イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

真善美が広げてくれる自由な世界・・今も縄文も (4/10 縄文を五感で探る)

2022-07-30 | 第十一章「五感で面白おかしく」

人は生涯を通して「思い込み」と共に暮らす存在のようだ。私が「生き甲斐の心理学」を学ぶようになったのも、6歳の時のある事件とその解釈(思い込み)と関係があるように今となっては考えるのだが、その時の「思い込み」は何と50年たってから解放された。これは一つの事例だが、多分私はまだ多くの「思い込み」を持ち、生涯を終えるに違いない。

さて、最近私は大栗川の下流域(聖蹟桜ヶ丘周辺)を良く散歩するようになった。この下流域に私は40年前ごろから20年近く暮らしていた。しかし、当時は縄文時代に興味は殆どなく、大栗川の下流域も交通公園や市民プールで楽しんだりするくらいだった。

ところで、この20年くらいだが、東京の下町の川の歴史の面白さに気が付き、ある時隅田川で水上バスを楽しんだ。その時私は不思議な感覚を持った。例えば勝鬨橋であるが、その上を数知れず都電やバスや自動車で渡ったが水上バスで、橋の下をくぐったのは初めてであった。そして、東京が水の都市であることを初めて実感したのだった。その時の驚きと感動。視点が橋の上と橋の下ではかくも異なる。

そして、縄文時代だが、ある方から縄文時代の交通は川と尾根道が鍵かと親切に教えていただいた。にも拘わらず、私は橋の上を車で移動したりで縄文時代の川の意味を本当に知っていたとは言えなかったようだ。もちろん当時と同じように川を丸木舟で移動などできないが(してみたいが)、視点を意識して変えることはできるように思う。

次の写真は大栗川が多摩川に合流するちょっと前に多摩センター方面に流れる乞田川と合流する地点である。写真ではさざ波が立っている方(右下)が乞田川。左から大栗川が乞田川と合流して巻頭の写真のように東北東に流れ多摩川に合流する。そして右側の丘が連光寺方面で坂を上ると明治天皇が行幸された地点や対鴎荘跡、桜ヶ丘カントリークラブや米軍の保養場がある。景勝地なのである。因みに一昔前はこの地は鮎漁でも有名だったそうだ。

蛇足だが、向ノ岡遺跡、桜ヶ丘ゴルフ場内遺跡という縄文時代の遺跡があり、ストーンサークルではないかという配石遺構まであったようだ。ここに大きな縄文の村があったのではないかと想像するのは私だけではないようだ。

最後に、「思い込み」について戻ってみよう。「思い込み」が強い生活はストレス曲線の多い生活を招きがちだと思う。それを長期にわたって解決していくのは何だろうか。なるべく防衛機制を解放していく生活。U先生のブログを読んだり、縄文時代のことを考えてみると、真善美を意識して生活をすることではないかと思う。美しい入り日を見たり、月や惑星、星々の動きを見たり、美しい景色を見たり、上手な歌や芸術品、もちろん美しい漆木工や土器、そして定評ある宗教や哲学に触れること。もちろん豪華でないかもしれないご馳走を食べることもあっただろう。世界に誇る日本食も縄文時代の長い伝統と関係するのは言うまでもない。

4/10 縄文を五感で探る

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「縄文小説 森と海と月 ~五千年前の祖先の愛と魂~」

縄文中期の関東・中部地方を中心にした愛と魂の物語です。

入手方法

1.紙の本の入手については・・・

  四ツ谷サンパウロさんへ 定価(1,500円+税)送料別。

  電話:03-3357-8642(書籍・視聴覚)

    住所:〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2  

 なお、国会図書館、八王子市図書館でも閲覧できます。

2.電子書籍版はアマゾンさんで、1000円で購入できますが、

  Kindle unlimitedなどの特典で無料でも読めます。 


       森裕行

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座禅をしていた縄文人がいたか・・柔軟に変化をする(3/10 五感で縄文を探る)

