生き甲斐の心理学の地域勉強会をNPOで初めて6年経つ。昨日は公表資料の作成で過去の記録を整理していたが、生き甲斐の心理学の勉強会で扱う主役は、感情なのだとつくづく実感した。
ちなみに、今回扱ってきたプロセススケールで、これは忘れてはいけないというポイント(7つあるが)は、<感情と個人的意味づけ>という方が多い。私も、日常の中では、このポイントを特に注意している。
この<感情と個人的意味づけ>スケールの「低」は、沸き起こる感情に本人が気づかず、当然ながら感情の意味づけもできない。ショックを受けているときは悲しいはずでも、何も感じないというような経験をされた方が多いと思うが、実にそれである。
逆に「高」は新しい感情が詳細な点の瞬間性と豊富さをもって体験される。そして、これらの変化しつつある感情の中で生きる。このような動きは、打てば響くといった状態なのだろうが、日常生活の中ではなかなか体験できない。しかし、こういう体験も日本の伝統の中では大切にされているようだ。
理論はそうだが、実際の自分に当てはめて思索しないと実感できない。私の場合で恐縮だが、感情を、本当に感じる。本物の感情は意外と捉えにくいものだ。時間があるとき、自分史を振り返って、のんびりと無理のない範囲で思索するとよい。特に精神的に追い詰められていた時と、逆に絶好調の時を比較するとよいようだ。
感情は、日常の中より、映画やテレビドラマ、音楽などのほうが捉えやすいこともある(今の自分に直接関わりが無いだけ、感情が捉えやすい)。絵画展などに行って、作者の履歴とか、有名とかなんとかを忘れて、ひたすら感情体験を重視(好きか嫌いか、怖いか怖くないか)しても感情に対する意識が変わる。
絵画展に行って、よく「判らないな!」とつぶやいている人がいるが、自分の感情に聴いてみれば正直に判るのにと思ったりする(絵画鑑賞は私は理屈ではなく感情が重要だと思っている)。
感情を押し殺すのがビジネスだと思っている人もいるが、沸き起こる感情をどう解釈し、受容していくかが大切なのだと思う。貴重な人間の五感や体感を無視することはよくない。感情そのものを抑圧するのは健康によくない。感情には罪はないし、それにより必要な対応をとることが大切。
勿論現実吟味力を失って無茶な行動をするのは問題だが、それは感情そのものの問題とは全く違う。こころの健康・不健康の問題だと思う。
最近、ちょっと逐電が足りないようである。明日は、美術館に行って感情体験(できれば高)してこよう!
新鮮10/10