イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

自分と他者を区別する!(心の健康度 ② 8/10)

2014-04-30 | 第三章「無意識の世界」

 クロバナロウバイを観て、不思議だけど、どこか魅力的に感じる私であるが、クロバナロウバイは私をどのように知覚するのであろうか。カメラでいきなりパチリする変な人間と知覚するのだろうか・・・それはクロバナロウバイ自身でないと判らない。

 40億年前に地上に発生した生命体は、同じDNAの仕組みで生き続けているが、40億年後にクロバナロウバイと私のように、全然違う知覚体系をもつ生命体として出会う。何とも不思議だが、「自分自身でしか自分の世界は知覚できない」という本質は共通しているのだろう。

 そして、親しい人の間でも、この「自分自身でしか自分の世界は知覚できない」は真実であり続ける。同じような生活をし、とても似ているようにも感じるが自分と他人は違うのだ。

 しかし、心優しい私たちは、何処かでこの真実を忘れてしまうようだ。自他混同しがちな日々は甘い世界が広がることもあるが、一般には、激しい葛藤など混乱を招くことが多い。そして、そうしたとき、「自分自身でしか自分の世界は知覚できない」ということを思い出してみると良い。自分と他人は違う。いくら自分が他人をわかった気になっても、所詮は他人、他人のことは判らないものだと。そう考えて、自分だけで出来るところから始める。それが、縺れた関係を正常に戻す鍵なのだろう。

 ベランダの植物とのつき合い方も、嵐が来たら、風をさけるように鉢を置き換えたり、日が照れば水をやったりする。

心の健康度 ② 8/10

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愛のイメージをのんびり考えてみよう !(心の健康度 ② 7/10)

2014-04-29 | 第三章「無意識の世界」

 近くなのに行ったことがなかった東京薬科大学の植物園。昨日は、有難いことに、訪問する機会があり実に楽しませていただいた。カラタチやキンラン、イチリンソウ、ヤマブキソウ、クロバナロウバイ、ホウノキ・・・小さな花の中に見える宇宙に幸福感を感じさせていただく。蛇足だが、無料で入場できるのも有難い。

 さて、幸福感は各自の愛の原型とか愛のイメージと緊密な関係があるようだ。愛というと、途端に頭が痛くなるひとも多いと思うが、通常、心の世界では<私とあなた>(親子、兄弟姉妹、友人、恋人、さまざまな人間関係、神仏、植物など?・・・)の具体的な関係を意味することが多いようだ。そして、誰でも愛のイメージを持っていると言われている。そして、その愛のイメージをときおり思索してみる。それが、幸福感を味わうことに大きな影響があるようだ。

   

   

   

 

具体的な愛のイメージと人間の昇華という心の仕組み。いろいろ楽しめる。

心の健康度 ② 7/10

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初恋と愛の原型!(心の健康度 ② 6/10)

2014-04-28 | 第三章「無意識の世界」

 U先生のブログを読んでいたら、愛の原型に影響を与える体験の知識として、父母の愛や初恋が一般には大きいというお話があった。愛の原型は、愛し愛されるやりかた(人それぞれ違うものだ)に大きな影響を与える大切な体験だ。「生き甲斐の心理学」では、テキスト自体もこの難しい話題を正面から取り上げている。U先生が愛の心理学的問題を現代の大きな問題とされていることの表れなのだろう。

 さて、昨日は宮沢賢治の「シグナルとシグナレス」という童話をたまたま読んだ。遠野に行くときに東北線と釜石線が交差する花巻を通ったが、そこが賢治の故郷であり、この童話の舞台だ。この童話は東北線の信号機(男性のシグナル)と釜石線(当時は軽便鉄道)の信号機(女性のシグナレス)との不思議な恋物語なのだ。微妙な場所に固定されている2人が、事件にあい恋が破れそうになるが、2人の祈りが通じて空の4つ星のかなたで添い遂げられるという話だ。愛とともに祈りも考えさせられる美しい童話である。

 自分の初恋の体験はどうか、様々な体験が合成されているように感じているが、その一つに7歳のときのアラスカでの不思議な体験(日本語の初恋のイメージとちょっと違う)がある。隣に住んでいたBさんで、恐らく私より2-3歳年上だったようだ。引っ越ししてきたときに、前住人の庭に人参を植えていて、それを採りにきたところで、父母が話しかけ友達になって行った。冬になると、真っ暗な夜中?に登校するようになるアラスカ。そして、雪の降った後、登校時に側溝に落ちそうになったことがある。北国の側溝は深く危険なのを知らなかったからだ。その時Bさんに助けられ危うく命拾いをした。そんなこともあり、Bさんが近くの男の子に苛められていたときに、得意の相撲の技で助けた記憶がある。そこまではかっこよかったが、その男の子とお兄さんが、一人で歩いているとき御礼参り?にきて、惨めにボディーブロウを浴びせられたことも。

 当時は、同じ庶民であっても、日本は随分貧しかった。Bさんの家で、Bさんが吹くクライネットには驚いた。日本ではせいぜいハーモニカくらいだったからだ。それでもBさんは、日本語にも興味がわいたようで、私も日本語のイチ、ニ、サン・・を教えたことがある。そして、隣の遊び友達として、次第に仲良くなって行った。そんな時、父に突然の帰国命令がやってきて1年もたたないうちにBさんと別れ帰国するることになってしまう。

 Bさんに別れる前に、今から考えると実に粗悪な紙で作られていて残念だったが、日本の雑誌の付録をプレゼントしたところ、快く受け取ってくれたことを思い出す。あれから、もう50年以上。時々思い出していたが、Googleのストリートビューで観ることができた。幼いころの記憶をもとに住んでいた場所周辺を観てみたが、かつての家々は取り壊され草が生えるだけ。道も随分きれいになっていて様変わり。当時住んでいた人の多くも町から出て行ったとも聴く。

 時間は東北線と釜石線のように何かを隔ててしまう。ただ、残っているのは星になったような愛の原型かもしれない。その意義(ポジティブな意味)は何だったのだろう?

