海上自衛隊は、横須賀・佐世保・舞鶴・呉・大湊を艦艇の母港として日本の防衛に当たっている。
こうした中で2005年11月1日の自衛隊記念日に横須賀基地周辺を散策する機会があったため、その様子を写真にてお知らせしたい。
横須賀は明治17年に大日本帝國海軍の横須賀鎮守府が設置され軍都となったが、以前は江戸時代、内浦の漁村を中心に造船業が発展していた。これは1864年に江戸幕府勘定奉行の小栗上野介が長浦湾に海軍操練所の建設を始め、フランス海軍造船技師ウェルニーによって造船施設が建設された。明治9年、日本政府はこれを正式に取得し、日本海軍の施設として運用を始めた。
造船所の運営と共に工員が横須賀に移り住み、同時に商店や旅館業が発達、明治9年に横須賀村は横須賀町となった。
横須賀鎮守府は横浜の東海鎮守府が横須賀に移転した事がその起源で、造船所も海軍の管轄となった。これを契機に海軍軍人家族が横須賀に移り住み、明治22年新町村制施行に伴い逸見村と合併し横須賀町となった。同時に長浦湾の海軍基地化が進められた。
一方で箱崎半島の付根部分に水路が建設され、半島は島として独立、今日の吾妻島が誕生した。なお蛇足ながら、横須賀に移転する前の横浜東海鎮守府は横浜駅から徒歩五分の好立地にあり、加えて海軍省も新橋駅から徒歩三分の立地にあったことで、最初の鎮守府が横浜に置かれたことにも納得がいこう。
横須賀軍港は従来の造船に加え明治19年より艦艇への給水が行われるようになり、明治22年に艦艇の母港化が為されるようになった。日清戦争を境に海軍の重要性は高まり、同時に横須賀軍港も発展していった。
明治39年に豊島町を合併し明治40年横須賀市が誕生、人口は六万人に達していた。
第一次世界大戦の戦利品である燃料タンクを久里浜湾に設置したことで軍港としての機能は更に高まった。また、大正元年、海軍航空部隊の発足と共に追浜に航空機運用施設が完成した。
転機となったのは関東大震災で、市街地は壊滅的な被害を受け白浜の海軍機関学校は焼失し江田島に再建、全壊した海軍機関学校は舞鶴に移転された。なお、ワシントン海軍軍縮条約によって退役となった記念艦三笠も震災の影響によって前部が沈下した為陸上に乗り上げる形で避難させ、現行の展示位置に置かれるに至った。同時に、廃墟となった市街地を再区画整理し、分散していた海軍施設の集中を図った。
太平洋戦争が始まる頃には横須賀は六ヶ所の船渠を有する海軍造船の一大拠点となっていた。しかしこの頃になると横須賀湾・長浦湾沿岸には余剰用地が払底してしまい、田浦や館山、楠ケ浦などに分散していった。
太平洋戦争中は防備隊が置かれるなど戦時体制に移行し、行政の簡素化のために浦賀町・逗子町・大楠町・長井町・北下浦村・武山村を横須賀市に編入させ大横須賀市が誕生した。
横須賀は軍港であったが、それゆえ防備も厳重であり本土空襲の被害は東京や横浜といった都市部と比較し比較的少なかった。
敗戦後横須賀は平和産業都市への移行を目指したが、何分軍都でありサンフランシスコ平和条約に基づき在日米海軍司令部が移転、1954年の海上自衛隊発足を待って海上防衛の一大拠点となり、今日に至る。
記念艦三笠、三笠公園から東京湾に延びる半島は今日、米軍基地として管理されており幅1km、縦2kmの広大な敷地を運用している。一方、JR横須賀駅の正面には第二潜水隊群司令部の施設があり、写真では海上自衛隊の潜水艦五隻が係留されている。写真は“おやしお”型潜水艦が機関が試運転をしており、その後方に見えるのは吾妻島である。島は東側が米軍用地、西側が海上自衛隊横須賀水雷整備所となっている。
写真は横須賀本港のバース5に係留されているアメリカ第七艦隊旗艦ブルーリッジで、陸海空三次元で展開される揚陸作戦を一括して指揮する目的で1970年11月に就役した。乗員786名と指揮要員673名、加えて揚陸部隊700名を輸送する。なお、満載排水量は19648㌧にも達する。
なお、同時多発テロ以降米軍艦艇の警戒は極度に達し、写真からは確認できないが名古屋港にブルーリッジが入港した際には12.7㍉機銃やM-24狙撃銃、M-14小銃に実弾を装填した警備要員が24時間体制で配置されている。
1983年から27隻が建造されたタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の一隻(艦名不明 CG-63カウペンスか?)で、画期的な洋上防空システムイージスシステムを搭載する米海軍の主力艦。しかし、本級はスプルーアンス級駆逐艦の上にイージスシステムを搭載した設計であり、初期の艦艇はトップヘビーが議会で問題となった。この初期の艦艇は退役が始まり、現在現役にあるのは23隻である。満載排水量は9957㌧である。
