北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】彦根城,北京陥落中国最後の日!金南下は朝鮮降伏と明朝の滅亡-日本に迫る危機は長崎へ急報

2022-08-31 20:20:17 | 旅行記
■開戦必至,そのとき大老は
 北京陥落中国最後の日、こう記しますと2020年代の出来事かと錯覚しますが江戸時代に日本にも非情な緊張が走った時代があったのです。

 大坂の陣。日本の中世は豊臣氏滅亡を迎え徳川幕府の時代となり、時代は近世を迎えます。豊臣氏滅亡は悲劇的な最期であった事は確かで、大坂城落城は遠く京都からも紅蓮の焔が望見できたという。しかしそれが全ての安定期、平和に繋がった訳ではありません。

 朱舜水。明の儒学者だ。日本から日本海や東シナ海を経て対岸の大陸中国では、長らく国を統治した明国が北方から侵攻した清朝により、まさに亡国の危機に曝されていました。そして日明貿易以来の長い二国間関係と共に明国は日本へ救援を求めるようになります。

 満州は女真族のヌルハチが強大な騎馬戦力とともに満州地域の遊牧民を統一し、1616年に新国家金を建国します。実に大坂冬の陣の四年後に当る、その金は1636年に国名を清と改めたのですが、北方民族の南下は当時江戸幕府も関心を寄せていた。その危惧はあたる。

 徳川家光治世の時代、日本には遥か昔の歴史ながら元寇、外敵の侵攻という厳しい認識が残り、また室町時代にも応永の外寇、李氏朝鮮の世宗大王が対馬に侵攻する一幕もありました。宗貞盛率いる対馬は700名の小兵力ながら30000の朝鮮軍を撃退には成功したが。

 宗貞盛つよい、と対馬の奮戦を評価したいところですが、応永の外寇は元寇の再来ということで室町幕府はかなり慌てたという。なにしろ情報がインターネットは勿論電話も電報もFAXも無い時代ですので、情報が来た時には戦闘の景況などわかるわけがありません。

 朝鮮半島侵攻、1627年に金のアバハイが満州から朝鮮半島に侵攻を開始しソウルを攻略します。豊臣秀吉の文禄慶長の役として朝鮮侵攻を行って以来、独自の情報網を半島に伸ばした日本は、北方からの侵攻経路がかつての元寇に至るモンゴル帝国と共通点を見い出す。

 仁祖、当時の朝鮮国王は金に降伏します。ソウルへ軍事視察団派遣、徳川家光は寛永5年こと西暦1628年に対馬藩主宗義成に金占領下のソウルへ使節団派遣を命じ、また朝鮮に対して幕府が火砲など軍事物資提供の用意がある事を伝えるよう付け加えた、という歴史が。

 宗義成からの使者、しかし仁祖は既に金に対し全面降伏した後であり属国ではないにしても善隣条約に近い力関係となっており、ここで再度反撃を行えば今度こそ武力併合される懸念があります。そして後の清朝作成の地図に李氏朝鮮は大清属国と記される事になる。

 大政参与。時は少し戻りまして寛永9年こと西暦1632年、将軍徳川秀忠は今際の際に二人の側近を呼びます、その一人は近習として将軍宣下前から仕えた井伊直孝でした、秀忠は井伊直孝に大政参与を命じ、継ぐであろう徳川家光、三代将軍の後見役を命じたのです。

 大老という役職は、この大政参与がはじまりというところであり、そして井伊直孝は大坂の陣での勲功を以て当時の家康から彦根藩主を命じられています、実兄は戦国気勢の家来衆を纏められず、転封されていた。譜代大名としては最大となる30万石に加増されます。

 徳川家光は真剣に大陸出兵を考える事となりました。いや、実は元和7年の西暦1621年に日本は武器輸出禁止を決定し周辺情勢への中立路線を画定しています、それは戦国時代に大量生産した国産火縄銃などが江戸時代に入り相当余っており、大筒なども余剰があった。

 細川忠利や大村純信に松浦隆信、大村や松浦という長崎の地名の元となった九州大名が大陸へ武器輸出を行ており、禁止しました。しかし、明朝が危機的状況、また清朝への敵対意識もあり、徳川家光としても決めかねた実情がある。その時の大老職に直孝は居ました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】彦根城,徳川家光中国大陸侵攻計画-日清戦争が三百年近く前に勃発しかねなかった危機

2022-08-31 20:00:24 | 旅行記
■いまなぜ彦根城かというと
 政治は責任というが責任ある政治を決断するには的確な情報とその精査の上での補佐を行う側近が必要です。

 いまなぜ彦根城かというと。彦根、滋賀県彦根市、そして東海道と北陸道の結ばれた陸上交通の要衝であり、そして琵琶湖の水運が中世から近世まで水上交通の要衝としても要諦を担った街なのですが、日本近世史をみますと彦根は傑出した人材を輩出していました。

 彦根の偉人、一人一人列記していますと辞書が出来てしまいそうなのですが、井伊直孝という一人の人物を通じて現代日本を少し考えてみたいと思うのです。なにしろ彦根城は広いですからね、物思いと共に散策するには最適だ、そして上った先の情景は一際に美しい。

 井伊直孝。今の時代にこの一人の歴史に学ぶべきところは、職責、つまり為すべき事が自分の保身の先に在ってはならないし、そして職責に文字通り懸命という、そんな人材の諫言というものを指導者、いまの価値観では上司上官か、軽んじてはならないという事です。

 中国大陸侵攻作戦。日本が江戸時代に大量の地上部隊を中国大陸に派遣しようとしていた事は、日本史を高校の受験日本史に留めてしまうと気付かずに終わってしまうのですが、こうなった的な結論だけの歴史事実の羅列を超えた段階まで調べを進めますと知るという。

