北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】寶塔寺,多宝塔は応仁の乱と天文法華の乱超えて現存する重要文化財と進む研究は歴史浪漫綴る

2022-08-17 20:22:22 | 写真
■京都最古の多宝塔見上げ
 本堂の向こうに白い程の青空とともに射す陽光に暑さと熱さ思い出させられるところですが。

 本堂は重要文化財に指定されています、ただ造営は慶長13年こと江戸時代は西暦1608年の再建となっていまして、これは残念ながら応仁の乱により焼かれ荒廃した後にも幾度か再建の機会を逸する出来事があったためという。しかし、400年以上経つ風格は伝わる。

 入母屋造の本堂は本瓦葺き構造となり、拝観の際には400年を超えるその場を巡る事が許されている、ここは2003年に大修理が行われていて、桁行七間と梁間五間であり、その奥には釈迦如来像と十界曼荼羅として日蓮と当院で旅立った日像の像を安置されています。

 多宝塔も重要文化財に指定されています、ただ、造営時期は室町時代以前とは確実であるというがまだ詳細は明らかではないという。室町時代の永享11年こと西暦1439年以前に造営されたといい、大きさはそれ程見上げる規模ではないのですが確たる気風を感じる。

 京都で一番古い多宝塔となっていまして、行基葺の屋根とともに室町時代の気風をとどめています。そして、多宝塔が無事であるからといって寺の歴史が安泰であったわけではないというのが、不思議なところです。正確にいつ造営されたのかが判別しない理由も同じ。

 応仁元年こと西暦1467年に勃発しました応仁の乱、寶塔寺はやはりというか全焼するのですが、多宝塔を残して全焼となりまして奇跡的に兵火を免れたという。京都の建物は悉く応仁の乱で破壊され、ここから復興する過程で町衆文化が定着、京都は変容しました。

 応仁の乱、下町からの動員された足軽により、当時宗派抗争に備えて重厚な伽藍を有していた寺院などが陣地に転用され、放火掠奪により順番に破壊され延々と続いた応仁の乱、ほぼ京都の文化財は灰燼に帰したのですが、多宝塔は奇跡的に残る事が出来たのですね。

 天文法華の乱、天文元年こと西暦1532年に始まりました宗派紛争ですが、この紛争で寶塔寺は全焼します。しかしまたしても多宝塔を残して全焼となりまして、二回続くと奇跡的、といえるのかもしれません。なお、山科本願寺の全焼により本願寺の武装路線が高まった。

 国宝ではないのか、と問われる事はあります多宝塔ですが、実は国宝と出来ない事例は、西暦何年に造営されたかが不明という事情があります、何故記録しておかなかったのかといわれますと、要するに二度も全焼している為に記録が散逸したためという事情がある。

 松江城、しかし期待してしまうのは研究や調査により造営の正確な年代が判明する事です、例えば山陰の松江城などは2015年7月8日に国宝指定されました、63年ぶりとのことですが平成の大修理に際して天守閣を修理の際、建材の注記により建設年号が判明したため。

 四大国宝天守閣と称されていたのが2015年に国宝五大天守閣と称されるようになったのは驚きに驚いたのですが、この多宝塔も造営時期が判明するならば、国宝に指定されるのかもしれません。そして歴史研究というものは年々進歩しているのですから、期待しますね。

 静かだ。寶塔寺はこうした長い歴史と京都最古の多宝塔、そして日蓮の遺訓受けた日像が最後に旅立ったという歴史がありますので、歴史を考えればもう少し多くの拝観者で溢れていても、とは思うのですがこの日ほかの拝観者は当方一行のほかにひとりのと静か。

 日像さんの寺院は観光寺院ではない故にあまり多くの拝観者が興味本位で探訪してはと思うのですけれども、それでももう少し歴史に関心を持ってほしいと考えつつ、それでもこの静けさが保たれるのはよいよね、と溜息のような清涼感と静寂で向き合える寺院です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】寶塔寺,三宝尊と京都最古多宝塔迎える寺院は藤原基経と日像上人の千年を超える祈りの御山

