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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【G3X撮影速報】岐阜基地航空祭2023【7】岐阜基地北側会場!ブルーインパルス展示飛行(2023-11-12)

2024-04-25 20:15:43 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■航空祭大団円
 岐阜基地航空祭も大団円へ向かう。

 ブルーインパルスの飛行展示もいよいよ最終盤にはいってきます、いろいろありましたが航空祭名物お化粧室渋滞に巻き込まれて一時はブルーインパルス撮影も難しいかと危惧したのですが、まあ、何とかなったということで由としなければならない。

 垂直系の展示飛行は曇天では視界不良により中止されてしまいますから、それでもまわりから、わあっ、というような歓声が上がる様子とともにT-4練習機の限界を示す最大限の飛行展示をみていますと、航空祭が日常に戻ってきたことを実感できるのだ。

 航空祭というのは天候に左右されるのだなあ、ということは毎回知識として走っているのですけれども、曇天の航空祭でも苦い経験はいつしか上書きされて快晴の航空祭という記憶がのこるものでして、しかし改めて曇天の航空祭を探訪しますと、ああ。

 曇天、南側会場は順光というのが売りなのだから、滑走路回って曇天のままだと残念な気分となるのですが、それでも人口密度はメイン会場ほど凄いことにはなっていませんので、ほぼほぼ最前列を確保できましたが、メイン会場の混雑は凄いですよね。

 岐阜基地航空祭、実のところ航空祭全般にいえることなのですけれども、ブルーインパルスが飛行展示を行う場合は、ざっと四万から五万ほど来場者が増える、という印象です。一万の誤差は周辺人口により左右されるというところなのですけれども。

 混雑の度合いは、南側会場からも有る程度みえていました、滑走路に着陸した航空機と管制塔やメイン会場の地上展示航空機を構図に含めて航空祭らしさを演出しようとしますと、おお混雑が凄いんだなあ、というのはと梅にもわかりますから。

 滑走路脇の最前列、というものをこのメイン会場で狙いますと、それはもう大変なことになるのですが、岐阜基地と小牧基地、日常的に撮影する基地の場合は無理に最前列へ行かずとも後ろのほうから撮影すると、混雑している航空祭、という情景が。

 満員御礼、そんな言葉がありますが実際のところここまで混雑していると、いろいろな視点を通り越してもはや潔い、いや心地よいなんていう情感がわき起こります、けれども地上展示航空機を撮影するにはここを横断しなければならないのだなあ。

 T-4練習機の続々と着陸する様子を望見する。岐阜基地航空祭はなにが公開されているのか、地上展示のなかにXASM-3やJDAMなんかが初公開された場所が岐阜ですから、地上展示をしっかり撮影しなければ後々に、出ていたのか、と驚き残念に思うことも。

 格納庫のなかを順番にみてから、そして航空機の方をみるか。あまりのんびりしていると格納庫の一般公開が終わってしまうけれども、問題はこの観衆をかき分けて移動するのは難しいので混雑していない側を、凪をみて撮影に移動することかなあ。

 岐阜基地航空祭、基地の規模としては巨大すぎるものではないのですが、なにしろ見所が覆い基地ですし、それ以上に滑走路の北側と南側を移動できる航空祭というのはそれほど多くありません、それでいて南北とも見所がおおいだから忙しい。

 航空祭は体力を使うのですけれども、配備されている航空機の種類も多いものですし、異機種大編隊というここでしかみられない展示もありますから、帰路にいっぱいやりに寄ってみてグラスを片手に写真をカメラでみるだけでも、達成感を感じられるのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】立本寺-観桜,洛中法華二十一寺は松本問答を経た天台宗と日蓮宗の全面対決

2024-04-25 07:00:11 | 写真
■いまはさくらが誇る
 こころと信仰の解釈を巡る対立というものは今なお世界を巡りますが中世には日本でも例外ではなかった実情があります。

