イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

話せば判る!話しても判らない!(暮らしの中のカウンセラー⑬)

2010-06-30 | 第九章「愛」
 暮らしの中のカウンセラーに必要な6つの領域の勉強のうち、人間観と性格形成論に触れてきたが、今日は病理論について考えている。単純に言えば、理想と現実のギャップの悩みをどう解決するかが課題なのである。

 さて、私も人生で沢山の失敗を経験してきたが、サラリーマン時代「話せば判る!」と意気揚々として出かけ上手くいかなかった経験は山ほどある。若いころは力を落したが、人生の経験を積むと、だんだんと「話しても判らない!」が普通なのだと気づくようになってくる。

 組織などは、指揮命令で動くところがあり、一見「話せば判る!」が機能するように見えるが、多分錯覚が多いのだろう。

 話せば判る・・・と希望を持って話しに行く時は、相手の人の感情をどうにかしたいと思うからだ。相手は、不安がっていたり、怒ったり、落ち込んでいたりしている。そういう感情を何とかしたいと優しい貴方は思ってはずだ。

 「生き甲斐の心理学」で、感情はその人が持つ理想と現実のギャップから生じると学ぶ。従って、話すことにより、相手の方の理想ないし現実の考え方を変えようとするのだろう。しかし、これは意識された相手の方の理想と現実の話もあるが、意識されない理想と現実もあり、伏兵が待ち構えている戦場だ。

 また、自分ですら自分の理想と現実を正確に把握するのは難しい。他人の理想と現実の把握は遥かに遥かに難しい(判っていると錯覚するのは多いが)。さらに、相手も人間、さまざまな事情があり貴方に100%こころを開いているわけでもない。相手の理想と現実探しは困難を極める。

 「話しても判らない!」これが経験を積んだ大人が考える結論かもしれない。

 それでも、仕事上その困難を克服しなければならなかったり、大切な人を支援したいと想う人もいる。そこで、傾聴とか、カールロジャースの6条件が生み出され、大切にされる。相手の理想と現実をじっくりと観たり聴いたりすることは本当に大切だ。さらに、自分の理想と現実の把握も上手くでき自問自答から、自分をより知ることも、相手との関係という点から見ても、とても大切だ。

 第3の道は、「話せば判る!」のちょっと謙虚さを欠いたスタンスでもなければ、「話しても判らない!」の悲観論でもない別の道なのだろう。利害を越えた愛で繋がる暮らしの中のカウンセラーの世界だと思う。それは、結構訓練と修行がいる世界のようだ。


暮らしの中のカウンセラー⑬(見えないものを観る、聞こえないものを聴く 43/60)

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心の奥のケガレの思想・・・(暮らしの中のカウンセラー⑫)

2010-06-29 | 第九章「愛」
 多感な高校生の時に出会った、中原中也の詩。当時は学生運動も盛んな時期でもあり、≪汚れつちまつた悲しみに……≫の詩などは、当時の暗い心境を思い出させる。因みに中原中也のこの詩も著作権が切れて、インターネットの青空文庫などで、自由に見られる。興味のある方はここを。とりあえず、この詩を参考までに。

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汚れつちまつた悲しみに……


汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

ーーーーーーー

 さて、中也の詩を始めて眼にしてから、40年近くたった、ある日たまたま、中也の詩集を読んだのだ。非常にカトリック的だと感じた。調べてみると、中原中也は山口生まれで、カトリックのピリオン神父との交流も20歳台まで続いているようである。ヴェルレーヌの影響も良く言われているようであるが、カトリックの関係は非常に深いものだと思う。

 特に、、≪汚れつちまつた悲しみに……≫が掲載されている「山羊の歌」には、すぐそば次の詩が掲載されている。信じて見えてくるものは何か。信じないで見えてくるものは何か。非常に良くあらわしているようだ。

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    Ⅴ幸福

幸福は厩(うまや)の中にゐる
藁(わら)の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈して、怒りやすく、
  人に嫌はれて、自らも悲しい。

