先日、高尾山に登った。妻からは、桜が見ごろになってきたのに、桜もまだの山に行くなんてと笑われた。
確かに、まだ寒さを感じる山では、桜はまだまだであった。ただ、芭蕉が「山路来て何やらゆかしすみれ草」と読んだ、すみれに出会ったのは嬉しかった。
ゆかしいという言葉を、辞書で引いてみると、「隔たりのある対象への好奇心を表す語。直接知りたい、見たい、聞きたい。」という意味があった。
この俳句は1685年春に大津に出る道で読まれた句である。芭蕉41歳の時の句である。
さて、人間関係の中で、初対面で嫌いかなと思う人が、何となくゆかし(先の辞書の意味で)と感じ始める経過を振り返りながら考えてみる。
感情は、強烈なものもあれば、微かなものもある。暗いもの、明るいものいろいろあるようだ。そして、感情は、その人が持つ理想と現実のギャップから生じると「生き甲斐の心理学」では教えられる。
嫌い、苦手、怖い、・・・人を嫌いだと思わせる感情も、自分の理想とかけ離れた他者の存在に向けられる。
Aさんに対する、初対面の感情は暗かった。そして、ある時些細なことから、Aさんに強い嫌悪感を抱いた。ただ、その時嫌悪感をしっかりと意識化する。その嫌悪感について考える。戦うべきか、逃げるべきか、我慢して関係を維持するか・・・
Aさんの場合、我慢して関係を維持するを選んだ。
自分の感情は、それこそ瞬間瞬間に変わっていく万華鏡のようである。Aさんに抱く感情を思うと。嫌悪感から、今では「何やらゆかし・・」に変化している。理由は、敢えて好きになろうとした結果ではなく、自分の理想が変化したか、現実の受け止め方が変わったからだろう。
Aさんの場合。今となって、嫌悪感を抱いたときの、自分の認識が未熟であったことに気づく。このケース敢えて言えば、嫌い、嫌悪感をしっかり意識したことがよかった。変に無益な思考を巡らせたり、行動を取らなかったのが良かったかもしれない。
ゆかしと思えるようになった自分。神秘的である。
「山路来て何やらゆかしすみれ草」
<愛の訓練、嫌悪3/4>
人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!