2022-07-25 | 第十一章「五感で面白おかしく」

U先生の「生き甲斐の心理学」を学んで20年くらい経つが、U先生のご紹介もあって10年位前から太極拳・気功をA先生から学んでいる。私は身体を動かすことは幼い頃は好きだったが、時々思いついたように1年くらい、ジョギングにこったりすることはあっても、大人になってからは全く続かなかった。しかし、太極拳・気功はA先生のご指導のすばらしさもあり、ずっと続けることができている。

続けられたのは、体調がよくなったとか、楽しい時間とかいくつの理由があるが、もう一つ大事なことがあることに気づいた。それは自分の身体性の不思議な世界に触れられるということだ。昔、友達と有名なお寺で短時間であったが座禅を体験させていただいたことがあった。その時の自分の内部に沈潜する体験にも似ているように思う。呼吸を整える事もあるのだと思うが、朝から晩まで絶え間なく入ってくるいろいろな出来事と、それに対応する思考や感情、そして行動をし続けると、自分が身体を持つ人間であり、さらに宗教的に言えば例えば愛そのものの魂を持つ存在でもあることを忘れがちにさせる。そして、いつの間にか様々な思い込みにしばられ、今ここにある問題を柔軟に対処することができなくなっていく。

この身体性との一致などの領域は、日本では座禅の文化があり、キリスト教の宗教者も含め海外から興味を持たれ研究されている大事な領域である。また、つらつら考えると現代のように仕事を8時間以上したり、デジタル化で場合によれば24時間働くような時代は産業革命以降のようで、20万年とかの人類史から見るとごく最近の現象かもしれない。当然ながら縄文時代も狩猟採取(畑作はあったとしても)という厳しい時代ではあるものの、文字禍もなく自分の内なる声を聞こうとする力は現代以上だったのではと推察してしまう。集団的な戦争がなかったこともその所産かもしれない。

さて、写真は何年か前に、多摩動物公園の昆虫館で撮った写真。青虫が蛹になり蝶になる。完全変態のこの変化は学生のころに出合った等価変換創造理論(故市川亀久弥先生)の本で引用されていた。蝶の一生を考えると、まず青虫のころはむしゃむしゃと葉っぱを食べ成長していくが、ある段階になると蛹(さなぎ)となる。蛹の段階では青虫の身体はアミノ酸レベルまで分解し次に蝶として生殖活動をするための身体に再構成していく。内部では大きな変化があるのだが、外見は静寂そのもの。蛹は実に不思議な変化の時なのである。成長するための様々な青虫の属性は蛹の中で解体し、生殖し卵を産み付けることに特化し空を飛べるなどの機能を持った蝶に再生されるのだ。

このような変化は、蝶だけでなく似たような現象がいろいろな所に散見される。身近な人の成長のプロセスにもあるようだし、文化や歴史の中でも垣間見ることができるのではないだろうか。それは、外から見ると蛹のように静寂の装いをしているが、内部では基本的な方向性に基づき再構成の努力がされている。

今月7月の初めに新潟県の旅をしたが、自分なりに気がついたことがあった。縄文時代の時系列的変化や地域的な特性の違いのなかで、例えば土器が大きく変わる現象がある。越後の火焰型土器。これは長い縄文時代の伝統や地域性を踏襲して生まれたものだと思うが、次の時代の三十稲場型土器は火焰のイメージなど全くない蓋付きのシンプルな深鉢に変わる。考古学の世界では図像解析を研究されている方が少なく、先の青虫が蝶になるような変換の分析まで行われた例は見ない。しかし、私は学者ではないが火焰型土器(中期)と三十稲場型土器(後期)にはある種の共通点(文化のDNA?)があるように思う。沢山の土器を分析し学術的な説にするのが本道だと思うが、素人の恐ろしさ?であえて解釈させていただくと。何百年といった時間を経て、火焰的な装飾が消え、シンプルな把手と文様、蓋(土器)になっているのは驚きだが、後期の土器は火焰型土器とおなじように口縁部の猪の象徴が蓋などに残っているように見える。また、口縁部や胴部の装飾や文様は後期のシンプルな図像(把手など)の中で基本的に同じ神話(月に関わる神話?)を表しているように思う。縄文中期から環境が冷涼化し特に中期後半からそれが加速していくが、蛹の時代で取捨選択された中期の遺伝子は後期にきちっと残されているのではないだろうか。しかし、ここまでシンプルになったのは何故か興味深い問題は数多くあるように思う。