手前に係留されている二隻の潜水艦は手前の潜水艦が『ゆうしお』型、桟橋側が『はるしお』型である。艦橋後方のバルジの有無が相違点であるが二隻を対比する理想的な写真といえる。
『ゆうしお』型は水中排水量2900㌧、1980年から10隻が建造された。現在、二隻が現役、一隻が練習潜水艦として運用されている。『うずしお』型潜水艦の改良型であるが、同級が機関部のギア、そして推進用軸に問題があり騒音に悩まされていたが『ゆうしお』型では解決されている。なお、五番艦以降はハープーンSSMを運用可能な型である。
『はるしお』型は水中排水量3200㌧、ティアドロップ(涙滴)型潜水艦の頂点で、七隻が建造されている。内一隻はAIP潜水艦試験に運用されており六隻が運用されている。
双方とも機関出力は7200馬力、速力は20ノットである。
横須賀地方隊司令部施設と吉倉桟橋に接舷する護衛艦群。JR横須賀駅から撮影したものだが、撮影場所は約800㍍に渡って遊歩道が整備されており、市民の憩いの場となっている。吉倉桟橋はЦの形状となっており、多数の護衛艦や補給艦が接舷している。
写真では監視楼のようなものは見当たらないが、鉄条網が敷設され一応の警戒態勢を敷いていたが、恐らく監視カメラや各種光学機器によりテロを警戒していると思われる。なお、米海軍は横須賀基地に対テロ中隊を配置しており、厳重な警戒網を敷いている。
横須賀駅に隣接する衣笠山には遊歩道があり、十五分ほど登ると横須賀基地一望できる絶景に辿り着く。
吉倉桟橋には七隻の艦艇が係留されており、若干判り難いが右側から“DD-101むらさめ”“DD-102はるさめ”“AOE-423ときわ”“DDG-171はたかぜ”“DDH-143しらね”“DD-111おおなみ”“DD-110たかなみ”を見る事が出来る。この中で最小の艦は満載排水量5900㌧の“はたかぜ”であるが、この写真にある艦艇だけでも中堅海軍国一国の総兵力に匹敵する規模であり、水上戦闘艦勢力で世界第二位の規模を誇る海上自衛隊の艨艟の威容を改めて感じる事が出来る一枚である。
写真奥の二隻は『たかなみ』型護衛艦で、満載排水量6300㌧、双方とも2003年に就役した最新鋭艦で第一護衛隊群第五護衛隊を構成する。後述する『むらさめ』型の拡大改良型でヘリコプターを必要に応じて二機まで搭載できる点、火砲をOTO社製5インチ砲へ改良した事、ミサイルを艦橋前のMk-41VLSに統合したことが主な改良点である。
隣の『しらね』は『しらね』型護衛艦のネームシップで第一護衛隊群の旗艦を務める。満載排水量は7200㌧で背負い式の5インチ砲が特色である。またヘリコプター護衛艦であり、三機のヘリコプターを搭載し、ASW(対潜戦闘)に大きな威力を発揮する。海上自衛隊初のデジタルコンピュータ統括のシステム艦であり1980年に就役した。本型が搭載する5インチ砲はアメリカFMC社製であるが、重量は小柄ながらも58.6㌧でOTO社製の37.5㌧よりも重くなっているが射程では勝っている。発射速度は二門で毎分34~68、射程は22kmとなっており、ミサイルの途上期に際しては経空脅威に対して大きな威力が期待できた。
写真は『むらさめ』『はるさめ』で、九隻が建造された『むらさめ』型のネームシップである。『むらさめ』型は『はつゆき』型『あさぎり』型と続いた護衛艦隊主力DDの一つで、満載排水量は6200㌧に達している。前述した『たかなみ』型は本型を改良したものであるが、12隻が建造された『はつゆき』型の対潜・対艦・対空の各種ミサイルを有し、哨戒ヘリコプター格納庫及びガスタービン推進方式という基盤設計に対して、8隻が建造された『あさぎり』型では航洋性とヘリ格納庫面積の向上、9隻が建造された『むらさめ』型では航洋性の一層の向上とステルス性の向上、5隻が建造されている『たかなみ』型では火力の向上が盛り込まれており、更に平成20年度以降は画期的なステルス護衛艦の新造が始まる見込みである。
