■薬師如来を奉じる三千院
京都の奥座敷はいまはまだ静けさを湛えているなかでの少し遠めの散策へと歩み進めました。
三千院、京都市左京区大原来迎院町という、貴人や仏教修行者の隠遁の地という歴史ある場所にありましてその歴史が示すように非常に奥まった場所に立地にあります。天台宗山門派三門跡寺院の一つであり、青蓮院、妙法院とともに格式の高い寺院でもあるのだ。
青蓮院、妙法院、実はこちらのほうが中心部からは交通が行きやすいのですけれども、共に令和の大修理と平成の大修理が続いていまして、もう少し長く伽藍は足場に包まれている、すると青椛が色づき始めた紅葉の季節には、三千院をひとく散策したく歩み進めた。
天台宗、三千院。大原は京都の奥座敷ともよばれるところでして、実際散策には少々考えさせられるところであることも事実なのですが、しかし歩み伸ばしてみますと鹿さんも散策している様子とも出会いまして。熊さんもいるのでしょうか、油断できぬ時代だ。
石階段の先に三千院が広がる、ちょっとだけ凪を待つ。紅葉の季節に無人のこの階段を撮影しようとしますと苦労するのでしょうね。呂律、呂川と律川という小川が流れているその先にありますここ三千院は声明、ろれつりょりつと日本の音の聖地となっています。
三千院、紅葉の人出がすごいということで有名であり、しかしこのまだ青紅葉が朱色ではなく黄緑色の気配を見せつつ、実際はまだ紅葉に一文字多い青紅葉という頃合いには、まったく人気は、閑散としていまして、さすがは奥座敷という気風をたたえていますと。
奥座敷としての気風を、いいたいところだけれども実はこの日は観光バスから大陸の方が二台分探訪されていまして、みなさんマナーがよい方なのですが静けさを考えたらば、一時間くらい茶店でお茶でも頂いた方がよかったか、あとお団子も、かと思ってしまう。
薬師如来を奉じる三千院はその創建を延暦年間、西暦780年代まで遡るといいまして京都でも屈指の古い歴史を滔々と流れるように湛える寺院の一つで、その歴史の長さは三千院門跡とはべつに梶井門跡や梨本門跡といういくつもの名前を冠せられる寺でもある。
最澄、延暦年間の創建という事で伝教大師最澄の時代に遡る歴史を有するのですが、しかし落ち着いて歴史を調べますと、三千院という名は中々見つけ出すことは出来ません、それもそのはず、もともとは円融院という名の寺院、そして今の滋賀院のあたりにあった。
円融院という名ではしかし、比叡山の近江側の南谷にありました寺院で比叡山に最澄が延暦寺を開いた際、東塔南谷の円融院として始まりました。円融とは仏教用語で調和や一体感という意味を示し、近い意味の日本語としては円満という意味合いもあるもの。
承雲和尚という人が貞観2年こと西暦860年に最澄彫像の薬師如来像を安置しまして、円融院は延暦寺の一部から独立した寺院になった、そしてその円融院の里坊を設けたという歴史があります。この里坊というのは山坊から高齢化で降りた僧侶のための寺院で。
三千院、実はこの名は江戸時代に冠せられたという歴史があり、そして当地に遷座したのは明治時代であったりします。そう、実はこの寺院は様々な場所を転々とした歴史があり、応徳3年こと西暦1086年には梶井里、近江八幡市付近に遷り円徳院としていました。
奥座敷、とはいうものなのですが大原の風景はここがしょうみょう、声明の地、という、音の音階や音律というものを修行の一環として修業していたといい、確かに程よい広さの盆地には、時折流れる読経とともに、なにか音が響く様子が連想できてしまうのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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京都の奥座敷はいまはまだ静けさを湛えているなかでの少し遠めの散策へと歩み進めました。
三千院、京都市左京区大原来迎院町という、貴人や仏教修行者の隠遁の地という歴史ある場所にありましてその歴史が示すように非常に奥まった場所に立地にあります。天台宗山門派三門跡寺院の一つであり、青蓮院、妙法院とともに格式の高い寺院でもあるのだ。
青蓮院、妙法院、実はこちらのほうが中心部からは交通が行きやすいのですけれども、共に令和の大修理と平成の大修理が続いていまして、もう少し長く伽藍は足場に包まれている、すると青椛が色づき始めた紅葉の季節には、三千院をひとく散策したく歩み進めた。
天台宗、三千院。大原は京都の奥座敷ともよばれるところでして、実際散策には少々考えさせられるところであることも事実なのですが、しかし歩み伸ばしてみますと鹿さんも散策している様子とも出会いまして。熊さんもいるのでしょうか、油断できぬ時代だ。
石階段の先に三千院が広がる、ちょっとだけ凪を待つ。紅葉の季節に無人のこの階段を撮影しようとしますと苦労するのでしょうね。呂律、呂川と律川という小川が流れているその先にありますここ三千院は声明、ろれつりょりつと日本の音の聖地となっています。
三千院、紅葉の人出がすごいということで有名であり、しかしこのまだ青紅葉が朱色ではなく黄緑色の気配を見せつつ、実際はまだ紅葉に一文字多い青紅葉という頃合いには、まったく人気は、閑散としていまして、さすがは奥座敷という気風をたたえていますと。
奥座敷としての気風を、いいたいところだけれども実はこの日は観光バスから大陸の方が二台分探訪されていまして、みなさんマナーがよい方なのですが静けさを考えたらば、一時間くらい茶店でお茶でも頂いた方がよかったか、あとお団子も、かと思ってしまう。
薬師如来を奉じる三千院はその創建を延暦年間、西暦780年代まで遡るといいまして京都でも屈指の古い歴史を滔々と流れるように湛える寺院の一つで、その歴史の長さは三千院門跡とはべつに梶井門跡や梨本門跡といういくつもの名前を冠せられる寺でもある。
最澄、延暦年間の創建という事で伝教大師最澄の時代に遡る歴史を有するのですが、しかし落ち着いて歴史を調べますと、三千院という名は中々見つけ出すことは出来ません、それもそのはず、もともとは円融院という名の寺院、そして今の滋賀院のあたりにあった。
円融院という名ではしかし、比叡山の近江側の南谷にありました寺院で比叡山に最澄が延暦寺を開いた際、東塔南谷の円融院として始まりました。円融とは仏教用語で調和や一体感という意味を示し、近い意味の日本語としては円満という意味合いもあるもの。
承雲和尚という人が貞観2年こと西暦860年に最澄彫像の薬師如来像を安置しまして、円融院は延暦寺の一部から独立した寺院になった、そしてその円融院の里坊を設けたという歴史があります。この里坊というのは山坊から高齢化で降りた僧侶のための寺院で。
三千院、実はこの名は江戸時代に冠せられたという歴史があり、そして当地に遷座したのは明治時代であったりします。そう、実はこの寺院は様々な場所を転々とした歴史があり、応徳3年こと西暦1086年には梶井里、近江八幡市付近に遷り円徳院としていました。
奥座敷、とはいうものなのですが大原の風景はここがしょうみょう、声明の地、という、音の音階や音律というものを修行の一環として修業していたといい、確かに程よい広さの盆地には、時折流れる読経とともに、なにか音が響く様子が連想できてしまうのです。
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