イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

縄文時代の荷車を想像する!(縄文からの風 ⑦ 10/10)

2015-03-30 | 第八章「魂と聖霊」

 写真は、大栗川からNo.72遺跡(縄文中期の遺跡として有名)の近くの某マンションを昨日撮ったもの。桜並木が綺麗!

 昨日は生き甲斐の心理学八王子の勉強会に参加した後、桜見物に大栗川沿いを散策した。このあたり、4500年くらい前は恐らく関東の中心地の一つだったと思う。とはいえ、縄文時代にはソメイヨシノなどはなかっし、海進の影響で大栗川は大河だったと思う。まあ景観は随分ちがっていたのだろうと思うが、アースフィーリングは心地よい。

 しかし、今日も勉強会でへんな発言をしてしまったが、縄文に浸っていると、奈良などが、とても新興国的に観えてしまう。たかだか2-3千年の歴史しかない奈良なのは・・・などと。

 とはいえ、その近畿に来月旅する。そして、その旅の計画をしていると、じわじわと時間の軸が現代人的になってくる。忘れかけていた持統天皇とか天智天皇のことを思い出す。日本が成立する前後の時代はなんといっても奈良。残念なことに縄文遺跡は少ないが、まあ縄文時代は辺境の地であった奈良が、其の後歴史を動かす。そんな奈良に寄り道したくなってきた。

 その前に、縄文のお勉強は障がい者に関する思索だ。昨年、多摩美術大学付属美術館で四国巡礼の素晴らしい展示をみた。その中に、箱車の展示があったのだ。障がい者の移動用の道具だ。これを想いだしつつ、5000年前の障がい者の福祉用具を想った。車輪はメソポタミアで今から5700年前には荷車が使われていたことは確実なようだ。5000年前の日本列島を想像すると、陸路は牛や馬がいなかっただろうから徒歩が中心だったと想像される。その中で、車輪で動かす荷車のようなものはあっただろうか?

 必要な木材はあるが、加工技術はどうだったのだろう。輿のようなものは比較的簡単にできそうなのであったと思うが・・・車輪はどうだったのだろう。ただ、女性の装身具で耳飾りはあったり、車輪的なものの効用はおそらく知っていたに違いないと想像する。必要は発明の母である。あっても不思議ではないとも思う。写真撮影の近くの72遺跡や446遺跡周辺を荷車や箱車が動き回っていたと想像するのは楽しい。

 

縄文からの風⑦ 10/10

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縄文人の五感と体感は?(縄文からの風 ⑦ 9/10)

2015-03-29 | 第二章「五感と体感」

 今日は福島を応援するためのイベントに参加したが、写真のエゴマミソを思わず買って帰った。もちろん縄文繋がりである。

 縄文時代の遺跡からはエゴマが検出されている。エゴマはゴマの替りとしても食べられるが、エゴマより油をとり、これから漆塗に必要な原料となり大変重宝され交易にも使われたかもしれない。

 それから、縄文土器にはランプがでてくるのだが、これに利用した油は何か興味があるところであるが、エゴマから採った灯油の可能性も否定できないようだ。他にも油を捕る植物はあるが想像するだけでも楽しい。エゴマの火で縄文のビーナスの表面の雲母がきらきら輝く・・・

 植物や動物も、例えば5000年前の縄文中期を考えても、今と似ているところはあるものの、そのままではないことは容易に想像できる。万葉植物園はいろいろなところにあるが、行ってみると、今とやはり違うなと思う。それもたかだか1300年くらい前なので、5000年といったら結構違うのではと思う。

 今の春の季節を考えても、5000年前に梅はあったのか、それはどんなふうだったか。コブシの白い花はどうだったかなどなど。日本で生まれた植物としては紫陽花も思い浮かべられるが、当時の花はどんな花だったのか想像できない誰か想像図でも書いて欲しいものだ。

 魚も、例えばよく見るタイも縄文時代は90cmとか巨大なタイを食したという。理論的には判るが、それがどんな味だったとかは想像もできない。こんなとこからも、縄文小説はなかなか書き手にとっても、読み手にとっても難しそうだ。

