10年前、恐る恐る始めた虚無僧。当初は、自分自身
にも迷いがあった。出家(得度受戒)していない者が
袈裟を着けて布施を乞うのはいいのだろうか。「偽装(僧)」
ではないかと。
もともと虚無僧は、「浪人が再仕官するまでの仮の姿」
なのだから、僧ではない。パフォーマンスなのか、
ストリートミュージシャンなのか、宗教家なのか。
と自分の心の中に迷いがあると、それを試されるかの
ように、いろいろな人が寄ってきて、質問を浴びせ、
議論を吹っかけられた。今思えば、それらがいい肥やし
になった。自分の信念を固めるための試練だったのだ。
一時は袈裟を着けるのをやめたこともあったが、最近
また着けている。「虚無僧はれっきとした宗教行為だ」
という信念が芽生えてきたのだ。すると最近は、問答
を挑んでくる人もいなくなった。丁寧に手を合わせて
喜捨してくださる方がふえた。
10年前、虚無僧になりたての頃、明暗寺(東福寺塔頭
善慧院) の平住住職にお尋ねした時、
「自分に疾(やま)しい心が無ければいいでしょう」
と云っていただいた。その意味がようやく解けてきた
気がする。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

にも迷いがあった。出家(得度受戒)していない者が
袈裟を着けて布施を乞うのはいいのだろうか。「偽装(僧)」
ではないかと。
もともと虚無僧は、「浪人が再仕官するまでの仮の姿」
なのだから、僧ではない。パフォーマンスなのか、
ストリートミュージシャンなのか、宗教家なのか。
と自分の心の中に迷いがあると、それを試されるかの
ように、いろいろな人が寄ってきて、質問を浴びせ、
議論を吹っかけられた。今思えば、それらがいい肥やし
になった。自分の信念を固めるための試練だったのだ。
一時は袈裟を着けるのをやめたこともあったが、最近
また着けている。「虚無僧はれっきとした宗教行為だ」
という信念が芽生えてきたのだ。すると最近は、問答
を挑んでくる人もいなくなった。丁寧に手を合わせて
喜捨してくださる方がふえた。
10年前、虚無僧になりたての頃、明暗寺(東福寺塔頭
善慧院) の平住住職にお尋ねした時、
「自分に疾(やま)しい心が無ければいいでしょう」
と云っていただいた。その意味がようやく解けてきた
気がする。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。