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎へられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

ーーーーーーー

 話は変わるが、ケガレの思想は、古事記でイザナギの禊ぎの神話まで遡り、日本人にとっても実に馴染みのある思想だと思う。日本も古代はカースト的な社会であったのだろう。その影響は現代、自分の深層にまで食い込んでいるように思う。

 自分の成育史を考えると、様々なところで人生の決断に影響を与えてきたように思えてならない。

 最近は平家物語や室町時代に凝っているわたしであるが、時に、中也の詩集も読んでみよう。心の深層のお勉強は、いろいろ忙しい。

(このシリーズは「生き甲斐の心理学」を参考にしています。U先生、ありがとうございます!)

暮らしの中のカウンセラー⑫(見えないものを観る、聞こえないものを聴く 42/60)

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言霊(コトダマ)の国の悩み!(暮らしの中のカウンセラー⑪)

2010-06-28 | 第九章「愛」
 外資系企業に勤めていたとき(随分前の話であるが)、比較広告のことで考えさせられたことがあった。海外では、余り問題にならないが、日本では自社の商品を説明するときに、他社の商品と露骨に比較したりすることは、一般的に避けられるのである。非常に微妙な言葉の配慮を必要とするのである。

 別の話だが、先日の娘の結婚式。パーティなどはやはり忌み言葉は当然のように避けられていた。

 そして、何より、外国などに行って気づくのは、日本人の寡黙さである。

 不吉なことを言ってはいけない。口は災いの元。これらの日本の空気のような思想の源流は、日本の言霊思想にあるようだ。そして、この2-3年勉強してきた古事記を思い出す。

 最近、村上春樹の「1Q84」や「海辺のカフカ」を読んだが、この中に異次元への出入り口がいろいろ出てくる。高速道路上のあるスポットだったり、高知の深い森であったりする。古事記では黄泉の国の有名なイザナミとイザナギの話があるが、ここにも黄泉津比良坂が登場するが、黄泉の国との出入り口になっている。

 黄泉の国の支配者となったイザナミ。その語る言葉に忌み言葉の原型的なものを感じてしまう。その中で、≪わたしを見ないでください。≫というイザナミの言葉は何だったのだろうか。結局ギリシャ神話などにもあるとおり、イザナギはイザナミを見る。そしてイザナミは≪私に恥をかかせた≫とイザナギに怒りをぶつける。

 日本の言霊思想はどのようなものなのか。興味は尽きない。それは、21世紀の私たちを意外なところで支配している深層の思想のようだ。

 そして、それが自由な心の発露を押さえる防衛機制の親分、抑圧や抑制と関係しているようにも思える。

 今日はちょっと暗い話になってしまったが、イザナミやイザナギの神話も、元は二人が互いに愛し想いやるところに成立する話である。霊的な世界を、日本人は恐ろしい世界が隠れていると感じつつも、結局は愛の世界に通じると考えているのではとも思う。村上春樹の小説も、劇的なハッピーエンドではないかもしれないが、ふわっと暖かいものが残る。

(このシリーズは「生き甲斐の心理学」を参考にしています。U先生、ありがとうございます!)

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日常的なことに隠れた、魂の眼を曇らせるもの!(暮らしの中のカウンセラー⑩)

2010-06-27 | 第九章「愛」
 孫に初めての歯ブラシ。可愛い歯ブラシがあるんだなと想う。

 さて、歯磨きについて今日はいろいろ思索している。実は、日本のロケットの父、糸川英夫氏の「一日一発想366日」を読んでいたら、歯磨きについて書かれていたのだ。氏は研磨剤入りの歯磨き粉が歯にとって長期に見て良いのだろうかと疑問をもち、普通の薬用石鹸が良いのではと考えるようになった。

 実は、もう10年以上前に氏の別の本でこのアイデアに接し、私もも一ヶ月位石鹸歯磨きを実施した経緯がある。確かに良かったが、しばらくするうちに、歯がピカピカという感じでなくなり、いつのまにかやめてしまった。ただ、研磨剤入りの歯磨き粉で本当に良いのかという不安はずっとある。

