イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

無防備になる意味!

2008-03-31 | 第四章「愛とゆるし」

  先日満開の桜を堪能し、小田原城を後にする前に、銅門を見学させていただいた。そして、美しいまでに機能的な城は戦闘に使うためにあるのだと、改めて実感した。花見でのんびりしていたが、この見学で身が引き締まった。

 人は生き抜くうえで、敵からの攻撃を防御する。特に利害が相反する場合は、なかなか厳しい。普段優しい人でも、お金のことになると厳しくなる人もいる。

 さて、戦い、防備の反対に、無防備を薦める分野がある。心理療法やカウンセリングの分野である。カール・ロジャース氏の心理療法上必要にして充分な6条件というのが有名であるが、傾聴訓練で相手の方の心をいやすポイントとして、無防備になれということもある。

 政治の世界でも、非暴力主義の運動がある。

 無防備って何だろう?

<無防備論1/4>

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生きてて良かった、桜は満開!

2008-03-30 | 第四章「愛とゆるし」

 仕事の関係、様々なしがらみから、嫌いな人と付き合わざるを得ないこともある。また、理性的な判断のもと嫌だけどやらなければならないこともある。

 我慢しながら、淡々と事を進めていくと、自分の体験の解釈が変わり「嫌い」から「ゆかし」と思うようになり、場合により「好き」になることもある。

 いざというときは、本音を偽らず、戦うか逃げるかも必要である。そこから、新しい関係が芽生え、「嫌い」から「好き」に変わることもある。

 いずれにしろ、自分の感情を意識化しつつ、じっくり取り組むことが良いようである。

 さて、時々何故、こんな問題に関わるのだろうと思うことがある。良く考えると、それは経済的な問題や世間的な問題以上に、自分の「愛の原型」や愛されている実感、カトリックの思想が大きいと思う。

 昨日は、桜が満開。幸運なことに、小田原まで足をのばし、小田原教会や小田原城の桜を満喫した。小田原教会は当日まで気がつかなかったが、昨年急逝されたI神父が最初に赴任された教会であった。I神父の面影をお御堂に想い、素晴らしい満開の桜に感謝した。

 生かされていることは素晴らしい。

<愛の訓練、嫌悪4/4>

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「嫌い」から、「何やらゆかし」と思う関係へ!

2008-03-29 | 第四章「愛とゆるし」

 先日、高尾山に登った。妻からは、桜が見ごろになってきたのに、桜もまだの山に行くなんてと笑われた。

 確かに、まだ寒さを感じる山では、桜はまだまだであった。ただ、芭蕉が「山路来て何やらゆかしすみれ草」と読んだ、すみれに出会ったのは嬉しかった。

 ゆかしいという言葉を、辞書で引いてみると、「隔たりのある対象への好奇心を表す語。直接知りたい、見たい、聞きたい。」という意味があった。

 この俳句は1685年春に大津に出る道で読まれた句である。芭蕉41歳の時の句である。

 さて、人間関係の中で、初対面で嫌いかなと思う人が、何となくゆかし(先の辞書の意味で)と感じ始める経過を振り返りながら考えてみる。

 感情は、強烈なものもあれば、微かなものもある。暗いもの、明るいものいろいろあるようだ。そして、感情は、その人が持つ理想と現実のギャップから生じると「生き甲斐の心理学」では教えられる。

 嫌い、苦手、怖い、・・・人を嫌いだと思わせる感情も、自分の理想とかけ離れた他者の存在に向けられる。

 Aさんに対する、初対面の感情は暗かった。そして、ある時些細なことから、Aさんに強い嫌悪感を抱いた。ただ、その時嫌悪感をしっかりと意識化する。その嫌悪感について考える。戦うべきか、逃げるべきか、我慢して関係を維持するか・・・

 Aさんの場合、我慢して関係を維持するを選んだ。

 自分の感情は、それこそ瞬間瞬間に変わっていく万華鏡のようである。Aさんに抱く感情を思うと。嫌悪感から、今では「何やらゆかし・・」に変化している。理由は、敢えて好きになろうとした結果ではなく、自分の理想が変化したか、現実の受け止め方が変わったからだろう。

