イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

自分の感情を活かして新鮮に!(新鮮10/10)

2011-06-30 | 第一章「意識と知覚」

 生き甲斐の心理学の地域勉強会をNPOで初めて6年経つ。昨日は公表資料の作成で過去の記録を整理していたが、生き甲斐の心理学の勉強会で扱う主役は、感情なのだとつくづく実感した。

 ちなみに、今回扱ってきたプロセススケールで、これは忘れてはいけないというポイント(7つあるが)は、<感情と個人的意味づけ>という方が多い。私も、日常の中では、このポイントを特に注意している。

 この<感情と個人的意味づけ>スケールの「低」は、沸き起こる感情に本人が気づかず、当然ながら感情の意味づけもできない。ショックを受けているときは悲しいはずでも、何も感じないというような経験をされた方が多いと思うが、実にそれである。

 逆に「高」は新しい感情が詳細な点の瞬間性と豊富さをもって体験される。そして、これらの変化しつつある感情の中で生きる。このような動きは、打てば響くといった状態なのだろうが、日常生活の中ではなかなか体験できない。しかし、こういう体験も日本の伝統の中では大切にされているようだ。

 理論はそうだが、実際の自分に当てはめて思索しないと実感できない。私の場合で恐縮だが、感情を、本当に感じる。本物の感情は意外と捉えにくいものだ。時間があるとき、自分史を振り返って、のんびりと無理のない範囲で思索するとよい。特に精神的に追い詰められていた時と、逆に絶好調の時を比較するとよいようだ。

 感情は、日常の中より、映画やテレビドラマ、音楽などのほうが捉えやすいこともある(今の自分に直接関わりが無いだけ、感情が捉えやすい)。絵画展などに行って、作者の履歴とか、有名とかなんとかを忘れて、ひたすら感情体験を重視(好きか嫌いか、怖いか怖くないか)しても感情に対する意識が変わる。

 絵画展に行って、よく「判らないな!」とつぶやいている人がいるが、自分の感情に聴いてみれば正直に判るのにと思ったりする(絵画鑑賞は私は理屈ではなく感情が重要だと思っている)。

 感情を押し殺すのがビジネスだと思っている人もいるが、沸き起こる感情をどう解釈し、受容していくかが大切なのだと思う。貴重な人間の五感や体感を無視することはよくない。感情そのものを抑圧するのは健康によくない。感情には罪はないし、それにより必要な対応をとることが大切。

 勿論現実吟味力を失って無茶な行動をするのは問題だが、それは感情そのものの問題とは全く違う。こころの健康・不健康の問題だと思う。

 最近、ちょっと逐電が足りないようである。明日は、美術館に行って感情体験(できれば高)してこよう!

新鮮10/10

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自分史はまぎれもない宝物!(新鮮 9/10)

2011-06-29 | 第一章「意識と知覚」

  数日間、プロセススケールを通して、自分史をもとに皆様にお役に立てることをブログに書いてきた。そのため、カールロジャースの全集も時々のぞいた。ノーベル賞にもノミネートされたというロジャースの著作は、読めば読むほど新鮮な発見があるものだ。

 その一つは、この理論がセラピストだけに限定したものではなく、著者自身が教師・生徒関係、親子関係、経営相談、地域社会の発達などに応用できるとしている点である。還暦となった私であるが、今更ながら、その幅広い応用範囲が、本当だなと実感できる。難しい表現(もともと英語で、かつ専門用語を駆使していることもあり)なので、殆どの人は、実に価値あるのに敬遠してしまう。

 世界的に有名な理論なのに、日本では傾聴ではカールロジャースは有名だが、この分野では限られた専門家以外には殆ど知られていないようだ。

 もう一つは、プロセススケール自体の信頼性や妥当性の科学的(数理統計)実証である。若い頃に大学の研究室で汗をふきふきを研究してきたころを思い出した。傾聴とか心理療法が科学的には実証しにくい分野であるが、それをしているのである。素晴らしい。

 その研究の中で蛇足ではあるが、ピアソンの相関係数が出てきたのは驚きであった。若いころお医者さんの診断が、どのようなモデルでなされているかなどを、レンズモデルというハンガリーの心理学者ブルンスウィックのモデルで研究したことを思い出した。

 以前はカトリックの修道者であったメンデルがこつこつと遺伝を研究し、そのうち数理統計で遺伝学を発展させ、そして思いがけず遺伝子の研究が進み分子進化学が数理的にも大進歩を遂げた。同じように、臨床心理の研究も、将来数理的に大進歩をする時代がくるかもしれないと、ワクワクした。

 自分史をきちっとした理論で研究していく。これは実に今ここの自分のありようを考えていく上で貴重だ。私もU先生に出会わなければ、他人の事例や心理学の文献を読むだけで、実感のない勉強になってしまったところである。自分史、自己事例研究は本当の宝物だと思う(自己を明るく解釈するためにも大切)。

 因みに、自己事例の中で、7才の時に米国アラスカで、言語も含め全く別の世界に一年過ごしたことは、今から考えるとカフカの変身に出てくる毒虫・ザムザ体験のような貴重な体験である。

 その体験があって、ひょっとしたら、10歳のときに溺れず助かったかもしれない。中学のときに国語を克服したのかもしれない。50歳台になって会社を辞めて新たな世界に突入できたのかもしれない。障がい者当事者団体にとけ込めたのも、生涯教育に携わったのも、この7才の体験があったからかもしれない。

 カールロジャースの19の命題の中に次の命題がある。自分の一生を通じての基本的な傾向と渇望。その原型は意外にも7才の体験だったかも。これを、数理的なモデルで人生の流れをおっていく(分子進化論のように)。そんなことは今はできないかもしれないが、将来は分からない。天国でそれを知ることができれば楽しいなあ!

