イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

自分のへんな癖から見える幸福への道・・・(裏の行動 3/10)

2016-12-31 | 第三章「無意識の世界」

 手ぶらで気楽に外出すべきときでも、私は鞄に読みもしない本を詰め、雨も降らないのに傘をいれて出かける癖がある。これは、某氏から学生時代に指摘され初めて意識するようになった。

 こんなこともある。母も父も大家族だったので従兄弟が沢山いるが、有名国立大学に入った従兄から、ある時大学受験の秘訣を教えてもらった。その中で、できなかった(やるきにもならなかった)ことが一つあった。一ヶ月に一回は、何も勉強しない日をつくることだった。

 さて、この10年、いろいろ生き甲斐の心理学を学んできたが、自己分析の中で、疑惑、恥辱・自律性・意志力の関係をよく考えた。生育史を研究しても、自分の疑惑感の謎がうまくつかめなかったこともあった。ただ、最近は時代のせいかなとも思うようになった。エリクソンの分類でいうと2-4歳のときの世相は第五福竜丸事件があったり、朝鮮戦争が影があったり、スターリン暴落があったりの落ち着かない日々のようだった。

 新約聖書のヨハネ福音書にトマスという人物が出てくる。イエスの復活を実際に見たり触ったりしなければ信じないと断言していた有名な聖人だ。最後にはイエスに出会い「私の主、私の神」と美しい信仰告白をする。ここに至る心の機微はなんとも言えず美しい。

 私が学生時代のころにカタストロフィーの理論というのがはやったが(理工系でまじめに勉強もした)、疑惑・疑惑・疑惑が突然、信頼・信頼・・・に変容するかのようだ。それは自らの意志か神の意志かは判別できないが意志が働いていることは確かだ。蛇足で申し訳ないが、私の縄文小説の中でも、この問題をいろいろ考えさせてもらった。

 来年は、私が日本の高齢者の分類に入って二年目の年となる。何も持たず外出したり、きちっとした休日を持つようにしたい。これが一年の抱負かな?

裏の行動 3/10

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師走の師とは?(裏の行動 2/10)

2016-12-29 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 今朝、「ユダヤ五000年の知恵」(ラビ・M.トケイヤー 講談社+α文庫 1993年)を読んでいたら、次の一節があり、感動した。「学校というのは、偉大な人の前に座ることだ、彼らという生きた手本から学べ。生徒は偉大なラビや教師を見守ることで、学んでいくのだ」 

 この中で、学校が何であるかが良くわかる。そこは単なる知識を学ぶところではないのだ。私は、小学校一年の時に、ちょっと問題児だったのだろうか、担任の女の先生の手に嚙みついた。その先生からは、それからずっと危険視され、嫌な気分になったものだ。
 小学校の2年のとき、アラスカの小学校に転校した。英語が全く話せず異文化の小学校に突然放り込まれたのである。しかし、その時も女の先生であったが、愛情あふれる先生であり、不安の塊であった私は師の愛の中で楽しいときを過ごした。

 それから、中学校、高校、大学、そしてU先生、A先生とよき師に恵まれた。師の前に座ることが大切という意味が良くわかる。

 さて、裏の行動というものを考えてみる、自分しか知らない裏の行動の世界。行動であるので、底流には自己目的性が隠れているのは表の行動と同じだ。そして、思うのだが、この裏の行動が表の世界に突如噴出し、それが表の行動と混然一体となってしまうこともあると思う。

 自分の人生を考えてみると、早期退職をしたとき、小説を書いてしまったとき・・・それは裏から表の不思議な変化の時だったかもしれない。そして、そうしたときに背後に師の影があったりする。

 裏の行動 2/10

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自分の行動の不思議・・・(裏の行動 1/10)

2016-12-28 | 第三章「無意識の世界」

 最近、縄文小説を書いたこともあり、時折いつから構想を立てていたんですか?などと訊かれる。自分の意識の上では2年くらいなのだが、そう答えると時々信用されなかったりする。また、家族などに小説のことを訊くと、私が小説を書いたことを、どこか冷めてみているようである。まあ、何かふわふわした自分の行動に私も含め、どこか違和感を感じているようだ。

 U先生のテレビや自問自答集の「裏の行動、表の行動」を思索してみると、自分の行動がへんか否かを考えたり、その意味は何だろうかと考えることにつながってくる(ポジティブに)。ちょっと違和感がある自分の行動を思索することは、これからの人生に重要なことのようだ。

 幼いころ、私は一人何かを収集する傾向があった。切手を集めたりすることもあった。アラスカで暮らした時は、海岸で拾った摩耗して宝石のように輝いているガラス片を、一人通学路の秘密の場所に隠したりして、時折一人で出して見て楽しんだこともあった。何か、そのあたりの傾向と今度の縄文小説行動は通底しているかもしれない。しかし、それは何を意味するのだろうか。

 小説を公表したにも関わらず、どこか落ち着かないような気分。それも気になる。

裏の行動 1/10

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信じる力・・・(慈眼 10/10)

2016-12-27 | 第五章「和解と平和」

 学校を卒業し、社会人になってしばらくしてから、私は関西で営業をすることになった。そのために、運転免許を取得し、意気揚々としてコンピュータの営業を開始した。とはいっても、商いが有名な関西もはじめて、車の運転もおぼつかなく、そして当然営業も初めてであり、営業となってしばらくは売上がほとんどなかった。

 コンピュータの営業なのに、一ヶ月の売り上げはキャリングバックが一つということも。

 今、思い出して考えてみると、売れなくてわたしの眼は邪眼そのものになっていたようだ。そんな私であったが、良き先輩、そして関西で共存共栄が徹底していたお客様に支えられ、だんだん売れるようになっていく。邪眼の私から買ったお客様は、今考えると大したものだった。

 さて、U先生の生き甲斐の心理学でも、自他肯定のスタンスが大切だと教えられる。そして、なんとなく自分なりの営業のスタンスが自他肯定になってくると、不思議なことに営業の成績がよくなってきた。多分、その時の私の眼は慈眼だったのだろう。

 人生のスランプの時期と反対の時期を思い出すと慈眼と邪眼の関係がなんとなくわかる。

慈眼 10/10


クリスマスおめでとうございます!(慈眼 9/10)

2016-12-25 | 第一章「意識と知覚」

 一年で一番夜が長い冬至が過ぎ、二日後にはクリスマス。

 今年は、縄文小説の出版と重なり、落ち着かない日々を過ごし、クリスマスイブにやっと年賀状を書き、一年の計を立てた。そして、夕方には地元の教会でクリスマスを孫たちと一緒に!家に帰ると、思いがけない人からクリスマスプレゼントが届いていた。その時、本当に私のクリスマスがきたように感じた。

 最悪の日を通しての、最高のスタート。

 慈眼というのは、実に奥が深い。

慈眼 9/10

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