ただ、このような変化をもたらした人々は、私達と同じような人間。身体とこころ(生育史)、魂(宗教の分野)を持った人間であったことは確かであり、当然ながら身体性と一致している人間だったに違いない。ひょっとしたら、激動の時代。敷石住居の中で座禅をしていた縄文人がいたかもしれない。

3/10 縄文を五感で探る

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「縄文小説 森と海と月 ~五千年前の祖先の愛と魂~」

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縄文人の愛のイメージ・・(2/10 五感で縄文を探る)

2022-07-22 | 第十一章「五感で面白おかしく」

比較文化論や比較宗教学の影響を受けたU先生の「生き甲斐の心理学」の愛の定義は(その人が心の中で愛を感じたものを愛とする)である。「生き甲斐の心理学」は臨床心理系でもあるので当然の定義だと思うが、アガペーとか慈愛など定義や意味をを学んだことがあったので、なにか拍子抜けのところがあった。しかし、いくら高邁な定義であったとしてもその人がなにも感じなければ論外なので、この定義は価値あるものと納得している。

さて、人それぞれが自分が思っている愛。それは生育史上の愛の原型(幼児期や少年少女期などで作られる)から導かれるような愛であるが、ここでは愛のイメージと呼んでみよう。勿論、定義から、それは人それぞれ異なるということがわかる。

例えば、私が幼いころは野球が流行っていて、父と時々楽しいキャッチボールをし、またラジオやテレビで一緒に西鉄ライオンズを応援した。そんなことで、私にとって西鉄ライオンズは一つの愛の原型、愛のイメージになったようだ。しかし、東京ではジャイアンツ人気が根強く、学校の友達の中で共感してくれる人は居なかった。そうして私は孤独感を味わい、いつのまにか野球にも興味を失ってしまった。

これは一つの例だが、他者とのやりとりから人は愛の原型を育み、愛のイメージを育てていく。そして、他者との関わりの中で相互の愛のイメージはコミュニケーションの大事な要素となってくる。勿論、愛のイメージはその人独自のもので、野球などやったこともなく趣味が水泳だという方にとっては、西鉄ライオンズと聞いても何もときめかない。反対に水泳の話をされてもこちらも何も感じない。

しかし、お互いに自他肯定の気持ちを持って自分を拡げようという意思があれば、相互の愛のイメージを意識し自分の愛意外にも興味を持つことになる。そして、生育史だけとは限らないが、相互の理解を通し自分の世界を拡げていくことが可能なのだと思う。

さて、縄文人についてだが、5-6年前に私は縄文小説を上梓したが、タイトルは「縄文小説 森と海と月」、副題五千年前の祖先の愛と魂」ということで、愛も意識していた。そして、想像上の縄文人の愛の物語を作ったが、今となっては何か物足りず、次作でさらに深めていければと思っている。

