■京都最古の多宝塔見上げ
本堂の向こうに白い程の青空とともに射す陽光に暑さと熱さ思い出させられるところですが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/27/f7e4b2caeee2bd12f887a1257584f121.jpg)
本堂は重要文化財に指定されています、ただ造営は慶長13年こと江戸時代は西暦1608年の再建となっていまして、これは残念ながら応仁の乱により焼かれ荒廃した後にも幾度か再建の機会を逸する出来事があったためという。しかし、400年以上経つ風格は伝わる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/d8/b75346dddba64bc8f01635a25c2c8d76.jpg)
入母屋造の本堂は本瓦葺き構造となり、拝観の際には400年を超えるその場を巡る事が許されている、ここは2003年に大修理が行われていて、桁行七間と梁間五間であり、その奥には釈迦如来像と十界曼荼羅として日蓮と当院で旅立った日像の像を安置されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/01/fe705c7bc564c87d2c65fd89fde88d76.jpg)
多宝塔も重要文化財に指定されています、ただ、造営時期は室町時代以前とは確実であるというがまだ詳細は明らかではないという。室町時代の永享11年こと西暦1439年以前に造営されたといい、大きさはそれ程見上げる規模ではないのですが確たる気風を感じる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/1c/c9113299c714b84b7882b117ada1a557.jpg)
京都で一番古い多宝塔となっていまして、行基葺の屋根とともに室町時代の気風をとどめています。そして、多宝塔が無事であるからといって寺の歴史が安泰であったわけではないというのが、不思議なところです。正確にいつ造営されたのかが判別しない理由も同じ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/9e/1da512dabea1fb98dc55f49f8c1aa652.jpg)
応仁元年こと西暦1467年に勃発しました応仁の乱、寶塔寺はやはりというか全焼するのですが、多宝塔を残して全焼となりまして奇跡的に兵火を免れたという。京都の建物は悉く応仁の乱で破壊され、ここから復興する過程で町衆文化が定着、京都は変容しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/50/e8150be2c1746551a8bf986bd5c46f08.jpg)
応仁の乱、下町からの動員された足軽により、当時宗派抗争に備えて重厚な伽藍を有していた寺院などが陣地に転用され、放火掠奪により順番に破壊され延々と続いた応仁の乱、ほぼ京都の文化財は灰燼に帰したのですが、多宝塔は奇跡的に残る事が出来たのですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b5/4ab445217159524aeb7ce4a402fcf3c3.jpg)
天文法華の乱、天文元年こと西暦1532年に始まりました宗派紛争ですが、この紛争で寶塔寺は全焼します。しかしまたしても多宝塔を残して全焼となりまして、二回続くと奇跡的、といえるのかもしれません。なお、山科本願寺の全焼により本願寺の武装路線が高まった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/32/6f6ee7943c30376045c776bb3941b25b.jpg)
国宝ではないのか、と問われる事はあります多宝塔ですが、実は国宝と出来ない事例は、西暦何年に造営されたかが不明という事情があります、何故記録しておかなかったのかといわれますと、要するに二度も全焼している為に記録が散逸したためという事情がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/bb/7131392fcd778d90869765a96ce8fc32.jpg)
松江城、しかし期待してしまうのは研究や調査により造営の正確な年代が判明する事です、例えば山陰の松江城などは2015年7月8日に国宝指定されました、63年ぶりとのことですが平成の大修理に際して天守閣を修理の際、建材の注記により建設年号が判明したため。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/a4/df13928591599ccb7469141412267125.jpg)
四大国宝天守閣と称されていたのが2015年に国宝五大天守閣と称されるようになったのは驚きに驚いたのですが、この多宝塔も造営時期が判明するならば、国宝に指定されるのかもしれません。そして歴史研究というものは年々進歩しているのですから、期待しますね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/d4/c462c35d3c353a9ac425e1d875315ade.jpg)
静かだ。寶塔寺はこうした長い歴史と京都最古の多宝塔、そして日蓮の遺訓受けた日像が最後に旅立ったという歴史がありますので、歴史を考えればもう少し多くの拝観者で溢れていても、とは思うのですがこの日ほかの拝観者は当方一行のほかにひとりのと静か。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/f2/d96af11af26e65c970796c737b64bea1.jpg)
