んだ様子もなかったという。〉・・・・
 
 これは人目につく場所での昌己君の明るい姿であろう。もし虐待を疑ってかかる危機管理意識を備えていたなら、虐待を受けていることを知られまいとする裏返しの態度だと疑うこともできたはずだ。

 この裏返しは顔の殴打痕ばかりではなく、死後判明した胸、背中、腕、首に内出血の痕があったことと対応する視覚性の裏返しとなって現れている。

 また衣服に隠れて見えない身体の場所に内出血痕や殴打痕があるのも虐待やいじめの過去の情報からいくらでも拾い出し、学習することができるはずだ。

 鵜飼章夫田光中学校教頭「外傷を除けば、虐待のサインを見つけるのは難しい。母親が男(酒井容疑者)に暴力を振るわれて警察ざたになったことも昌己君の祖母から聞いていた。いつも気にかけていた」

 これは言い逃れに過ぎない。酒井容疑者が母親に暴力を振るっていた情報を祖母から得て暴力的な男であることの情報を学習していたはずである。その上昌己君の顔に継続的に外傷(殴打痕)を認めていた、その継続性・反復性、あるいは習慣性こそが何よりも決定的な虐待のサインだと疑わなければならなかった。

 だからこそ、学校は児相に何度も通報した。

 学校は児童相談所に相談を丸投げして、何も手を打たなかった姿が浮かんでくる。過去の情報と照らし合わせたなら、「外傷を除けば、虐待のサインを見つけるのは難しい」は口が裂けても言えない責任回避の言葉に過ぎないことが分かる。単に学習していなかったに過ぎない。保健室で服を脱がせて検査する危機管理ぐらいは見せてもいいはずだった。

 〈児相は家庭訪問を重ねた。最後の訪問は10月14日。昌己君は10月22日に命を落とした。〉――

 最初の家庭訪問が6月14日。最後の家庭訪問までちょうど4ヶ月。目に見える顔の部位に常に新しい殴打痕を認めたからこそ、家庭訪問を続けなければならなかったはずだ。最初の殴打痕のみで、その痕が次第に薄れていったなら、家庭訪問の必要性は失う。

 多分、4ヶ月も経てば発育盛りの体力からして、入院・治療を必要とするような余程の殴打痕でない限り、まるきり消えているか、殆ど見えないくらいになっているはずだし、もし入院・治療を必要とするような殴打痕であったなら、もはや傷害罪に相当することになる。

 羽根祥充児相相談課主幹「子供の立場に立つのに(職員には)相当なコミュニケーションが必要だったのだと思う。我々の力不足だった。担当職員や私は悩みながら頑張ったつもりだが、結果は最悪になってしまった。コミュニケーションをとっても(昌己君を)救えたかというと、自信はない……」

 コミュニケーション能力不足だとのみ思っている限り、救える命を救う自信は出てこない。過去の情報を学習し、学習した知識をベースに現在の情報を読み取る能力、基本的には疑ってかかる危機管理能力が欠如していたに過ぎない。

 記事は最後に児童相談所が置かれている状況を伝えている。全文参考引用――

 〈◇児童相談所職員、数も経験も不足
 名古屋市では00年以降、児相が通報を受けながら子供が虐待死するケースが7件発生。昌己君は8人目の犠牲者だ。市中央児相は、昌己君の死を防げなかった要因として「職員不足」と「職員の経験不足による未熟な対応能力」を挙げた。

 市は00年の児童虐待防止法施行時に児相1カ所・児童福祉司25人だった態勢を、現在の2カ所計45人に強化した。厚生労働省によると、市の10年度の児童虐待の相談件数(速報値)は前年度比92件増の833件。市中央児相では児童福祉司1人当たり30~40件を担当するという。

 関西学院大の才村純教授(児童福祉論)の02年調査によると、日本では児童福祉司1人が平均37件を担当。これに対し米国は12件、韓国18件、英国20件だ。欧米では虐待相談専門のソーシャルワーカーも配置。だが、日本では児童養護施設に保護した子供への対応などの別の業務が加わる。虐待相談以外の業務を含めると、名古屋市中央児相の職員1人当たりの担当は、約100件に跳ね上がる。

 児童福祉司資格は国家試験ではなく、比較的容易に取得できるという。市によると、児童福祉司になっても2~4年で他部署に異動することが多く、中央児相職員の勤務年数は平均3年10化月(4月現在)で「能力やノウハウが十分に蓄積できない」という。昌己君を担当した職員は児相に配属されて4年目、家庭訪問に同行した職員は半年だった。児相職員は市職員から公募されているが、応募は09年3人、10年は1人だけだった。NPO法人「子どもの虐待防止ネットワーク・あいち(CAPNA)」の高橋昌久理事長「目的意識がなければ、職員を増やして経験を積ませても烏合(うごう)の衆になるだけだ。外部から広く人材を募り、専門能力にたけた職員を育成すべきだ」と訴える。〉――

 確かに職員1人当たりの担当件数は多く、重労働に相当し、十分に手が回らない姿が浮かんでくるが、逆に担当件数が少なくても、既に触れたように過去の虐待情報から何ら学習せず、現在の情報を読み取って、疑ってかかる知識とする危機管理能力を欠いていたなら、救い得る命を救うことができない状況に変わりはないことになる。

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