今月、新潟県を中心にして自分なりの縄文ツアーを楽しんだ。巻頭の写真は新潟県津南町の歴史資料館の火焰型土器と王冠土器を撮ったもの。縄文中期のこの時期。地域を越えて信仰の対象となった宗教・神話もあった推測できるが、地域独特の愛の原型の集合体のようなイメージもあるのではないかと思う。縄文中期は津南町や十日町、長岡は今と同じ多雪地域であった。冬の期間の生活は深い雪に覆われ、今でも大変なので当時の大変さは想像を超えるものだったかもしれない。豪雪の重みに耐える住居の作り方などは半端でない。それにもかかわらず、この地域に住み続けたのはサケ漁とか狩猟といった自然の恵みもあっただろうが、驚嘆するような美しい自然もあったのではと思う。津南町の美しい景観が見られる石落しでは苗場山からの30万年前に流れた溶岩が、信濃川水系の浸食で、両岸に険しいが美しい柱状節理を見せてくれている。火焰型土器の土器の底部の方は美しい縦線が見られるが、私は何かこの柱状節理を思い出してしまう。柱状節理からは石棒が作られたりするので、縦線には縦線を越えた深い意味があるのかもしれない。定期的な祭りや大事な節目に美味しい団子を作って蒸したりし、家族や部族で愛のイメージを確認しあったのだと思う。

火焰型土器の図像には、月の神話やトーテム信仰などが隠れているように私は想像しているが、皆様はどう想像されているのだろうか。さらに、躍動感のある口縁部の表現から、火焰のイメージや海や川の波・水煙を想像したり、何か不明だが生命体の躍動感を感じる方もいらっしゃると思う。それは私達が忘れたかけた愛のイメージを縄文人が囁いているのかもしれない。

縄文人の愛の原型の中で私達にも直感的に分かる物もある。八王子市の宮田遺跡の子抱き土偶や石川県上山田貝塚のおんぶ土偶などを見ると、幼児への母の愛が5000年の月日を超えて、あるいは地域や言語を越えて瞬時に伝わってくる。幼子に帯する母親の無条件の愛は今も昔も変わらないのではないだろうか。

こうした愛のイメージが描かれた縄文土器や土偶は10、000年以上作り続けられてきた。さらに優れた土器や土偶は日本だけでなく世界でも展示会では大きな反響を呼ぶという。普遍的な愛のイメージを抱かせるのかもしれない。

なお、このブログを書くに当たり、NPO法人国際縄文学協会の雑誌「縄文」vol31を参考にさせていただいた。感謝いたします。

2/10 縄文を五感で探る

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他者との違いを楽しむ縄文の世界(1/10 縄文を五感で探る)

2022-07-20 | 第十一章「五感で面白おかしく」

人を愛し愛されるノウハウは個人の幼い頃の生育史に縛られやすい傾向があるので、自分だけでなく他者の世界を柔軟に知れば、だいぶ世界は広がり心の世界は豊かになると思う。大事な人とのかかわりあいで、意見の相違など「違い」とどう付き合って行くかが大事なようだ。

普通は「違い」に遭遇すると愛の孤独を感じ、心を開くというより閉じる方向に行きやすい。つまり防衛機制を働かせ自他肯定のスタンスが崩れやすい。このときにうまく間をとったりしながら傾聴モードに切り替えて、相手の愛の原型を探ったり、こちらの愛の原型に関する思いを語ったり出来ると良いのだが。

とはいえ、なかなかそうはいかない。好転する時を待つことも大事だと思う。その時に、日常生活を五感体感でイキイキと真善美に触れつつ過ごすということがとても大事な気がする。今の世の中はマスコミその他が騒がしく、自らの喜怒哀楽が他律的に決められやすい(どちらかと言うと怒りや哀しみの方向)こともある。自己否定の雰囲気や他者否定の雰囲気の中では、心を開くというより閉じる方向になってしまう。

比較文化論、比較宗教学を取り入れた生き甲斐の心理学の人間観は、人は身体(医学の領域)、こころ(生育史で臨床心理学の領域)、そして魂(一つの代表的な定義として、人が死んで身体から離れる生命体であり愛そのもの。これは宗教や哲学の領域)からなるとしている。

そんなことを考えつつ、騒がしい現代日本から離れ縄文人のことを考えると、暦に従って祭りを楽しんだり行事を楽しむ姿が思い描かれる。そこでは五感体感を通して真善美にふれる機会が定期的(二至二分など)にあるのだと思う。縄文後期に宗教に関係すると思われる配石遺構やストーンサークルが増えたりするのもこのようなことと関係しているのだと思う。

