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【京都幕間旅情】天龍寺,幕末動乱禁門の変での無差別砲撃による全焼と戦災免れた太平洋戦争京都核攻撃危機

2023-08-16 20:00:15 | 写真
■免れた第四の戦火
 天龍寺は複雑な歴史の只中に在った故に戦火に何度も見舞われその合間合間に失火にも見舞われました。

 天龍寺と三つの戦争、鎌倉幕府滅亡に端を発し建武の新政と南北朝分裂までの一連の騒擾を背景に造営、応仁の乱による荒廃、そして最後に、幕末動乱により天龍寺は攻撃目標となり、徹底的な砲撃を受け全焼しています。これが天龍寺の最後の戦争という。

 法堂は明治時代の建物なのですが、これは禁門の変、蛤御門の変とも呼ばれる幕末の長州藩と薩摩藩との戦闘によりもともとの法堂を焼失したためという。御所までは8㎞ほど離れていますので、120mmRT迫撃砲でも使われたのかというとそうではありません。

 禁門の変は御所蛤御門において天皇の長州遷座、要するに拉致を試みた長州軍と御所を防衛する幕府軍薩摩軍の全面衝突であり、幕府軍薩摩軍の奮迅により長州軍が内裏に押し入ることだけはなんとか回避しました、これにより京都市内は未曽有の大火災となる。

 天龍寺はこのとき、長州軍の拠点となっており、反撃する薩摩軍が長州軍の立てこもる天龍寺を包囲、無差別砲撃を加えた。この際に略奪も行われたという記録があり、正義うんぬんよりも実際の行動を正当化するには限度があるという事を改めて思わせます。

 雲居庵、天龍寺への無差別砲撃はほぼすべての寺域を焼き払ってしまったということで、しかし奇跡的に残った塔頭寺院雲居庵の禅堂を、とりあえずと移築することで天龍寺は当面の復旧を望みますが、特に明治元年は廃仏毀釈の時代、移築さえ難しかった。

 法堂兼仏殿として雲居庵の禅堂を移築できたのは明治33年、つまり1900年という19世紀最後の年で、移築には36年もの月日を要したことになります。ただ、移築とはいえその規模は大きく、それだけに往年の天龍寺の姿を思い浮かべてしまうのですね。

 釈迦三尊像を安置しました須弥壇に、見守る様に光厳上皇位牌と歴代住持の位牌、この位牌を守るのは開山夢窓疎石と開基足利尊氏の木像という。今の法堂はそれでもこうした規模を有していまして、大方丈として明治32年即ち1899年に再建の建物と並ぶ。

 幕末動乱、東京遷都ももともとは荒廃した禁門の変ののちの京都の復興に限界を感じており、この結果戦災に見舞われていない江戸を東京として遷都した背景がありました。やはり今思い返しても幕末動乱の影響はやはり大きかったのだと改めて思うのですね。

 京都は、太平洋戦争における戦災を免れました。いや、正確には核攻撃の標的となっていた。梅小路の転車台を標的にする計画で、実行されていたらば東寺は吹き飛ばされて何も残らなかったでしょう、西本願寺と東本願寺も恐らく全部消し飛んでいたと思う。

 西本願寺と東本願寺は江戸時代に度々失火で燃えていたとはいえ、やはり考えると核攻撃に見舞われず良かったと思う。こう考えてみますと終戦記念日を考えさせるものというものは深いものがあるのですが、最近はもう一つの危惧を考えねばならない。

 ロシアウクライナ戦争においてロシア軍は文化財を標的としている、ロシア軍が配備する自爆用無人機や巡航ミサイルは沿海州から京都へ届くのだ。三つの戦争を超えた天龍寺、しかし四つ目というものはいつ想定せざるを得ないのか、危機管理上考えてしまう。

 第16師団司令部の建物が学校に転用されているなど、軍事史跡も多いですし、なにより京都には舞鶴基地があり、こここそまさに舞鶴軍港を継承している。太平洋戦争を連想する場所は京都に数多く、故に終戦の日とこれからの安全保障を考えてしまうのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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