イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

世の為、人の為は嘘っぽいか?(幸福曲線を辿る ③ 4/10)

2014-08-31 | 第七章「光と復活体」

 某外資系企業に勤めていたとき、海外の従業員がボランティアをやったりするのを見聞きしたり、退職後にNGOなどで活躍する話を聴いていたが、何かピントこなかったことがあった。

 そして、某外資系企業を11年前に辞めて、全く違う道に入ったが、今になってボランティア等の意味がわかってきたようだ。日本の文化事情で、世界的にみれば寄付とか非営利活動はまだ表面的には少ないが、日本でも確実に「世の為、人の為」に世話をする人は多いと思う。

 若いころは、世の為、人の為というと、何か偽善っぽい感じがしたものだ。しかし、生き甲斐の心理学を学んだり、エリクソンの生涯心理学を学んだりすると、人間の本質的な傾向として、世の為人の為に世話をすることは自然で当たり前に近いと考えるように。

 人それぞれだと思うが、私も中年くらいになると、自分の為というより他人のためとか・・・そんな世界が開けてくる。そして、若いころ感じていた偽善っぽいと感じることも殆ど無くなってきた。人間には、そんな心の仕組みがビルドインされていると思う。

 特に、日々の生活で張り合いがないとか、マンネリを感じたとき、この世の為、人の為に何かケアをするという視点をもつことは大事。会社を辞めて始めたボランティアは新しい自分を見つける良い機会であった。

幸福曲線を辿る ① 4/10

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健康ではなく、不思議な健康感を意識しよう!(幸福曲線を辿る③ 3/10)

2014-08-30 | 第七章「光と復活体」

 赤毛のアンを読んだり、DVDを観たりすると何というか、健康感が刺激されるところがある。

 健康感というのは、幸福曲線の5つの感情(平安感、友好的感情、健康感、幸福感、統御感)の中にでてくる感情である。健康はなんとなく判るが、健康感は感情としての位置づけなので思索が必要だ。

 幸福曲線の反対はストレス曲線で、不安、怒り、身体症状、ウツ、錯乱の5つである。そして、昨日の憎しみ・怒りが友好的感情に何かのはずみで変化するように、不安は平安、ウツは幸福感、錯乱は統御感の友達である。そして、身体症状も健康感の友達。寝られなかったり、胃が痛んだり、自律神経がここひとつという心の状態から健康感に変化しやすいとも言われる。

 感情は身体と密接な関係があるものの、心(生育史)や魂(宗教の領域)の世界にも関係しているという理論がある。身体から来る健康感、心(生育史)からくる健康感。魂からくる健康感、微妙だが別に存在するのではないだろうか。

 中年になるころ、私はよく多摩川沿いをジョギングしたが、その時、ランナーズ・ハイを経験しとりこになったことがあった。そして、この3年太極拳・気功をするようになったが、練習を終えると、やはりランナーズ・ハイに似た健康感を得る。健康感を全て物理的な脳内物質(エンドルフィン)、内分泌に帰着するというのはどうかとも思うが、科学的にも研究が進んでいる分野かもしれない。しかし、何故このような身体の仕組みがあるのだろうか、恐らく今の科学では解明できない謎があるようだ。

 では、心から来る健康感は何だろう、歳をとってくると、体調も若いころと違って身体の機能が落ちてくる。生命体として異常を検知し何らかの身体症状的感情が存在する。しかし、にも拘わらず、そんな身体が気にならないような、ある種の吹っ切れ、元気で創造的なパワーを感じるときが、この健康感ではないかと思う。

 私は身体の支障のある障がい者にいろいろ学んだことが多いが、その中に身体とは別に健康感を味わうこともあると聴いた。激痛の中で健康感は無理とは思うが、日常的な活動の中に健康感を感じることもあった。

 ある種の吹っ切れによる健康感の獲得には、①アイデンティティの統合②健全な防衛機制③正常な現実吟味力が必要といわれる。このあたりを思索すると、身体の機能が停止する死の直前でも身体はとにかく、心や魂の健康感を味わうことは可能かもしれない。

 さて、「赤毛のアン」の健康感を考えていたが、小説の扉に次のブラウニングの言葉があった。「天空の導き星が汝の運命を定め、活気と火と露もて汝の魂を創り給いし」。健康感に関する妄想を引き起こす良い言葉だ。

幸福曲線を辿る ① 3/10

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大嫌いな人が大好きになる、神秘的な感情の世界!(幸福曲線を辿る ③ 2/10)