4:有機体は、一つの基本的な傾向と渇望(striving)をもっている。すなわち、体験している有機体を現実化し、維持し、強化することである。

新鮮9/10

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人生を前向きに決める<不一致>!(新鮮 8/10)

2011-06-28 | 第一章「意識と知覚」

 先日、町田の薬師池公園で花菖蒲やあじさい、そしてカワセミを楽しんだ。その写真を整理したりしていると、昨年と違う自分の変化に気がつく。動物(昆虫でもOKだが)に対する知覚の変化というのだろうか。確かに、写真を取る時も、熊ん蜂が花菖蒲に止まっている様を撮りたくて、追っかけていったものだ。

 この一年、動物園通いなどしているが、こころの深層には、どういう変化があっただろうか。動物園で動物を見るだけでなく、自分も鑑賞の対象かもしれない。

 さて、昨日まで、3回。不得意分野を活かして方法でストレスやプロセススケールの効用をお話してきた。お話の内容は過去のことであるが、結構、今ここの自分に関係があることなのである(自分の不一致を探るような・・・)。

 不一致について、この2-3日ロジャース全集の「サイコセラピーの過程」(伊藤博編訳、 岩崎学術出版)を読み直していたが、その中でプロセスセケールが低から高に変化する中で、不一致が観察しやすいと述べられている。まあ、古い殻を脱ぎ捨て新しく成るときの生みの苦しみなのだろうか。

 この10年を考えても、この大切な不一致を何回か乗り越えてきた。今意識に上がっているのは、3つくらいあるが、精査すればもっとあるだろう。そして、これからもあるのだろう。

 プロセススケールを勉強すると、この不一致等も大切にし、人生を豊かにする方法が見えてくる。自己事例を探し、理論武装することが大切だとU先生に教えていただいたが、実にそうである。

 私の事例をもう一つ紹介すると、それは車に関することである。小学校1年の時に目の前で幼なじみI君が交通事故でなくなった。その、こころの傷。それが、長く人生に影を落とした。人はそれぞれであり、自分のケースが他の人に当てはまるとは思えないが、それが癒されていく過程(プロセススケールでいえば低から高方向へ)で確実に不一致があったのだ。

 抑圧された感情が解消されていくと、防衛機制(例えば補償)で日々過ごしていたことが、意味を失って、より自然な方向に動き出すこともある。

 こころの傷で車が嫌いであったが、ある時極端にドライバーの仕事もしたことがある。それが、不自然だと意識に昇ってきて、知覚が変わり、好きなことと嫌いなことの磁場の関係が変わり、不一致が明確になった。

 ただ、新しい殻も所詮殻なのだろう。いずれは脱ぎ捨てることになるのだろう。

 個人はすべて、自分が中心であるところの、絶え間なく変化している経験の世界(world of experience)に存在する。(カールロジャース パースナリティ理論の19の命題より)

 この経験を少し似た概念、<知覚>と置き換えてみるともっと理解しやすい。

(新鮮 8/10)

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不得意分野を活かしていく方法<その3>(新鮮 7/10)

2011-06-27 | 第一章「意識と知覚」

 昨日の続きになるが、今日は、プロセススケールの七つの指標の一つ<自己の伝達>について思索してみたい。

 中学校3年の不得意分野国語への挑戦であるが、志望校の一つに、作文があった。あるテーマが出され、それに対して作文を決められた時間で書く。

 秋ごろから、その作文が気になり、時々、過去の問題等で実際に作文をしてみた。そのうちに、練習で日々、日記を書いて見ようという気になり、人に見せない日記を始めた。考えてみれば、国語嫌いの自分が半年も経たないうちに、自主的に日記を書き始めたのだ。

 日記を書く事は、自分の微妙は感覚や感情、思考などを表現することである。

 中学3年の秋から冬。日記に書いたことはなんだっただろう。当時の日記は大人になってから焼却してしまって、判らないが、すりガラスに映る朝日の美しさとか、幼い頃から共に暮らした秋田犬がフィラリアでなくなったこととか・・・いろいろ書いた。試験のときに課題がいのちということだったので、犬の死についてラッキーにも書けた。

 自己の内面を表現する。それは、倫理道徳のタテマエで書く事もあったが、それ以上深く、本当の自分に向き合うことであった。先日の模擬試験で国語の悪い成績をとったときの、微妙なこころのヒダ(無意識の領域か)の発見も、そんな中で感じたものかもしれない。

 因みに、<自己の伝達>では、低は自己伝達が欠けている。高は豊かな自己意識が望むがままに伝達されるである。きっと、当時の私は低から中に改善されたいたのだと思う。

 約一年を通し、国語嫌いの私は、国語に対するプロセススケールを低から中に改善し、高校入試を乗り越えることができたようだ。

 そして、両親や学校の先生に祝福され高校に入ったが、この中で成長しつつあった自己意識により、両親や学校の先生からいつも祝福されるだけではない個性をさらに形成していく。

 人の成長とは、そんなものである。

 さて、自己表現や自己主張は、多くの場合心の健全性に寄与するようだ。

 日々の不得意分野(嫌いなことなどを含む)で、一方的な主張はどうかとも思えることもあるが、例えば自他肯定になるような本音の主張は、自分も人も幸福にするように最近思う。

 8年前に会社をやめてから、いろいろな仕事を経験したが、きちっと主張することは、世の中(大げさな言葉だが、身近な人と置き換えてもよい)をよくするし、自分のここをも健全にする方法だと思う(勿論正常な現実吟味力を背景にして)。

(新鮮 7/10)

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