4月も今日で終わり。明日からは5月である。今は死語になってしまったかもしれないが、五月病という言葉があった。入学や入社等新しい環境に入り、5月ごろになると、その環境に何となく馴染めず、精神的に参ってしまうことのようだ。
新しい環境に適応できないで、ストレス曲線を、不安・怒り・身体症状・ウツと登っていく。私の場合は、そのような激しい体験はないが、やはり、生育史を辿れば、それに近いことが幾つかあったようだ。
その一つは、新入社員として入って半年から一年のころである。しかし、運が良いことに良い先輩や同僚に恵まれ、アフター5などでいろいろ会話を楽しんだこともあり、適応していったのだと思う。
企業の価値観も始めは馴染めなかったが、2-3年のうちに、いつの間にか企業に染まり、アイデンティティも変わってくる。
そして、染まってくると、見えてくるものがあり、見えなくなるものがある。緩慢に変わるので、それに気づくのは、退職して何年かしてからのようだ。
もうひとつのテーマ。信じるということ。幼いころはカトリックの幼児洗礼を受けたこともあり、教会に行くのは抵抗なかった。ところが青春時代になると、生意気にも信じられなくなる。信じられたら良いなと思いつつ、信じる時がどのように到来するか、その頃の自分にとっては謎であった。
結果的には、中年のある日突然経験することになるが、≪信じる≫ことも≪染まる≫に似ていた。ただ、それが私の場合は急激・劇的であったようだ。何が似ているかというと、信じて見えるもの、見えなくなるものも、染まると同じようにあることだ。その日を境に、聖書や賛美歌が全く違って見えるようになったし、身の危険とか、そういうものに無頓着になるところがあった(仙人のように)。
≪信じる≫は意思力が100%の行為であるように昔は思っていたが、経験した≪信じる≫は意思力はほんのちょっとで、染まるに似て受身的に見える(これは私の経験であるが。)。宇宙が誕生してから137億年の長い歴史の末に私の吹けば飛ぶような歴史がくっつき、その中で信心が生まれる。不思議なものである。
染まっても、信じても何かが変わる。そして、見えてくるもの見えなくなるものがでてくる。自分は、不思議な存在である。
(愛の領域②(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 42/60)
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