日像さんの寺院は観光寺院ではない故にあまり多くの拝観者が興味本位で探訪してはと思うのですけれども、それでももう少し歴史に関心を持ってほしいと考えつつ、それでもこの静けさが保たれるのはよいよね、と溜息のような清涼感と静寂で向き合える寺院です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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本堂の向こうに白い程の青空とともに射す陽光に暑さと熱さ思い出させられるところですが。
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本堂は重要文化財に指定されています、ただ造営は慶長13年こと江戸時代は西暦1608年の再建となっていまして、これは残念ながら応仁の乱により焼かれ荒廃した後にも幾度か再建の機会を逸する出来事があったためという。しかし、400年以上経つ風格は伝わる。
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入母屋造の本堂は本瓦葺き構造となり、拝観の際には400年を超えるその場を巡る事が許されている、ここは2003年に大修理が行われていて、桁行七間と梁間五間であり、その奥には釈迦如来像と十界曼荼羅として日蓮と当院で旅立った日像の像を安置されています。
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多宝塔も重要文化財に指定されています、ただ、造営時期は室町時代以前とは確実であるというがまだ詳細は明らかではないという。室町時代の永享11年こと西暦1439年以前に造営されたといい、大きさはそれ程見上げる規模ではないのですが確たる気風を感じる。
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京都で一番古い多宝塔となっていまして、行基葺の屋根とともに室町時代の気風をとどめています。そして、多宝塔が無事であるからといって寺の歴史が安泰であったわけではないというのが、不思議なところです。正確にいつ造営されたのかが判別しない理由も同じ。
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応仁元年こと西暦1467年に勃発しました応仁の乱、寶塔寺はやはりというか全焼するのですが、多宝塔を残して全焼となりまして奇跡的に兵火を免れたという。京都の建物は悉く応仁の乱で破壊され、ここから復興する過程で町衆文化が定着、京都は変容しました。
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応仁の乱、下町からの動員された足軽により、当時宗派抗争に備えて重厚な伽藍を有していた寺院などが陣地に転用され、放火掠奪により順番に破壊され延々と続いた応仁の乱、ほぼ京都の文化財は灰燼に帰したのですが、多宝塔は奇跡的に残る事が出来たのですね。
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天文法華の乱、天文元年こと西暦1532年に始まりました宗派紛争ですが、この紛争で寶塔寺は全焼します。しかしまたしても多宝塔を残して全焼となりまして、二回続くと奇跡的、といえるのかもしれません。なお、山科本願寺の全焼により本願寺の武装路線が高まった。
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国宝ではないのか、と問われる事はあります多宝塔ですが、実は国宝と出来ない事例は、西暦何年に造営されたかが不明という事情があります、何故記録しておかなかったのかといわれますと、要するに二度も全焼している為に記録が散逸したためという事情がある。
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松江城、しかし期待してしまうのは研究や調査により造営の正確な年代が判明する事です、例えば山陰の松江城などは2015年7月8日に国宝指定されました、63年ぶりとのことですが平成の大修理に際して天守閣を修理の際、建材の注記により建設年号が判明したため。
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四大国宝天守閣と称されていたのが2015年に国宝五大天守閣と称されるようになったのは驚きに驚いたのですが、この多宝塔も造営時期が判明するならば、国宝に指定されるのかもしれません。そして歴史研究というものは年々進歩しているのですから、期待しますね。
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静かだ。寶塔寺はこうした長い歴史と京都最古の多宝塔、そして日蓮の遺訓受けた日像が最後に旅立ったという歴史がありますので、歴史を考えればもう少し多くの拝観者で溢れていても、とは思うのですがこの日ほかの拝観者は当方一行のほかにひとりのと静か。
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日像さんの寺院は観光寺院ではない故にあまり多くの拝観者が興味本位で探訪してはと思うのですけれども、それでももう少し歴史に関心を持ってほしいと考えつつ、それでもこの静けさが保たれるのはよいよね、と溜息のような清涼感と静寂で向き合える寺院です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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