 しかし、それは私たちの5000年前とすれば、200代前くらいの祖先だ。恐らく、同じように五感・体感が備わり、身体や生育史に左右されつつも、何か直観とか魂のような不思議な部分を持つ存在だ。簡単にあきらめるのも問題だろう。

縄文からの風⑦ 9/10

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縄文眼で琵琶湖を観たい!(縄文からの風 ⑦ 8/10)

2015-03-28 | 第一章「意識と知覚」

 昨年の3月の唐崎の旅は思い出深かった。早朝のアベノハルカスから、眼についた二上山・当麻寺に直行、そして無謀?な二上山登山、京都に泊まって、次の日は天智天皇陵から大津京遺跡めぐり、そして琵琶湖のほとりの聖地唐崎でのユースフルライフ研究所の勉強会。勉強会も合間に琵琶湖の名所旧跡をまわったりで素晴らしかった。

 そんな思い出深い唐崎に来月再訪する。今から楽しみである。とはいえ、今は縄文が頭を覆っているので、縄文眼でしか琵琶湖とかが見えない。一番興味があるのは石山寺に近い粟津湖底遺跡である。縄文中期に特別な関心があるのだが、中期は近畿地方は佐原真先生の1996年の推定では、近畿地方の人口は2800人程度だったようだ。関東の95400人と比べると3%弱だ。しかし、その中でも粟津貝塚からは人骨まで出ているのだ。

 今も昔も、水源と交通だ極めて大事だ。そんな中琵琶湖のほとりの縄文人たちは何を考え何をしたのだろうか・・・妄想は広がる。

縄文からの風⑦ 8/10

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カメさんをみて、文字について考える!(縄文からの風 7/10)

2015-03-27 | 第一章「意識と知覚」

 昨日とった写真にカメさんがいたが、その亀の甲羅などをつかって描いた亀甲文字は中国で3000年前以前に生まれたそうだ。一番古い文字としてはメソポタミアで6000年くらいに、帳簿付けを行うために発明されたと言われる。

 縄文時代は文字が無かったのでは・・それが一般的な解釈なのだが、今から4500年くらい前にはじまった中里貝塚での水産加工場は年間10,000人以上のマガキやハマグリを加工生産していたのであり、そのシステムは尋常ではないように思う。当然ながら複雑なシステムの裏に文字があるのではと勘ぐってしまう。日本の場合は、木材等の資源が沢山あり、かつ土壌が酸性であるため、こうした材料を使っての書類?は当然長い時間の中で消えてしまうだろう。それが残念だ。

 しかし、文字というのは素晴らしい発明だ。今、その恩恵に預かっている私は、自問自答で思索する上でも、他者との実のあるコミュニケーションでも文字が絶大な貢献をしているように思う。心の問題、U先生の生き甲斐の心理学でも、エゴダイナミクス・ノートで自分の様々な感情を書き表すことで随分思索が深まる。

 手前味噌で恐縮だが、最近スマホをやめて小型のノートブックPCに替えたが、これは自分ではキーボードのお蔭で文字処理が上手にできるようでよかったと思う。しかし、少なくてもカバンを持ち運ばなくてはならないのが・・・

縄文からの風⑦ 7/10

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現代と5000年前が重なって見えてしまう!(縄文からの風 ⑦ 6/10)

2015-03-26 | 第一章「意識と知覚」

 今日は2週間ぶりくらいだろうか、久しぶりにのんびりと都心で過ごした。とは言っても、頭は縄文モードであるため、普通の都心の光景が違って見えてくるのだ。多摩に戻ってからも、No.443遺跡の近くから久しぶりに富士山と日没も観てしまった。これも、当然5000年前のイメージとダブル。富士山は噴煙を上げているようにも・・・

 外苑東通りを鶴巻町方面へ。実は加賀町二丁目遺跡の近くで、この坂を下りると5000年前は川だったはずだ。

 おとめ山公園のカメさんです。新宿区落合なのですが、5000年前は神田川等がおちあうところで、海からも近かった・・・

 No.443遺跡周辺から夕日を望む!

丘の下は人家ではなく大河が流れていたはず・・・

富士山も山頂あたりから噴煙がでていたはず・・・

明日から、仕事です。スイッチを切り替えなければ

縄文からの風⑦ 6/10

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