現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

青木虚波夢 1

2009-03-06 12:28:13 | 虚無僧日記
アクセスip数 388人で12万件中 1,249位に浮上。
一体何が関心を引いたのだろうか。尺八の奏法に
関する話か。ならばもう一つ書きたいことがある。

青木虚波夢(こなむ) 氏の言葉だ。
数年前「尺八サミット」が東京で開かれた時、虚無僧
として、私と青木氏と白土氏の3人が招かれ、それぞれ
体験を語り、尺八を披露した。そこで初めて青木氏に
会ったのだが、彼は私となにもかも対照的だった。

彼は、谷狂竹の弟子西村虚空師の流れで、超長管を
吹く。私は一休を師と仰ぐので短管を得意とする。
彼の形(なり)は黒づくめに袴、私は白。
ペラペラ饒舌な私とは対照的に、彼は寡黙。
「虚無僧の私に何をしゃべれというのでしょうか」と
ポツポツ語る言葉が一言ひとこと重い。そして尺八
(西村派では“虚鐸きょたく”という)を吹定(すいじょう)する
段になると、彼はやおら聴衆に背を向けて、床に座って
しまった。前に普化禅師の像が据えられてあったので、
その像に向かって深く礼をして、長管におもむろに息を
入れた。聞き手は椅子に腰掛けているから、最前列の人
しか彼の姿は見えない。観客は奏者を見失い、一様に
耳を澄ます。しばらくして長管の深く静かな音が床を
這って聞こえてきた。立奏で思いっきり吹く私とは、
静と動、全くなにもかも逆の演出。

極めつけは、吹き終わった後の彼の一言。
「窓の外の雨の音、往来の車の音、ドアの開く音、
皆様の息遣いまでが、私の曲です」と。その一言で
深い余韻を残して終わった。なにもかもカッコイイ!
顔だちもすてきなのだ。

途中で人がはいってきたことも気づかないほど、
彼の尺八に心を奪われていたが、たしかに車の音も
人の足音、ドアの開閉音、空調の音までが、彼の
静かな長管の響きに一体渾然となっていたのだ。

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青木虚波夢 つづき

2009-03-06 11:49:59 | 虚無僧日記
青木虚波夢(こなむ)氏の言葉から、私は講演で次の
ような話をする。

「尺八の音は、人の話し声も車の往来も、雨風の音も
すべてを包み込む力を持っている。オーケストラ演奏の
さなか、赤ん坊の泣き声がして、指揮者が演奏を中断
したという話を聞いたことがある。100人の大編成の
音楽でも赤ん坊一人の泣き声には負けるのです。尺八
は赤ん坊の泣き声も酔っ払いのわめきも、すべて包み
込む許容を持っている」と。
名古屋駅のような雑踏の中でも、虚無僧の尺八は溶け
込めるのだと。

さて、何もかも私とは対極にある青木虚波夢氏だが、
実は会の前日、彼と食事をした。私は飲めないが、
彼は酒好き。飲むほどによくしゃべる。虚無僧に対する
思いは私と同じですっかり意気投合した。そして翌日の
本番では無口で凛とした姿。あの変わり身にも驚かされた。
(彼も「役者じゃのォ」) 計算された演出には参った。

その「虚鐸(きょたく)吹定(すいじょう)」で彼は、古典を
まともに吹くかと思いきや、静かな音の流れの中で、なに
やら聞いたことのあるなつかしいメロディ、何だか思い出
せない。後で聞いたら「照るてる坊主テてるぼうず」だと。
途中で雨音がしたので「てるてる坊主」と自然に出たという。
そんな茶目っ気もあるのだ。私にはそんな大胆な勇気はない。

しかし、童謡も古曲風にしてしまう、杓子定規に気張らない、
こだわらない生き方は、私と同じだ。以来毎年、年賀状を
交換しているだけだが、今年の年賀状には、「沖縄に
引っ越しました。遊びに来ませんか」と。ぜひ沖縄まで
会いに行きたいと思っている。

私の虚無僧尺八の師は、青木氏ともう一人児玉竹坐氏。
二人は会派は異なるが、共に3尺を超える長管を吹く。
私には無いものを持っているからだ。

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白虎隊

2009-03-06 07:29:30 | わが家のこと
3/6 たまたまラジオをつけたら、NHK FMで琵琶
『白虎隊』が流れていた。

成人隊士はみな白河や越後、日光口に出向いていたから、
「城内には老若ばかり」。我家の先祖牧原一郎(67歳)と
その弟奇兵(62歳)も滝沢まで出陣した。そして一郎は
殿の側近に留まり、弟の奇兵が小隊頭として戸の口に
向かった。ところが、隊士といっても僧侶や力士、農民
からの駆り集めだったから、敵の砲声を聞いたらたちまち
皆逃げてしまったのだ。踏みとどまった奇兵は、責任を
負ってその場で自刃した。奇兵の子、21、19、18歳の3人
も他所で戦死している。西軍は怒涛の勢いで滝沢に迫り、
牧原一郎67歳は「老いの身、殿の足手まといとなっては
申し訳ない」と腹を切った。

ところで、戸の口に出陣した白虎隊は士中二番隊の50名。
その内20名が本隊とはぐれ飯盛山で自刃した。他に
白虎隊は士中一番隊、寄合白虎、足軽白虎と身分で
分けられ2~300人はいたのだ。

その中の20名が、自刃したことで、さまざまに脚色され
美化されたが、飯沼貞吉の証言では、はぐれた20名は
全然闘っていない。ただ山野を逃げ迷っていただけだ。
自刃したことが、明治大正昭和と「殉国の士」の鏡とされ、
神風特攻隊を生む基盤に利用されたと、私は考えている。

自刃した19士は飯盛山に祀られ、今でも線香の煙が絶え
ないが、戦死した隊士の墓はその傍らにひっそりと佇む。
もっとも気の毒なのは生き残った隊士たちだ。隊長の
日向内記はさんざん悪者扱いされ、その遺族子孫たちは
未だに、世間に名乗り出れないでいる。

生き残った白虎隊士は戦後東京に護送され、囚人としての
扱いを受けた。その中にあって「牧原辰彦はよく隊員を
まとめ、その統率力、残務処理は見事であった」という
証言がある。この「辰彦」のその後は消息不明である。
生き残った隊士は、故郷にも帰れず、会津藩士であった
ことを隠して、明治、大正を生きたのだ。「生き残った
白虎隊士」のテーマで小説を書きたいと思っている。
私の残された仕事だ。
今日の運勢「墓地に佇んでいる象。先祖の弔いをおろそか
にしないように」とあった。先祖を偲び『手向け』を吹く。

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