 Aさんの場合。今となって、嫌悪感を抱いたときの、自分の認識が未熟であったことに気づく。このケース敢えて言えば、嫌い、嫌悪感をしっかり意識したことがよかった。変に無益な思考を巡らせたり、行動を取らなかったのが良かったかもしれない。

 ゆかしと思えるようになった自分。神秘的である。

 「山路来て何やらゆかしすみれ草」

<愛の訓練、嫌悪3/4>

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好きにもいろいろ、嫌いにもいろいろ!

2008-03-28 | 第四章「愛とゆるし」

 私が好きだとか、嫌いというとき、何を意味しているか考えたことは昔は余りありませんでした。しかし、この8年生き甲斐の心理学や心理療法の世界を勉強し、厳密に考える習慣ができてきたようです。

 さて、昨日たまたま寄った寺院の狛犬。この狛犬を私は好きと言います。何故好きと言ったか?ちょっとお付き合いください。まず、「狛犬は愛らしくあるべきだ」という哲学・思想の影響から私は好きというかもしれません。次に今湧きおこっている感情をもとに好きと言っているかもしれません。さらに、写真をとったその時の感情を思い出し好きと言っているかもしれません。

 また好きという感情も、良く考えると、原初感情といわれる、好き嫌いの感情の意味あいが強いこともあり、もうひとつの重要な原初感情である、怖い怖くないの領域から、好きと言っているかもしれません。同じ人間でありながら、感情も曖昧なことがあります。

 ややこしいことを何故言い出したかと思われるかもしれませんが、意外とこの何を意味しているのかが、好きだ嫌いだという人間関係で重要だと最近想うのです。

 狛犬の場合、私は「狛犬は愛らしい」という哲学・思想から言ったのではありません。感情を問題にしていました。さらに、感情でも怖い怖くないかと言われると、怖いという感情がありましたが、だから嫌いとはいっていません。好き嫌いという感情から、それも、今ここで湧いている感情から言いました。

 私の過去の人間関係を振り返り反省すると、もっと瞬間瞬間に沸き起こる感情を大切にし、その感情の意味を大切にすべきだったと痛感することがあります。失敗の原因として~すべきという哲学・思想に捕らわれたり、過去の感情に捕らわれたりしました。

 感情はそれ自体、快不快はあるものの倫理道徳と関係ないと考えます。最近お馴染みになってきたセンサーのように感情を考えると良いかもしれません。感情を行動に繋げる時、様々なことが起こるようです。今湧いている感情。そこから嫌いな人を好きになる旅が始まるかもしれません。

 さて写真の狛犬、もともとはライオンだったそうですが、シルクロードでしょうか、遠く異国の地を経て日本に辿りついたときに狛犬になったようです。愛しいけど、ライオンの面影がどこかあるようです。

<愛の訓練、嫌悪2/4>

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愛の訓練、嫌いな人を好きになる!

2008-03-27 | 第四章「愛とゆるし」

 初対面の人に会った時、人はあっという間に好きか嫌いかを判断するという。現世人類5万年の歴史。生命の40億年の歴史。宇宙の137億年の歴史を考えれば、好き嫌いの感情は生き残るための重要な感情だといえる。

 社会生活をおくるなか、私も職種としてサービス業的な仕事をずっとしてきたので、人間関係の難しさも判る。中でも今まで好きだった人が突然変わって、晴天の霹靂のような対応を取られたことが何回かあった。そういう場合の嫌悪感は強烈であった。

 嫌いな人を好きになる。これは、いろいろな知恵を総動員しても解決できない難問のようだ。小は日常の夫婦関係や親子関係、職場での関係から、大は民族間、国家間の紛争まで関係するのだろうか。

 今回は4回にわたって、この問題を考えたい。愛の訓練不足の私ではあるが、お付き合いいただければ幸いである。

<愛の訓練、嫌悪感1/4>

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