2022-08-17 20:00:30 | 写真
■深草山宝塔寺
 京阪線で深草界隈を散策していますと路地を巡った先に寶塔寺と山門に記されていますここは深草山宝塔寺です。

 京都散歩の際に不思議に思うのは、確かに観光客が多い、この数年は乱高下が凄いのは別として、観光客は多いのですけれども、日本人的な右へ倣え、その発想で散策しているのではないか、若しくは修学旅行の名所を二番煎じしているだけではないか、ということ。

 千本釈迦堂とここ宝塔寺、実のところ京都散歩にはどうしても欠かせられない場所のようにも思うものの、不思議な程にここは静かなのです。なにかわざとらしいような禁忌も感じません、云われてみればバスが停まれない駐車場事情はあるも、それは人が来ないから。

 宝塔寺、伏見区深草宝塔寺山町の京阪線から少し勾配を上ったところにありまして、山門から歴史の深みを感じさせるような石階段が続き、その周りを塔頭寺院が固めるという重厚さ、実は電線だけはどうにかならないか思うのですが、その奥に朱色の仁王門が際立つ。

 藤原基経が嘉祥年間の西暦850年に発願しました真言宗極楽寺がこのお寺の始まりといわれています、藤原基経は歴史上初めて、関白、この地位を任じられ、摂政に代わる日本政治の高官となる。そして清和天皇と陽成天皇に光孝天皇そして宇多天皇に仕えた高官です。

 多宝塔、京都散歩でもう少し定番だろうと思うのはここ寶塔寺の多宝塔は府下最古、京都で一番古い多宝塔なのです、石階段を上りましたその先に仁王門へと先ず至るのですが寺町を構成する寺院は京都に多いものの、石段とともに広がる情景はなにか勇壮ともおもう。

 西之大坊大雲寺、寺町という風情を醸す数多塔頭寺院で現存する最古のものは天文5年こと西暦1536年に建立されました大雲寺でして。霊光寺は天正13年こと西暦1585年に再建された塔頭で、自得院は文禄3年の安土桃山時代に1594年開山となりました寺院です。

 圓妙院は慶長2年こと西暦1597年に建立された寺院であり、直勝寺は江戸時代の慶安4年こと西暦1648年に創建、そして慈雲院は明暦3年こと西暦1657年に創建された塔頭寺院、玉泉院という塔頭寺院も在ったそうですがここは、近年に合併され今日にいたるという。

 深草山宝塔寺という山号の御寺は、本尊に三宝尊を奉じます。この三宝尊といいますのは、仏の第一を釈迦如来であり讃え、法の第一を法華経として崇め、僧の第一を日蓮として慕うというものです。すると気付かれるでしょうか、真言宗極楽寺との違いというものを。

 三宝尊を奉じます寶塔寺は、鎌倉時代に真言宗寺院から転換しているのですね。日像が鎌倉時代末期に此処を訪れたという。日像は日蓮の遺命を受け日蓮宗の布教に尽力、いや文字通り懸命で行脚した高僧で、極楽寺は当時の住持良桂と法論を交わしたとされている。

 日蓮の遺命を受け日蓮宗の布教に尽力しました日像、この関係もありまして寶塔寺は旧本山として大本山妙顕寺を冠していました、ここは上京区の堀川通りから少し静かな立地に佇む、妙顕寺上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町、北大路堀川からも近い御寺なのですね。

 妙顕寺は、日像が後醍醐天皇より寺領を賜り当時今小路に開かれた寺院で、ただし豊臣秀吉の京都大改造に際し妙顕寺跡地に二条第妙顕寺城が造営される事になり移転、移転先が天明8年こと西暦1788年天明大火にて全焼した歴史があります、寶塔寺の方が残った。

 日像は妙顕寺にて没しましたが遺言で荼毘にふされたのはここ寶塔寺であり、密教寺院からはじまったお寺はこうした複雑な歴史を辿った訳です。有る趣向運が有り、応仁の乱では攻撃を受けるも多宝塔だけは戦災を免れ、室町時代の情景を今日に伝えているのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリミア半島で相次ぐ爆発-キエフの奇跡を支えたウクライナ特殊部隊の動向を推測する,ロシアの占領失政が背景