 立本寺、このお寺の歴史を深く知るには日蓮宗の理解も開山となりました鎌倉時代の日像さんの歴史も一通り興味深い歴史を讃えているのですが、なにより洛中法華二十一寺と天文法華の乱という歴史を踏まえておきますと奥深さと難しい日本史の一端がみえる。

 松本問答という、今でいえば問答という話し合い的な要素ではなくこれは暴行に入るのではないかなあ、論破しただけでさやに収めればよかったもの、ともいえる一つの事件を契機に天台宗と日蓮宗が全面対決となります、天台宗は日蓮宗の法華宗自称も反発していた。

 天文5年こと1536年、天台宗からの報復を恐れた日蓮宗宗徒は相国寺を占領し陣地構築を開始、この陣地構築は塹壕を掘り櫓や障害物を増強、野戦築城というに相応しいもので、同時に天台宗もこの暴挙を含め室町幕府へ仲裁と武装解除を求めるも幕府は動きません。

 山科本願寺の戦い、というこの遡ること五年前に勢力を伸ばしていました浄土宗の勢力が一向一揆に打って出た際、日蓮宗は幕府に呼号し、細川晴元や茨木長隆の軍勢とともに本願寺攻撃に参加しており、幕府としては天台宗の要請を受け入れられない事情があった。

 幕府の係争に対する慎重姿勢は、熟考を重ねているうちに状況が悪化する危機管理上の禁忌でもあり、60年前に勃発した応仁の乱と似た構図とともに広がったものなのですが、この結果、日蓮宗の寺院は京都を追放、これが立本寺の形成させる背景となっています。

 本願寺と興福寺及び三井寺と東寺はこの動きに対して中立を宣言、他者の介入がないことを確信するとともに比叡山は僧兵の動員を開始、この時の兵力は6万とも15万ともいわれます、これに対して日蓮宗は洛中法華二十一寺から兵力を動員し2万を集めていた、と。

 陣地構築で先行した日蓮宗側は、遊里を活かすべく先制攻撃をかけたとされています。鹿苑日録記など当時の日記にしるされている一方、近江より六角定頼の軍勢3万が延暦寺に増援を出し、当時係争中であった三井寺も3千の増援を派遣し戦闘加入で兵力増強へ。

 洛中法華二十一寺、陣地構築で先行していた分は有利であったのだけれども兵力差は如何ともし難く、開戦から五日を経て比叡山僧兵は六角氏とともに洛中まで到達、洛中法華二十一寺への攻撃に移りました。日蓮宗も激しく応じ、応仁の乱以来の市街戦となった。

 四条口から洛中に進出した比叡山僧兵は洛中法華二十一寺を構成する本圀寺以外の20の寺院を焼き討ちし、戦闘七日目には本圀寺を包囲し焼き討ち、これにより日蓮宗側の戦死者は一万ともいわれます、しかしこの焼き討ちによる火は留まるところなく延焼してゆく。

 応仁の乱では京都の寺社仏閣の大半が焼け落ち、と説明されますが当時動員された足軽は現地雇用の傭兵に近く多くが下町に住居を構えていました、この為に応仁の乱の主戦場に広大な下町は含まれず、現在の市域に置き換えればおおくが焼け残っていましたが。

 天文法華の乱では焼き討ちされた洛中法華二十一寺は町衆の支持を集めたこともあり下町に隣接する寺院も多く、ここが焼き討ちされ大火を招いた。結果論ですが焼失面積は応仁の乱よりも広範な地域が焦土となり、幕府はこれをうけ日蓮宗の京都追放を決定します。

 幕府の禁令は厳しく、日蓮宗からほかの宗派へ移籍することや還俗し一般に戻ることを禁止、京都とその周辺への立ち入り禁止、そして破壊された寺院の再建を禁じました。これは勅許により許されるまで六年間続き、日蓮宗ではこれを天文法難と呼ぶほどでした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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