大人になり、難しい選択の場に立たされたり、不条理な死とか病、あるいは出来事に遭遇すると、祈りを意識することが多くなるようだ。そして、不思議な出会いとか何か意味がある偶然というか、そんなことに出会ったりすると、若いころは分からなかった信仰の意味が見えてくるようになってくる。
傾聴する場合、相手の事情や自分の生き方などいろいろ想いが湧いてくるが、難しい困難を抱えている相手と難しい状況を語り合っているとき、自分の力量をはるかに超えた困難に、サムシング・グレイトを意識したり、ひたすら祈ったりするのは自然だと思う。
人間のこころは果てしない人類の歴史の中で作られ、何か原型的な鋳型とか傾向というようなものがあり、いくら科学が発達したところで、縄文時代の祖先と大差ない同じような信仰に回帰するように思う。死と再生の希求・信仰などは、形は違っても脈々と数千年、数万年といった単位で人類の歴史を刻んでいると思う。
さて、昨日から自分の想いを言語化する時に生じる変な抵抗感について考えている。今まで特に意識したことがなかったのだが、たまたま、自分の中の変な抵抗感があり、言霊文化の中にいるんだなと、ちょっと感動したのだった。
話は飛ぶが、国際会議で寡黙になりがちの日本人は、言挙げしない特殊な言葉に対する感性を残しているからかもしれない。以前、このブログでも万葉集の中に、言霊文化が確実に残り表現されていることをお話ししたが、文字の導入を一万年以上(世界の大半が書き言葉を導入した後でも)、ひたすら縄文文化の中で拒否してきた。それは、原始的で劣った祖先が単に文字の良さを知らなかったということではなかったと思う。縄文の基本理念と文字導入が相いれなかったのではないか。そして、その感性が言挙げしない文化と関係している。
そして、欧米のようにカウンセリングや心理療法が、多くの精神科のお医者様の過度ともいえる薬療法のように根づかないのも、そんな風土と関係があるかもしれない。しかし、世の中はどんどん欧米的グローバリズムに傾斜しているので、100年以上の経験を積んだ臨床心理学のエッセンスは日本流に形を変えて導入しなければならないと思うのだが。
こころを聴く 9/10