イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

変化する東京タワー!

2007-01-31 | 第一章「意識と知覚」

昨日は、久しぶりに東京タワーをじっくりと観た。1958年に完工され、小学校のときから、数回登ったこともある懐かしい東京タワーであった。

良く見ると、特別展望台の周辺に見慣れない建造物などがあり、「あれ~変わっている」とふと気がついた。私の中では、完工時から外見は変わっていないと思い込んでいた部分があったが、実は変わっていた。

早速Wikipediaで調べてみると、デジタル放送の設備などであった。2011年アナログ放送終了に向けて、当たり前だが電波塔として働く東京タワーはいろいろ変わっているのだ。

何気なく同じように思い込んでいて、実態が確実に変わっていくのに気がつかない。不思議な自分あるいは人間の特性を想った。

知らない間に変化しているのは、東京タワー以外にあるかもしれない。

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天井板を見て怖くなること。

2007-01-30 | 第一章「意識と知覚」

最近の家屋は、洋式が多くなり、木製の天井板の木目や節穴を見ることも減っているように思う。しかし、私もそうだったが幼少のころ、木製の天井板を見て不思議な気持ちになったり、なにか怖い気持ちになった方も多かったのではないかと思う。

考えてみれば、木目や節穴などは生物である植物・木の切断面であり、端的に言えば生物の遺骸である。したがって、それを見て、どこかに怖いと感じるのはDNAに組み込まれた道理かもしれない。

身近であった天井板を通して感じた、生命に対する怖れの感情、それは、私たちに何を語ろうとしているのだろうか?

生きるために、生命あるものを食べ、木材その他の資源を使った住居に住み、衣服を着たり、車に乗ったりしている。生命の恩恵にどっぷり使った生活をしているのは昔も今も変わらない。

その中で、同じDNAの構造を持つ生命の恩に関して、私たちはどれほど感謝をしているのだろうか。そして、どれほど心をくばっているのだろうか。

ゆっくり考える必要があると思った。

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世界は二人のために!

2007-01-29 | 第一章「意識と知覚」

多感な高校生活は、学園紛争で揺れていた。さらに、受験という厳しい現実もあり、後から考えると人生で暗かった時期のひとつであった。

その高校時代に、担任のK先生は哲学の専門家として含蓄あるお話をしてくれたことがあった。当時流行っていた、「世界は二人のために」を引き合いに、K先生は「世界の中心は自分自身である」という現象額的なことを話された。

50代の今、生き甲斐の心理学を学んできたが、その中の重要な概念の一つにカール・ロジャースのパーソナリティ理論がある。

そして、その第一命題は「個人はすべて、自分が中心であるところの、絶え間なく変化している経験の世界に存在する。」とある。ロジャースの理論は19の命題があるが、第一命題は全てを包括する、壮大なものである。そしてK先生のお話とどこかで繋がっていた。

暗かった高校生活で、人間の真理を教えてくれたK先生。当時は、良く判らなかったが、今その言葉は自分の中で確実に輝きを増している。

もちろん、「世界は二人のために」も良い歌である。愛は自分自身だけでなく、他者も大切にするからである。

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「生き甲斐の心理学」:ユースフルライフ研究所、植村高雄著・監修

「パースナリティ理論」:ロジャース全集8、伊藤博編訳 岩崎学術出版社


多摩の夜景を見ながら寛ぐ時。

2007-01-28 | 第一章「意識と知覚」

夕方、いつもは一人でいく近くの山に友人と登り。そこで陽がとっぷりと暮れるまでお酒を飲んで語った。暖かい日差しを浴びるピクニックではないが。丁度草を刈った後で、枯れた草が暖かいクッションとなり寛いだ。

その友人と語った一つが、出会いの不思議さであった。そして、百万ドルの夜景には及ばないが、多摩のしっとりとした夜景を楽しんだ。

山や木々の中にいると、何故か落ちつく。

怖いこともあるが、暖かい何かに包まれているという安心感をもつことが多い。

子供のころの木々の思い出も多い。幼稚園、小学校の玄関にあった木。アラスカ、シトカでの家の裏の、柔らかいベットのようにしなる枝を持つ針葉樹。四谷の不気味で春に強い匂いのする楠。四谷見附の石垣の上の大木。公園で隠れて遊んだ、潅木。

楽しい時であったが、やはりちょっと寒かった!

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感情を体感する大切さ!

2007-01-26 | 第一章「意識と知覚」

中学校2年の時、職員室に呼び出された。担任の教師より、思いもかけなかった容疑を聞かされた。私が、自分の昼食の弁当のかすを教室に投げ捨てたというものである。

どうも、事実を曲げて誰かが言いつけたようであった。した、しないの押し問答が続き。私は余りの悔しさに、涙を流した。

結局、担任の教師が折れて、私は職員室を出て教室に戻ったが、ずっと苦やし涙を止めることが出来ず、全員がいるのに、しんと静まったクラスに戻った経験がある。

悲しみ、悔しさ、絶望感、怒り、平安感、ときめき、幸福感、様々な微妙な感情を新鮮に体感してきたのは、中学校から、大学生のころのようである。

しかし、こうした感情を男だからとか、社会人としてとか、立場上とかなどで抑圧・抑制して生きてきたのも事実である。

その結果、私の中では感情は体感ベースのものではなく、記号のような痩せたものに徐々になっていたのではないだろうか。痩せた感情生活、頭でっかちの知的生活。

幸福や生き甲斐は、頭でっかちの知的生活から生まれるのではなく、今ここにある、ちょっとした感情の体感を知覚するところから始まるように、大いに反省しつつ思う。

今日は、鳩が飛ぶ公園を散策した。そして、ちょっとした幸福感を味わうことができた。

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