2014-08-29 | 第七章「光と復活体」

 「赤毛のアン」に、この幸福曲線を辿るというテーマでブログを書いている時に出会ったのは、とても幸運だった。先日購入した、茂木健一郎氏の「赤毛のアンに学ぶ幸福になる方法」も読了したが、U先生の「生き甲斐の心理学」の明るい感情、幸福曲線の理論にもとても似ているところがあり驚いた。

 そして、茂木氏が日本人の「もののあはれ」についてもかなり突っ込んで言及しているのも驚きだった。モンゴメリーはスコットランドからの移民だそうで、ケルト的なセンスがあることも、日本人の太古からの感性が似ているのかもしれないと妄想してしまう。

 さて、幸福を追求する中で、感情的に嫌いな人に、どう接し、どう対応すると光が見えてくるかという大問題がある。普通、嫌いな人に出会えば、避けることで何とかなることも多いが、それが仕事上避けて通れない人であるとか、家庭やコミュニティの中で避けられないということも多々ある。この場合、どうするか、私も含め大いに悩む問題である。

 嫌いという感情を押しつぶして、「私は実は好きなのよ・・・」などと感情を抑圧するのは心の健康上あまり良くない。理性で対処してもぎこちなく辛い。こんな時は、諦めるしかなく希望はないのだろうか?

 赤毛のアンでは、もっとも気にしている避けられないアンの問題。赤毛であることに対し、将来の結婚相手になるギルバートは、初対面で「ニンジン」と言ってしまった。悪意があったか否かは判らないが、そのためアンは憎しみを覚え石版でギルバートを叩いてしまう。そのため、それから少なくとも5年くらいは口も訊かないようになってしまう。

 憎しみという感情の中で、アンは不思議な将来を見通す力があるのか、嫌ってはいるが何かひたむきに誠実?にギルバートと向き合っていく。ギルバートも理想的な男性のようで誠実に対応していく。フロイトの14の防衛機制から考えると、二人三脚でギルバードの組とアンは競って勝ったり、勉強でギルバートに負けまいと頑張ったりする。それは、怒りをうまく昇華するという防衛機制をうまく使っているようにも思うが。

 背景には、マリラやマシュウの無償の愛があったのは幸いだった。ギルバートも同じような背後の環境があったのだろう。ひたむきに誠実に接していく。そして、ニンジン事件の二年後には、たまたま池に落ちたアンをギルバードが偶然に助けることがあり、その中でギルバートとの不思議な瞬間を経験する。アンは不思議にもギルバートの褐色の眼に素敵な感情を抱くのである。しかし、以前の出来事を思い出し、怒りが復活して決裂してしまう。

 その後3年くらい経過し、ギルバートが教師の仕事の口をアンに譲り、アンが感謝の中でギルバートは和解するが、その時の会話は実にこの問題の本質を表現していて素敵だ。

 「あたし、あの日、池のところで許したんだけど、自分でも知らなかったのよ。なんてがんこなおばかさんだったでしょう。思いきってなにもかも言ってしまえばーあのときからずっとあたし、後悔していたのよ。」(赤毛のアン 村岡花子訳 新潮文庫523ページ)

 「生き甲斐の心理学」では、憎しみ、怒りは典型的なストレス曲線であるが、実は友好的感情(幸福曲線)に変化する感情としている。しかし、根深い怒りの感情は、時には生涯にわたり友好的感情に変わることもないことも事実だろう。しかし、アンの例ではないが、①五感・体感が関係し、②偶然というか何かの出来事に伴い、③無意識にも和解を願う気持ちー祈り?があるとき、実に恩寵のように、嫌いが好きに、憎しみが友好的感情に変わることがあるのだと思う。この瞬間を経験するとアンの物語の素晴らしさが増すようだ。

幸福曲線を辿る ① 2/10

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無償の愛で成長する!(幸福曲線を辿る ③ 1/10)

2014-08-28 | 第七章「光と復活体」

 赤毛のアンのお話の中で、一番感動するシーンは、孤児院に一人の少年を引き取りたいとする老兄弟、マッシューとマリラが間違って送られた少女、アンを如何に受け入れるかという冒頭のストーリーだ。身体の衰えを補完するために少年の力を得たいという、現世的な価値観がきっかけだったのに、いつの間にかアンに対する無償の愛といったらよいかに目覚めていくマッシューとマリラ。

