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【京都幕間旅情】東寺-紅葉,後白河法皇の皇女である宣陽門院の帰依と嵯峨天皇の空海への下賜

2024-12-22 20:00:12 | 写真
■京都散策
 当時の話題をそろそろ紅葉の季節よりも年末の季節を迎えます故に本日も紹介しましょう。

 東寺は嵯峨天皇から空海に下賜されたことで密教寺院となった。真言宗の根本道場という位置づけであり、この位置づけが明治維新まで連綿と受け継がれたことで、現代においても多くの国宝を、そして重要文化財などをたたえている、という。

 教王護国寺、東寺とともにこの寺院の正式名称の一つは、仏教を布教する事により国家を、という、それは科学が未発達であり人心さえ不安定な時代において、国家の一体性を保つための一つの方法論として、布教というものを位置付けていた寺院です。

 真言宗、布教の過程というものを私は専門研究者ではない故によくわからないのですが、御大師様、という信仰は平安朝の頃ではなく鎌倉時代から大きく広まったということでして、このころから拝観者も増えてゆき、皇族から庶民まで、という規模で。

 後白河法皇の皇女である宣陽門院の帰依、というものが東寺を大きく高めたとされていますが、平安朝の初期に密教が日本に伝来し、嵯峨天皇の時代にこの東寺が下賜されたと歴史にはあるわけですから、東寺がこう、大きく飛躍するのに時間があったという。

 歴史、知ったようでこれも専門研究をしている訳では無いものですからわかりにくいのは、密教がどのように広まっていったのかを時系列的に地域というものをわからないのですが、これが広まるとともに拝観者が増えたのだろうか、と考えたりするのです。

 伊勢神宮のような、一つの参拝への長躯という巡礼がおこなわれていたのかということもちょっとわからないものですから、日本という社会における東寺と真言宗の位置づけがどう広まったのかも、これは一つ興味あるところです。

 京都を中心に物事を見ていますと、十二月十四日は?と人に問われましたならば、戦艦榛名の進水式記念日、と答えて、いやそこは忠臣蔵、と反論され、わらわれてしまうこともあるのですが、この寺院の信仰の広まりも京都中心にどうしても考えてしまって。

 歴史を感慨深く散策するという事は、独りよがりになってしまう、それは自分の解釈の幅が大きいためなのですが、その歴史をもう少し深く調べてみたいなあ、とは思うところ、もっともこれを突き詰めるにはもう少し、時間に余裕のある年代をまつほかない。

 龍谷大学にでも聴講生で行ってみたい、とかくと百寺巡礼の著者のようになってしまいますが、まあ、そこまでわたしは作家ではないものですから、こうした興味を満たすのは、もう少し書籍と研究をあさってゆくしかないのだろうなあ、とも。

 東寺一長者という東寺の筆頭は真言宗の中心という位置づけであるとともに、法務という、法律ではなく宗教的な法務という意味なのですけれども、この地位が律令制における仏教界の首座として位置づけられていた訳です、これも明治維新まで続いたという。

 紅葉の季節の当時を巡りますと、こうした乗艦のようなものが湧き出してきますとともに、やはりここも思ったほど混雑していないのだな、という率直な感想が湧き出てくるものでしてちょっと不思議に思います。実際、今年紅葉で混雑を感じていない。

 紅葉の季節、思えば十二月に入っても紅葉が続いている訳ですので、常識的な観光ツアーではもう紅葉の拝観というものの計画を立てていない時期になっているのか、と考えつつ、やはり京都は観光よりも散策する街として考えるべきだ、と実感しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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