 大事な歯なので、口腔ケアは時どき考える。食後に歯磨きするのは良いが、いつも研磨剤入りの歯磨き粉が良いのか。たいていは水だけで良いのではないか。ひょっとしたら、糸川英夫氏の石鹸以外にもっと良いものがあるのではと気になる。

 大事な歯は、自分の身体の一部である。自分を大切にするのは大切な自己実現の道の要素だ。

 話は心理学に変わる。

 生まれてから、糸川英夫氏の情報に触れるまでは、歯磨き粉などについては、幼いころからの習慣で、考えることは無かった。習慣として覚えて、それを繰り返した。両親も家族の誰も歯磨きについて疑問を呈することなく過ごしてきた。

 日本は甘えの構造の国と言われる。専門用語を使うのを許していただければ、防衛機制の同一化が幅を利かせている国という考えである。聖徳太子が≪和をもって尊しとなす≫を17条憲法の一番目にした古くからの伝統がある。

 日本の文化は、いつの間にか自分の深層に入り込み、全く空気のような防衛機制となり、自分の内にある回答を観えなくする働きをしている。

 防衛機制は、こころの安定を保つという良い面があるが、真実を曇らせるデメリットもある。時に、≪みんなで通れば怖くない≫ではなく、孤独に耐えて思索することも重要ではないかと想う。

(このシリーズは「生き甲斐の心理学」を参考にしています。U先生、ありがとうございます。また、今回は井沢元彦著の「逆説の日本史」、土居健郎著の「甘えの構造」を参考にさせていただきました。)

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何が魂の眼を曇らせるか?(暮らしの中のカウンセラー⑨)

2010-06-26 | 第九章「愛」
自分にとっての人生の難問。その回答が自分自身の中にあるとすると、何故、それが見えなくなるのか?ある時、ふっとそれを悟ったりする。これまでも何度か、そのテーマを取り上げたが、回答が意識化されないのは幾つかの理由があるようだ。

 暗い感情、不安感などがあれば、それが見えなくなる。アルキメデスがお風呂でアルキメデスの原理を発見したそうだが、何となく判るところがある。ほっとする時とか場所。確かに不安感から開放され、明るい感情が生まれやすいのだろう。

 自分の場合も、朝から夜寝るまで、不安感に満ちている。不安感が自分の理想と現実のギャップから生まれると仮定してみると、自分の意識化された理想と現実のほかに無意識的な理想が不安感を生み出していることに気づく。

 理想が不安感につながる。

 自分の意識化された理想、あるいは無意識的な理想はどのように生まれたのだろうか?そんなことを、考えていると、自分の生まれおちてからの生育史の中でいつの間にか形成されてきたことに気づく。人格形成論が大切にされている理由である。

 さて、理論は別にして、今日は自分を支配している理想について想いを馳せている。基本的な囚われといっても良いかもしれない。育てられた環境・文化も大きい(日本の古層など)。時代背景と人格形成も大きいかもしれない。そして、父母など親しく育てていただいた方々の、様々な直接的な影響もあるだろう。

 この一週間、気になっているのは祖父の影響である。16歳の時に亡くなったのだが、隣に住んでいて、いろいろな思い出がある。そして、いつの間にか自分の理想像になっているようである。意識的には余り思い出さないのだが、無意識的なところでかなり影響があると思う。

 そして、理想は人生に大きなポジティブな面があると思うが、不安感を湧き起こす原動力にもなり得るのだ。祖父のイメージは、昔の私の祖父の解釈から成り立っている。その解釈を少しずつ変えていくと、自分の中の無用な不安感も変わってくるように感じる。

 人は多面的な存在である。最近つくづく想う。

(このシリーズは「生き甲斐の心理学」を参考にしています。U先生、ありがとうございます。)

暮らしの中のカウンセラー⑨(見えないものを観る、聞こえないものを聴く 39/60)

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