マッサンの家族の反対をおしきっての国際結婚。常識的な当時の結婚の条件から考えると、考えもしない条件だったかもしれない。そんなドラマを観ていると、人間って素晴らしいと思う。条件のない浮世離れしているような世界、それでいて地に足がついている世界。
縄文時代でも、同じような遠隔地結婚はあったようだ。多摩の縄文の村に東北の違う文化圏の嫁が来る。土器の研究からそんなことも判るらしい。ひょっとすると海外からということもあったかもしれない。
今私は、まだ現役とはいえ、30代40代50代のころとは違う。この年代は子育てや仕事さまざまな大変なことにぶつかる。そして、問題の矢面に立ちやすい年代かもしれない。そんな中、私も利害得失が頭の中を占め、何となく生き方が荒廃?した時期もある。まあ、ある意味仕方がない。
利害得失の世界で崩壊する前に、悔いのない人生をのんびり考えることは大事なことだ。私も、ある心理学系の勉強会に参加したお蔭で、違う世界の存在を深めることができた。それは、死のある人生を考えることである。そして、条件付きの利害得失の世界の外に何かが微かに見え始める(勿論、生き抜くために利害得失は大事な要素ではあることは変わりがないが)。ちがった人生、他者の人生が不思議に眼に入ってくる。
8000年前とかの、縄文世界。この時代は、美しい川沿いに暮しなどを妄想し良いなとは思うが、厳しい現実も事実だったようだ。平均寿命が30歳くらいという説もある。大切な人が突然亡くなったり、突然病気になったり・・・そんな中、私たちの祖先は、きっとお互いにささえあって生き抜いてきたのだろう(傾聴もきっとしていたのだろう)。当時の祖先は何を信じたのだろうか。単に利害得失だけでなく悔いのない人生も見つめていたと思う。
様々な研究が考古学者や宗教学者などによってなされており、かつては信じられないような世界が最近私の前に広がってきている。
昨日は、ミルシャ・エリアーデの「豊穣と再生」(せりか書房)がアマゾンから届き、さっそく読み始めた。たとえば月。この月と世界の宗教の関係は、何か私たちの宗教の源流を示唆しているように思えてならない。日本神話がギリシャ神話に極めて似ている部分があり、そんな神話はある時点でギリシャから渡ってきたという人もいるが、私は、5-6万年にアフリカを出立して世界に散らばった原宗教にすでに原型があったのではと妄想している。
月の持つ不思議な周期性、誕生から死と再生。そのイメージは女性、水、火、蛇、カエル・・・と繋がってくる。私はキリスト教、カトリック信徒だが縄文の勉強を深めていくと胸が熱くなってきてしまう。
キリスト教が西欧の文化の基盤になっているのでキリスト教を理解しなければという日本人も最近多いようだ。「ふしぎなキリスト教」という日本の社会学者が書いた本が30万部売れたりする。そして、「ふしぎなキリスト教と対話する」という立派な本もでたり。私も紹介されて、これも先日買って読んでいる。しかしページをめくりつつ、ふと思うのだが、キリスト教理解もそういった本で学ぶのも良いが、縄文の宗教に想いを巡らすことも、遠回りなようでキリスト教理解や、自分の宗教を深めることに大きく繋がるかなと。
さて、縄文を少し離れ、ブログでの一連の傾聴の問題に戻ってみよう。
傾聴で大切なこととして、U先生の「生き甲斐の心理学」2章を有難く参考にさせていただき、「心理的接触」、「傷つき度」、「ありのまま」と進めてきた。そして、今日は「条件なしの配慮」。
マッサンとリタの結婚でも浮世の世界の「条件つきの配慮」が大問題。傾聴でも、大切な人とは条件付きが凄まじいほど顔を出しがちだ。しかし、傾聴するには、「条件なしの配慮」をこころがけねばならない。そうでないなら傾聴はなりたたない。聴き手がそのようなスタンスで寄り添っていると、話し手がふと悟って回答を見出していく。そんな、たましいの会話は、月が新月となり三日目に三日月が現れるようだ。しかし、マッサンはこれからたのしみだ。
私とあなた ③ 4/10