蛇足ながら、『むらさめ』型はジェーン海軍年鑑などにおいて“ミニイージス”と呼称されている。これは国産の火器官制装置FCS-2が限定的な多目標同時迎撃能力を有する為で、対空ミサイルをMk48VLSから運用しているが、同機がRIM-7シースパロー(射程14km)運用専用であるのに対して、『たかなみ』はMk-41VLSから運用している。これは発展型シースパロー(通称ESSM 射程30km)を運用可能で、VLS1基に4発を搭載可能であるから『たかなみ』型は最大で64発のESSMを搭載可能であり、『むらさめ』型も順次Mk41への換装を進めている。これにより、対空迎撃能力に関して、DDG並の能力を有する事となろう。
付け加えればFCS-2は亜音速目標を対象に開発が進められたため、ヤホントやサンバーンといった超音速対艦ミサイルへの対処能力に不安があり、RAM近接個艦防禦ミサイル等の追加配備、若しくはCIWSとの換装が望ましい。
此処の位置からは判別は非常に困難であるが、中央の垂直で広い面積を有する艦橋は『とわだ』型補給艦と思われ、横須賀を母港とする『ときわ』と思われる。1987年から三隻が建造された艦隊補給艦で満載排水量は12100㌧(ときわ以降12150㌧)と比較的中型の下に位置する補給艦である。本型と『さがみ』(退役)によって護衛艦隊隷下の四個護衛隊群は各一隻の補給艦から支援を受ける事が出来、その作戦能力は大きく向上し、加えて本型は2001年11月19日以降継続している“インド洋対テロ海上支援任務”に対して海上補給の中核として参加している。
また、舞鶴・佐世保基地には本型の拡大改良型である『ましゅう』型(満載排水量25000㌧)が2004年度から就役し配備されている。
隣には、マスト上のレーダーの形状が三次元レーダーSPS-52であり、加えて前掲の写真などから後部甲板に5インチ砲が確認できる事から『はたかぜ』型の横須賀第一護衛隊群第61護衛隊に所属する『はたかぜ』であると推測される。満載排水量5900㌧の本型は、初のガスタービン推進方式ミサイル護衛艦として2隻が建造されたが、ミサイル護衛艦がイージス艦へと転換した過渡期の護衛艦である。写真では判別できないがミサイル護衛艦として初めて本格的なヘリ発着能力や、艦前部にスタンダードミサイル発射機を置く等の特性がありながら、ある種目立たない艦といわれている。前述の『むらさめ』型DDよりも満載排水量で小型であるが、SPS-52の探知能力はさすがDDGであり、DDを上回っている。この他、横須賀基地にはいわゆるイージス艦『きりしま』(満載排水量9500㌧)が配備されている。
写真は多用途支援艦『すおう』で、満載排水量は1400㌧である。自走水上標的母艦として又は標的機の発射などを介する訓練支援や輸送任務、救難を担当する『ひうち』型の二番艦で、同型は三隻が就役し二隻が建造中である。貨物搭載量は13㌧で、艦橋上部には消防用の放水銃を有しているが、建造中の二隻は特に潜水艦への訓練を重視した設計となる見込みである。運用は横須賀地方隊である。
横須賀にはこの他、掃海隊群の掃海母艦『うらが』(満載排水量6850㌧)や掃海艦『やえやま』型(満載排水量1200㌧)3隻が配属されており、横須賀地方隊隷下の第21護衛隊が保有する『はつゆき』型護衛艦(満載排水量4000㌧)3隻、『すがしま』型掃海艇(満載排水量590㌧)3隻やその他多数の艦艇が配備されているが、この日は見る事が出来なかった。
最初に掲げた『おやしお』型を近傍のショッピングモールから撮影したものである。第二潜水隊群には7隻の潜水艦が配備されているが内5隻が在泊していた。
本型は『うずしお』型『ゆうしお』型『はるしお』型と続いた涙滴型から葉巻型に移行した潜水艦で、水中排水量は3500㌧、8隻が建造され3隻が建造中である。白く太く排出されているのはディーゼルエンジンの排気で、その直前から細く出ているのはエンジンの冷却水である。出力は7700馬力、吸音タイルによる音響ステルス性の向上や側面ソーナーによる探知能力の向上が図られたが2009年には水中航行能力を大幅に向上させたAIP(Air Independent Propulsion)潜水艦の配備が開始される見込みである。
これら写真は基地外から撮影したものであるが、かつての軍都を気さくに写真撮影できるということは、それだけ日本は平和であるという事の証であり、神奈川県を訪れた際は皆さんも一度横須賀を散策する事をお勧めしたい。
今回より新カテゴリとして、“海上自衛隊催事”を設定した。自衛隊記念日の満艦飾以外にも今後参加するであろう観艦式、展示訓練、基地航空祭、体験航海、艦艇入港、艦内旅行なども掲載予定である。
HARUNA
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