 写真は先日とった碇草(イカリソウ)。船の碇のような花をつけるが、正面から見ると十字架のように見える(ちょうど東北線と釜石線が交差するように)

心の健康度 ② 6/10

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心の流れをイキイキさせる!(その2)(心の健康度 ② 5/10)

2014-04-27 | 第三章「無意識の世界」

 野生の感情・・・人間の原初感情は、「好きか嫌いか」と「怖いか怖くないか」だという。そして、この二種類の感情は、すべての感情に含まれているとも言われる。この知識はとても私にとって役に立つ。写真は先日の御岳渓谷であるが、春の枯れすすきは何とも不思議な感じがしたのだ。写真の中には、先の二種類の感情で評価すると、部分Aは好きで怖い、Bは嫌いで怖くない、Cは好きで怖くないなど、いろいろあることも判る。このことを応用して、例えば美術館で他人の評価は全く無視して、自分の好きか嫌いかで作品を評価してみると、美術館鑑賞がますます楽しくなったりする。これは、一つの感受性訓練で、それにより心の流れをイキイキとさせる力を頂くようだ。

 さて、人は意外に本当は好きなのに嫌いと思っていたり、嫌いなのに好きと思っていたりすることがあるようだ。社会的な立場とか、人は感情に流されて生きることができないことも多いので止むを得ないかもしれないが、心理学的にはちょっと問題なようだ。

 もちろん、ネガティブな感情を感じたとしても防衛機制をとおしてバランスをとったり、その感情の意義(ポジティブな意味)を考えることは意味がある。その、あたりの訓練ができてくると、心の流れはより健全になり、様々な発見をともなった豊かなものになるのだろう。

 それから、自他肯定的なスタンスを保つ思想は様々な感情を受け入れる力をくれるようだ。心の流れを健全に保つうえで大切だと思う。この哲学的な部分は人により違うかもしれないが、私はU先生から教えていただいた、J・ドージャの「神のめぐみとは」(カトリック全書23)の思想に惚れている。自分を含む人間に意識するかしないかを別にして魂とよぶような霊的なものがあり、それが愛そのものかもしれないという思想だ。

 今ここでの自分が抱くAさんへの感情が、嫌いであり、怖いであり、Aさんも同じように感じていたとしても、私とAさんの間には愛そのものが相互に存在し引き合っているというイメージだ。これは、西欧ではポピュラーな人権思想の基盤ではないかと思う。そして、敗戦国日本の現憲法のなかにも脈々といきているようにも思う。

 特に人と会うことを職業としている人は、立場上嫌いな人に奉仕しなければならないことがある。この場合は、感情は何もモチベートすることはないが、愛の思想は充分モチベートしてくれる。

 私がカトリックの信仰を得たのは、J・ドージャの本ではなく、このどうしようもない自分が、不思議にも無償の愛につつまれていることを実感した瞬間があったからだ。これは、先の魂論を別の視点から応援してくれるようだ。

心の健康度 ② 5/10

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心の流れをイキイキとさせる!(その1)(心の健康度 ② 4/10)

2014-04-26 | 第三章「無意識の世界」

 「生き甲斐の心理学」を学んできて、一番の収穫は、心の流れを楽しむ術を知ったということがあると思う。自分の感情の動きを意識することは、普通の人はやらないと思うが、一日に一度でも、そういう時間をもち思索をすると、それが例えば小説「村上海賊の娘」よりも楽しくなってくるのだ。

 ただ、自分の感情を意識することは、何も「生き甲斐の心理学」という理論を知らなくてもでき、私も社会人となり営業の仕事になれてきたころは、自分の感情が一日の中で大きく変化することを意識するようになり、ちょっと戸惑ったことがあった。

 それは、感情の流れを意識することは良いが、それを幸福曲線に導く基本的知識が無かったからかなと思う。感情の大きなうねりの中で船酔いを起したのかもしれない。

 では、船酔いにならず、感情生活を楽しむのはどうしたら良いか、「生き甲斐の心理学」147ページのテキストに網羅されているのだが、そのいくつかをここでは紹介していきたい。

 さて、先日は奥多摩で野草や渓谷を楽しんだが、例えば、写真はもみじの花である。昨年、飛鳥にNPOで行ったとき、もみじの名所の談山神社でもみじの花が沢山に咲いていたが、それを思い出しつつ、爽やかな奥多摩の美しい自然に心が躍った。

 これは、自然との一対一の対話の中で幸福感を味わった一例であるが、幸福感は素直に日常の中で感じられるもののようだ(ただ、これも訓練によるが、他者の愛を感じにくいという問題を持つ人(自戒も含めて)は結構多い)。人は、どうしても頭でこねくり回した理想とか条件で、頭をいっぱいにしがちだ。次は有名な啄木の歌であるが、啄木の頭に占めている立身出世の幸福の条件と、花とか妻という、日常の幸福感と代表するものと対比しているようだ。

 友がみな 我よりえらく見ゆる日よ 花を買い来て 妻としたしむ

 幸福の条件も大事だが、心の流れを考える場合には、幸福感といった瞬間的かもしれないが実存的な感情を大事にする意味は実に大きい。そして、想うのだが、啄木が亡くなって随分経った今。この啄木の歌は今でも愛されているが、啄木の友達は誰で何をしたかを気にする人はいない。本当に大事なものは何か?考えさせる歌である。

心の健康度 ② 4/10

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