 日清戦争が三百年近く前に勃発しかねなかった危機的状況ともいえるのですが、当時日本の為政者は徳川家光、生まれながらの将軍と呼ばれる三代将軍に命がけ、文字通りであるとともに場合によっては転封さえ覚悟の上で諫言し留まらせた人物がいます、井伊直孝だ。

 彦根藩2代藩主井伊直孝、彦根駅前に銅像が建つ井伊直政の次男として天正18年2月11日、西暦1590年3月16日に生まれました。井伊直政は関ヶ原の戦いで島津軍からの銃撃により重傷を負い、家康はその猛将としての地位と養生を兼ね、彦根を領地として与えた。

 井伊直政はこうした歴史から彦根藩初代藩主として、当地を統治しますが銃傷はその寿命を大きく縮め、井伊直孝は齢12にして実父を失います。しかし、井伊直孝は12にして徳川秀忠の近習を命じられます。慶長10年こと西暦1605年、秀忠は二代将軍宣下を行う。

 従五位下掃部助に叙位された井伊直孝、上野刈宿5000石の領主となり、続いて慶長15年こと1608年には上野白井藩1万石の大名に任じられます、そしてその三年後には伏見城番役となります。実兄は井伊直勝、彦根含む佐和山藩2代藩主を井伊直政から継いでいます。

 上野白井藩と順調に出世しています井伊直孝ですが、若いころには失敗も在った、それもかなり致命的な失敗で大坂冬の陣という戦場での失敗です、慶長19年こと西暦1614年の大坂冬の陣、北ノ庄藩藩主松平忠直とともに井伊直孝は会心の突撃を敵陣に加えましたが。

 真田丸の戦い。井伊直孝と松平忠直は井伊の赤備えという深紅の甲冑が威勢を盛り上げますが、同じ赤備え、武田信玄から赤備えを継承した真田信繁の偽退誘敵、つまり挑発してキルゾーンに誘い込む戦法を受け、突撃し実に500名も戦死者を出す大失態を犯します。

 真田信繁の偽退誘敵、相手があの真田だから仕方ないよね、なんていう事は一切なく、井伊直孝の攻撃を責める声が幕府内に憤然と沸上がりますが、この失態から井伊直孝を庇ったのは、誰であろうあの徳川家康その人でした。全軍に先行し攻撃精神示し士気を奮った。

 徳川家康に救われた井伊直孝は続く大坂夏の陣にて八尾若江の戦いに先鋒を命じられ、強敵長宗我部盛親を相手に藤堂高虎と共に突撃を敢行、戦勝し汚名返上を果たします。ただ、この戦いで一時は捨てたと考えた命を長らえ、遥か後の歴史的事件に立ち向かう事となる。

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ボストーク2022演習-ロシア極東と北方領土及び日本周辺海域で明日から開始,ウクライナ侵攻下-参加兵力激減

2022-08-31 07:01:14 | 国際・政治
■臨時情報-ロシア極東情勢
 ロシア軍は演習と称し兵力を集中させたうえで半年前にウクライナへ侵攻しましたが、そのロシア軍はウクライナ侵攻後初となる次の大演習を開始します、その演習は日本周辺にて行われる。

 ボストーク2022演習、ロシア軍が極東地域において四年に一度実施している大規模演習が明日9月1日から開始されます。このボストーク2022は異例ともいえるウクライナ侵攻の最中での実施となりました。この為に異例な状況は演習にも様々な影響を及ぼしていますが、演習の名のもとに侵攻準備を行った事例は過去に数多あり、自衛隊も警戒しています。

 六分の一の規模に。ボストーク2022演習ではロシア軍を中心に13か国から5万名の兵力と航空機140機、艦艇60隻等が参加するとのことです。一見かなりの規模に思われますが、毎年行われている自衛隊統合演習よりも小規模となりました。そして実際、2018年に行われたボストーク2018では30万名の大兵力が参加しており、実に六分の一へ縮小しました。

 30万名から5万名へ規模が縮小した事は驚きですが、今回は中国軍やインド軍にベラルーシ軍など13か国の合計規模ですので、ロシア軍単独での参加規模は更に少ない。3月にロプチャー級戦車揚陸艦が北方領土駐留兵力を本土へ運ぶ様子が自衛隊に確認されましたが、演習縮小もウクライナ戦争へロシア軍の兵力抽出が深刻な規模となっている証左でしょう。

 13か国が参加している演習、ロシアは演習規模は縮小していますが参加国は13か国であり、しかもボストーク演習にはベラルーシが初参加し、アメリカと防衛協力強化を進めるインドが参加するなど、国際協力は強化しています。ただこれは、ウクライナ侵攻に際しても各国がロシア制裁を強める中、ロシアは孤立していないと誇示する目的もあると、いえる。

 インドの参加はアメリカに衝撃を与えました。ただ、インド政府は演習直前の30日になって、ボストーク演習の演習地として指定されている数カ所の内、日本とロシアの対立背景となっている北方領土での軍事演習には参加したいと日本政府へ通知した、これは30日に浜田防衛大臣が発表しています。演習はこうした政治的背景に左右されているようです。

 突然の延期。実はボストーク2022演習は8月30日から開始される予定でした、しかしロシア側が突如9月1日から開始と予定変更を発表しています。逆にこの日程では台風に直撃される懸念があるのですが、突然の変更の背景には、ウクライナでのロシア軍苦戦などが、ロシア軍の部隊移動にさえ影響を及ぼしているのかもしれません。演習は明日始まる。

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