 そして、アンも老兄弟の愛を感じグリーングレイプスに安住の地(無償の愛の地)を見出し健やかに成長していく。

 生き甲斐の心理学、カウンセリング、心理療法の基本の中にも、この無償の愛は大切にされている。ロジャースの6条件の4番目に、きっちりと・・・「治療者はクライエントに対して、無条件のPositive Regard(好意、肯定的な配慮と関心)を経験する。」。そして、この無償性は心理療法だけでなく、教育など人間に関わることで大事なことではないかと最近思うようになった。

 しかし、無償の愛の思想が溢れているはずのキリスト教文化での話なのに、アンの話にでてくる多くの人は、条件付きの愛に生きている。まあ、生き抜く大変さを考えれば、それも仕方がない現実なのだろう。しかし、私事で恐縮だが7歳の時のアラスカでの体験を思い出すと、人種の坩堝といわれる米国で、無償の愛は確実に育まれていて、私が教育事業に関わるのも、そのあたりが原点のようだ。

 さて、文化の違う日本ではどうだろうか?

 実は、今年の10月18日(土)午後に新宿で公開の勉強会を開催することを予定している。そして、前回と同じように勉強会後のアースフィーリングを求める名所として新宿十二社(じゅうにそう)の熊野神社を考えている。そして、そこには新宿定礎の中野長者伝説がある。詳しくは、アースダイバー(中沢新一著)に詳しいが、こんな言い伝えだ。

  

鈴木九郎は天塩にかけた馬を葛飾で売り1貫文の収入を得た。そして、帰途ふとその銭束を観ると、それが中国銭の大観通宝。これは何か観音様に関わる不思議なことと考え、そのお金をすべて浅草寺の観音様に奉納した。そして家に近づくと、妻が心配してきたが、奉納したことを咎めず逆に夫を慰めたそうだ。そして、二人して家に帰ると家が黄金で煌々と輝いていたという。

勿論、この伝説そのものも、時の流れの中で様々なフィルターがかかっているように思うが、どこかに無償性の太古の香がするのだ。その無償性は、何か日本に生きている私たちにも、太古から伝わっているようにも感じる幸福への鍵だ。勿論、黄金も欲しいのだが・・・

幸福曲線を辿る ① 1/10

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友好的感情を育てる人間観!(幸福曲線を辿る ② 10/10)

2014-08-27 | 第七章「光と復活体」

 昨晩も「アンの青春」のDVD(ケビン・サリバン監督)を観て、今日も睡眠不足気味である。このDVDで、サマーサイド高校でのアンが教師として働く話がでてくるが、その中で怖いキャサリン・ブルック先生がでてくる。当然アンにとっては天敵のような存在であるが、そのキャサリンを自分のグりーン・グレイブズに誘い、そこで心を徐々に開き和解していく場面は素晴らしかった。

 嫌いな(感情面で)人でも、その基本的人格というか魂を認め、接していくのは古今東西共通の和解への原則だと思うが、そこがなんとも素晴らしく、心をうつ。

 どんな人でも、愛そのものがたとえ見えなくても隠れているはずだと考えるか、自分の感じたとおりの邪悪そのものだと認めるかは和解や受容という意味では決定的に違う結果をもたらす。そして、それを意識すると宗教とか哲学の大切さに気付いたり、自分だけでなく他者の生育史の大切さに気付いたりする。生育史の深い理解は、よりゆるせるようになる鍵ではないだろうか。

 さて、とは言ってもまずは人間をどのように理解するか。U先生は生き甲斐の心理学で大切にしている人間観を次の式で表した。勿論欧米の宗教・哲学の影響が多いが、日本でもこうした思想は、古代から脈々と流れているようにも最近感じている。

 A=B(X+Y)

 A: ある特定の人そのもの

 B: ある人の魂(愛そのもので、死んだときに身体から離脱する生命体、宗教の対象)

 X: ある人の生育史(臨床心理学の対象)

 Y: ある人の身体(医学の対象)

 赤毛のアンが深いところで日本人の心を打つのは何だろうかと思う。一言でいうと、もののあはれ・・・かなと思う。まだ、思索がたらず、こうしたビックワードはちょっと危険な感じがするが。

 アンがサマーサイド高校で経験するプリングル一家との葛藤、ある意味でのいじめ。話は変わるが源氏物語での弘徽殿の女御と桐壷の更衣の葛藤。違うようで似ている何かがあるようにも思ってしまう。

 友好的感情を育てるには、紋切型の規律ではなく、それを越えた人を大切にする「もののあはれ」が必要なのだと思う。

幸福曲線を辿る ② 10/10

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