イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

縄文人が無文字文化だったことによる遺産は?(感情表現 8/10)

2015-04-30 | 第五章「和解と平和」

 先日、本屋さんでパラパラ興味のある本をめくっていたら、考古学の佐原真先生が縄文時代の抜歯の習慣や時代がずっとさがるが江戸時代の鉄漿(おはぐろ)は、口から邪気がでないようにする呪いと関係しているのではといったことを述べられている文章が目に留まった。

 確かに、私たちが幼いころは「不吉なことは言うもんじゃない」、そんな文化が染みこんでいたようにも感じるし、今でも、自分の中にそういう畏れというか何かが厳然とあるように思う。とはいえ、今は邪気が溢れる文化になりつつあるようなのだが。

 この数か月、縄文時代を学ぶためにメソポタミアの古宗教(文字で記憶された最古の宗教)を学んだり、最近の考古学の知見を調べたりしたが、その中の大きな疑問の一つは、何故、文化的に決して劣ると思えない縄文時代の祖先は文字を残さなかったのかということがある。

 縄文中期、5000年前の中里貝塚の巨大な貝加工・供給システムを考えると、文字が絶対にあっても不思議でないと強く思ってしまう。文字なしでこうした複雑で大規模な事業ができるはずがない・・・と思うのだ。しかし、逆に文字なしでもここまでできる。そして、敢えて文字を使わなかったのはそれなりの理由があったのでは・・・そんな風に考え直すこともある。含蓄或るテーマだ。

 魂のような大事なものを作為的に残すなどとんでもない。こうした、心性は今の私にもどこかに残っている。例えば、お墓で写真を撮る。私は、気にならないほうであるが、と言って結構気にしている。私の知人も墓で写真は撮らない人が多い。そういった写真拒否派の心のうちも理解できる。

 恐らく、口からでる言葉も、言霊といった魂を反映させるものと、縄文時代の祖先(否、現代の私たち)は感じ考えていたのだと思う。そして、墓の写真を撮るのが気持ちが悪いと同様に、言葉を文字として記憶することに抵抗があったのだろう。その中で、言葉に対する感受性は逆に高められていく。文字が日本人に与えられて直ぐの8世紀に生まれた「万葉集」。その量と質は素晴らしいと思うが、その中には縄文時代からの何らかの伝統が宿っていると思う。

 生き甲斐の心理学でも学ぶ、甘えの構造であり、恥の文化であり、もののあはれであり、幽玄の美であり、汚れと禊であり、侘びと寂なのだろう。

 しかし、無文字文化と言霊文化・・・いろいろ考えると、朽ちていくものに手を入れない日本人の感性、侘びと寂あたりが関係しているのだろうか。妄想はひろがっていく。

感情表現 8/10

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感情表現を上手にするためには?(感情表現 7/10)

2015-04-29 | 第八章「魂と聖霊」

 感情表現が上手に出来るときと、下手になるとき。その差は何だろうかと考えてみる。

 勿論、生育史から来る苦手な感情とか・・・そういうものは当然あるが、感情とちょっと対極にあるようにみえる、その人のもつ哲学というかアイデンティティが実に大きく影響すると最近思うことが多い。

 哲学とか思想は、若気の至りというか、若いころはかぶれるものだが、大人になると、距離を置いてみるようなもの・・・そんなイメージが昔はあった。しかし、今は心の問題と表裏で変化するものだと思う。感情が日々変わるように、アイデンティティも基本は変わりゆくものなのだろう。

 感情表現 7/10

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新緑の公園でカワセミを観たりして・・・ (感情表現 6/10)

2015-04-28 | 第三章「無意識の世界」

 今日はオフで、一日感情表現に明け暮れてしまった。午前中は縄文小説を一応書き上げた。そして、午後は最近殆ど仕事以外は外出しなかったこともあり、町田市の薬師池公園に行ってみた。

 薬師池公園に着いたのは3時過ぎで、えびな苑に行くには中途半端であり、まあ、のんびりしようかな・・・という感じであった。まだ、ショウブやアヤメには早く、藤の花くらいであった。しかし、日光の加減もあるのだろうか、実に新緑が美しく癒された。そして、今日もカワセミ写真家達に遭遇。私も真似して写真をとったり、全く違う方向から写真を撮ったりして楽しんだ。