2022-08-17 07:00:09 | 防衛・安全保障
■臨時情報-ウクライナ情勢
 クリミア半島北部のロシア軍弾薬庫が16日に爆破され先日のサキ飛行場爆破に続くロシア軍のウクライナ占領地での情勢が変化しています。この一連の動きは日本防衛にも参考となる。

 ウクライナ南部のロシア軍占領地区において軍事施設での爆発が頻発しています。これは全くの推測なのですが、キエフ防衛戦に活躍したウクライナ軍特殊作戦部隊がウクライナ東部での戦闘に一定の成果を上げた上で、南部地区に転戦したのではないかと考えています。キエフ防衛戦ではロシア軍大渋滞が話題となりましたが、特殊部隊は此処を狙った。

 キエフ防衛戦ではロシア軍の交通計画が稚拙であり気候変動による早い春の到来により路外が泥濘化しロシア軍は50km以上の大渋滞を起こしましたが、ウクライナ特殊部隊は四輪バギーやオフロードバイクに携帯無反動砲等の機動運用を行い、盛んな遅滞行動を展開しました、関ヶ原の戦いで島津豊久が撤退戦において行った戦術を洗練させたようなもの。

 特殊部隊というと、シルベスタースタローンやアーノルドシュワルツネガーを想像するかもしれませんが、実際には一定以上の体力と持久力を持つ軽歩兵に、本来ならば通信部隊が行う通信技術と衛生部隊が行う衛生能力に武器科部隊の担う整備能力、そして語学陸曹の能力を教育した部隊です。なお語学習得は国内戦のウクライナ軍の場合必要ありません。

 HIMARS高機動ロケットシステムが、供与された十数輌というたったあれだけの数で驚異的な戦果を挙げていますが、その為には正確な目標情報が不可欠で、勿論無人機や衛星画像に諜報部隊の支援もあるのでしょうが、特殊部隊も浸透し指揮所や物資集積所に地対空ミサイル陣地などの情報を送っていたのではないかと考えます、東部地域での遅滞行動だ。

 弱点は無いのか、こう問われますとウクライナ軍特殊部隊最大の弱点は特殊戦航空機の不足でしょう、具体的にはヘリボーン作戦を行える程の敵地対空ミサイルの制圧を空軍が行えていませんし、アゾフスターリ製鉄所陥落前に幾度かおこなわれたヘリコプター強行輸送が白昼に行われていましたから、夜間超低空飛行可能な部隊がいないのかもしれません。

 ヘリコプターによる空中機動が出来なければ、移動は地上を車両や徒歩により移動するほかありません、故に移動速度はかなり遅くなります。ただ、ロシア軍の南部占領地域には道路上ではなく錯綜地形を徒歩で機動するならば発見されにくい。ウクライナ軍はキエフに浸透したロシア特殊部隊の掃討に成功したが、ロシアの侵攻軍にはその人的余裕がない。

 占領地ではロシア軍の評判は高くありません、国営ロシアテレビなどは歓迎ぶりを報道しますが、何故か違う街なのに街並みが同じ。具体的にはウクライナ領土ほど福祉が行き届くわけではなく家屋破壊など民生被害が高まる戦術を多用し、これでは萎縮しても歓迎はされません。ウクライナ軍特殊部隊はこうした地域で支持という森を自由に動けるのです。

 任務は恐らく、クリミア半島を含む南部地域においてゲリラ戦を展開し、ロシア軍に後方警備へ兵力を割かせる事で、東部地域の兵力を分散させる事にあるのでしょう。HIMARSの射程内に戦略目標が有れば座標を送れば撃破でき、飛行場に浸透できれば携帯無反動砲で戦闘機を破壊すれば効果は大だ。NATOはウクライナへカールグスタフも供与しました。

 ゼレンスキー大統領は、ウクライナ当局者が匿名でアメリカ報道機関などにウクライナ軍の特殊作戦をにおわせる発言に対して、戦争は功名心ではない、と勝手な情報開示を慎むよう発言しています。故に今回の情報は全て憶測ではあるのですが、キエフ防衛で見せた奇跡のような特殊作戦が、静かではあるも着実に南部で進められているのかもしれません。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする