イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

五感の癒やしのショッピングモール・祭りで元気に・・今も縄文時代も(7/10 五感と縄文)

2022-06-29 | 第十一章「五感で面白おかしく」

先日、府中に久しぶりに行った。府中と言えば五月の連休の時の「くらやみ祭り」だ。コロナで久しく行われていないようだが、大国魂神社と府中の森博物館を見学し「くらやみ祭り」を思い出し考えさせられた。

さて、U先生の生き甲斐の心理学を20年以上学ぶことで心の健康についていろいろ学ばせていただいたが、その中の最大のものは「解釈が変わると世界が変わる」ということであった。

誰でも、思い出したくもない幼い頃のことがあったりする。確かに過去の出来事があり、それが心の傷となることがある。その出来事が、自分でも気づかないうちに、無意識的に日常の出来事に重なりネガティブな影響を与えているようなのだ。

それは、出来事自体の問題で変わらないものと思いがちだが、実は出来事の解釈の仕方に問題があり、解釈が変わることでオセロゲームで黒が白に変わるように世界が変わるのである。

家族や幼なじみと気楽に昔の話をしているときに、自分の思い違いであったことにはたと気づき、何十年も人知れず悩んでいたことが氷解したという経験はおありだろうか。その類いのことである。勉強をし自分との傾聴・自問自答で解決することもある。

とはいえ、年をとり思い出せなくなった過去の心の傷もあるようだ。よく分からないが、何かのはずみで不信感に苦しめられたり、疑惑感・罪悪感に悩んだり、劣等感が刺激されたりする。皆様はどうだろうか。人それぞれに傾向があるようで、それに気がつけば、自ずと感情の泥沼化を避けられるように思う。

さらに、人は身体と心(生育史)と魂(宗教や哲学の領域)からなると考えると、それを総合的に癒やすこともあるように思う。それは身近な祭りではないだろうか。感情は密接に五感と関わりがある。祭りで踊ったり、歌ったり、見て楽しみ、音で楽しみ、香りで楽しみ、味覚で楽しみ、歩いたり踊ったり担いだりして触覚で楽しむ。身体と心(生育史)と魂(宗教や哲学の領域)の三つの領域をも。

これは、何千年も繰り返された営みで、現代もそうだが縄文時代でも当然だった。土偶や石棒、釣手土器、土製品・・そういった観点で考えるといろいろ見えてくる。また、これは日本だけではなく、同じホモサピエンスでも共通で世界各国の大規模な祭りやカーニバルなどにも通じるようだ。勿論、日常的に行われる小規模な宗教行事やミサ(私はカトリックなので)も基本は同じだと思う。

7/10 五感と縄文 

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「縄文小説 森と海と月 ~五千年前の祖先の愛と魂~」

縄文中期の関東・中部地方を中心にした愛と魂の物語です。

入手方法

1.紙の本の入手については・・・

  四ツ谷サンパウロさんへ 定価(1,500円+税)送料別。

  電話:03-3357-8642(書籍・視聴覚)

    住所:〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2  

 なお、国会図書館、八王子市図書館でも閲覧できます。

2.電子書籍版はアマゾンさんで、1000円で購入できますが、

  Kindle unlimitedなどの特典で無料でも読めます。 


       森裕行

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「好き」を大事にして暮らす・・今も縄文時代も (6/10 五感と縄文)

2022-06-24 | 第二章「五感と体感」

大栗川が多摩川に合流する地点に久しぶりに行った。聖跡桜ヶ丘の駅からずっと川沿いの道を東に歩くと到達する。そばには交通公園があったり、バードウォッチング用の施設があったりする。右手(南)の大栗川の向こう岸は崖となっていて、その上には先日訪れた向ヶ岡遺跡などがある。左手(北)の多摩川の向岸は府中市の中河原。ずっと奥には大國霊神社や昔の武蔵国の中心地がある。

この場所は好きな場所で、多摩に住むようになってから良く自転車で行ったものだ。昔は市営プールも近くにあり夏になると頻繁に子供とも行ったものだ。その後引っ越しして八王子市に住むようになり縁が遠くなったが、近くまで来ることは何回かあったものの、じっくり味わうのは久しぶり(20年くらい?)で、時の移り変わりを実感した。この年になると時間が経つのが早く感じられ浦島太郎の玉手箱の気持ちもわかるようだ。

夕方で閑散としてはいたが合流地点は、美しい景観の中で川の音やウグイスの鳴き声がよくひびき、静寂の中にも命の躍動感を感じて、五感を通して元気をもらった。来て良かったと芯から思った。

さて、今回あらためて思ったが、例えば大栗川上流にある多摩ニュータウンNo.72遺跡も、大栗川と寺沢川の合流地点であり、さらに上流のNo.107遺跡も大栗川と太田川の合流地点。合流地点に何故遺跡が多いか、いろいろと考えさせられた。何となく理由付けを考えると縄文時代の交通などを考えて、川の交通上の便利さ、生活用水などを考えてしまうが、川魚や動物が豊か(関戸橋あたりも昔は鮎で有名)だったりすること。合流点は地盤がそれなりにしっかりしていることが多いので、災害にも強かったり、また大切な資源(河原の石や、時には手頃な粘土がとれる崖があったりなど)が得やすいということもあったのだろう。

きっと、縄文人も川合のこうした場所を見つけ、たくさんの好きの地を選んだのだろう。

原初感情は好き嫌い、怖い怖くないの4つと言われるが、この好き嫌いは日々の生活の中で湧き出る感情であり、分かりやすい感情でもある。しかし、幼い頃はとにかく、成長し大人になると社会生活の中でそれをストレートに表現できなくなる。すると、自分の感情を押し殺し極力理性的?に行動するなどしているうちに、自分の感情が分からなくなる傾向がでてくる。これは実にこわいことで、これが進むとこころの籠もらないステレオタイプのことしか言えなくなったりし、表現が下手になってしまう。それだけでなく、感情はそれを持つ人の真実を伝えるので、重要な人生の選択を誤ったりもする。

しかし、世の中では感情をストレートに表現しないことも要求される。当然のことだと思う。そこで感情も大切にするお勧めナ方法は、U先生から習ったが、好きか嫌いかなど感情をおりに触れて意識し受け入れる努力をするものの、それをあえて表現しないようにすれば良いのである。沈黙の訓練というのだろうか。いったん感情を認め、それから必要な防衛機制を発動しバランスをとる。それは理論的に言うのは簡単だが訓練で身につけるしかないようだ。

縄文人が感情をどのようにコントロールしたかの直接的なものは残されていないが、土器や土偶の表現、楽器や祭りの跡など、縄文時代から残されているかもしれない現代の伝統行事などを考えると、現代人以上に縄文人は上手だったかもしれないと思う事もしばしば。

6/10 五感と縄文 

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沈黙は金、雄弁は銀の意味・・・今も縄文時代も (5/10 五感と縄文)

2022-06-20 | 第十一章「五感で面白おかしく」

私の縄文小説の原点は7歳の時にアラスカで見たトーテムポールだったかもしれない。両親と妹とシトカの公園を散策していたときに、そびえ立つような古くて塗料が剥がれているトーテムポールの前で一人佇んでいた。恐らく数分のことだったと思うが、静寂の中で見る不思議な造形物は恐ろしい仁王様のようではなく、やさしく微笑んでいるようで、そこでうっとりと包まれるような感覚であった。やがて母が遠くから私を呼んでその場を離れたのだが、その時の不思議な心地よさはなんだったのだろうか。

(船内 1958年)

静寂の中で恐怖を感じるのではなく、優しいまなざしを感じる。これはトーテム信仰とか何とかと言う前に、魂というか信仰というか、人間が長い間に培ってきた世界の把握の仕方の一つの現象なのだと思う。

静寂の中で優しいまなざしを感じる体験は、それからの私に影響を与えたように思う。思春期から青春時代になると一人静かに自分が好きなことをひたすらする楽しむことを覚えるが、静寂や沈黙の意味と関係するかもしれない。そして、これが行き着いた先に2017年に上梓した「縄文小説 森と海と月」がある。その小説の真ん中あたりに「泉のほとりで」という章があるが、この体験があって生まれた物語である。しかし、まだ縄文時代の勉強不足もあり、またU先生の比較宗教学や比較文化論に基づいた欧米の心理学も理解不足もあり、今新たに執筆を始めている。

ところで、静寂とか沈黙の奥行きの理解をふかめることは、自分を他者に上手に伝達することに通じると思う。静寂や沈黙の中に温かさを感じることができると、他者に何かを伝達するときにも温かさを込めることが出来るようになる。沈黙は金、雄弁は銀ということわざ/格言にも通じると思う。

(御射池 2022年)

(神長官守矢史料館 2014年)

5/10 五感と縄文 

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お引越し‥今も縄文時代も自立心 (4/10 五感と縄文) 

2022-06-15 | 第十一章「五感で面白おかしく」

私は自慢ではないが若いときは沢山引っ越しをしたほうだ。10回を軽く超えている。ただ、有難いことに年をとってからは落ち着いて縄文遺跡が身近な土地に20年以上住み着いている。

ところで縄文時代。私たちが歴史で学んだのは主に弥生時代からで三千年くらいの歴史だが、縄文時代は軽く一万年であり、私たちの祖先が生きた時代であることは間違いないが、その時代のことは殆ど知られていない。今でこそマスメディアで頻繁に取り上げられるようになり、科学技術や発掘の成果でいろいろなことが分かるようになってきたが、それでも有史時代と比べると格段に分かっていないことが多い。

その一つに、よく取り上げられる5500年くらい前から4500年ころまで続いた縄文時代の最盛期(環状集落や火炎式土器、水煙紋土器など)とも言われている縄文中期。その中期が終わるころに、縄文時代の伝統的な環状集落が分散してゆくなど、大きな変化が見られるようだ。私の家の近くの多摩ニュータウンの遺跡も中期が中心なのであるが、後期になると遺跡が激減してしまう。寒冷化などもあっただろうが、ただ一つの要因だけで説明をつけることはかなり無理な話で、大きな謎の一つになっている。

写真は聖跡桜ヶ丘の近くの連光寺周辺から崖を越えて多摩川が見える場所だが、縄文中期で何らかの問題を抱えた環状集落の人々が引っ越し先の一つの候補だったのではと妄想している(実際に、縄文後期の遺跡がいくつか見つかっているが)。私も駅からxx分、南面日当たり良好、・・・といった不動屋さんの宣伝に惹かれるが、当時の人も交通(舟だったり)や生活の利便性(水や食料)などを十分に考え引っ越しを考えたのだろう。しかし情報元は今より限られているのだろう、親戚筋とか、同じ部族や氏族などの身内の情報を今より断然大切にしたのだろう。そして、社命で転勤というのは無くても、リーダー(女性も元気だった)による命令や説得もあったのだろう。

さて、私は50歳代で大企業をリタイアし(引っ越しが原因ではなく別にやりたいことがあったため)、それからは引っ越しもなく過ごしている。絶対的な存在というものをちょっと考える。幼い頃は両親、少年時代は父、年とともにそれは変わっていくが何かの現世的な加護の下でというスタイルは考えてみればリタイアまで続いたのだろう。もちろん主張することは主張したつもりだ。しかし、本当に本音で主張したりしたことはどうだったのだろうか。やはり人間はどんな人でも完全ではない。神や仏と違って絶対的な存在ではない。本当に大事なことは本音で主張(自他肯定のスタンスをとりながらも)することはとても大事なことだが、腹が座ったことは自戒をこめてなかなか言えない。また、経済的な生きる術は極めて大事であり、これを無視しては絵空事になってしまう。

4200年くらい前に世界的に人口が減ったりする時期があるが、そのころからこの多摩でも環状集落が崩壊して引っ越しが増え閑散としてくる。川の上流に住むのを辞めて下流域とか、魚が豊富な山間部とか、あるいはまったく異なる西日本に向かったり・・・その時の縄文時代の祖先たちの間にどのような主張のやりとりがあったのだろうか。心の自由をどう考えるか、自分のアイデンティティをどう腹に据えるか。人の意見を鵜呑みにするのではなく五感と自分の感情に根差した意見を言えるか。時代は大きく変わっていてもその本質は変わらないようだ。

ひょっとしたら、今私がここに居るのも見知らぬ祖先の本音の主張と行動のおかげかもしれない。妄想は続く。

4/10 五感と縄文 

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人に言えない秘密を解放する、今も縄文時代も (3/10 五感と縄文)

2022-06-10 | 第十一章「五感で面白おかしく」

コロナ禍で久しく映画を観てなかったが、誘われて映画館に行き伊能忠敬の死を題材にした「大河への道」を鑑賞した。なかなか良い映画で満足し、終わってから運動不足もあったので、のんびり大栗川沿いに歩いて家路についた。途中No.72や446の縄文時代の大遺跡のそばを通ったが、不思議なことに一匹のアオサギが私に沿うように少し飛んではまた休んだりし、何か私と心を通わようとしているようだった。

映画は人の死に関する大きな秘密保持を題材にしていたが、私たちの日常も人にはあまり言いたくない小さな秘密を持つことは多い。年をとると知人の死に心を痛めることが若い頃と比べると各段に多くなる。私の年代だと同世代の死も増えてくるようで、身近になった死は結構こたえるものである。

昔と違い葬儀も家族葬が中心で、さらにこのコロナ禍で輪をかけて簡略化されることも多いようで、良いのか悪いのか他者の死を受容する機会も減ってしまい、どこか踏ん切りがつかない状態が続くようにも感じる。葬儀は逝った方のためでもあるが、残される方のためでもあるということが忘れられてきているのだろうか。

さて、私は大栗川沿いのNo.72などの縄文遺跡のことをなるべく生で感じたいと思うので、膨大な量の調査報告書をなるべく見るようにしている。今日も土器や土製品など分厚い調査報告書のページをめくっていると渦巻文様が目に付いた。それは植物のように見えたり月の軌跡ではないかと解釈されるが、水の流れ・渦も確実に解釈の一つである。大栗川などの河川の流れや湧水などで日常的に見ている水のイメージが文様を書かせる一つの動機、少なくとも遠因になっているのではないだろうか。この文様と今日見た大栗川の流れ。アオサギ・・・

身近な死に接し、ちょっとした秘密(=受容できないもの)を持つ。私のように大栗川の流れや、アオサギに何かを感じ、その秘密を意識化していく。そのようなことを土器などを作りながら祖先たちも意識化して行ったかもしれない。水の渦から鳥の声や流れから、優しい魂の声を一瞬聴くような。

明確になってきた死の受容は現世的、心理学的にはなかなか解決できない問題でもある。これは宗教や哲学の領域の問題だと思う。今も昔も、縄文時代もこの問題は神社・仏閣・教会で解決すべき問題だと思う。心を清める祈りりの時を持ち、気の合った宗教家とのんびり話したりするのが問題から解放される近道ではないだろうか。

3/10 五感と縄文 

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