 今日は、雌と雄のカワセミのつがいがいて、お聴きすると雌に雄が餌をもってきているという。なかなか楽しいカワセミの生態を拝見することができた。

 今は春。被写体が様々で沢山ある。私の知人で野草愛好家方のブログで写真を拝見したりすると、本当に感動してしまう。写真が面白いのは本人が感動する写真に周りも感動したり、感情がシンプルに美しいほど伝わるのが良い。

    

 

    

    

    

 縄文小説のほうは判らないが、被写体そのものにより、写真という感情表現ができる。デジタルカメラの手軽さもあり、写真が撮れる世界に生まれて幸せである。

感情表現 6/10

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蝶のように感情にデリケートになる!(感情表現 5/10)

2015-04-27 | 第二章「五感と体感」

 朝、目覚めたときの感情は大事だなと思う。風邪をひいて3日めになるが、今朝は爽やかだった。のどの痛みも殆どなく、気力が戻ってきたように感じた。今日は仕事にも行かねばならないが、何となくうきうきしている。ストレスも何か生き甲斐の為のバネのようで、ちょっとした楽しみになっているようでだ。

 生き甲斐の心理学を学んでよかったことの一つは、自分の感情と対話するようになったことがあげられる。例えば、好き嫌いといった感情。どうしても、社会の中に生きていると、これは好きになってはだめだとか嫌いになるのはおかしいといった風に倫理道徳・常識で、自分の感情を裁くことになりがちだ。もちろん、それも良いかもしれないが、長い眼で考えると、自分の個性を萎縮させ生き甲斐から遠ざけるのではないかなと思う。

 写真は昔撮った、多摩動物公園の蝶。蝶はとてもデリケートでなかなか良い写真を撮らせてくれない。蝶の感情は人間よりもデリケートかもしれない。

 感情表現 5/10

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「脱出」という感情表現!(感情表現 4/10)

2015-04-26 | 第三章「無意識の世界」

 春の風邪をひいてしまい、早くなおさネバと身体を労わって休養をとったりしている。身体から来るダルさとかのどの痛みに関する感情は判りやすい。しかし、風邪からの脱失は決して想い通りにはならないものだ。

 身体とは別な生育史からくる感情、あるいは魂からくる感情はどうだろうか。長年働いている仕事など、自分の感情がどうなっているのか判らないことも多かった。心理学では、無意識の意識化という言葉があり、空気のような日常の中で、例えば無意識に感じていた感情に気づいたりすると(普段は抑圧していたことになる)、とたんに、そういった環境から脱出したくなる情動が湧いたりする。

 もちろん、情動に単純に従うのは良いとは限らないが、無意識に感じていたネガティブな感情のことについて、思索を深めることは大事だと思う。停滞感であれば、エリクソンの理論からすると世話とか世の為人の為といった観点をもつと解決することも。

 さて、脱出ということを深く考えてみよう。我々のホモサピエンスの祖先は、5-6万年前に東アフリカを小規模集団で脱出した。それまで10万年以上私たちの祖先はアフリカ大陸で暮らしていたようだ。恐らく食糧の問題などが原因だったと思う。

 そんな昔でなくても、日本列島に到着した祖先たちは、7-8世紀ごろには半島から帰化人として半島を脱出したり、あるいはその前は魏・呉・蜀の中国から脱出したり、その前は黒潮にのって東南アジア方面から脱出したり、あるいはシベリアから渡ってきたりした。・・・まあ、いくつもの波のように脱出して日本にきたのだろう。

 生き抜くための脱出もあるが、宗教家の脱出(一般人にもあるが)もある。仏教だけでなくキリスト教他いろいろな宗教にも出家はある(反対に還俗することもある)。一般人も福祉の世界に飛び込むというような現象もある(私もそれに近いことをしたが)。まあ、いろいろだが、頭でこねくり廻して飛び込んだりするより、感情を意識化して思索するほうが続くようだ。

 自分もこれまで、いくつかの脱出をしてきた。今から思うと、なんという未熟な・・・ということもあるが、一番の注意点は自他肯定的な脱出を心掛けることかもしれない。やはり無理があると、無用な混乱を引き起こすように思う。・・・もちろん、それも貴重な学びなのだが。

感情表現 4/10

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