純粋に与えるという行為は、大いなる心の平安をもたらすが。生きるために、いろいろなしがらみから、本音とは別で屈服・忍従することがある。屈服は恨みを残す。
小学校の高学年になったころ、父親に屈服することが何回かあり、それは、変な恨みを蓄積し、或る日ゴルフ好きの父親のゴルフの本を、庭の焚き火で燃やしたことがあった。
焚き火は父に見つかり、さらに怒られてしまった。気まずい空気が流れた。
意に反した屈服は、一見美しくその場を切り抜ける処世術のようであるが、自分の本音を分からなくし、或る日突然、人間関係を恨みから悪化させる。
中学校の2年の時、突然濡れ衣で職員室に呼ばれた。担任のA先生は、50台の教育熱心な女性の先生であった。
厳しく追求されたが、やってないことはやってないので、悔しくて泣いたが屈服しなかった。最後は先生が折れた。
その後、A先生を嫌いになることもなく、進級してからも親しみをもち、A先生の良い影響も受けた。理を通し屈服しないことは、重要なことである。
大人になり、毎日の複雑な暮らしの中で、意に反して屈服・忍従を強いられることは残念ながらある。
その中で、自分の本音・真実の感情を点検しつつ、バランスをもって主張し、愛をもって生き抜いていければと思う。
人気blogランキングへ <- 1クリック応援お願いしますね!。<自分との和解7>