このような縄文時代からの文化遺産は今でも正月などに生きていると思う。身体を休め、美味しい物を食べたり五感を楽しませる。太平洋戦争が終わるまでは数え年が普通であったから、正月は皆の誕生日。それ故お年玉を楽しんだりもした。さらに除夜の鐘や初詣、ミサで祈る習慣は魂の領域かもしれない。

さらに縄文の面影をより残している事例もあると思う。私は何年か前に沖縄の久高島を訪れた。そこにはそれこそ縄文時代からと思われるような暦を中心にした生活が息づいていた。

親子、夫婦、職場、地域・・・いろいろな人間関係があるが、違いを楽しみ愛の多様性を楽しみたいものである。

1/10 縄文を五感で探る

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希望は最後の切り札・・今も縄文時代も (10/10 五感と縄文)

2022-07-12 | 第十一章「五感で面白おかしく」

先日の旅ほど素敵な縄文時代の文化に親しんだことはなかった。国宝級の土器や土偶、石棒などを博物館で楽しませていただいたが、東京ではなかなか味わえない、縄文の雰囲気の溢れる遺跡公園や景観を五感で味合わせていただいたことは至福の時だった。

津南町の石落とし

縄文時代は氷河期のころまで遡れるが、その一万年以上の縄文時代は私たちの列島の祖先に様々な災難をもたらせたのだと思う。その中にあって、すべての縄文人は生きそして死に私たちに命のバトンタッチをしてくれたのだと思う。そして、その遺物をじっくり見たりしていると、今この近くに縄文人が現存するようなリアルさを感じてしまう。

人間は、死に対して実に無力である。 身体は簡単に滅んでしまう。 しかし、祖先たちは死に対しても絶望せず希望を持ち続けた。 今回の旅では夥しい数の土器(氷河期のころの土器から弥生時代。 地域的にも関東だけでなく甲信越まで。 )をゆっくり拝見することができた。 その中で、井戸尻考古館等で習った図像解釈も少しは頭に入れていたので、例えば縄文中期には一貫した神話の世界(よくわからないなりに暦のような自然現象、この世の創生、穀物などの恵、人間の誕生と死と魂)があり、地域を越えた縄文時代の人々の質の高いいイメージ・希望を垣間見たようだった。

希望という言葉は、様々なイメージを喚起するが、U先生から習ったギリシャ神話のパンドラの箱の話が私にとって一番深いところから考えさせていただける。 開けてはいけないという箱を開けてしまい災いがたくさん出てしまうが、希望だけが不思議に箱に残ったという神話。 ここからは私の妄想だが、箱というのは人のことかもしれない。 私という人間を例えてみると沢山の災いが充満しているかもしれない。 しかし、それでも希望が私のどこかに張り付いてくれ救われるのだ。それは愛そのものの魂かもしれない。

話を戻そう。 パンドラの箱を開けると様々な災難が飛び出す。 世の中には神も仏もいないようなことがときどき起こるがそういう状態なのだろう。 それは縄文時代も現代も同じかもしれない。 しかし、その中でさえも希望が不思議になくならない。 私も最近、年も年なので自分のお墓をどうするかを真面目にあれやこれやと考えているが、お墓に留まらずその奥の死という理不尽な現象について考えると、本当の希望の意味が現れてくるようにも思う。 厳しい現実の中で何を待ち望むのか。 それは一見現実から乖離されているようであるが、日々の身近な問題・何をするかを考え、行動することでもあるようだ。

希望はかなり普遍的で観念的のように思われるが、反対に極めて個性的なところもあるように思う。 個性とは何だろうか。 天職とか天命という言葉があるがそれと裏腹かもしれない。 自分の過去の経験に希望の原型といったようなものがいくつかあり、それと響きあうように現在の問題解決がなされる。それは五感の世界でオーケストラのように豊かな世界・めぐみを到来させるのではないだろうか。

馬高縄文館前で猪風来さんのモニュメントに出会う

10/10 五感と縄文 

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