先日、本屋さんでパラパラ興味のある本をめくっていたら、考古学の佐原真先生が縄文時代の抜歯の習慣や時代がずっとさがるが江戸時代の鉄漿(おはぐろ)は、口から邪気がでないようにする呪いと関係しているのではといったことを述べられている文章が目に留まった。
確かに、私たちが幼いころは「不吉なことは言うもんじゃない」、そんな文化が染みこんでいたようにも感じるし、今でも、自分の中にそういう畏れというか何かが厳然とあるように思う。とはいえ、今は邪気が溢れる文化になりつつあるようなのだが。
この数か月、縄文時代を学ぶためにメソポタミアの古宗教(文字で記憶された最古の宗教)を学んだり、最近の考古学の知見を調べたりしたが、その中の大きな疑問の一つは、何故、文化的に決して劣ると思えない縄文時代の祖先は文字を残さなかったのかということがある。
縄文中期、5000年前の中里貝塚の巨大な貝加工・供給システムを考えると、文字が絶対にあっても不思議でないと強く思ってしまう。文字なしでこうした複雑で大規模な事業ができるはずがない・・・と思うのだ。しかし、逆に文字なしでもここまでできる。そして、敢えて文字を使わなかったのはそれなりの理由があったのでは・・・そんな風に考え直すこともある。含蓄或るテーマだ。
魂のような大事なものを作為的に残すなどとんでもない。こうした、心性は今の私にもどこかに残っている。例えば、お墓で写真を撮る。私は、気にならないほうであるが、と言って結構気にしている。私の知人も墓で写真は撮らない人が多い。そういった写真拒否派の心のうちも理解できる。
恐らく、口からでる言葉も、言霊といった魂を反映させるものと、縄文時代の祖先(否、現代の私たち)は感じ考えていたのだと思う。そして、墓の写真を撮るのが気持ちが悪いと同様に、言葉を文字として記憶することに抵抗があったのだろう。その中で、言葉に対する感受性は逆に高められていく。文字が日本人に与えられて直ぐの8世紀に生まれた「万葉集」。その量と質は素晴らしいと思うが、その中には縄文時代からの何らかの伝統が宿っていると思う。
生き甲斐の心理学でも学ぶ、甘えの構造であり、恥の文化であり、もののあはれであり、幽玄の美であり、汚れと禊であり、侘びと寂なのだろう。
しかし、無文字文化と言霊文化・・・いろいろ考えると、朽ちていくものに手を入れない日本人の感性、侘びと寂あたりが関係しているのだろうか。妄想はひろがっていく。
感情表現 8/10